友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

異常な天候が忍び寄っているのか

2012年06月07日 21時22分54秒 | Weblog

 昨日は朝から強い風が吹いていたけれど、昼食後に名古屋市天白区へ井戸掘りの下見に出かけた時は、そんなに強い風が吹いているとは感じなかった。ところが家に帰ってルーフバルコニーを見て驚いた。植木鉢が2つひっくり返っている。白い薔薇で見事な花を咲かせてくれるスノーダイアモンドの枝が根元から折れている。植えたばかりのサルビアの鉢は風で土が抉り取られ、根元からぐったりとしている。昨夜は引き続き強い風が吹いていたので、心配だったけれど何も出来なかった。

 それで今朝早く目が覚めたので、早速ルーフバルコニーに出て修復に努めた。薔薇は根元をテープで巻いてみた。サルビアは培養土を継ぎ足し、根元を補強して水を遣った。薔薇やサルビアが生き返ってくれることを祈るばかりだ。春から夏は、南東からの風が吹く。それで南側に大き目の樹木の鉢を置き、薔薇やサルビアを保護できると思ったけれど、昨日は北西からの強風だった。地上にいる時は少々風があって、逆に気持ちがいいと思うくらいだった。しかし地上36メートルの、しかも遮るものがなにもない屋上では思った以上に強い風だった。

 天候が不順のように思っていたけれど、毎年という見方ではなく、10年とか20年の単位で見れば、こんなものなのかも知れない。「暑いですね」と言う人もいれば、「夜は寒いくらいですね」と言う人もいる。人間の感覚は受け止める人によって大きく違う。民主党と自民党と公明党が、法案の修正協議に入ることを正式に決めた。民主党の中には増税に反対する議員もかなりいるし、原発の再稼動についても慎重派の議員も少なくない。自民党の議員の中にも、原発の再稼動には慎重にと言う議員がいる。公明党の中にも党中央とは考え方の異なる意見の議員もいるのかも知れない。

 これだけ根本的なところで考え方が違うのに、どうして一緒の党にいるのだろう。小沢一郎議員が「マニフェストに違反するのは、民主主義を壊すものだ」と言っていたが、その点は正しい。正しいことと正しくないことをごちゃ混ぜにしてしまうから、小沢さんを信頼できる人とは思えない。実現すべき目的が正しければ、手段はどうでもいいというわけではない。むしろ目的に向けた過程こそが大切だと思う。そして一番大切だと思うことは、全ての過程を全て見せてしまうことだ。協議の場を公開してしまうことだ。

 午後も余り日差しがなさそうだったので、ひとりで鉢の土の入れ替えをする。植木鉢の全てにミミズを複数入れておいたはずなのに、今までの鉢からはわずか3匹しか出てこない。昨年の夏、大量のミミズが鉢から出てきて死んだけれど、こんなにもいないとは思わなかった。思わぬことが多いのは自分が年老いたからなのか、異常な天候がジワジワと忍び寄っているのか。わけが分からなくなっているのは私だけなのだろうか。

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パソコン絵画

2012年06月06日 21時24分15秒 | Weblog

 友人が「パソコンを使って絵を描いている。その作品展を行っている」と言うので、見に行ってきた。パソコンで幾つかの写真や絵を組み合わせて、「絵」にしてしまう作品はあるけれど、パソコンを絵筆にしてどんな作品が出来るのだろうと思った。「パソコン画展」の作品はどれも素直なものばかりで、強く興味をそそられることはなかった。それでも、パソコンで絵が描けるとは不思議だ。この作品展では厚みのあるものは見なかったけれど、そのうち油絵も日本画も自由自在に描けるようになるのかも知れない。

 卒業生と話していて、「これだけパソコンが発達してくると、負けないためには精密画しかないね」と私が言うと、「もう精密画そっくりに描けるソフトがありますよ」と教えてもらった。「じゃあ、パソコンと勝負できるものは無いの?」と聞くと、「ジャクスン・ポロックやジャスパー・ジョーンズのような抽象画のようなものの方が描けないかも知れませんね」と言う。ポロックやジョーンズの作品はどちらか言えば偶然から生まれたもので、パソコンを使えばもっと幾通りにでも描き出すことが出来るような気がする。人が描く精密画は写真を越えた何かがある。精密画の好きな私としては機械なんかに負けたくないが、それは時代遅れなのかもしれない。

