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失われた世界34の都市

2013年04月22日 | 世界びっくりニュース

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 自然災害、あるいは戦争などの人為的災害、ゴーストタウンと化した都市は世界各国に多数存在する。元凶がなんであれ、これらの都市は数世紀後に再び発見されるまでの間、人々の記憶から忘れ去られていたのだ。

34.カルタゴ


 かつて現在のチュニジアに位置したカルタゴは、フェニキア人入植者により建設され、地中海地域の主要な都市国家としての支配力を持った。シラクやローマとの対立が数度の侵略戦争を生み、その中でもスキピオ・アフリカヌスに率いられたローマの侵攻は目をみはるものがあった。

 紀元前146年にこの都市はローマ人に滅ぼされた。その後ローマ人はカルタゴ市内を一軒一軒回って破壊や略奪を行ったり、人々を捕虜や奴隷にした後、この都市を炎上させた。しかしローマ人はカルタゴを再建し、それは帝国で最大かつ最重要な都市の一つになった。新しいカルタゴは紀元698年アラビア人の侵攻を受けて二度目に破壊されるまでの間は重要な都市として残っていた。

33.シウダー・ペルディーダ


 スペイン語で"失われた都市"を意味するシウダー・ペルディーダは、コロンビアのシェラネバダの古代都市。紀元800年頃に建設されたと考えられている。この都市の山の斜面につくられた台地が連なり、タイル張りの道は網の目のように広がって小さな円形の広場がいくつかあった。この地の部族達はこの都市をティアーナと呼び、彼らの祖先が住んでいた村々のネットワークの中心部、タイロナだったと考えていた。この都市はスペインによる侵略の最中に滅びたようだ。

32.トロイ


 トロイは現在のトルコ北西部の伝説の都市。ホローメスによる叙事詩、イーリアスで知られるようになった。イーリアスによると、この地域はトロイア戦争の舞台となった。トロイの遺跡には残骸の層がいくつか含まれている。その中の第VII層が、ホメーロスのトロイによって記された紀元前13世紀中期から後期に相当するのでは、と考えられている。

31.スカラ・ブレイ


 オークニー諸島のメインアイランドにあるスカラ・ブレイはヨーロッパの中で最も保存状態が良好な石器時代の集落の一つ。1850年に巨大な嵐がこの遺跡の姿を露出させるまで、何百年もの間砂丘に覆われていた。数戸ある住居は、この集落が放棄されてからほぼ直後に砂で満たされたため、石壁は比較的良い状態で保たれていた。またこの島には樹木が無く、家具類は石造りに限られたこともその理由の一つだ。およそ紀元前3180年から2500年に人々はここで生活を営んでいたが、その後の気候変動で寒さや湿気が高くなり、居住地はその住民によって放棄された。

30.メンフィス


 紀元前3100年頃に建てられた古代エジプトの首都、メンフィスは、上エジプトと下エジプトを統一した王である、メネスの伝説の都市。メネスが支配した土地と、上エジプトとナイル川のデルタ地帯の間の水路のあるメンフィスは、初期の頃は要塞都市のようだった。しかしその後ヌビア、アッシリア、ペルシア、そしてアレクサンドロス3世の率いるマケドニアによって次々と侵攻される。宗教的な中心地としての重要性はキリスト教の台頭とそれに続くイスラム教によって弱められた。紀元640年のエジプトのムスリム侵攻後、この都市は見放された。その残骸の中にはプタハの大神殿や王宮、そしてラムセス2世の巨像があり、メンフィスの埋葬地ネクロポリス、サッカラに残されている。

29.カラル


 ペルーのスーぺ谷にあるカラルは、アメリカ大陸で失われた都市の中では最古の一つ。およそ紀元前2600年から2000年の間住民が生活していた。3,000千人以上が定住したとされ、ノルテ・チコ文化時代の都市の中でも最大級だった。そこには中央の巨大な広場の周辺に6つの丘が配置してある公共スペースがあり、スーぺ谷にある他の都市も同じつくりをした小さな丘やストーンサークルがあった。このことから、カラルがこの文明の中心だったことが推測できる。

