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毛皮のマリーズ:音楽インテリとしてのロック

2011-02-09 10:44:41 | コラム的な何か
最近、日本のロックシーンで「毛皮のマリーズ」が注目されている。

僕が最初このバンドのPVを見たとき、「面倒くさい人たちだな」と思った。

自意識が高いが、頭が悪い分、信念のみで人を説得してしまうタイプのロックミュージシャンかと思ってしまった(そういう男の子にこれまで僕は何人も会ってきたが、そういう人に限って女性にもてたりするので面白い)。

ところが、言わばこのバンドの頭脳である、志磨遼平のブログやらインタビューやらラジオやらを見たり聴いたりしてみると、自分の最初の印象が全くの間違いだと分かった。

志磨遼平は確かに面倒な人である。

すなわち、自意識やコンプレックスの在り方がいわゆる「中二病」的である。しかし根がインテリであり、かなり頭で音楽するタイプのアーティストである。そして、趣味がサブカル&渋谷系で、音楽の知識も非常に広い。

彼の楽曲は渋谷系のアーティストと同様、広い知識から出てくる「元ネタ」の適切な利用によって構成されている(僕はこれをパクリとは呼ばない)。

毛皮のマリーズのファンは二種類いる。

ひとつは、元々マリーズが前面に押し出していた、70年代風の荒々しいロックへの信奉者である。

もうひとつは、音楽インテリとしての志磨遼平のファン、つまり渋谷系に近い趣味をもつファンである。

志磨遼平が当初打ち出したマリーズのロックのコンセプトは、彼の本性から出てきた部分と、頭で考えて出てきた部分の混合体であった。それゆえ、志磨遼平は前者の種類のファンから誤解される傾向にあった。

彼は音楽としてのロックが好きなのであって、思想や運動としてのロックが好きなわけではない。反体制でもないし、アンダーグラウンド主義でもない。

だから、彼はオリコンで上位に行きたいと願うし、ポップできれいで複雑な音楽を作りたいという気持ちもある。彼の音楽インテリで渋谷系的な側面が出たのが、今回のアルバム「ティンパン・アレイ」である。

しかし、同時に「伝統的なロック」(ある種の語義矛盾だが確かに存在する)に対する尊敬や憧憬を強く持っており、これからもそれは表現されるだろう。



悲しいのは、毛皮のマリーズのファン(前者の種類)のなかに、やたら音楽に詳しい人たちがいて、今回のアルバムでそのひとたちが「志磨遼平はファンを騙している」と勘違いしてしまうことだ。

要するに、「彼の音楽は思想がロックではなく、本性から出た音楽でもなく、色々な元ネタからパクられた寄せ集めのものだ」と幻滅してしまうのである。

別の言い方をすると、志磨遼平を新しい忌野清志郎や甲本ヒロトと勘違いしてしまって、そうじゃなかったから、癇癪を起こすということだ。

確かにそれはそう思われても仕方ないが、もう少し大人になって彼らを見るべきではないか、と僕は思う。

こう思う人の気持ちはもちろんよく分かる。これは「アイドルが実は清純ではなかった」に対する幻滅と全く同じだ。志磨はカリスマ・タイプのアーティストというより、山下達郎的なインテリ・アーティストだ。

とはいえ、人間は複雑なのであって、志磨のなかには確かにロックの本性がある。ただ、それが出たり入ったりするだけだ。それが別の性向で隠れてしまうだけだ。

彼のロックは八百長ではない。というか、音楽に八百長も何もない。元ネタがあってもいいし、インテリでもいいし、馬鹿野郎でもいい。

むしろ、我々は志磨遼平の「不器用さ」全体をもって彼と認識し、それを微笑ましく見守るべきではないだろうか。

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