 高校のデザイン科ではデッサンを教えるよりもパソコンの方が重要になっているそうだ。確かに現実社会のデザインはパソコンを使って作品を作り上げているから、パソコンが操作できないと仕事にならないのだろう。でも、最後は美意識と発想がモノを言うのではないのかと古い世代の私は思う。美意識を育てるものは何かと言えば、やはり作品を数多く見ることだ。好きな作品を真似して描いてみるのもいい。これはすごいなあーと思う作品に多く出会うことで、審美眼も育ってくる。発想も同じで、これまでの作品を見て、何を狙っているのかを考えるうちに、こういうものはどうかという考えが湧いてくる。

 昔は絵画も彫刻も工芸も、神様に捧げるためのものだった。作品の創り手の名前が世の中で話題になるのは近世以後である。工芸作品に作者の名前が求められるようになるのは一番最後で、それだけ芸術としては認められていなかった。その風潮は今も色濃く残っていて、絵画は値段が付けらるのに、デザインは絵画よりも低いものとして扱われた。1品製作のものは価値が与えられるのに、何枚も出来るポスターの作品となると値引きを迫られる。それでも、人が自分の手で作ったものは、その過程でどんなに機械を駆使したとしても、芸術として認められている。写真を見て作品を作る作者は結構いるし、オーバーヘッドを利用して日本画を描く作者もいる。

 本当にパソコンに負けない絵画を描くことは出来ないのだろうか。

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野田内閣の改造

2012年06月05日 21時22分55秒 | Weblog

 野田佳彦首相は4日、参議院で問責決議を受けた田中防衛大臣と前田国土交通大臣のふたりと、問題を起こした小川法務大臣と鹿野農林大臣を退任させるなど、5人の閣僚を入れ替える内閣改造を行った。それは、「様々な諸懸案を前進させるための環境整備」と言う。つまり消費増税法案を巡って自民党との協議に入るためである。野田首相は「国のためにやるべきことをやる。この覚悟以外に私の私心はない」と言う。「不退転の決意」とか「政治生命をかけて」とか、熱意を示す言葉をよく使うけれど、その“中身”は少しも見えてこない。

 増税をしなければこの国は滅んでしまうと民主党政権は言うが、民主党への政権に期待したのはこれまでの政治とは違うスタイルだった。マニフェストは選挙のための飾り物となり、自民党政治と同じスタイルで結局は国民に負担を押し付けるだけの政権交代だった。野田政権を見ていると、自民党と社会党の連立内閣だった村山政権を思い出す。自民党政権では出来なかったことを社会党の村山さんを首相に据えることで、自衛隊の合憲も消費税の引き上げも実現した。官僚たちのしたたかな作戦が見て取れる。

 防衛大臣には、テレビによく出ていた森本敏拓殖大大学院教授を任命した。自公政権で防衛相補佐官を努めていた人だ。「集団的自衛権は国家の権利」と言ってきた「親米・タカ派」の論客である。憲法9条を含め、憲法の改正を主張している。こういう人を抜擢する野田首相の「政治信念」がどこにあるのかというと、大飯原発の再稼動でも「最終的には私が判断する」というように、財界におもねる再軍備論なのかと思う。これは松下政経塾の出身者の傾向なのかも知れない。新しい政治などと私たちが勝手に思い込んでしまったのだ。

 好きになった相手をじっくり観察する人も少しはいるけれど、大方の人は好きだというだけで何も見えなくなってしまう。あばたもえくぼのたとえのように、自分にとって都合の良い方へ作り上げてしまう。美人でなくても美人に見えてくるし、優しくなくても優しいと思ってしまう。恋愛とはそういうものだろう。相手のことを疑いの目で、いやそうでなくても、冷静な目で観察するようなら、それはもう恋愛ではないのだろう。熱くなって、危なっかしいのが恋愛なのだから。

 小泉純一郎さんが登場した時も、「自民党をぶっ壊す」という言葉に国民の多くが酔った。私の知り合いも小泉さんを変革者だと賛美していた。民主党は「コンクリートから人へ」をキャッチフレーズにして、目先の利益に走った自民党政治からの脱却を訴えた。何かをやってくれると誰もが思い込んだ。名古屋の河村市長、大阪の橋下市長も、何かをやってくれるだろうと思わせて市民の高い支持を得てきた。

 アメリカ大統領選挙を控え、オバマ大統領の人気は低迷している。「We Can」と叫んでいた4年前とは全く違っている。アメリカでは中間層から最下層へかなりの人々が落ち込んでいる。「金持ちも貧乏人も、黒人も白人も、民主党も共和党もない。アメリカはひとつだ」というオバマの演説は希望から空虚へ変わった。新しい時代の幕開けなのか、それとも橋下さんらが活躍する時代なのか。こういう時は、私たち自身がじっくり考えるべきなのだが‥。

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頑張ろう!老人たち!

