それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

黒子のバスケ脅迫事件:責任の所在の整理

2014-09-04 13:11:54 | テレビとラジオ
たまに行く食堂で、僕は「ジャンプ」を読むことにしている。

マンガは普段ほとんど読まないのだが、料理が出てくるまでにやたら時間がかかるお店なので、どうしても「ジャンプ」を読んでしまうのである。

そういうわけで、「黒子のバスケ」も何となく読んでいる。

しかしバスケもよく知らないし、読んだのも途中からなので、正直、あまり理解できていない。

そんな僕の日常のことが置いておくとして、そういえば、「黒子のバスケ脅迫事件」なんてものがあったなあ、と思い出した。

なんでも、犯人による自己分析が話題とのこと。

僕は早速をそれを読むことにしたのである。



犯人によれば、「黒子のバスケ」の作者と自分を比べた時に、(作者の人生と作品があまりにも充実していたせいなのか)、とにかく自分の全てがその作品によって奪われたと思ったそうで、そこから脅迫を思いついたらしい。

彼は改めて自分の生い立ちに遡って問題を明らかにしようとしている。

両親(とりわけ母親)との関係、学校でのいじめ、などなど。

さらに彼は先天的に何らかの精神(あるいは脳の機能に関する)疾患があったのではないかと述べている。

それが秋葉原殺傷事件の犯人と共鳴してしまったものだから(お互いがお互いの心理を分かると主張)、より一層、話題になったのである。



彼に同情するかどうかはともかく、彼が犯罪を犯したことは事実で、そこに至るまでに何かしらの合理性があったと見てよいだろう。この犯罪は非常に計画的で突発的なものではないわけだから。

彼の文章は、確かに共感を呼ぶものだった。

自分なりに様々な言葉と表現を作りだすことで、なんとか自分自身を説明しようとしている。

そして、彼が抱いていた痛みそのものには僕も一定程度、共感した。

彼は徹底的に自己否定的で、現実にも社会から疎外されていた。

けれども(ここが大事なのだが)彼はそれを不当だと強く感じてきた。だから、その不当な事態を何らかのかたちで打開しようと潜在的にずっと考えてきた。

けれども、打開のための方法の選択肢が非常に偏ったものになった。

まず、彼は自己否定はするものの、自分を物理的に破壊するわけではなかった。

また、人を直接的に暴力によって殺傷することよりも、脅迫などの一種の言説によって社会全体の秩序をかき乱そうと考えた。

黒子のバスケの作者への攻撃というよりはむしろ、それをとりまく社会を破壊しようとした。

それによって、自分が「攻撃している人間」として社会にコミット可能になった、という変な満足感を彼は得てしまった。犯罪だからこそ、満足できたのだろう。

実際、彼は社会から注目を集めた。僕もこうして彼のことを考え、ネットにそれを書き込んでいる。さらに、少なからぬ人数の人間が彼に直接語りかけ(例えば警察官など)、彼は誰かに心配されるという状態に置かれた。雑に言えば、コミュニケーション出来るようになったのである。

それが彼の望んだ結果なのである。

もし彼が犯罪をおかしていなければ、そうはならなかった。

物質的にも、刑務所の方が彼の現在の暮らしよりは快適だという。

犯罪を犯すことで「人間」として社会に認められるという逆説は、すでに何人かの思想家によって語られている。

ある意味では、犯人のイメージはそれに少し似ている。

ただし、彼は思想家ではない。秋葉原の事件の犯人もそうだ。あくまで彼らは現象の一部にすぎない。

患者がいくら自分の病気のことを理解していても、医者ではないのと同様である。

彼らの言葉はあまりにも部分的で体系をなしておらず、他者が社会の文脈に置いて分析しないと意味をなさない。

レーニンが自分の思想を語るのとはわけが違う。



ここから徐々に「責任」を整理してみよう。

第一に、犯罪は犯罪で、彼は明確に犯人で、しかも責任能力があるため、何の問題もなく有罪である。それは誰にも異論がない。

犯人は自分の意志で脅迫を行い、自分の意志でその対象を決定した。

誰かに言われたわけでも、命令されたわけでもない。

自動車の追突事故が起きたからと言って、運転ミスした運転手よりも自動車メーカーが悪いということにはならない。

第二に、犯人の人格を作り上げたのは、先天的な彼の性質と、後天的な環境で、特に環境は重要な要因だったと考えてよい。

自動車事故の例で言えば、運転ミスしやすい車をつくったメーカーは、それなりに反省すべきだし、それなりに責任がある。それが法的責任ではないとしても。

犯人が社会から疎外され、極端な手段で自分を取り戻し、不正義と戦うその前に、彼を止めるべき人や止められる人はいただろう。

もちろん、それは当然、家族と学校なのだが、そのふたつではおそらく限界がある。

要するに、犯人を「ダメ人間だ」と糾弾しても、家族を「ひどい家族!」と叫んでも、「学校は本当ヒドイ、教師もダメだ」と言っても、あまり意味をなさない、ということである。



人間は遺伝子で犯罪者かどうか決まるわけではない。

成人してもなお、人間はその性質を変えることが可能である。刑務所はそのために存在している。

それでも修正出来ない場合には、医学か科学技術(例えばGPS)で外部的な介入を実施するしかない。

犯人本人には、もうそれ以外の選択肢がない。

他方、社会は色々反省の余地がある。

もし、本当に秋葉原の事件と黒子のバスケ事件が動機の点で共通しているのなら、そうした人間が出現することを予防する仕組みが必要である。

特に人間が社会から疎外された時に、どうやってもう一度包摂し直すことが出来るのか検討しないと、また同じような人々が出てくるだろう。

もし、それを受入可能な社会的コストだと考えるなら、同じような犯罪が起きた時に、我々はそうした犯罪を不可避のものとして受け入れるべきだろう。

犯罪が最も社会にコミットする方途のなかで魅力的だと思う人々がいるのならば。



ここから出てくる結論はこうだ。

我々に出来ることは二つしかない。

第一に、犯罪によって社会にコミットしようとする人間を疎外から解放するための仕組みを造ること。

第二に、犯罪によって社会にコミットしようとする人間に、犯罪以外の魅力的な選択肢を与えること。

これらが出来ないなら、今回のような犯罪は特に驚くべきことではないので、取り立てて報道しない方が良いだろう。

ただし、報道してもしなくても、犯罪は魅力的な選択肢のままであろうけれども。

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