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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

「街の電気屋」さん

2017年07月18日 19時09分33秒 | Weblog

 何日か前から、テレビのBS放送が見られなくなった。BSが見られなくても、地上波放送が見られなくても、楽しみがひとつ少なくなるくらいで、どうってことはない。録画も出来ないし、カミさんに頼んで録画してもらっても見忘れていることが多いから、地上波が見られるなら構わなかった。

 しかし、カミさんは「毎日見ているものが見られないのは困る」と言う。私はテレビよりも電気釜の調子が悪い方が嫌だ。内蔵されている電子機器が壊れたようで、美味しいご飯が炊き上がらない。ベトベトしていて、シンも残る。せっかく美味しいお米をもらっても半煮えのようなご飯は食べたくない。

 ふたりの利害が一致し、付き合いのある「街の電気屋」さんに電話することになった。「電気釜は絶対取り換えた方がいいと言うから、こっちの安いのでどう」とカミさんは言う。「何でも高いものが一番いいと思っているのだから」とけん制された後だから、「ああ、いいと思う」としか答えられない。

 昨日、電気屋さんが来て、電気釜についてはカミさんの予測通り、新品を勧めてきたので、「じゃー、これでいいでしょう」と予め決めていた製品をカミさんが指す。次にテレビだが、「アンテナに異常があるようです」と電気屋さんは調べ始め、長い時間かけて直して帰って行った。ところが今朝になって、やはりBSが見られない。

 今日の午後、新しい電気釜を持って来ることになっていた電気屋さんに、「BSが見られない」とカミさんは電話し、「あなたひとりで大丈夫?きっとアンテナを取り換えよと言うわよ」と言って出かけて行った。電気屋さんは「アンテナが悪いようですね。新しいものを持って来たので取り換えましょうか」と言う。見られない以上取り換える他ない。ところが、アンテナを新品にしたのにBSがやっぱり見られない。

 「ディスクレコーダーもダメですね」と言う。それでは録画が出来ない訳だから、すぐ新品に取り換えるべきだが、ちょっと高額で、私が単独で決められる金額ではない。「分かりました。事情を説明しておくので、明日また電話します」と答える。不具合が生じる時はいつも一度にやって来る。老人世帯には痛い出費になりそうだ。

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民進党が受け皿にならない理由は

2017年07月17日 17時56分15秒 | Weblog

 アメリカでオバマ大統領が誕生した時、「私と同じ歳ですよ」と言った47歳の彼は、1期目の地方議員だった。「無党派・市民派の勉強会」のメンバーで懇親していた席だったと思う。欧米では若くして大統領や首相になるが日本にはその土台がない。年配者を敬い遠慮するところが日本人にはある。年配者に言わせれば、「最近の若い者は先輩を立てない」ようだが、私はそんなことはないように思っている。

 昨日、選挙の応援に行っていた最中に、高校の同級生から「学校の正門が登録有形文化財に指定された」とメールが届いた。母校の正門は大正12年に竣工されたもので、県下には同じように建てられた正門がまだ他にもある。私の父も兄も同じ学校の卒業生だから、この正門を通ったのかと思うとヘンに嬉しい。私が通った小学校はもっと古い明治6年の開校で、私たちが6年生の時に学んだ校舎も登録有形文化財に指定され、今は市郷土資料館になっている。

 古い建物や習慣などを大切にすることと、新しいものやことを作り出すことは、矛盾しないはずだがなかなかそうなっていかない。東京都議選挙は自民党の大敗だったが、同時に民進党の敗北でもあった。自民党の惨敗が民進党の躍進にならなかった原因が党内で、蓮舫代表の二重国籍にあると論議されている。この程度の低さこそが国民から受けない原因だ。自民党に代わって民進党に政権を任せたい、信頼できる議員が民進党にいない。

 FBに、「民進党の衰退は、国民に求められていないから。今のままの民進党は自民党に敵対する勢力にもなりきれない。自由党の山本太郎一人の方がよほど正論を吐くし、反自民の受け皿になれる」と山本太郎支持が載っていた。「民進党は自民党と同じように利権へのしがらみが有り、(略)国会内でも追求の言論の力の無さを露呈した」と説き、「野田を引退させ、小沢を三顧の礼を尽くして迎え入れ、自由党・共産党と手を結んで反自民の受け皿を誕生させなければならない」と結んでいた。

 またしても小沢一郎さんの登場には、「年配者を敬う」気持ちの私でも疑義があるが、確かに転換する時期かも知れないとは思う。『週刊ポスト』が落選運動を提唱していたけど、どんなことをするのだろう。