2012年06月04日 20時56分04秒 | Weblog

 やっと完成です。古い常滑焼きの土管を台座において、周りを大き目の丸い石で敷き詰めた昔臭い井戸が出来上がった。「これからは電力に頼らない、自給自足の生活スタイルになる」と言う依頼主の要望に応えられたと思う。この場所に土管を設置するのも大変だったけれど、さらに土管に細工して手押しポンプを据付けたり、電動ポンプをセットするのも大変だった。それでも出来上がりは充分に納得のいくものだった。それまでは無駄口が少なかったのに、これで完成となるとみんな途端に元気が出るのは正直の証拠だ。

 帰りの車の中では冗談が飛び交った。「年金生活だからこんなNPOでもやっていけるけれど、そうでなかったらまずダメだね」という話から、「欲張りなことは言わないが、年金生活者にもそこそこの小遣いが欲しい」。「そう、ロトシックスの1等でなくても2等でも3等でもいい」。「2等とか3等だといくらなの?」。「そうだね、2千万から3千万円というところかな」。「そんな大金が当たらなくても、2百万か3百万円でいいのではない」。「それでは彼女も出来んでしょう」。「えっ、彼女を作るの?」。「男なら当然でしょう」。「当たるといいね」。

 「3億円当たったら、カリブ海のリゾートホテルで余生を過ごす」などと言う人もいる。「そうなったら、葉巻でもくわえて、朝から風呂に入り酒を飲む毎日だな」。「毎日とはいかなくても、毎年正月の3日間はそんなものじゃないですか」。「葉巻を吸いながら酒を飲むなんて、最高にうまいだろうな」。「でも、最高に不健康な生活だ」。「だからいいんだよ」。「どうして?」。「年金制度が出来た時は、こんなに長生きするとは想定されていなかった。これを調整するためには支給額を下げるか、支給者を減らすしかない」。「ええ、それで?」。「うまいもの食って、好きなタバコを吸って、やめられない酒を飲んで、早死にする。社会貢献だね」。

 冗談話をしていると思っていたら意外と深刻な話になっていった。「政治が悪い時は経済が悪いし、経済が悪い時は政治も悪い。日本が戦争に突入していった時と同じだ」。「母ちゃんにどんなに突入していっても役に立たない」。「役に立たないから外に向かう」。「それが戦争だ」。「戦争になれば何もかも失うから経済が立ち直る」。「経済は立ち直っても、オレのは立ち直れない」。「それでは夫婦喧嘩は無くならない。それで戦争も無くならない」。「母ちゃんと戦争と一緒にするな」。「怖さは同じだ」。「話にならん」。「ごめん」。「すぐ謝るからダメなのじゃない」。「すぐ謝らないから、ダメな政治が続くのだ」。

 こんな馬鹿話でも、元気になれてよかった。ひとつの仕事を完成させるということは、次への活力が出てくるようだ。70歳を過ぎているのにみんな元気だ。しかし、何かをしようという気力が無くなった時は、生きていても死んだのも同然である。頑張ろう!老人たち!

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意中にない様子だった

2012年06月03日 22時05分23秒 | Weblog

 7月で3歳になる孫娘が昼から来ると言うので、午前中は植木鉢の土の入れ替えを行った。鉢の土を出して、チューリップの残っている根を取り除き、これにバーク堆肥や腐葉土を混ぜ合わせて新しい土をつくるのだが、この作業は実に骨が折れる。適当にやればいいのだが、やり出すとどうしてもトコトンやってしまうので、1つの鉢の土の入れ替えに40から50分もかけることになる。この作業が終わると次に、種を蒔いて育てたサルビアの苗を植えつける。友だちが「サルビアは発芽率が低い」と教えてくれたのに、毎年そこそこの苗が育つので、今年も出来ると侮ったのがいけなかった。

 種蒔き床のつくり方が粗雑だったのか、蒔き方が悪かったのか、それとも今年の天候のせいだったのか、確かに発芽率が悪い。それに発芽したばかりの芽をテントウムシに食べられたりして、よい苗は数が少なかった。まあそれでも、20鉢は植えられそうだ。そうなると残りの鉢に何を植えたらよいかと考えなくてはならない。黙々と同じ事を繰り返すだけの仕事がしたいと、介護の仕事の人は言うけれど、何も考えずにひたすら同じ事を繰り返すのにも苦労はある。介護のように人相手ではないから気配りは要らないが、それでも土中のミミズを殺さないようにとか、根を腐らせる菌がいないかと、見張らなくてはならない。

