かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

本を読む(1)

2013-05-19 07:14:20 | わがうちなるつれづれの記

 人から薦められた本を読むというのもいいものだ。

 

 冬に友人から何冊かの本を薦められた。

 大学時代からの付き合いで、友人は卒業後、

神田にある出版社に入り、いまも現役で働いて

いる。

 これまでも、自社の本を贈ってくれるときがあった。

 

 読む時間を見つけながら、何冊か読んだ。

  吉本隆明「第二の敗戦記」(春秋社)

  沢木耕太郎「無名」(幻冬社)

  橋爪大三郎・大沢真幸・宮台真司「おどろきの中国」(講談社)

  赤坂真理「東京プリズン」(河出書房新社)

 

 じぶんが選ぶことなんて、おそらく無かったとおもう。

 友人は学生のときから、大きな瞳をまんまるにして、

彼が面白いとおもったことを語ってくれた。

 おどけたような、ちょっと真面目な感想につい引き込まれた。

 

 じぶんのために読後のメモ。

 吉本隆明「第二の敗戦記」

 友人から贈ってもらった。著者の没後、眠っていた原稿を

家族の同意をえて、出版したという。

 東京の下町のおっさんが、ありのままの心情をふだんの

コトバで訥々と語っているようだった。もちろん、思索の裏付けは

ひしひし感じた。

 印象に残ったところ。

 ーー「よりよい理想社会をつくるために」

    ・・・まず国家を国家と考えるから難しいのであって、もっと

    身近なことで考えていけばいい。

     それぞれは違うだろけれども、その望む個人が、会社の

    同僚や親密な仲間、あるいは親戚など、三人以上の人間で

    日常的なことに取り組んでいくということから始めていくという

    ことでいいと思います。

     それなら平等で自由にできるし、自由にならない問題は

    外して、自由になる問題から、進めればいいのです。


 なるほど。ただ、三人というだけで、お互いそういう間柄になる、

とはおもえないけど、なにが理想かを見極めながら、やれるところ

から始めるというのは、面白い。また、そういうものからでないと、

はじまらないのかも。

 

 ーーつまり、三人以上というのは、同じ集団の問題が本質的に

    三人の中に必ず入ってきますから、そこから始めて、そこを

    うまく運営できるぐらいなら、開かれたものがやりようによって

    はできるはずではないか、と思うのです。

     やってみて、まちがえたらまちがえたでだめになるでしょうが、

    まずは、できるはずではないかと考えるほかに、いまの段階

    では方法がないといえます。

 

 本質的なことが、三人の中に入ってくる、どんなことを言わんとして

いたのか。理想をどんなふうに見ているかに、かかわるのではないか。

                                   (つづく)

                 

 

 

 

 

 


つれづれなるままに

2013-05-16 19:44:26 | アズワンコミュニテイ暮らし

なにかおかしい。

ブログを書こうという気が湧いてこない。

書きたいこと、表現したいことが、ないわけではない。

何かが、こころを止めている。

 

 毎週水曜日の夜にサイエンズ研究所のカレッジがある。

昨日の夜は、カラダがだるく、貧血気味で、夕方から

寝てしまった。

カレッジでは、その日参加出来なかった人のために、

カレッジの様子を録音してくれている。


それを今日、聞いた。 ちょっと、こころが動いた。

 

<一人一人の意志が尊重される自由なコミュニティ>

「意志が尊重される、というのはどんなことだろう?」


じぶんには、カラダがあるが、こころもある。

カラダとこころはいろいろ関わりながら、それぞれ

はたらいている。

最近、気持ちは早く歩こうとしているのに、カラダが

おもうように動かない、と感じる。


「おもったら、やれる」としてきたことが、ちぐはぐな感じ。

それでも、カラダのはたらきもあるし、こころのはたらき

もある。ちぐはぐになっていても、関連しながら、

それぞれある。

 


カラダは、環境と適応しながら、生命活動をしている。

こころも、環境のなかで、こころのはたらきがあり、

意志もある。

人間の場合、こころのはたらきなしには、生命活動を

維持できないのではないか。

一人一人の意志を尊重するというとき、その意志とは

人間が人間として生きていく上に、不可欠のもの、

尊重するとは、その実際を知るということか・・・

 

 私にも意志がある、相手にも意志がある。

 カラダとともに、私をつくっているのが、こころだとすれば、

こころのはたらきや、そのなかの意志についても、そこで起こる

ことは、じぶんが納得できるできないに関わらず、”起きたし”

”ある”といえるのでは。

相手の人についても、「家に火をつける」と叫んだとしても、

そういうコトバで表現してくる、こころのなかの意志、感情など

があるのではないか。

何かが起きている。たとえ、人として許されない、と思うような

ことを思うようなことがあっても。


 尊重する、あるいは尊重される、というのは、もしかしたら

そういう人間の実際を、人と人の間の実際を、知って、そこから

そのことを、言おうとしたら、そう言える、そうとしか言えない、

そんなことになるのかも。

 

 尊重するは、こころのなかで起きていることに、ついてである。、

 コトバに出たことや、立ち居振る舞いにあらわれたことに

ついてではないと思う。

 コトバや立ち居振る舞いの前。

 コトバや立ち居振る舞いについての、良し悪し、正しさ、

優劣、じぶんの納得、それ以前のところ。

 
 日常の暮らしでじぶんは、どんなか?