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猛暑の中の選挙

2017年07月16日 18時48分36秒 | Weblog

 暑さの中の選挙は体力勝負でもある。「ぜひ、来てください」と言われ、「議員でもないし、何の役にも立たないよ」と答えると、「にぎやかしでもいいので」と馬鹿正直に言われ、朝早くから出かけた。彼とは何年の付き合いになるのだろう。私が地域新聞を発行していた時、彼は読売新聞の記者として取材に来ていた。それから何年か経て、私が議員の時、友人と立ち上げた「無党派・市民派の勉強会」に現れ、彼の方が覚えていてくれて声をかけてきた。

 最初の選挙の時は前の晩からホテルに泊まり、事務所へと向かった。彼と2人のウグイスさんしかいない。タクシーを使用しての選挙だったので、運転手は車に乗ったままだった。出陣とは言えない出発式で街宣に出たが、ウグイスさんは選挙慣れしていたから、ウグイスさんが中心で、彼が時々言葉を添える形だった。このままでは有権者に立候補の意思が伝わらないと修正してもらったが、何が何でも自分を前面に出す積極性は最後までなかった。

 それからは、地道な努力を惜しまない人柄の良さもあって15年も議員生活を送っている。今日も一緒に回ってみると、街宣車の声を聞きつけ、家々から人が出てきてくれる。圧倒的にお年寄りが多いのはやはり15年間、真面目に議会だよりを配布して回ってきたからだろう。辻々に立ち、汗を流して演説をする姿も共感を呼ぶだろう。窓も開けず、車から降りて演説もせず、ひたすら街宣車を走らせる候補者もいたので、誠意の違いがハッキリ見える。

 そう、彼は真面目だ。定数28人のところに33人が立候補し、新人が14人もいる。ポスターを見ても若い人が多いし、女性も目立つ。「私は15年、市政を見て来た。新人では市政や議会の問題点が分からない」とベテランであることを強調するが、それでは新人いじめで、自分の良さを売り込むことにはならない。市政の問題点と議員としてどう取り組んできたのかを明らかにし、「しがらみのない、問題と常に積極的に取り組む議員が必要なこと」を訴えて欲しい。

 選挙は立候補者にとっては、日頃の地道な努力が花開くための最後の勝負である。暑さに負けず、最後の最後まで頑張って欲しい。「にぎやかし」にもならなかったかも知れないが、来て欲しい人が来ないのは寂しく精神的にもよくないから、顔を見せただけでも心を満たすことにはなったのかも知れない。

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猛暑の中、怒鳴り声が続く

2017年07月15日 17時11分24秒 | Weblog

 こんな猛暑の中でも、コーチの鋭い指示が飛んでいた。「もっと後ろだろう。早く走れ」。「よし、いいぞ、いいぞ」。グランドを走り回る子どもたちも大変だが、指導するコーチもこの暑さは嫌だろう。今日は異常なほど暑い。「何度も言わせるな」「バカか」「よく考えてみろ」「そんなことも分からないのか」「気持ちなんだよ。気持ち!」。矢継ぎ早に男性が怒鳴る怖い声が飛んできた。

 グランドとは別の方向だ。路上で親が子を叱っているのかと思ったが、どうも開け放された家の中からだ。怒鳴り声は30分も続き、次第に言葉はきつく感情がむき出しになってくる。どこの家だ。誰か近所の方、止めなくてもいいのか。最近、自分の感情をコントロール出来なくなっている人が多い。大丈夫だろうか。こんな暑い日だ。窓を閉め、クーラーをつければ怒鳴り声は漏れないし、いやきっと激高した感情も冷やされるだろうに。

 コーチと選手、大人と子ども、男と女では前者が圧倒的に強い。強い者が弱い者に対する時は、決して暴力を振るってはならないし、威圧的であるのも恥ずかしい行為だ。近頃の親は子どもを叱らないという。叱る親もいるが、そういう親に限って、自分の感情のままだ。親は圧倒的な権力を持っているから、教え諭すことが親の役割だ。学校でも若い先生の中には愛称で呼んでいいと言う人までいる。先生と友だちの区別はつけないと教え諭すことは出来ないだろう。

 やたらと権威を振りかざしても、やたらと友だちレベルになっても、教育は難しい。学生運動に続いて、市民運動を長く続けてきた友だちがいる。息子から古希の誕生日に酒が送られてきたので、お礼の電話をすると、「オヤジ、もういいだろう」と言った。「どういう意味だと思う」と友だちが聞くので、「もう休んでもいいよということだろう」と答える。「酒を送るのはもういいとは違うよな。そういうことを言われる歳になった」と笑う。いい親子じゃーないか。