 単純で寡黙な作業の最中は、遠い昔のことや、あの時にああ言ったのはどういう意味なのかとか、明日からのことなどの妄想が駆け巡り、私はこうした単純作業が苦にならない。それでも3時間も続けるとさすがに腰が痛くなる。お昼ご飯を食べて、横になっていたらいつの間にか眠っていた。3歳になる孫娘は午後2時半過ぎに母親である長女とやって来た。長女は自分の仕事がしたいのだが、孫娘が離れないので、ジジババに孫娘と遊んで欲しいというのである。「パパちゃんとブランコに乗る」と言うので、ご指名とあっては仕方ないとふたりで公園へ出かけた。

 お目当てのブランコのところに来ると、隣のブランコに男の子がやって来た。その子が「何歳?」と孫娘にたずねる。「3歳」と孫娘はサバを読む。「ぼく、5歳。8月5日で6歳になる」と男の子は言い、「可愛いね」と孫娘に言うが、これは駆け引きなのか無視。孫娘がシーソーに向かうと男の子は先回りして、「乗ってもいいよ」と上げ下げしてくれる。そればかりか、「森に連れて行ってあげる」と今度は公園の中の丘になった林へと手を引いてくれる。初めての場所なので孫娘は戸惑っていると、「抱っこする」と言って、いきなり抱きかかえて丘を登ってくれた。いくら3歳近く歳が離れていても、まだ女の子を抱っこするのはしんどいはずなのに。

 公園にいる間、男の子はずーと傍にいて、時々手をつないだり、孫娘が嫌がるのもかまわずに何度も抱っこしたり、孫娘が「帰る」と言うと「もう帰るの」と口惜しそうだった。結局、彼のおかげで長い時間、公園で遊ぶことが出来て、私は大いに務めを果たすことが出来た。それにしても男の子は5歳にして女の子のご機嫌を取る為に並々ならぬ努力をしなくてはならないようだ。にもかかわらず、3歳の孫娘は全く意中にない様子だった。

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言葉遣い

2012年06月02日 19時41分04秒 | Weblog

 「タメ口」という文字を最近よく目にする。「タメ口」って何か、知らなかった。対等あるいは同じという意味の「タメ」に、口ぶりの「口」を付けたものという。「タメ」は元々は賭博用語で、これを不良少年らが好んで使ったことから一般化したらしい。実際にはどういう言葉を指すのかと思っていたら、小学生から高校生まで、日常的に使っている。今日も運動場で少年野球クラブが練習をしていたが、コーチのすさまじい注意が飛んでいた。

 「お前らー、何やってんだ、バカかあー」。小学生の女の子が男の子に向かって「うるせーんだよ」と言っているのを聞いたこともあるし、気をつけて聞いていると、小学校の女の先生も野球クラブのコーチのような話し方をしている。私たちの子どもの頃は、男の子の中には乱暴な言葉遣いをする子もいたけれど、いくら友だち同士だからでも、「お前」とか「貴様」とは言わなかったように思う。友だちを呼ぶ時は「クン」「サン」付けだった。

 ところが私の娘たちはダンナを呼ぶ時に、「クン」を付ける。「クンではなくて、サンの方がいいのではないの」と私が注意すると、「サンよりはクンの方が親しいのよ」と言う。最も親しい呼び方は呼び捨てだとも言う。娘に自分の名を呼び捨てられたならギョッとしてしまう。そう言えば、最近は女の子がわざと男のこのような言葉を使う。逆に、男の子のなかにはテレビに出てくる「オカマ」の言葉遣いを真似る子もいる。

 敬語や謙譲語の使い方とか、男言葉とか女言葉とか、日本人は言葉を大事にしてきたけれど、その言葉遣いが変わってきたことは確かだろう。それを「乱れている」と言う人もいるけれど、私は言葉が時代と共に変化するのは仕方のないことだと思っている。男女平等などと主張しなくても、男の子が女言葉になり女の子が男言葉になりつつあると誰かが指摘していた。言葉に厳格だったNHKでもやたらと、たとえば昼のスタジオなら「昼スタ」と短くする風潮にある。