28.バビロン


 メソポタミアの古代帝国バビロニアの首都バビロンはユーフラテス川のそばにあった。紀元前1180年頃その都市は無政府状態に陥ったが、紀元前9世紀以降はアッシリア帝国の属州としてふたたび栄えた。バビロンの鮮やかな色や豪華さは、伝説の空中庭園を建設したとされているネブカドネザル(紀元前604-562年)の時代として世に知られるようになった。現在この有名な都市の遺跡は全て泥レンガ造りの建物の残骸や破片になり、イラクに流れるチグリス川とユーフラテス川の狭間の肥沃なメソポタミア平野に残っている。

27.タキシラ


 パキスタンの北東部にあるタキシラは、紀元前518年にペルシアのダレイオス大王に併合された古代都市。紀元前326年、アレクサンドロス大王に引き渡された。時代の征服者達に次々と統治され、この都市は有力な仏教徒の中枢となった。紀元1世紀には使徒トマスがこの都市を何度も訪れたという。三大交易路の交差する位置にあったことが古代タキシラに繁栄もたらした。しかしその交易路が衰退するにつれ、この都市も廃れた。その後5世紀に入り、フン族によって滅ぼされた。

26.スコータイ


 スコータイはタイ王国の初期に存在した最も重要な歴史的都市の一つ。元々はアンコールを首都としたクメール帝国内の地方都市だったスコータイは、13世紀に独立して最初のタイの連合州の首都となった。その古代の街では80,000人ほどの人々が生活していたという。その後1351年、タイ王朝の強力なライバル都市としてアユタヤが台頭し、スコータイの影響力は衰え始める。そして1438年、その街は征服されアユタヤ王国に併合された。スコータイは15世紀の後期から16世紀初頭まで放棄された。

25.ティムガット


 ティムガットはアルジェリアにあったローマの植民都市で、およそ紀元100年にトラヤヌス帝によって建設された。当初、およそ15,000人の住民のために建設された都市は、急激に拡大し、本来の碁盤目状の区画を超えて広がっていった。5世紀に入りこの都市はバンダル族に略奪され、2世紀後にバルバル人に侵攻された。この都市は1881年に発掘されるまで、ローマ帝国の歴史から消えていた。

24.モヘンジョダロ


 紀元前2600年頃に建設されたモヘンジョダロの位置は現在のパキスタンにあたり、世界でも早期に形成された集落都市の一つだった。"古代インダス文明"として扱われこともある。完璧なパターン設計を用い、計画的に区画整理がされていた。この都市の最盛期にはおよそ35,000人の住民がいた。都市の建物は特に文明的で、泥を焼き、天日干しした同じサイズのレンガと焼きを入れた材木でできていた。1920年代に発見されるまで、モヘンジョダロとインダス文明は紀元前1700年頃の歴史から消滅していた。

23.グレート・ジンバブエ


 石の遺跡の複合体であるグレート・ジンバブエ。この名が付けられた理由は、現在のジンバブエあたりに広がっていたこと、広い範囲に渡って存在する何百もの小さな遺跡と区別するために"グレート"が付加された。11世紀にバンツー族によって建造が開始され、作業は300年以上続いた。最盛期のグレート・ジンバブエには18,000人もの人々が生活していたとされている。その勢いが衰え、最終的にこの地が見放された原因は貿易の減少、政治の不安定や厳しい食糧難、そして気候の変化による水不足のせいだ、という説がある。

22.ハトラ


 パルティア帝国の影響下にあり、アラブ王国最初の首都でもあった広大な要塞都市ハトラは、幾度もあったローマ帝国の襲来に対し、その塔で補強された高く厚い壁で耐えしのいだ。しかし紀元241年、ササン帝国ペルシャのシャープール1世によって陥落され破壊された。イラクにあるハトラの遺跡の中でもとりわけローマの建築様式と、ギリシャのヘレニズム様式が東洋の装飾的な特徴と融合した寺院は、この文化の偉大さを証明する。

21.サーンチー


 サーンチー遺跡は1千年以上の建築史を持つ。紀元前3世紀の仏舎利を納めるための建物(卒塔婆)を始めとし、紀元10世紀または11世紀の仏教徒の寺や修道院までが遺跡の中に横たわる。インドで仏教が衰退した後の13世紀、サーンチーは放置されてあっという間に密林と化した。この失われた都市は1818年、イギリス人士官によって発見された。

