それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

映画「そして父になる」:社会が子どもを嫌い始めている日本のなかで

2014-09-08 00:30:21 | テレビとラジオ
「そして父になる」を妻と観た。

私はこの映画を自分はどのように観るのだろう、と思っていた。観ながら何を思うのだろうか、と。

私には子供はいない。だが、子供を持つ年齢になったし、結婚もした。

だから、ある意味では何らかのリアリティを持ってもおかしくなかった。

けれども、私にはどうしてもリアリティが湧かなかった。

私はまだ父になっていなかったのである。



父親はよく母親と違って、実際に子供を産まないから、なかなか子どもの父親になれない、と言う。

実際、この映画でもそうだった。妻に比べて、主人公はなかなか父親になれない。

男が父親になるのは、決して簡単なことではないらしい。

私は私の父のことを思った。

私の父も、どこかで「そして父になった」のだろう、と。

それが一体どのタイミングだったのかは分からない、本人に聞いてみないと。

ただ、きっとどこかでそうなったのだろう。

私の父の記憶はまだ整理されていない。

きっと、私が誰かの父になった時に、その記憶は整理されるのだと思う。

私が個人的に思ったことは、それだけだ。



日本は不思議な国だなと思う。

少子化だ、人口減少だ、まずい、と言いながら、子供の遊ぶ騒音に大人が苦情を言い、妊婦に嫌がらせする。

子どもが貧困に陥っても改善できず、相変わらずの経済政策。

社会を再生産するはずの子どもに、一種のアレルギー反応を起こしている。免疫が自らの肉体を攻撃しているのである。

「そして父になる」は、家族の在り方を問う映画だった。

だが、それは同時に、今の日本における家族の在り方のイメージが、いかにいびつか明らかにするものでもあった。

「血統」に対する執着。それは婿養子以外の養子を好まない日本の社会の傾向と結びついている。

韓国もそうだと言う。

日本の社会が外国人を受け入れず、子どもも嫌い、自らの「血」に執着するという気味の悪い現象が、ゆっくりと日本の社会を掘り崩している。

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