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谷村新司コンサート

2017年07月14日 18時22分48秒 | Weblog

 クラシックの音楽会とか、合唱団の発表会とかに出かけたことはあったが、有名な歌手やグループのコンサートに出かけたことがなかったのだと思い知らされた。市民会館の前には行列が出来ていた。全席指定席でも早くから行って並ぶのが習慣なのだろう。「谷村新司コンサート」(正式名称は何というのかも最後まで分からなかった)は当然と言えば当然だが、圧倒的に谷村さんと同世代でいっぱいだった。

 夫婦で来ている人たちもいたが、私の前も後ろも7・8人から10人ほどの女性の団体で熱狂的なファンだった。もちろん花束を抱えた中年の男性もいたし、その男性は仲間と一緒に来ているようだった。いつも名演で芝居を観るホールよりも2倍はありそうな大ホールは様々な照明器具がセットされていた。時々、NHKテレビの『うたコン』を観るが、NHKホールよりも大きいのではとさえ思った。

 そしていよいよ谷村新司さんの登場だ。客席からは割れんばかりの拍手が沸き起こり、舞台中央の谷村さんにスポットが当たると一斉に金切り声が飛ぶ。谷村さんは歌いながら、舞台から客席に降りて来て、ひとり一人と握手をしていく。プロの歌手は政治家と同じように、来てくれた人と握手をするのだ。それも丁寧により多くの人と。こういうファンサービスが出来なければ、政治家も歌手も長く続けていくことは出来ないと改めて教えられた。

 私が谷村さんを知ったのはアリスの時代、『今はもう誰も』『冬の稲妻』『チャンピオン』などを出勤する車の中で聞いていたように思う。谷村さんは私よりも4つ年下だから、学生時代は学園紛争の真っただ中だっただろうが、そんな時代が彼らのような歌を作り出したともいえる。フォークソングは反戦歌から始まったが、新しい価値観や美意識を作り出し、それが若者たちに受け入れられた。

 『いい日旅立ち』で始まり、最後は『昴』だったが、初めて聞く歌も多かった。最後のお別れでは私の前後の「オバチャン」たちは総立ちで、手を振り、声をあげていた。きっと満足出来たことだろう。ジイさんの世話も忘れることが出来た至福のひと時だっただろう。

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高校新聞部の集い

2017年07月13日 16時19分30秒 | Weblog

 不思議に思う。人は共有する過去を持っていると、それから半世紀も経ていても、まだ昨日のように話すことが出来る。高校の新聞部で共に過ごした7人で会った。卒業の時のアルバムには女子ひとり、男子7人が写っている。私は1年の後期から編集長を命じられた。書くことは好きで、毎号何か書いていたと思う。男子7人のうちの5人は記事を書いていたが、あとの2人が記事を書いていた記憶がない。

 その2人のうちのひとりが同窓会に来ていると聞いて、参加を呼びかけたところ快く参加してくれた。そこで、「アルバムに載っているけど新聞部だった?」と無礼な質問をしてみた。すると彼も「部員だったのかなー」と言う。「可愛い女の子がいつも居たんで‥」と言うが、新聞部のマドンナは可愛い女性というより男勝りだ。下の学年の女性部員の友だちの女の子が新聞部に出入りしていたから、きっとその子のことだ。

 「ああ、オレの初恋の人」と図々しく言う奴がいる。新聞部の部室の奥に音楽室があって、毎朝、その子はピアノを弾いていた。私はそのため早朝から部室に来ていたが、彼女はみんなに好かれていたのだ。ちょっとひょうきんで、よく笑う子だった。私は彼女に便箋13枚の手紙を書いたが、封も切らずに返された。新聞部には記事も書かない者が出入りしていた訳だが、そんなに人気があったのだろうか。

 私が編集長だった1年の最後の号は卒業特集だった。校長のあいさつ文の隣りの『論説』欄で、「高校生の政治批評は、大人達の心配するようなものでなく、もう少し純粋なものと見てくれないものか。(略)いま少しばかり生徒に言論の自由を―大げさか―である」と主張したものが校長の逆鱗に触れ、私は校長室に呼び出されて「注意」を受け、他校に配布してはならないと命令された。

 そして7月に私たちは『理想の会』を発足させ、自分たちの新聞『理想』を発行し、校門の外で配布した。費用は私たち自身が捻出したが、その記録を私が書き留めていたので、昨日、それを発表した。最高金額600円を提供してくれたのが、今回参加してくれた彼だった。「覚えていないなー」と彼は言うが、共謀罪が施行された今となっては「立派な証拠だ」と大笑いになった。