20.ハットゥシャ


 ハットゥシャは紀元前17世紀、ヒッタイト帝国の首都となった。しかし紀元前1200年頃に青銅器時代の崩壊時に帝国と共に破壊され、その後この遺跡は捨て去られた。この都市の最盛期の人口は40,000から50,000人だったと推定されている。木材と泥レンガで造られた移動式の住宅など跡形もなくなくなってしまったが、石造りの寺院と宮殿の遺跡はかろうじて残されている。この遺跡は20世紀初め、トルコの中央部でドイツの考古学者達に再発見された。最も重要な発見の一つになっているのは規則や手続き、そして古代近東地域の文学などが刻まれていた粘土製の板だ。

19.チャン・チャン


 ペルーにあるれんが造りの広大な都市、チャン・チャンは、コロンブスアメリカ到達以前で最大の都市だった。建物は日干しれんが製で、仕上げには泥を使い、そこにはしばしばアラビア風の模様が浮き彫りで施されていた。この都市の中心には数枚の壁で囲まれた要塞があり、中には儀式用の部屋、埋葬室、そして寺院が設けてあった。紀元850年代にチムー王国によって建てられ、1470年、インカ帝国によって侵略されるまで存続し、約30,000人の人々が生活を営んでいたと考えられている。

18.メサ・ヴェルデ


 メサ・ヴェルデはコロラド州南西部に位置し、断崖に造られた古代アナサジ族の住居が集まっていることで有名となった。12世紀、アナサジ族は奥行きの浅い洞窟の中や、その峡谷の壁に沿って張り出している岩の下に住居を造り始めた。中には150もの部屋を有する住居もあった。1300年には彼ら全員がメサ・ヴェルデから去ったが、その遺跡はほぼ完璧な状態で残った。彼らの都市放棄の理由については依然として不可解な謎がある。仮説は様々で、干ばつによる農作物の凶作説から北方の部族の侵入説まで幅広くある。

17.ペルセポリス


 ペルセポリスは強大なペルシア帝国の中心であり、儀式用の都市だった。高価な工芸品で装飾が施された美しい都は、残念ながら今ではほとんど残っていない。紀元前331年、アレクサンドロス大王によるペルシャ帝国侵攻の際、アテネのアクロポリスの焼失の報復としてこの都市は炎に包まれ焼け落ちた。大マケドニア帝国の属州として、ペルセポリスはペルシアの首都のままだったが徐々に衰退していった。

16.レプティス・マグナ


 現在のリビアに位置するレプティス・マグナはローマ帝国の中でもひときわ優れた都市だった。この地にあった天然の港は地中海の重要な拠点であり、サハラ砂漠の貿易の中心としてこの都市の発展を促し、肥沃な沿岸地域は農産物の市場となった。この地で生まれてローマ皇帝に君臨したセプティミウス・セウェレス(在位期間193-211)が都市の強力な後援者になり、彼の指導のもとに大規模な建設計画が開始された。その後数世紀が過ぎ、ローマ帝国の財政難が悪化したことでレプティスの勢いは衰え始めた。642年のアラブ人による征服後、この都市は廃墟となり、数世紀の間砂に葬られていた。

15.ウルゲンチ


 ウズベキスタンのアムダリヤ川周辺に築かれたウルゲンチは、シルクロードの通過点にある大都市の一つだった。この都市の黄金期は12世紀から13世紀初期で、中央アジア帝国ホラズムの首都として栄えた。しかし1221年、ウルゲンチはチンギス・ハーンに破壊された。若い女性達や子ども達はモンゴルの兵士に奴隷として引き渡され、残されたの住民は虐殺された。この都市はチンギスによる破壊後に復活するが、アムダリヤ川のルートが急に北に移動したために住民達は永遠にこの場所を去ることを余儀なくされた。

14.ヴィジャヤナガル


 ヴィジャヤナガルはかつて人口500,000人を誇る、世界でも有数の大都市だった。特にヴィジャヤナガル帝国の最盛期、14世紀から16世紀にかけて都市は繁栄した。この期間中、帝国はたびたびムスリムの国と戦っていた。1565年、帝国軍がムスリム軍に大敗し、都市は引き渡された。勝利したムスリム軍は数ヶ月に渡って徹底的な破壊や虐殺を続け、都市とヒンドゥーの寺院を破壊していった。以後この都市は、存在し続けたにも関わらず、本来の首都ヴィジャヤナガルは再び支配されることも再建されることもなかった。