 私に意志があり、相手にも意志がある。
 

 そういう実際にそって、暮らしてるか?

 

 相手がこう言った。「そんなのは、おかしい」

 一瞬の判断。

 相手がこう言った、と言っているが、実際は「私がこう

聞いた」
 
 ふだん、何気なく、「あの人、こんなこと言っていた」とか

しているけど、これって、何かどこかで、とんでもなく、

おかしなことしてるかも。

 「私はこう聞いた」というなら、「相手の人は、実際はどんな

ことを言いたいのだろう。」「何をおもって、そうあらわして

いるのだろう」そっちへ、いくかも。

 努力なしに、当たり前に、相手の意志を受取ろうとして

いるだろう。


 私に意志がある。相手にも意志がある。

 
 

 人のカラダやこころは、どうなっているか。

 その、人と人の間は、実際どんなのが当たり前の姿か。

 じぶんの現状は現状として、そこの自覚は外さない

ようにしながら、当たり前の姿ってどんなか、を探って

いきたい。

 

 


娘と孫二題

2013-05-07 21:52:10 | 家族あれやこれや

 娘が子どもたちとのやりとりをブログに書いている。

 3年前の年末、娘は離婚して、孫二人を連れて、大阪から

鈴鹿に引っ越してきた。ぼくら、爺婆の側で暮らしてきた。

 

 娘にとっては、さまざまなことがいっぺんに噴出すること

になった。娘の親として、ぼくも深く自問するときもあった。

 

 この2年間、娘にとっては、とても密度が濃かったかも。

 近隣、周囲の人たちのなかで、心の安らぎをとりもどし

ていったように見える。

 娘は、孫二人と今も、日々向き合っている。

 向き合えば、自ずから、自身心豊かになる、そんな自分に

気づいてきたかのよう。

 だって、子どもは生きるエネルギーと心の豊かさの

塊だもの・・・

 

 

お風呂



息子、はるく、小学2年

お風呂に一緒にはいったら、

「あのなー、
なんで、ゆぶねにはいったら、
水がふえるとおもう?
こーやって、
ぐわーってうごくやん、

はるくなぁ、かんがえてん、

あのなぁ
にんげんがはいったらなぁ、

にんげんのぶんだけ
そこにみずがなくなるねん、
だからなぁ、
そのぶん水が
ぐわ~って、ほら、
こうやってうごくねん」

にかぁーーってわらって、
うれしそうに話してた、

わたしは
感心した、
へぇー、
そんなこと考えるんかぁ、

わたしのあたまん中は、
はるくはまだまだ、小さい、
なんもわかってない、って感じ、

だから、
驚いた、

わたしのあたまはいつからか、
はるくについて
とまったままで、

はるくの脳みそは、
ずんずん進んでいるように、
感じた、

楽しかった、

不思議やなぁ、って考えたり、
どうなってるんかなぁ、て
思ったり、

これは、こんなもんや、

だと、うまれないよなぁ、

こんなもんさ、
こうさ、
わかってるさ、
って気にもとめない、
気にもとまってないって、
なってることすら、気づかない、

なんやろー、どうなってるやろーて、ワクワクする感じ

いいなぁ、
 
 
2013.04.16 Tuesday
車、お金、、、
 

夜、寝るとき、
ふとんのなかで
はるくが、
おれ、お金たまったら、
あの18万円の車かう!
と言い出した、

あの車、とゆうのは、
今日、出かけたとき、
中古車販売店の前を
通って、フロントガラスに
値札がでかでかとついた
車があったからだ、

わたしは、
あー、
車がほしい、じゃなく、
まずお金をためることを考えたんやなぁ、
あー、
生まれてまだ、
そんなに、たたない子が、
物でもなんでもないもの、
お金をためなければ、と、なった感じが、
(お金とゆうのは、なんやろ、必要やけど、わたしのなまみの体、ほんまのほんまの、わたしには、なんだか、不自然やなぁ、と
、最近、感じていて、)

なんだかちょっと、
いたたまれな~い、
なんだか、きゅうに、
そんな、きもちがわいた、

あ、おっと、ほんで、
はるくはなんで車ほしいんかなぁ?となって、

はるくに聞いたら、

ママに買ってあげたいねん、
と言う、

(鈴鹿に来てから、自分の車は持っていない、
ほしい、と思うときはあるが、
まわりの人に借りたりしながら、やってきた)

それを聞いて、わたし、
そのはるくのそんな、
気持ちがうれしくて、はるく、うれしーなぁーって言ったら、

だからな、
お年玉いっぱいちょーだいや!
そやなぁ、16万円でいいわ、

だとさ、、、

大爆笑、、、

わたしとはるく、
お金、車、そんな話しも、
ふたりのなかでのお金、車とゆうもの、
はるくのお金、車ってどんな感じかなぁ?

