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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

「神は越えられない試練を与えない」

2014年10月04日 18時00分50秒 | Weblog

 「神は決して、越えられない試練を与えない」と先輩は言う。先輩はキリスト教徒ではないが、いつもいいことを言う。誰かが反論すると、「それは荷が重過ぎるのではない。努力が足りないのだ。努力もせずに、不幸だと嘆く者はますます不幸になる」と、まるで神様のお告げであるかのように言う。誰も不幸にはなりたくないし、進んで困難に立ち向かいたくない。けれど誰にでも波はやってくる。

 テレビは御嶽山の爆発で亡くなった人々を報じている。それぞれがそれぞれに人生を生きてきたと痛感する。それがある時、突然に消えてしまう。誰が悪いわけではない。むしろ生きていたならきっとさらに素敵な人生を送っただろうと思う。自然は止めることが出来ない。止めることが出来る人の行為もなぜか止められない。人殺しは罰せられるのに、戦争は罰せられない。戦争裁判があったと言うけれど、それは第2次世界大戦からで、それまでは戦勝国が全てを支配した。

 戦争裁判は戦勝国の勝手な裁判だと批判するが、それが当然だったので、第2次大戦では殺し合いを正当化するために行なわれた。学生の時、共産党系の学生が「戦争には侵略戦争のような悪い戦争と、自国を守るための正しい戦争がある」と言っていた。野坂参三議員が吉田茂首相に向って展開した論理だ。日本の軍部も欧米の支配から国を守る戦争だと主張していたのに、何を馬鹿なことを言うのか、それでは戦争を美化してしまうと思った。

 キリスト教に興味を抱いていた私は、なぜアメリカはベトナムを攻撃するのかと、牧師に尋ねたことがある。アメリカには原始キリスト教への回帰を求め、ヨーロッパから理想の国を目指して移って来た人々がいる。良心的兵役拒否は確かにあったが、その代わりに戦争を支援する税金や課徴金を支払うことになったというから、反戦運動にはならなかったようだ。イラクやシリアへの空爆を阻止できるのはアメリカ国民でしかない。自国の軍隊が出動するのを止めることが出来るのはその国の国民だ。

 香港では大勢の人々が座り込みを行なっている。それで願いが実現できるなら、先の見通しは明るい。新しい形で、政治のあり方を変える、その萌芽が生まれているわけだ。「神は決して、越えられない試練を与えない」。そう思って進むしかない。

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湖北巡り

2014年10月03日 18時26分42秒 | Weblog

 誘われて湖北の寺を巡ってきた。NHKドラマ『黒田官兵衛』にも出てきたはずの、というくらいにしか見ていないわけだが、秀吉が柴田勝家と戦った賤ケ岳がどんな山だったのか見てみたいと思った。幸い頂上へはリフトで行くことが出来た。登ってみるとけっこう高い。北に余呉湖が真下に見え、西に琵琶湖がやや遠くに見える。平日だから人影もまばらだが、定年退職後と思われる夫婦に出会った。夫婦はレンタル自転車でこの地を回っているようだ。台風の到来が心配だったが、雨に降られることもなかったのは心がけが良かったからと納得した。

 長浜市高月の向源寺の十一面観音像は、一度は見ておきたい仏像だ。若い時に見に来ている筈だが、寺の様子も違うように感じた。本堂は立派に建て直され、十一面観音像は鉄筋コンクリート造りの建物に移されていた。けれど、それがとても有り難かった。寺の仏像は信仰の対象で、鑑賞する像ではないから、正面から拝むことが出来ても、側面や裏面まで見ることはない。しかし、ここでは全国に七体ある十一面観音の中でも最も美しいと言われる理由が分かるように、どこからでも眺められるように置かれている。

 790年に最澄がこの地に七堂伽藍を建立したとある。十一面観音像がその時に安置されたものなのかは定かではないが、奈良時代末の密教の様式のものといえる。仏は悟りを得た存在なので男女の性を越えたものだが、この十一面観音像は明らかに女体で官能的でもある。それは少しだけ右足を前に出しているため腰が左にわずか突き出ているためでもある。京都の観音寺の十一面観音像もヘソが見えるところは同じだが、雰囲気が違う所以だ。

 寺の隣りの食堂で琵琶湖御膳と鮎寿司を食べた。江戸時代に朝鮮通信使(使節団)が食べたという料理を再現したという料理人の老人が、でもきっと私よりも若いと思うけれど、「使節団のために貢献した天森芳洲が生まれたところがある。町には小川も流れていてきれいなところだから行ってみるといい」と勧めてくれたので、立ち寄った。庵は午後4時までだったので閉まっていたが、庭を拝見することは出来た。屋敷にはケヤキの巨木があった。また傍の神社にもイチョウの巨木があった。