 先日、高速道路の料金所でお金を払った時、係りの人から「アリガトウ」と言われた。年齢は私と同じくらいかもう少し若い、定年退職後に働いているらしい感じで、元校長というような堂々とした恰幅の人だった。おせっかいな私は車を降りて、「その言葉遣いは間違っていますよ」と言いたかった。お金をいただく側は「アリガトウゴザイマシタ」と丁寧に言わなくてはならない。コンビニやファーストフードの店員さんの方が若いのにキチンと対応できている。

 もうすぐ3歳になる孫娘の最大の遊び相手はiPadで、難なく操作して遊んでいる。夢中になっている時に声をかけても見向きもしない。この孫娘は言葉もよく知っているが、「イヤ」と言い出したらテコでも動かない。こんな風にiPadで知識を増やしていくのはいいが、果たして正しい言葉遣いが出来るのだろうかと心配になる。子どもが言葉を覚えるのは、子どもの身の回りにいる人たち、とりわけ母親や父親の会話から自然と身に付けていくものだ。子どもの「ごっこ遊び」を聞けばその家の様子がよく分かる。孫娘は明日、遊びに来るらしい。

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婚外恋愛

2012年06月01日 19時48分28秒 | Weblog

 気のせいなのかも知れないが、ペースメイカーの植え込み手術を受けてから、力仕事が出来なくなった。胸の筋肉を使わないようにしていると言うわけではなく、力仕事をするとすぐに息が切れてしまう。気が遠くなっていくような気分になる。手術前は、たとえ脈拍数が30台であったとしても、別に息が切れることは無かった。年齢の割にはというか、身体の割には力持ちで、どんなに力仕事をしたからといっても、こんなにも疲れてしまうことは無かった。「歳相応になったのよ」と言われてしまえばそれまでで、力が無くなった事実に気付くべきなのかもしれない。

 自分のことは意外に気付かないことが多いし、それはきっと気付きたくないという気持ちの裏返しなのかも知れない。今日は井戸掘りで、半田まで行った。長い間休んでいたリーダーも今日から井戸掘りに加わったが、はじめのうちは口だけの参加であった。しかし人の常とは恐ろしいもので、あんなに身体のあそこが痛いここが痛いと言っていた人が、軽い作業とはいえ自然と身体を動かしている。そればかりか、いつものような下ネタまで飛び出している。ここまでくればきっと元気になるだろう。青白かった顔が赤みを帯びてきている。

 リーダーも自分の身体のどこが悪いのか、よく分からないようであるし、幾つかの病院にもかかったけれど、医者の診断もまちまちだと言う。原因が何であれ、身体から痛みが無くなればいいわけで、医者の処方よりも本人の気持ちの持ちようなのかも知れない。本人の気持ちの持ちようと言うよりも、考え方というか、生き方の違いだなという記事に出会った。先週の土曜日、朝日新聞Be版の『悩みのるつぼ』に、19歳の学生から「婚外恋愛はごまかしで、人間の行為として鑑みると背筋が凍る」という意見があり、「婚外恋愛に肯定的な方の回答をお願いする」とあった。

 私は高校生の時、中学の時から好きな女の子がいたのに、その子とは別の女の子が好きになった。そればかりか恋愛感情もない年上の女性に欲望を抱き、自分はなんという汚い人間なのかと悩んだ。この19歳の学生のように、「1つの関係を清算してから次にかかるのが、恋愛のみならず人間関係のルール」ということも許せないくらいの絶対の「愛」を考え、そうならない自分に絶望し、どうしたら良いのかと悩み続けていた。ひとりの人を愛し続けたいのに、なぜ出来ないのだろう。それは自分の落ち度なのか、そもそも人間はそういうものなのか、考え続けてきた。

 回答者は社会学者の上野千鶴子さんで、学生の言うように「結婚は契約」と言う。上野さんは、結婚とは、「たったひとりの異性に、排他的かつ独占的に自分の身体を性的に使用する権利を生涯にわたって譲渡すること」であると、法律用語で定義する。そして、「この契約、守れますか?」とたずねる。「わたしはこういう契約は恐ろしくて結べません。約束しても守れそうにないので、いちども約束しないできました」と言う。結論は「そもそもセックスの相手をおクニに登録して契約を結ぶ必要なんてない、と思いませんか?そうすれば『婚外恋愛』も『不倫』もなくなります。登録は親子関係だけでじゅうぶん」と。上野さんらしい回答だと感心した。人の気持ちというか感情を、法律や制度で縛ることは出来ないと言うことである。

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