 今晩は長女からの「父の日」のプレゼント、『谷村新司コンサート』に出かける。

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男の子と女の子の子育ての違い

2017年07月11日 18時19分47秒 | Weblog

 「子どもを可愛く思わない親はいない」。「でも、女の子と男の子では違うみたい。どっちが可愛いと思う?」。「自分の子なのだから、どっちも変わらないでしょう」。「それが、そうじゃーないの。母親はね、男の子はいくつになっても可愛いの!」。我が家は女の子ばかりなので、男の子の可愛さは分からないが、私自身は、私のような男の子は好きになれないから、早く巣立っていけと思うだろう。

 子どもが18歳までは、子育ての責任が親にはあるが、高校を卒業する年齢になれば、社会人として独り立ちしていくものだ。ところが最近の子どもはいつまでも独立しない。ひとり暮らしが出来るほどの収入が得られない「社会の貧困」のためだ。高校の授業料が無償になり、その分、豊かな生活が出来るようになったはずなのに、実態は少しも変わらない。多分、人間は「あればあったように」消費してしまうからだろう。

 子どもたちは生まれた時から、豊かな暮らしの中で育った。高収入という訳ではないが、明日の食事に困るような生活ではない。小さな時から、周りの大人に「可愛い」とか「賢い」とか「いい子」と言われて育ったから、挫折したことがない。悔し涙を流した時があっても、母親が「大丈夫、お母さんがいるから、あなたを守ってあげるから」と抱きしめてくれた。

 息子が仕事で失敗しても、結婚生活が破たんしても、お金を盗まれても、一番に駆け付け、「あなたのことはお母さんが守ってあげる。困ったら、いつでも帰ってくるのよ」と言う。「守る」ことが親の愛情と思っているが、子どもは大人になったのだから、突き放すのが親の愛情である。「子どもがこうなったのは私の子育てがいけなかったから」とまで考えるのでは、「愛情」といより「怨念」だ。

 親子の縁は切って切れるものではない。ましてや、大人になった息子がいつまでも愛おしいのだから、このまま一緒に生きていく以外ないだろう。明日は、高校の時の新聞部の仲間で集う。ひとりっ子を抱えた友だちもいるが、どうしているのだろう。どんな話が飛び出すのだろう。そんな訳で、明日のブログは休みます。

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『ミリーのすてきなぼうし』と『おおきな木』

2017年07月10日 17時37分09秒 | Weblog

 小2の孫娘が教科書に載っている「お話」を全部覚えていると言うので、聞かせてもらった。「ミリーはがっこうのかえり、ぼうしやさんのまえをとおりました」で始まった。私が高校生の時も、友だちの3歳か4歳の姪っ子が「絵本」をスラスラと読むのでびっくりでした。その子のお母さんが、「本当は文字は読めないの。覚えているだけなのよ」と教えてくれたことを思い出した。

 孫娘はもちろん文字が読める。この『ミリーのすてきなぼうし』が好きで、何度も読んでいるうちに暗唱してしまった。自分の孫なのに、その能力にビックリだ。「お話」は、気に入った帽子は高くて買えなかったが、店長さんが「どのくらいのお値段のものがよろしいでしょう」と聞いてくれたので、空っぽの財布を見せると、店長さんはミリーの頭にピッタリの帽子をかぶせてくれた。その帽子はクジャクの羽のついた帽子になったり、ケーキの帽子や花いっぱいの帽子にもなった。

 私は聞いていて、店長が優しい人で本当に良かったと思ったら、不覚にも涙が出てしまった。「凄いね。パパちゃんところにも絵本があるよ」とシエル・シルヴァスタインの『おおきな木』を書棚から持ち出し、「一緒に読んでみようか」と誘う。実はこの絵本は3冊ある。1冊は最初に出たもの、もう1冊は村上春樹訳、そしてもう1冊は英語版である。私が先に読み、続けて孫娘が読む。読んでいるうちに、一緒に読めることの感動と、「おおきな木」の気持ちが重なって、また泣けてしまった。

 「これ、持って行く?」と聞くと、「ウン」と言い、しばらくすると書棚から5冊の本を取り出してきて、「これも持って帰る」と言う。長女がビックリして「それはダメ」と止める。「今はまだ読めないから、読めるようになったら、持って行っていいよ」と慰める。「持って帰る」と言った本は『聖書』、ヒラリーの『リビング・ヒストリー』、大江健三郎の『われらが文学』、スティーヴン・ジェイ・グールドの『ぼくは上陸している』、岸恵子の『わりなき恋』だった。

