連休が近づいて来ました
初女さんがいらした時は、
5月になると森のイスキアに
行きたくてうずうずしたもの
です。
こちらでは食べられない山菜を
初女さんがお料理してくれるの
です。
初女さんの隣りに座ってミズの
皮を剥いたり…
それだけで幸せで、嬉しくて
仕方がなかった私です。
昨日、新潟から送られて来た
山菜を頂きました。
こごみの天ぷらの美味しいこと
山菜の料理は、シンプルなのに
心まで満たされる気がします。
故郷でなくても食べると、
懐かしい思いに包まれます。
また、森のイスキアに行きたい
気持ちが、うずき始めて
きました。
初女さ~ん、行きたいよ~
でも、温泉の湯が入ってない
空っぽのイスキアのお風呂を
見たら、涙が止まらなくなる
かも…
初女さん書いてましたよね。
『ひとりひとりに森のイスキアが
宿っているー。
そのことが何よりの励みです。』
と…
そうだ、私の中の森のイスキア
に心を合わせよう
おむすびを結びます。
心と心を繋ぐ、おむすびを…
初女さんの言葉は深い…
初女さんが亡くなって7年
少しだけれど初女さんの言葉の
奥底にあるものが前より
分かってきた気がします。
初女さんが居た時は、会える
ことが嬉しくて、浅いところで
分かった気になっていました。
初女さんは、多くを語らないし
大切なことは姿で伝える方
でしたから…
初女さんの”動の祈り”の姿を
あんなに見て来たのに…
まだまだ自分の行動になって
いきません。
ここに載せた”ことばを超えて”の
最後の三行が、やっとわかって
来ました。
初女さんの言葉は本当に深い
です
ことばを超えて
ことばだけで考えているうちは
本物ではないですね。
とにかくことばを主にすると
行いはあとまわしになって
しまいます。
気づきがあったら動きます。
あなたのそばの大事な人に
伝えてください。
心の奥にはことばを超えた
いのちの筋があります。
ことばを越えなければね。
佐藤 初女
うちの茶の間には、
ダライ・ラマ法王と初女さんの
2ショットの写真が飾って
あります。
写真から穏やかな波動が
伝わって来ます。
慈悲と利他という言葉が
浮かんできました。
これはきっと人間が本来
持っているものなのかも
しれません。
初女さんに「男性にも母性は
あるのよ」と聞いたことが
あります。
ダライ・ラマ法王から
感じられる温かさは、きっと
この男性の中にもある母性
なのかもしれません。
このお二人の写真を見ていると
温かいものに包まれたような
気持ちになります。
母性は誰にでも宿っているの
ですね。
でも、その土台となるのが
自分を愛することなのかも
しれません。
自分に親切でなくては
他人にそうあることは
できません。
他人に愛情と優しさを感じ
彼らが幸福で苦しまない
ことを望むには、
同じことをまず
自分自身に願わねば
なりません。
ダライ・ラマ
初女さんは、祈りには
『動の祈り』と『静の祈り』
が、あると言われてました。
「私にとって、祈りとは生活
です。
生活の動作、ひとつひとつが
祈りです。
心を込めて食事をつくったり
ともに食事を囲んだり
ごく平凡な日々の営みの
中にこそ深い祈りが
あるのです。」
この初女さんの言葉が深く
心に響き、なぜだか
分からないけれど涙が溢れて
しまいました。
初女さんとのご縁が
繋がり、私は初女の動の祈りを
ずっと見てきました。
高齢の初女さんが、どうして
そこまで…と思ったことが
何度もあります。
初女さんは、よく行動して
下さいと言ってました。
「動の祈り」
本当に深いです。
私はまだまだ全然です。
でも、人間には利他の心が
あるから…
初女さん、見ていて下さいね。
1日24時間は変わらないのに
時が瞬く間に過ぎて行く気が
しています。
2023年になって4か月ですが
亡くなって行く人の多さに
気持ちがついていきません。
ある人が言ってました。
新幹線に乗っていると、
周りの風景は飛ぶように
過ぎていくけれど、新幹線の
中は安定してます。
心を真我に合わせていれば、
何があろうとも心はいつも
安定してます…
というのを聴いて初女さんを
思い出しました。
初女さんは、どんな時も
穏やかでした。
初女さんの傍に居るだけで
こちらも落ち着いて来るのです
初女さんは、忙しいと言う
言葉を使いませんでした。
「忙しい」という言葉を、
私はなるべく使わないように
しています。
「忙」という漢字が
「こころを亡ぼす」と書くこと
からわかるように、「忙しい」
と思って口にすることは、
決して望ましいことではないと
思うからです。
今ここにいる限り、あくせく
しても他のことはできないの
だから、そこの雰囲気に浸って
いたほうがいいのです。
佐藤 初女