柳田国男の「遠野物語」が発行されて百年あまりが過ぎ、
東日本大震災以降、再び注目されています。
民話や伝説を書いていた父にとって、遠野物語はバイブルの様な本
でした。
父の書棚には、いつも柳田国男の本が何冊もありました。
ところが、娘の私は「遠野物語」を読んでいないのです。
新聞に「遠野という普遍の故郷」という題がついて遠野物語の
特集記事が出ていました。
アラスカの大学生が、英訳版の「遠野物語」を読んで「懐かしい」
という感想をもらすそうです。
その遠野物語の記事が、私の中で初女先生にそしてイスキアに
繋がったのです。
「このグローバル化の時代のなかでは、きわめてローカルな
ものこそが他者に繋がるための大きな拠りどころとなる、
『遠野物語」』という徹底してローカルな伝承世界が
そのローカルさゆえに、普遍的な世界に開かれ繋がれている
という不思議である。
思えば、もはやこの地球に存在する誰もが、濃密な
土地=故郷との結びつきを解かれ、漂白を始めた「外国に在る
人々」なのかもしれない」
私たちが、イスキアを訪れた時、初めての場所にもかかわらず、
懐かしいと感じ、「ただいま!」と言いたくなってしまうのは
なぜだろう…
初女先生の暮らしが、生き方が、震災の後の私たちの道しるべと
なっていること…
「遠野という普遍的な故郷」というところに、イスキアを
入れてみると…
「イスキアという普遍的な故郷」
何だか、ぴったりする気がするのはなぜだろう…
まだこの記事が、私の中で消化されていないけれど
父の愛読書だった「遠野物語」を読んでみようかと
初めて思いました。