 湖北になぜ寺が多いのか、なぜ観音像が多いのか、理由までは分からないけれど、合戦が繰り返された地で、人々は仏像を地中や川に沈めて守ったという。一見のんびりとした街中に思えるが、そんな歴史がここにはあると思うと、眺める景色も違って見えた。

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金木犀のお酒

2014年10月02日 18時25分24秒 | Weblog

 金木犀の咲くのが、今年は早かった気がする。10月10日の運動会の頃、甘い香りが漂っていた記憶だけれど、そう思い込んでいるのだろうか。先日、友だちから金木犀のお酒をいただいた。中国の桂林を旅行してきたという。桂林といえば水墨画の世界、ゆったりと流れる川、そそり立つ絶壁、遠くに丸みを帯びた山々、川の近くで働く人々、そんな光景が目に浮かぶ。その桂林は金木犀の郷でもあるという。

 きっと街中に金木犀の甘い香りが溢れていたことだろう。早速、お土産のお酒を飲んでみた。ほのかに金木犀の香りがする。「中国人はがめつく、金儲けばかりに目がくらんでいる」と先輩たちは非難するけれど、花を眺め、月を眺めて酒を酌み交わす風習は中国から日本に来たもの、米作で暮らしてきた東洋人に共通する自然観だと私は思う。今でも中国人の中には、金木犀の香りで一杯と洒落ている人たちもいるだろう。

 前野徹さんの『戦後 歴史の真実』は、今、日本で起きている諸問題、たとえば神戸の小1女子の殺害事件も全ての根源は押し付けられた憲法にあると弾劾している。こうした事象は多くの国で起きていることから、世界が共通して当面している問題だと私は思う。大和言葉やその精神が失われたのは憲法に原因があるのではない。世界の進展が内部に、どういう仕組みなのか分からないが、生み出していると思う。

 ルネッサンス時代から500年、産業革命からまだ300年しか経ていない。今日のような物を売り買いして利益を蓄える社会が生まれてわずかな経験しかない。マルクスは「資本主義は崩壊する」と予言したけれど、どうやら崩壊ではなくて変質していくようだ。今日的な諸問題はその胎動なのか、いやむしろ変質が生み出す負の作用なのだろう。

 「どうしてこんなややかこやしいもの(人)が生まれたんだろう」と、中国人嫌いな先輩は人間の誕生を嘆くけれど、きっと中国人と川を眺めながら酒を酌み交わせば、考え方も変わるだろう。外に敵を作ることで、内を固めてきた人の知恵も変わっていくと思う。

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『無縁坂』と『吾亦紅』

2014年10月01日 17時30分34秒 | Weblog

 首長選挙に出る前の夏祭り、出馬の意向を知った女性コーラスの人たちから、「皆さんの前で歌えば印象に残るわよ」と舞台に引っ張り出されたことがある。「歌える曲は?」と聞かれて、グレープの『無縁坂』と答えた。「ダメよ。そんな暗い歌では盛り上がらない」と否定され、「私たちが一緒に歌うから」というので、赤い鳥の『翼をください』を歌うことになった。

 『無縁坂』は好きな曲で、この歌を歌うと母のことが浮かんでくる。「後だけは見ちゃーだめと」「運がいいとか悪いとか 人は時々口にするけど そういうことって 確かにあると あなたを見てて そう思う」。そんな歌詞が母の人生のような気がしていた。今年、70歳になって、それは母だけでなく、人生はみんな同じだと思うようになった。

 最近の歌で、すぎもとまさとさんの『吾亦紅』も胸にジーンと来るものがある。母親というのは子どもにとってはいくつになっても母親なのだと思う。私の母は大きな声で笑う人だったから、人前で笑うと恥ずかしかった。感情を表すことを抑えるタイプではなく、落語を聴いて泣き、馬鹿な漫才で笑い、ラジオの高校野球を興奮して応援していた。一生を父のために尽くして終えてしまった。

 吾亦紅は子どもの頃、原っぱや土手などで、夏の終りから秋にかけて見かけた。細い枝の先に小さな赤い楕円形の花が咲いた時に気が付くが、美しいとは言えない花である。なぜ、題名にこの花の名前をつけたのだろう。歌はとても哀愁があり、聞いているだけで悲しくなってくる。けれど、よく聞くと何を歌っているのだろうと考えてしまう。「あたなに あなたに 謝りたくて」と、子どもなら誰もが母の前で思うだろう。

 「あなたの 形見の言葉 守れた試しさえ ないけれど」と私も思う。母はいつも「男はジェントルマンになるんだよ」と言っていた。私も母の言いつけを守れたとは思えないので、墓前では「ごめんなさい」と謝るしかない。『吾亦紅』では、「来月 俺 離婚するんだよ」と墓前で報告しているから、いったい何を歌っているのか分からなくなる。まあ、歌詞はどうでもいいか、中年男の母への詫び状はいつもこんな風に支離滅裂なのだろう。

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