わたしのお金、車っていま、どんなふうになってるんかなぁ、

あーおもしろかったー、
 
 

日々訥々の短歌

2013-05-06 09:46:03 | わがうちなるつれづれの記

 フェイスブックで「日々訥々」の短歌を知った。

 作者は清水千鶴さん。92歳。詩人清水哲男さんの母上。


 短歌の素養は全くない。

 それなのに、読んでみると、なにかこころのなかに

余韻が残り、いつまでも響いている。心地いい。

 なんだろう?

 人のこころの豊かさの表出・・・


 千鶴さんは、一日一首詠んでいる。

 このゴールデンウィーク期間中の作品。


  ほつほつと芽吹くもありて空さす木々は銀色にひかり放つ

                                                                   

  

   我が膝をのぼり来し黒き蟻思案げに走り下れり花散る風に

                                                        

  青田へだて小学校の屋根が見え開け放つ座敷天然の風


    黒き かげ鈴一つ飛び来て真昼間の我が空白に罫線引くごとし

                                                                                                                              

  人々の吐息にも似る夕霞ビルの灯りが連なり滲む

  


    表札の跡のみ白き六軒長屋に昼顔絡むマンション予定地

                                                                    

  鈴の音がふと聞こえ来て暗闇の我が孤影ゆらして消ゆ

  

   

    マネキン人形のエナメルの靴光りおり春のを翔ける少女のまなざし

                                                                                         

 

  「訥々」って、どんなだろう。辞書を引く。

  電子辞書は便利。チョンチョン、パッと分かる。

  ときどき手垢のついた辞書をめくる。

  めくる間合いが、なんでか心地いい。

  「とつ、えーと、もう一つ、とつ・・・」とか言いながら。

  どちらも、「口ごもりながら話すさま」みたいに書いてある。

  仕事だったらまどろっこしいかも。暮らしなら、味わいが・・・。

 

  千鶴さんの歌は、言葉が光っている。心が躍っている。

 そのものに溶け込んでいる。無辺境の世界に遊んでいる、

 

   「銀色にひかり放つ」 いいなあ。

   「黒き蟻思案げに・・・」 蟻を見つめて、その世界に人となる。

   「開け放つ座敷」 わあ、広々として、寛いで、風を感じて・・・

   「我が空白に罫線引くごとし」 こんなに表現しているものの奥には・・・

   「人々の吐息にも似る夕霞」 そうかあ・・・

   「表札の跡のみ白き六軒長屋に」 

                   これだけでも路地の今昔が浮かぶ。

   「暗闇の我が孤影ゆらして」  どこまでも透きとおり・・・

   「エナメルの靴光りおり」  少女の跳躍、その娘は千鶴さん?


  どこかに出かけるのも、とってもいいけど、こういう世界に

 触れるのも格別だなあ。それなりの、ギアチェンジは要ったけど・・・

 


  



意地悪ばあさん

2013-05-05 10:48:02 | わがうちなるつれづれの記

 五月の日射しは新緑に映えて、眩しい。

 連休はどこへもお出かけしなかった。

 お客さんが何組も来訪された。

 ちょっぴり、人が動いているんだなあ、と感じた。

 

 妻がブックオフから長谷川町子さんの「意地悪ばあさん」を

買ってきた。105円。「それは、いい」

 ゴールデンウィークは、これでいこう。

 

 意地悪ばあさんは、「そんなことは人として許されない」という

ようないたずらをカラッとする。

 「していいことと、悪いことがある」という、ぼくらのなかにある

許容範囲をものの見事にぶちやぶっちゃってくれる。

 こころのどこかに一抹モヤーとあるものを「あらら」と思う間に

白日に晒してくれる。

 おもわず笑いが生じる。これって、どんな笑い?

 

 ふだん子どもには、してあげたいという気持ちが出てくる。

 まさか、子どもに意地悪なんて、とってもできないとおもっている。

 ところが、どっこい。子どもがブランコ乗りたいと待っているのに

ああーなんということを・・・

 

 あとで、グルグル目が回る。


 女ごころは、分からない。

こんなのが、実際かどうかは、分からなくとも、人のこころの

奥、内面に関心がいかなかったら、面白さはでてこないだろう。

 誰もが、ちっとは、こころあたり、ありそうな。

  子どもだからって、容赦はしない。

 立派に、同じ気持ちをもった人間として対している。

 「子どもだから・・・」とかいう回りくどいものがない。

 

 あとで、「しまった」とおもうのが、意地悪ばあさんの真骨頂。

 

 ああ、なんという孤独!

 にもかかわらず、なにかギスギスしていない。

 親しい人たちでつくる、しみじみとした味わいが余韻に残る。

 

 ふだん、当たり前としている世界が「あれあれ、そんなことあり?」

という世界に触れると、こころが動く。

 意地悪ばあさんの言動には、なんでかじぶんのこころの奥に照明

があたる、なにかがある。

 

 「意地悪ばあさん」

 ブックオフで105円。いいねえ。