 書棚の高いところにあったのに、どうしてこれらを選んだのだろう。あの子がこれらの本が読めるようになるのはいつ頃なのだろう。

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混声合唱団の発表会は満席だった

2017年07月09日 18時11分16秒 | Weblog

 知り合いがたくさんいるこの街の混成合唱団の発表会があった。チラシの写真がよかったが、目を引いたのはそれだけではなく、朗読のところに知っている人の名前があったから、ぜひ、行かなくてはと思った。私に頼みがあると言う友だちに電話すると、彼も「行くからそちらで会おう」と言う。

 受付に列が出来ていた。ロビーで待っていてくれた友だちとホールに入るとすでに多くの人がいた。「入場料を500円取るようになって、俄然、入場者が増えた」と友だちが教えてくれた。「発表会の度にレベルアップしている」とも言う。私は入場料を取ることになったのも知らなかったから、久しぶりの来場ということになる。

 1部は美空ひばりの曲だったが、合唱で歌うとこういう感じになるのかと思いつつ、これもまたいいと思った。2部が合唱組曲『山に祈る』で朗読が加わり、いっそう重厚なドラマ仕立てになっていた。隣の友だちは「音楽会で眠るのは、心地よいからで失礼にはならない」と言っていたが、しばらくすると眠りについた。私は逆で、無理をして山に向かった大学生の遭難劇が見えるようで、目が爛々と輝いてきた。

 息子を思う母、母に済まないと凍り付く手で手紙を書こうとする息子、迫りくる死、山の美しさと吹雪の怖さが目の前に迫る。3部はミサ曲ハ長調で、モーツァルト作曲のミサ曲をドイツ語で歌った。ゲストに4人のプロ歌手を迎えた今回の発表会のメインだが、なぜドイツ語で歌うのかと私は思ってしまった。讃美歌でも日本語訳はある、その方が歌の意味が理解できるのにと。

 かなり長い発表会で会ったが、終わってみればアッという間だった。会場は満席で、この街の音楽ファンの多いことの証だ。隣の市でも女性コーラスの発表会が同時間に行われていたから、そちらへ出かけた人も多くいたはずだ。音楽会とか、講演会とか、たくさんの人々がやって来るのは、「この街の文化レベルが高い証拠」と友だちは胸を張る。

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「つもり」は言い訳でしかない

2017年07月08日 21時53分11秒 | Weblog

 九州は大雨で被害も出ているというのに、この地方は真夏の暑さだ。昨夜は名古屋城の能楽堂で行われたチャン・ビンさんと娘さんによる『親子で贈る二胡 七夕のゆうべ』に出かける女性たちの運転手を勤めた。この演奏会も10年になるという。昨夜は記念の演奏会というので、中国から西洋楽器の演奏者も参加し盛大に行われたようだ。

 私は彼女たちを能楽堂に届け、帰宅するとすぐに花に水をやり、酒のつまみになるようなものを1品か2品作ろうと考えていた。迎えに行くまで1時間半あるから充分余裕があるはずだった。ところが実際に水やりが終って時間を見ると7時半を過ぎていた。8時前にここを出ないと間に合わないかも知れない。つまみ作りは諦め、再び能楽堂へ向かった。

 幸い駐車スペースはあった。ところが8時半になっても誰も出てこない。待つこと30分余り、やっと人影が見える。圧倒的に女性が多い。若い人よりも年寄りに人気があるようだ。3人の女性は「ごめんなさい。とってもよかったの。8時半には終わったんだけど、アンコールが凄くて。チャンさんの娘さんが本当に可愛かった」とまだ興奮した様子で話す。

 私は、「料理を用意したので、ウチで一杯やりませんかと言うつもりだったのですが‥」と話す予定でいたが急に母が現れて、「つもりというのは出来ていないこと。出来ていないことなど言う必要はありません」と叱られ、口に出せなかった。「つもりはただの言い訳です。男は言い訳をしてはいけません」と母はよく言っていた。

 安倍首相が秋葉原で「帰れ」コールを受けて、「こんな人たちに負ける訳にはいきません」と叫んでいたことを思い出した。『中日春秋』が「この」と「こんな」では大きく意味が違うと書いていたが、その通りだ。「こんな」の言葉に続くのは蔑みの言葉しかない。「そんなつもりではない」と言っても、「つもりはない」はただの言い訳と母は見抜いていた。

 出来たことだけを言い、出来なかったことを「つもり」と言うのはやめよう。真っ正直な母を納得させるには真っ正直でいくしかない。いくつになっても母は怖い存在である。

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