パッと題名を見て、正直面白くなさそうだと思った。ドッキリは嫌いだし、大喜利もやり過ぎて食傷気味だ。それを組み合わせても・・・と思っていた。
ところが見てみると、面白い。スタッフに藤井健太郎氏(水曜日のダウンタウンやクイズ☆タレント名鑑でおなじみ)の名前が。それは面白いはずだ。
番組の展開は単純。まず大喜利をやり、その後でその答えを実行に移す。
例えば、「水をかけられた後にそれがチャラになる出来事とは?」というお題がある。
それに対して、「横で矢代亜紀が雨の慕情を唄ってくれた」(かねきよ(新宿カウボーイ)の回答)と答えれば、その数カ月後、実際にそれをやってみて、回答した本人がどういうリアクションをとるのかを観察し、点数をつける。
回答者たちは、大喜利がそれ自体で終わっていると思っているので、まさか実現するとは思っていない。もちろん、実現しないような答えが非常に多い。
この番組がめっぽう面白いのは、ドッキリでは絶対に思いつかない企画が出てくるところだ。
例えば、「こんな心霊ロケは怖がりづらい。どんなロケ?」に対して、原西(FUJIWARA)「うっすらとおさかな天国が聞こえてくる」。
実際やってみると、これが面白い。何が面白いって、おさかな天国が暗闇の神社でうっすらかかっている、という情景が面白いのである。
逆に実際やってみると、まったくドッキリとして成立しないものもある。
しかし、大喜利を実際に実現したらどうなるか、というところがとても面白いのだ。
それは地獄のようにくだらない。
しかし、大喜利の答えを実際にやってみることはかなり大変で、そのバカバカしい一生懸命さが本当に素晴らしいのだ。
ドッキリがなぜ廃れたのかははっきりしている。
ただ過激になっていったからだ。
そこに笑いの深みはない。
(ドッキリを二回同じ展開でやってもらい面白さを競うという、まさにメタ構造的かつ芸人の技芸を楽しむとんねるずの企画は素晴らしかったが、そういうものは例外。)
この番組はくだらいことを徹底的にやっていて、本当に素晴らしかった。
ただ、最大の弱点は同じ企画が二度とできないことだ。
大喜利が実現する可能性を演者が知ってしまったら、番組は成立しないのである。
だから、この番組は一回限りのミラクルだった。
ところが見てみると、面白い。スタッフに藤井健太郎氏(水曜日のダウンタウンやクイズ☆タレント名鑑でおなじみ)の名前が。それは面白いはずだ。
番組の展開は単純。まず大喜利をやり、その後でその答えを実行に移す。
例えば、「水をかけられた後にそれがチャラになる出来事とは?」というお題がある。
それに対して、「横で矢代亜紀が雨の慕情を唄ってくれた」(かねきよ(新宿カウボーイ)の回答)と答えれば、その数カ月後、実際にそれをやってみて、回答した本人がどういうリアクションをとるのかを観察し、点数をつける。
回答者たちは、大喜利がそれ自体で終わっていると思っているので、まさか実現するとは思っていない。もちろん、実現しないような答えが非常に多い。
この番組がめっぽう面白いのは、ドッキリでは絶対に思いつかない企画が出てくるところだ。
例えば、「こんな心霊ロケは怖がりづらい。どんなロケ?」に対して、原西(FUJIWARA)「うっすらとおさかな天国が聞こえてくる」。
実際やってみると、これが面白い。何が面白いって、おさかな天国が暗闇の神社でうっすらかかっている、という情景が面白いのである。
逆に実際やってみると、まったくドッキリとして成立しないものもある。
しかし、大喜利を実際に実現したらどうなるか、というところがとても面白いのだ。
それは地獄のようにくだらない。
しかし、大喜利の答えを実際にやってみることはかなり大変で、そのバカバカしい一生懸命さが本当に素晴らしいのだ。
ドッキリがなぜ廃れたのかははっきりしている。
ただ過激になっていったからだ。
そこに笑いの深みはない。
(ドッキリを二回同じ展開でやってもらい面白さを競うという、まさにメタ構造的かつ芸人の技芸を楽しむとんねるずの企画は素晴らしかったが、そういうものは例外。)
この番組はくだらいことを徹底的にやっていて、本当に素晴らしかった。
ただ、最大の弱点は同じ企画が二度とできないことだ。
大喜利が実現する可能性を演者が知ってしまったら、番組は成立しないのである。
だから、この番組は一回限りのミラクルだった。
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