インターネットが使いたいときに、つながるときが多くなった。
つい何年か前まで、パソコンとかインターネットなどとは、縁が
なかった。
それが、今では、つながらないと何か落ち着かない。
ここ数日、夜中の蚊の羽音で目を覚ます。
気にすまいとするが、気になる。それから、眠れなくなる。
べープマットを妻がつけてくれるが、効果ない。
たまりかねて起きて電気をつけて、蚊を探す。
いつだったか、詩人まどみちおさんが、蚊についての詩を
書いていた。
カ
ブーン と額にきたときには
ピタン! とたたき落としていた
もうかんたんには見つけだせない
ホコリの一つぶにして・・・
そして ふと思った
カは メスだけが
血をすいにくるのだったな・・と
どんな名前の女の子だったろう
カの男の子たちの
あこがれのマトだったのだろうか
青くすんだ ひとみの
きんいろにひかる 声の・・と
(「ぼくがここに」童話屋より抜粋)
蚊に血を吸われるのをなぜ嫌がる気持ちがでてくるのか?
考えたことがある。
羽音がうるさい。静かに、それと気づかないように吸って
くれたら・・・
吸ったあと、痒い。痒くないように、吸ってくれたら・・
もっと、やさしい気持ちで血のおすそ分けができるのになあ・・
まどみちおさんは、なにかの話のなかで、「蚊と人のつきあいが
まだ短いので、お互いその辺がうまくいっていないのではないか」
みたいなこと言っていて、「そうかあ」とおもった記憶がある。
まどさんは、蚊の羽音を「やまびこの、ちいさなまご」と譬えた。
「あっ」とおもった。
蚊に求めるだけでは、おつきあいは刻まれていかないのでは。
蚊と人のつきあいはどのくらいにあるのだろう?
千年、数千年の期間ではないだろう。
目の前におきていることを、そういう単位というか、いきもの
としての流れから見る見方とでもいうのか、面白いとおもって、
印象に残った。
目の前で起きていること、それを「そうなっている」動かない
ものとして、そこから始めるというのと、はじめはどうだったろう
とか、目の前に見えていること棚上げして検討していくのとは、
なにか根本的に異う感じがする。
蚊と人の間柄も、未来永劫、いまのままでいくかどうか?
蚊を絶滅させるという人間側の考えもありそうだけど、それは
目の前の問題解決を人間の一人相撲で解こうとしていることに
ならないか?
人間同士でも、なにか変だなとおもいつつ、「こんなものかな」と
続けていることがあるんじゃないか。
たとえば、貨幣制度。
これが、いつどこからはじまったか、研究しているわけでないので
「これだ」とは言えないけど、誰かがあるとき「おもいついて」、
だれか「そうしよう」と言う人がいて、たまたまはじまった人間の
考えではないか。
貨幣制度は、人間の起源からあったとは、なかなかおもえない。
「たまたま人間がおもいついたもの」なら、人として何が
したいか、よーく検討、究明して、いちばん人として目的に
適った方法・制度を考案できるようにおもうのだけど・・
目の前のことが、「そうなっている」「人の手ではどうすること
もできないほどの現実になっている」と知らず知らずに諦めている
こともあるかもしれない。
人は一個の受精卵から人間になっていくらしい。
その過程では、細胞から生き物、そして人間へと進んできた
人間誕生の過程をすべて通過すると聞いたことがある。
呼吸も魚のえら呼吸から、肺呼吸に変わるとか。
健康正常な人の姿というのを、最近、検討しているようにおもう。
サイエンズスクールの「四日連続日常化レッスン」で、じぶんの
なかで起こるおもしろくない気分とか、「あったのに、なくなって
いる。だれが、もっていったのか」と一瞬でも起こるモヤモヤした
気持ちを観察した。今回は、仲間6人で検討した。
観察すればするほど、目の前のことを「そうだ」として、そこから
じぶんの頭で起きたことを、これまた「そうだ」として、うっとしい
気持ちをことさらじぶんでうっとうしくさせている。
他人の例では、そこが見えたら、笑えてくる。とっても滑稽。
じぶんの例では、じぶんが見たり、聞いたり、おもったりという
ことを、他人の例を検討するように、冷静に観察・検討がすぐに
できない。
観察がすすめば、もっと正常健康なあ人の姿がくっきり
見えるようになる予感。
だんだんというよりは、そこに焦点があたって、観察できたら
そこから世界がかわるような・・・
そういうことの日常化・・・
さあ、今夜も女の子の蚊が「ばんごはんですよ」と現れてくるだろうか?
