それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

権威主義的教育は、笑えるか。それとも笑えないか。

2014-08-27 13:40:41 | テレビとラジオ
『水曜日のダウンタウン』が良い。くだらないが、しかし、同時に相当攻めている企画が多い。

もうかなり前の話になるが、「PL学園野球部がこの世で最も地獄なのかどうかを検証」するという企画があった。

様々な高校および部活の「指導」の仕方が話題にされた。



日本で学校生活を送った人々にとって、権威主義的な教育はよく聞く話だ。

実際に自分で体験した人も多いだろう。

権威主義的教育の特徴は幾つかある。



まず徹底的な「禁止」があげられる。

何より「娯楽」を禁じられる。雑誌や菓子、映画およびテレビなどがそこに含まれる。

この「娯楽」には極端な場合、一切の情報収集も含まれることがある(テレビや雑誌が禁じられる以上、新聞の禁止までの距離は短い)。

また、移動の自由もそこに含まれる(移動の自由、それはすなわち「脱走」なのである)。

簡単に言えば、刑務所、あるいは軍隊と同じ仕組みなのである。

部活の場合、娯楽だけではなく、かつては「水分補給」が禁じられる場合もあった。『水曜日のダウンタウン』では、窓を開けること、すなわち酸素の吸入を制限される、という部活に言及があった。



もうひとつは「暴力」である。

明確な理由や合理的な根拠がないまま、殴られたり蹴られたりする。

抵抗する意志というのは、極度の疲労と極端な存在価値の否定によって、失われる。

洗脳が言葉と物理的な暴力によって実行されるのは、そのためである。

番組で登場した「教育」は「洗脳」と同じ手法であった。

教育と洗脳は距離が近い。

距離が近ければ、教育は教化になる。

そもそも教育が社会のなかで機能する人間を作り出すことである以上、それもある種の洗脳なのである。

ただ、洗脳によって生み出される人間は、無意味なまでにルールに従順で、自分が受けた暴力を下位の人間に数倍にして与える、抑圧移譲を行うためだけに存在する空っぽの主体である。



ゲストのひとりの経験が興味深かった。

そのゲストが入っていた部活の顧問は、元々日本軍の軍人だったそうである。

それゆえ、軍隊の訓練がそのまま部活に応用されていたのだと。

軍隊と言っても色々だ。日本軍の場合、徴兵で嫌々入ったのか、エリートとして前のめりで入ったのか、によって全く違う。

人間によっては合理性を失い、暴力的になり、戦争を経験することでPTSDに苦しんだりしている。

一体、この顧問はどういう人間だったのだろうか?興味深いところである。

いずれにせよ、徹底的な禁止と暴力による教化がなされていたのであり、それは単純に軍隊の文化だった。



この番組が検証しようとしたテーマにあるように、高校野球こそ、この日本軍式の強化の重要な組織(セル)だった。

それが合理的な文化に変容したのか、それとも全くしていないのか、それは明らかではない。

ただ、幾つかの体育会系の部活の出身者(私より若い)が、「セミを食べさせられた」とか、そういった体験をしてきたのを私は聞いている。



日本人は、とにかく残酷SHOWが大好物なのである。

高校生がボロボロになって、野球以外の目標が無くなって、そして、試合に負けて嗚咽するのを見たいのである。

野球部を何らかの理由でドロップアウトして社会的にも排除された敗者を前提に、そして彼らを無視し、とにかく最終的に「美しく儚い瞬間」がグラウンドに訪れるのを見たいのである。

自己犠牲と権威主義が好きで好きでたまらない日本人。

その奇天烈さと気持ちの悪さと、そして悪趣味さ。それが大江健三郎の小説のライトモチーフのひとつであった。



ダウンタウンの『ガキの使い』では、「熱血浜田塾」というかたちで、その教化のパロディが展開された。

とにかく、笑える。不合理な指令によって、塾生たちがボロボロになっていく。

この笑いが今の日本そのものだ。

我々はこれまでも、そして今も実施されている権威主義的教育が、規範的に正当化不可能であることを知っている。

その代り、権威主義的教育を懐かしみ、その不合理さを笑うことが、日本の現状なのだ。

現状存在しているのに懐かしんでいる。そこに「規範的偽善」が存在する。

要するに、笑うことで許容し、諦観しているのだ。

これはなんと無力な笑いだろうか。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