テレビで馴染みの人(特に高齢の人)が亡くなるのは寂しいし、複雑な思いがよぎる。つい我が身を振り返ってしまうから。
17日に、俳優の西田敏行さんが東京都内の自宅で亡くなっていたことが報じられた。享年76(まだ若い!じゃない)。西田さんと言えば『釣りバカ日誌』や『ドクターX~外科医・大門未知子~』が代表作なのだろうが、私は残念ながら見ていない。大昔に『池中玄太80キロ』を見て、なんとも温かみのある俳優さんだと印象深かったが、SmartFLASHによれば、仕事終わりにも若手スタッフを誘って飲みに行き、店にいた客とも気さくに言葉を交わすようなお人柄で、いつも楽しく愉快な宴席だったという。
幅広い役柄をこなされた役者さんで、大昔に見たNHK大河ドラマ『おんな太閤記』の秀吉役も印象に残る。三谷幸喜氏によれば、大河ドラマ『功名が辻』では家康役を演じたので、「あと信長をやったら『三英傑』完全制覇」だと言って、信長役を志願されたそうだが、「そう言われたんですけど、ちょっと難しいんじゃないですかねって。ちょっとキャラクターがね。あと、年齢的にもね…。お断りしました」と明かされた。確かに、サルとタヌキ親父は似合うが(微笑)、冷酷で奇才の信長のイメージは余り合わないかもしれない。『もしもピアノが弾けたなら』も彼らしい温かさに溢れた曲・・・というより彼が歌ったからこそ、そう感じるところがある。東日本大震災のときは、復興CMへの出演や東日本大震災・原子力災害伝承館のナレーションを務めるなど、地元の復興のために奔走されたそうだ。言葉は福島(郡山市出身)訛りなのだろう。私には判別できないが、そこがまた彼の独特のキャラクターをほんわかと温かく包んでいたように思う。稀有な役者さんだった。
ちょっと遡るが11日には、声優の大山のぶ代さんが9月29日に老衰のため亡くなっていたことが分かった。享年90。言わずと知れたドラえもん役で、間延びして、やや拍子抜したような独特の口調は、未来から来たネコ型ロボットらしい突き放した冷たさの中にも、えも言われぬ愛らしさを感じさせたものだ。1979年4月の開始から2005年3月に降板するまで、実に26年間にわたって大役を務めてこられたそうだ。2005年4月以降は『ドラえもん』を見ていないので、私の中では大山のぶ代さん=ドラえもんのイメージが定着している。
島田裕巳氏によれば、「特殊な能力(=ドラえもん)を与えられた人間(=のび太)がそれを乱用し、最後にそのむくいを受けるというパターンは世界の伝統的なおとぎ話のパターンであり、それを取り入れることで長い間人気を保ってきた」と分析されている(Wikipedia)。なるほど、そういうことか。大山のぶ代さんが登場するとき、「ぼく、ドラえもん」と喋る(喋らせられる)と盛り上がるそうだ。ドラえもんは、マレーシアやオーストラリアに駐在したときにも、本屋で漫画を入手することができた、日本が世界に誇る国民的漫画・アニメの代表作で、自分の子供(や孫)にも安心して見せられるものとして親子(孫)で楽しむという意味では、この26年間に大山のぶ代さん=ドラえもんに馴染んだ人は日本の人口のかなりの割合にのぼるだろう。国民的声優なのだ。
不思議なもので、音の記憶はいつまで経っても鮮明である。「ぼく、ドラえもん」という声とともに、ドラえもんの笑顔が目に焼き付いている。親子(孫)の目の前に現代のお伽噺を紡いでくれたことに、感謝の気持ちしかない。