つい何年か前まで、パソコンとかインターネットなどとは、縁が
なかった。
それが、今では、つながらないと何か落ち着かない。
ここ数日、夜中の蚊の羽音で目を覚ます。
気にすまいとするが、気になる。それから、眠れなくなる。
べープマットを妻がつけてくれるが、効果ない。
たまりかねて起きて電気をつけて、蚊を探す。
いつだったか、詩人まどみちおさんが、蚊についての詩を
書いていた。
カ
ブーン と額にきたときには
ピタン! とたたき落としていた
もうかんたんには見つけだせない
ホコリの一つぶにして・・・
そして ふと思った
カは メスだけが
血をすいにくるのだったな・・と
どんな名前の女の子だったろう
カの男の子たちの
あこがれのマトだったのだろうか
青くすんだ ひとみの
きんいろにひかる 声の・・と
(「ぼくがここに」童話屋より抜粋)
蚊に血を吸われるのをなぜ嫌がる気持ちがでてくるのか?
考えたことがある。
羽音がうるさい。静かに、それと気づかないように吸って
くれたら・・・
吸ったあと、痒い。痒くないように、吸ってくれたら・・
もっと、やさしい気持ちで血のおすそ分けができるのになあ・・
まどみちおさんは、なにかの話のなかで、「蚊と人のつきあいが
まだ短いので、お互いその辺がうまくいっていないのではないか」
みたいなこと言っていて、「そうかあ」とおもった記憶がある。
まどさんは、蚊の羽音を「やまびこの、ちいさなまご」と譬えた。
「あっ」とおもった。
蚊に求めるだけでは、おつきあいは刻まれていかないのでは。
蚊と人のつきあいはどのくらいにあるのだろう?
千年、数千年の期間ではないだろう。
目の前におきていることを、そういう単位というか、いきもの
としての流れから見る見方とでもいうのか、面白いとおもって、
印象に残った。
目の前で起きていること、それを「そうなっている」動かない
ものとして、そこから始めるというのと、はじめはどうだったろう
とか、目の前に見えていること棚上げして検討していくのとは、
なにか根本的に異う感じがする。
蚊と人の間柄も、未来永劫、いまのままでいくかどうか?
蚊を絶滅させるという人間側の考えもありそうだけど、それは
目の前の問題解決を人間の一人相撲で解こうとしていることに
ならないか?
人間同士でも、なにか変だなとおもいつつ、「こんなものかな」と
続けていることがあるんじゃないか。
たとえば、貨幣制度。
これが、いつどこからはじまったか、研究しているわけでないので
「これだ」とは言えないけど、誰かがあるとき「おもいついて」、
だれか「そうしよう」と言う人がいて、たまたまはじまった人間の
考えではないか。
貨幣制度は、人間の起源からあったとは、なかなかおもえない。
「たまたま人間がおもいついたもの」なら、人として何が
したいか、よーく検討、究明して、いちばん人として目的に
適った方法・制度を考案できるようにおもうのだけど・・
目の前のことが、「そうなっている」「人の手ではどうすること
もできないほどの現実になっている」と知らず知らずに諦めている
こともあるかもしれない。
人は一個の受精卵から人間になっていくらしい。
その過程では、細胞から生き物、そして人間へと進んできた
人間誕生の過程をすべて通過すると聞いたことがある。
呼吸も魚のえら呼吸から、肺呼吸に変わるとか。
健康正常な人の姿というのを、最近、検討しているようにおもう。
サイエンズスクールの「四日連続日常化レッスン」で、じぶんの
なかで起こるおもしろくない気分とか、「あったのに、なくなって
いる。だれが、もっていったのか」と一瞬でも起こるモヤモヤした
気持ちを観察した。今回は、仲間6人で検討した。
観察すればするほど、目の前のことを「そうだ」として、そこから
じぶんの頭で起きたことを、これまた「そうだ」として、うっとしい
気持ちをことさらじぶんでうっとうしくさせている。
他人の例では、そこが見えたら、笑えてくる。とっても滑稽。
じぶんの例では、じぶんが見たり、聞いたり、おもったりという
ことを、他人の例を検討するように、冷静に観察・検討がすぐに
できない。
観察がすすめば、もっと正常健康なあ人の姿がくっきり
見えるようになる予感。
だんだんというよりは、そこに焦点があたって、観察できたら
そこから世界がかわるような・・・
そういうことの日常化・・・
さあ、今夜も女の子の蚊が「ばんごはんですよ」と現れてくるだろうか?
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