13.カラクムル


 メキシコはカンペチェ州の密林内部に隠されたカラクムルは、現在までに発見された最大のマヤ都市だ。カラクムルは同盟国とのネットワークを使って包囲網を築くことで、当時絶大なる権力を持っていたティカルに対抗することができた勢いのある都市だった。6世紀後半から7世紀末にかけてカラクムルはティカルを完全に潰すには至らなかったものの優勢になった。ところが、紀元695年、ティカルの総攻撃により情勢は再び逆転する。その後最終的に両都市はマヤ崩壊の余波で消滅していった。

12.パルミラ


 ローマ帝国の属州シリアの地中海の港と、ペルシアにつながるキャラバン隊の通過するルート沿いにあったパルミラは、何世紀にもわたり、貿易都市て栄えていた。212年の始め、ササン朝ペルシアがチグリス川とユーフラテス川の河口を占領したため、パルミラの交易は縮小された。都市をササン朝の威嚇から救おうと、ローマ帝国のディオクレティアヌスが壁を築き都市を拡張した。634年、パルミラはアラブ帝国のムスリムによって占領されたが、都市は無傷で保たれた。オスマン帝国の支配下におかれたパルミラは衰退し、ただのオアシスの村落程度に小さくなった。17世紀西洋の旅行者によってこの地が再発見された。

11.クテシフォン


 6世紀、クテシフォンは世界でも有数の大都市の一つに数えられ、古代メソポタミアの有力な都市でもあった。その重要性から、軍事的目標としてまずローマ帝国に占領され、さらに時を経てビザンティン帝国(東ローマ帝国)にも侵攻され、合計5回も占領された。イスラム教徒によるペルシャ帝国侵攻の際、クテシフォンはムスリム軍により陥落した。8世紀にアッバース朝の首都がバグダッドに築かれた後、この都市は急速に衰え、まもなく廃墟になった。クテシフォンは「千夜一夜物語」の中に登場する都市、イスバニールの元になったと考えられている。場所はイラクに位置し、現在見ることができる遺跡はホスローのイーワーン(ホスロー1世の宮殿の一部)の大きなアーチのみである。

10.ハヴァルセー


 ハヴァルセーは、グリーンランドに3つあったヴァイキングの居住地の中でもっとも大きな東の居住地。紀元985年頃、アイスランドから来たノルウェー人の農民達が定住した。最も栄えた時期には約4,000人の住民が住んでいた。14世紀半ば、西の居住地は無くなったが、東の居住地その後60年から70年間存続していた。1408年、ハヴァルセー教会で結婚式が行われたという記録があるが、それが最後の情報になっている。

9.アニ


 東西のキャラバン隊の交易ルートに沿いにあったアニは、紀元5世紀に台頭した後、にぎやかな街に成長して10世紀にはアルメニアの首都になった。この時期、中世の建築様式の優れた建築物を含め、多くの教会が建てられ、"1001の教会がある都市"と謳われた。最盛期のアニには10万から20万人もの住民が暮らしていた。13世紀にモンゴルが侵攻し、1319年の壊滅的な大地震が起こるまでは、アルメニアの代表的な都市だったが、交易ルートの移動により衰退の一途をたどった。最終的にこの都市は廃墟になり、数世紀もの間忘れ去られていた。アニの遺跡は現在のトルコにある。

8.パレンケ


 メキシコのパレンケはマヤに存在した他の失われた都市よりも規模が小さかったが、そこにはマヤが生み出した優れた建築物と彫像が多数存在していた。パレンケの建造物の多くはおよそ紀元600から800年に造られたものだ。この都市は8世紀中に滅んだとされている。農業を営む人々は数世代の間そこに住み続けたが、その後この都市は捨て去られ、森に覆われ風化していった。

