友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

社会は理想論を受け入れない

2007年04月20日 23時15分01秒 | Weblog
 人に自分を伝えることは難しい。
 異性が異性に自分を売る込むことは、たぶん人も動物だからできそうなものなのに、近頃では異性のことなど見向きもしない人もいる。本当にそうなのかと、私は理解できない。どんなに歳を取っていても、やはり人はいつまでも異性を意識しているように思う。それは私自身がそうであるからだが、デイサービスで出会う80歳や90歳のお年寄りでも間違いなく異性を意識していると思うからだ。

 人間は一人では生きていけないくせに、他人を理解することやたとえ理解したとしても受け入れることは難しいようだ。利害が一致すれば、人は大抵の場合は相手を受け入れる。特に目先の利害であれば、ハッキリしているから尚更である。男と女の結婚も、昔は男にどれだけの甲斐性があるかが判断の基準だった。財産や収入や学歴が決め手だったのだ。選挙についても同じようなことが言える。

 自分が住んでいる地域の道路だとか側溝とか、こういうものを「やります」といえば、こういう候補は当選する。地域のためになるのだから、当然適した候補というわけだ。国会議員も県会議員も地方議会議員も、当選する候補は有権者である人々に利益をもたらす候補である。人々が地域である場合もあれば、企業である場合もあるし、特定の団体である場合もある。しかし、目先の利益をもたらすことが本当に有意義なのか、私には疑問だ。

 たとえば、当選した候補が全員、それぞれ地域や団体の利益を主張したならどうなるのか。答えは簡単だ。期待に応えるために予算はどんどん膨らんでいく。会社と違って自治体は、収入に関係なく予算を膨らませることができる。住民のためという大義名分があるからそれは堂々と行われるし、議員も有権者も同じ考えだから誰も反対しない。こうして夕張市のような自治体が全国に数え切れないほど生まれた。

 「情報公開を徹底的に行い、住民参加の仕組みを拡大することが自治の基本だ」と、選挙でどんなに訴えてもなかなか有権者の理解を得られない。有権者は目先の利益を優先し、「理想論では政治はできんよ」などと平気で言う。現実論に対して理想論は誠に弱い。歴史もそれを示している。紀元前500年も前の中国で、孔子は「道理が通るようであれば、言葉をきちんとし、行動もきちんとしなさい。そうでなければ、行動はきちんとしても言葉は控えた方がよい」と言っている。また、孔子は「先のことを考えないと必ず身近なところでイヤなことが起きる」とも言う。孔子の時代から正論は受け入れられなかったということだろう。

 しかし、政治家は目先のことにこだわってはならない。たとえ、支持してくれる人が少数であっても、自分の理想とするところを主張すべきだ。「そんな政治家はいないよ」と言う人がいるが、それが本当なら理想論を展開する政治家を育てなくてはならないと思う。私たちがやっている「無党派市民派・自治体議員と市民のネットワーク」は、その一つだと自負している。
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