それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

台所2

2015-09-29 13:30:24 | ツクリバナシ
 豚々先生にはほとんど友人と呼べる相手がいなかったし、妻もいなかった。

 凡夫の身の悲しさ、彼はそれが一体何故なのかという愚にも付かない問題を何度も繰り返し考える。

 理由など簡単なのである。本人も、また周りの人間も、互いを友人と呼ぶべき関係になるほどのものではないと見定めているからなのである。それは人格の良し悪しではなく、単に要、不要の話なのである。

 すなわち、何故観葉植物を家に置かないのか、ということと同じなのである。

 そんな豚々先生であったが、それでも下町の部屋まで遊びに来る貴重な人間がふたりほどいた。

 ひとりは大学からの知り合いの男で、もうひとりは西欧への遊学中に知り合った女史であった。

 ふたりとも友人と呼べば良いように思うが、豚々先生はただ「優しい人たち」と呼んでいる。

 というのも、彼にとってはふたりが自分を慕って遊びに来る理由が一向に理解できなかったためである。

 この「優しい人たち」を含め、三人で会っても良さそうなものだが、先生は決してそういう会をもたなかった

 先生にとってみれば、三人にしたところで、何一つ利点が無かった。

 知り合いの男と女を引き合わせると碌なことがない、などとは思っていなかった。

 ただ、非常に繊細でフラジャイルな人間関係を接合させたところで、無味乾燥なものに変質してしまうことが明らかだったためである。

 知り合いの男も女史も近所に住んでいた。だから、先生のところまでは歩いてやってきて、それで一緒に酒を飲んだり、近くの居酒屋に行ったりして、それでまあくだらない話をして時間を過ごした。



 ところが、ある日、豚々先生に思いがけないことが起こり、このふたりにそれぞれ相談を持ちかけることがあった。

 豚々先生が行きつけのカフェーでもって、そこの女給にまさかの先生が好意を示されたというのである。

 先生の知り合いの男も女史も、まったく俄かに信じがたく、何べんも疑ってみたが、豚々先生の語る話からは確かに好意が感じ取れたのであった。

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