7.ティワナク


 ボリビアにあるチチカカ湖の南東の湖畔そばにあったティワナクは、インカ帝国の先駆者の遺跡の中で最も重要なものの一つに数えられている。紀元前300年から紀元300年まで存続したティワナクは文化と宇宙の中心であり、多くの人々が礼拝に訪れたと考えられている。その共同体は7世紀から9世紀の間に都市レベルの人口に達し、南アンデスの要所として成長した。最も栄えた時期には1万5千から3万人の居住者がいたとされているが、最近の衛星画像で、さらに多かった可能性があると指摘されている。紀元1000年頃、大規模な気候変動によって、帝国に権力の象徴である食糧生産が困難になり、消滅していった。

6.ポンペイ


 紀元79年8月24日、ヴェスヴィオ火山が噴火し、火山灰や土砂が近隣の都市のポンペイを覆った。その悲劇が起きた日の状況のまま都市は幕を閉じた。壺やテーブル、絵画などありとあらゆるものに加え、人々の時間も止まったまま固められてしまった。ポンペイはヘルクラネウムの街と共に放棄され、ついにはその地名や場所も忘れ去られた。この地域が発掘調査で発見されたのは18世紀のことだった。火山灰に埋もれたまま時が止められたこの都市は、通常では想像できないほど細かい部分まで、2千年前の人々の暮らしの様子を伝えている。

5.テオティワカン


 紀元前2世紀、メキシコの渓谷で新たな文明が生まれた。この文明は活発な大都市テオティワカンと巨大な階段付きピラミッドを築いた。紀元6世紀に起きたテオティワカンの人口の減少には、気候変動による長期の干ばつが関係していた。テオティワカン帝国の消滅後およそ700年が過ぎ、アステカ族がそのピラミッドを崇拝して活用し、巡礼地になった。

4.ペトラ


 時の刻みと同じくらい古い、薔薇のように赤い都市"の伝説をもつペトラは、ナバテア王国の首都だった。広大で独特な都市は数世紀前、ナバテア族によってヨルダンの南にあるワディ・ムーサ渓谷の側面に築かれ、中国、インドそしてアラビア南部とエジプト、ギリシャ、ローマに通じるシルクとスパイスの道の重要な中継点になった。幾度にもわたる地震が水の管理システムに障害をもたらした後、6世紀にはほぼ完全に捨て去られた。十字軍の遠征後、1812年にスイスの旅行家ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトに再発見されるまでの間、ペトラは西洋世界に忘れられていた。

3.ティカル


 紀元200年から900年の間、ティカルは人口約10万から20万人を有するマヤの大都市だった。ティカルの人口がピークに達した時、周囲の森林伐採による土壌侵食で、その後の人口は急激に減少した。830年から950年の間にティカルはその人口の大半を失い、中枢としての権威も急速に失墜してしまったようだ。950年以降はほとんど廃れてしまったが、一握りの住民はその遺跡内部の小屋で生き延びた。そんな彼らも10世紀または11世紀にはティカルを捨て去り、その後1000年間、グアテマラの熱帯雨林だけがこの遺跡の住人であった。

2.アンコール・ワット


 カンボジアにあるアンコール遺跡群は、紀元9世紀から15世紀に存在したクメール王国の首都であり、荘厳な遺跡の数々で知られる広大な寺院都市である。この中には単一宗教のモニュメントとしては世界最大の寺院遺跡であるアンコール・ワットと、巨大な人面像の数々で知られるバイヨン寺院(アンコール・トム遺跡内)も含まれる。長い歴史の中で、アンコールの宗教はヒンドゥー教と仏教を行ったり来たりしている。アンコール王朝(クメール王朝)時代は、アユタヤ王朝の侵入で略奪された1431年あたりまで存続したとみられている。その後仏教徒の神聖な崇拝地でもあるアンコール・ワット以外の遺跡群はほぼ全て放棄された。

1.マチュ・ピチュ


 世界で最も有名な失われた都市の一つであるマチュ・ピチュは、数世紀を経て1911年、ハワイ人の歴史家ハイラムによってウルバンバ谷の高所で再発見された。"インカ帝国の失われた都市"は何世紀にもわたって人目に触れず、谷の下からでは全貌が見えなかった。そこは段々畑に囲まれて湧き水が流れ、完全に独立していた。ペルーの地元の人々には知られていたものの、その再発見以前に外界に広く知られることはなかった。

via:34 Lost Cities Forgotten by Time

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