友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

受け取る側がどう思うか

2011年12月03日 19時13分30秒 | Weblog

 喫茶店で、来年2月に行う同年齢の集いについて話し合っていた時、この会には出席するけれど同窓会は欠席の人がいると言う。地元の人だけれど、「同じ歳同士で結婚したので同窓会はカミさんしか参加しない」と。余りにも小さな時から知っている者の中ではおしゃべりもしにくいらしい。同年齢の集いは、たまたまこの町に住み着いた人が半数は出席するので、気楽に話ができるということだろう。

 

 中学からの友だちが「病気が回復したから家に来い」と言うので、友だちとふたりで遊びに行ったことがある。当然のことだけれど、昔話に花が咲き、「そういえば、ストリップをみんなで見に行ったことがあったよな。お前が一番熱心に見ていた」と面白がって病気だった男に話した。私たち3人の仲だから「アハハッ」と大笑いですむ話だったが、彼は妙に改まって「おい、もう止めろ」と言う。その後で会った時、「お前たちは全く常識の無い奴だ」と滅茶苦茶に怒り出した。

 

 確かにあの時は、彼のカミさんも傍にいたけれど、男どもがたわいも無い昔話をしていただけのことだ。「いや、オレよりもお前の方が熱心だったぞ」とか、「そんな昔のことをよく覚えているな。英単語のひとつでも覚えていればもっとよかったのに」とか、いくらでも話をはぐらかすことはできたはずだ。あんな風に「止めろ」と言ったのでは、本当のことのように思われてしまうだろう。それに、私たちは彼のカミさんを高校時代からよく知っているし、彼が「一緒に行ってくれ」と言うので、みんなで何度かカミさんの家まで出掛けたことだってある。

 

 男は女の裸が観たい生き物だ。男はこういうものだよと話したところで、彼の威厳が損なわれることは決してないだろう。彼が浮気をしていたとか、「この前、話していた女はどうした?」とか、家庭に嵐が吹き出すような話を友だちである私たちがする訳が無い。それなら非常識だと非難されても納得できるけれど、あんな程度の下世話な話になぜ腹を立てたのだろう。「オレたちはこんなに昔から仲良しだったんだ。何か困ることがあったら、いつでも言ってくれ」。そう伝えたかったが、逆な結果になってしまった。

 

 言葉は難しい。一川防衛大臣が国会で、1995年の米兵による少女暴行事件について質問され、「正確な中身を詳細に知らない」と答弁し、辞任に追い込まれている。「絶対にあってはならない事件と承知している」とか答えることもできただろうが、やはり自分がどういう立場にいる人間かという意識と、そのための勉強に欠けているのだろう。今日の新聞に、跳び箱が出来ない子どもに「前の担任は何をしていたんだ」と悪態をつく先生のことが載っていた。「跳べない子を跳べるようにするのが教師でしょう」と書いてあったけれど、全くそのとおりだろう。言われた子どもがどういう気持ちになるか、考えないといけないが教師である。言葉はいつも受け取る側がどう思うかにある。だから使い方は難しい。

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