それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

台所1

2015-09-27 22:32:07 | ツクリバナシ
 どうしても心から満足して食べたいものが見つからない日があるので、彼は自宅の台所で一人倦みがちに料理をつくることが多くなった。

 今の世の中には美味しいものが溢れているというばかりならまだしもの事、食べたくもないものを食べたいもののように錯覚し、貪り食ってしまうことに堪えられなくなったからである。

 地方々々のラーメンが当節の流行とあれば、電車に乗って食べにも行こう。西班牙地方の居酒屋料理も味わおう。下町の酒屋でモツ煮、焼き鳥で一杯というのもやろう。けれども要するに、それはみんな身過ぎ世過ぎである。

 おっと大変忘れていた。彼というのは大学で研究などという訳の分からぬことでもって生計を立てている、学者の端くれ、但し人の知らない別号を豚々先生という食いしん坊である。

 先生は現代の食生活の喧噪から隠れおおせるためには、人知れず隠れて食を求める台所を必要としたのである。

 昔より粋な文士やら、やくざな半可通が好んで住んでいた下町の裏通り、ごく普通のアパートの台所は即ちこの目的のために作られた彼が食の安息所であったのだ。



 台所はせいぜい7畳半程度の古びたアパートの一室にある別段なんの変哲もないそれであるが、調理器具だけは今の安月給のなかで目一杯買える上限のものを集めたのである。

 朝の小一時間は日が入るけれども、正午にもなれば人の顔さえちょっとは見分かぬほどの薄暗さ。
 
 しかし先生はこの薄暗く湿しめった部屋をば、それがためにかえって懐かしく、如何にも浮世ばなれした学者風情の社会不適応者
らしい心持ちをさせるのをひどく喜んでいる。

 台所にある灯りをつけると、橙色にぼんやりと手元を映し出す。包丁は一本しかないが、独逸製のきわめて強靭で合理的なそれである。備え付けの電熱式のヒーターはまったくの役立たずであることから、IHを置いて主要な熱源としている。

 鍋も中ぐらいのものが一つと、フライパンも一つ。あとはせいぜい、皮むき器とザルくらいのものだ。

 だが、いずれも品物は良く、いつも丁寧に磨かれている。

 彼がことさらに、この薄暗い台所に愛着を感じるのは、料理を作る気力に溢れた夕べよりも、かえって外で何か御馳走でも食おうとして、結局食いそびれた時間帯、それも飯時を軽く過ぎたような時間帯である。
 
 傍にある冷蔵庫には、これと言って特別何か珍しい食材が入っているわけではない。

 食材は買ってすぐに使う、どうせ一人分の飯なのだから、近所の八百屋で仕入れた野菜もその日のうちに料理してしまう、というのが先生の考えである。

 ただ、専門店で買い入れたキムチや、九州の高菜の類い、米に合う佃煮などは、冷蔵庫の上段に常備されている。いずれも日が経つことで醸し出される風味もあろうということである。

 調味料や香辛料もそれほど多くない。香辛料は黒胡椒、柚子胡椒、唐辛子がせいぜいで、ごくたまに花山椒などを買い入れるものの、たいていこの三、四種類程度である。調味料も塩、砂糖、味噌、それに醤油、魚醤、酢でおしまい。

 複雑な味付けをして何になろう。日本の食材を用いるならば、過剰な味付けなど、かえって無粋でしかない。



 調理人のなかには酒を料理の中途であおる者もある。だが、先生はまず酒をやらない。酒の代わりに西洋のジャズやらソウルやらの音楽をかけ、それが夕刻の情緒を誘うのである。

 ああ、ジャズギターの音色。何という果敢ない、消えも入りたき哀れを催させるのであろう。

 それでもどうしても酒が飲みたいということになれば、食後に一杯、手製のカクテルなどを混ぜ合わせて、ただそれだけをチビリチビリとやるのである。

 それで酔いに任せて論文を書いてみたり、日記をつけてみたりする。

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