秋日和だった。
思いついて、野登山に車で登り、中腹の平たいところから
鈴鹿の街を眺めながら、お弁当を食べた。
山道は曲がりくねって、狭いし、息子に運転してもらった。
野登山は800メートルくらいの山だけど、山頂近くには
三重では珍しいブナの林がある。
中腹からの眺望、晴れ渡った空にふんわり雲が浮かんでいる。
他に、何組かの親子やカップルもやってきていた。
お弁当のあと、しばし下界を見つめていた。
鈴鹿川らしきものが、ゆるいカーブを描きながら、海に
向かっている。
広大な天地の中に、街がある。
「あの高く見えるのが、鈴鹿市役所だろうな」
「あれが、ホンダかな」
「手前の池はフラワーガーデンかな」
まず、自分の目から見て、そうじゃないかなというものを
探している。
妻が「そうかもね」というと、一件落着する。
じっと眺めていると、人間の営みから遊離している感覚になる。
鳥瞰ということがあるけど、何気に鳥のように、空を舞っている。
鳥だったら、下界の景色どう見えているだろう?
鈴鹿市役所だ、ホンダとかはないだろう。
鈴鹿川が見える。海が見える。池が見える。森が見える。ビルや
建物が見える。
鳥が見下ろしている風景には、街と街の境界など無いだろうな
鳥がどんなふうにそれらの風景をどう捉えているかは分からない
けど、山の上から眺めているぼくらとは違いがあるのだろうか。
遠くのものが良く見える、動くものに敏感など、人の感覚では
捉えられないものが、とらえられているかもしれない。
そういう違いはありそう。
感覚で捉えているというのでは、鳥も人間も同じなのかな?
イスラエルの歴史家ノヴァ・ユヴァル・ハラリが「ホモサピエンス
全史」をいま、読んでいる。
7万年前、アフリカで誕生した人類の祖先はちっぽけな動物に過ぎ
なかった。
「それが、どのようにして地球を支配する存在にいたったのか?」と
問いかけている。
それこそ、現人類の全歴史を鳥瞰していると感じた。
人間とそのほかの生きものとの本当の違いは、個々の能力という
より、集団としての違いにあるという。
他の動物にはなくて、人間だけにあるもの、それは「人間が柔軟
かつ、大勢が協働できる能力だった」と。
大勢が協働できることを可能にするのは、ずばり”想像力”という
いうのである。
ーーそれは、地球上で人間だけが唯一、想像したり、架空の物語
をつくり、それを信じることができるのです。
全員が同じフィクションを信じれば、同じルールや基準や
価値観にしたがって行動します。
山から見下ろす街は、人間がつくってきたもの。
街なんて、一人の人間ではできない。
人間がどこかで、頭のなかで作ったフィクションを、大勢の人が、
「そうだ」として、ここまでつくってきたともいえるんかな。
ハラリさんはいう。
宗教にしても、法律にしても、人権ということも、国家、企業・
法人も、お金も、どれも人間が作ったお話、架空の物語と言い
切っている。
法律とは、何だろう?
国家っていうけど、これってっどんなこと?
お金がなければ、暮らせないとおもっているけど、ホントかな?
人間がつくったストーリーが、実在して、動かせないものとして、
信じている?
「それは、人間がつくった、頭ののなかの考え」と、ハラリさんは
サラリと言ってのけている。
明快過ぎて、ちょっとオタオタしてしまう。
それらが「人間の考え」に過ぎないなら、いくらでも変えていける。
それらのストーリが、人間に幸せを齎しているかどうか。
齎していないなら、もっと人間向きにつくりかえることができる
はず。
現人類は、脳と知能に関するわれわれの理解はふかまっている
けど、意識とか心にたいする理解はほとんど進んでいないと
と分析する。
ぼくも、根拠ははっきりしないけど、そう見える。
いまだ、人と人のあいだの争いが解明されていない。
国と国との戦争や民族同士の戦いが止まることがない。
飽きるほど食べられる人たちがいる一方、飢餓でなんとか
暮らしている人たちがいる。
脳や知能が発達し、科学技術が進歩しても、未だに手がついて
いない分野があるというほかない。
こんなこと、山の上の眺望を見ながら、すべてイメージした
ことではないけど、たまに日常から離れて、こんな位置に坐って
みるのもわるくないなあと思った。
その午後は、車は使わず、小1時間下り坂を歩いた。
勝手に脚が進んでいくので、脚にブレーキをかけながらでした。
ちょっと、疲れた。
途中、息子が車で追いかけてくれて、無事拾ってもらって
下界のわが家に帰宅した。