5千年も前から中国に伝わる古箏の演奏を聴いた。古い楽譜も残っているそうだが、中国にはなくて日本にあるというのも面白い。それだけ日本と中国は古くから交流があり、日本は中国の先進的な文化を取り入れてきた。古箏は日本の箏に比べると半分もないくらいの大きさで、演奏の仕方も台の上において両手を使って奏でる点で似ている。古代中国の箏は今日見たものよりはもう少し小さなのかも知れないが、形も演奏する曲も大きな変化はないと言う。
古箏で演奏してくれた曲は、漢や唐の時代のもので、余りにもゆったりとしていてつい睡魔に襲われてしまった。テンポの速い曲もあるのかも知れないが、今日の曲目は「三国志や源氏物語」にも登場する古箏を堪能して欲しいという趣旨から、繊細でゆったりとしていた。中国の詩人たちも酒を酌み交わし、古箏を奏でながら詩を歌ったようだ。聴いていると、酒飲みだった陶淵明や李白が自作の詩を演奏しながら歌っていたと勝手な想像が働いた。1千3百年くらい前の中国の豊かさを感じた。
漢詩を当時の中国人がどのように歌っていたのか分からないが、少なくとも私が学校で習った漢詩は日本語訳されたもので、極めて哲学めいたもののように思った。古代中国の詩人たちは、風景にしても歴史にしても、深い洞察を持って歌に仕上げている。そんなことを感心しながら、いや待てよと思った。歌はどんな時代でもどんな場所でも、人生についてあるいは社会や人の関係についての洞察から生まれている。古代中国人も現代のアーチストも、同じだと思った。
人は常に伝えたい気持ちを持っている。まだ言葉が完成しない時から、人類は音を共有していたという説もある。言葉が生まれ、文字が生まれ、人々はますます多く伝えようとしてきた。「言葉は脳のコミュニケーションだが、音は愛と同じ、心のコミュニケーションである」と聞いたことがある。音楽は文字を越えた伝達手段なのか、確かに言えそうな気がする。
子どもの頃にラジオから流れてきた津軽三味線を聴いて震えた。また、中国の二胡や中近東の楽器の演奏を聴くと、昔懐かしい気がする。ピアノやバイオリンのような西洋音楽を象徴する楽器の音色よりも、東洋の楽器の音色に共鳴するのも、身体が持っている東洋人の音なのだろう。明治政府が西洋に追いつき追い越せと、音楽でも西洋音楽に力を入れたけれど、日本人が好きな音律は西洋的なものではなかったという話も聞いたことがある。
古箏とともにやはり古い笛の演奏もあった。古い笛は横笛ではなく、尺八のような縦笛だったが、古箏よりはリズムもテンポも聴きやすかった。この笛の音は慣れ親しんだ音に近いのかも知れない。中国では仲の良い人たちのことを箏と笛にたとえるそうだが、2つの楽器の合奏は確かに心地よく感じた。中国人と日本人の感性が昔は似ていたのに、何時の時代から変わってきたのだろう。いや、今も変わっていないのかも知れない。