友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

言葉には心が必要とされる

2012年01月14日 21時54分46秒 | Weblog

 今日は大和塾の第24回市民講座『同行二人』。講師を務めてくれたのはカミさんの友人のダンナで、私とは同じ年だ。彼が四国八十八カ所の歩き遍路を行い、その体験に基づいて本を出した。その本『同行二人』を読んで、ぜひ、体験談を話して欲しいと頼んだ。本の書き出しに「『じゃ、行ってらっしゃい。気をつけてね』と妻が駆け寄って手を握って見送ってくれた」とある。ご夫婦を知っているだけに、思わず微笑んでしまった。講演の後で講師を交えて歓談した時も、そのことが話題になった。

 

 彼のカミさんは別に恥らう様子もなく、「あの時は本当にこれが最後というか、何かあったらというような切羽詰ったものがあったので、ごく自然だったの」とおっしゃる。「本当に仲のよいご夫婦で」と賛美の声を受けると、「家ではそうではないのよ。私が2と言えばあちらは1と言うの」とさらりと答えられる。このさらりとした感覚がいいのだろうなと思った。「夫婦なんてみんなそんなものよ。考え方も感覚も違っているからそこそこにやっていられるのよ」と言う人もいる。全く同じなら話し合うこともなくてつまらないだろうから、大きな違いでなければよしとした方がいいようだ。

 

 大きな違いではないけれど、友だちのブログに坂本冬美さんの『夜桜お七』の歌詞が載っていて、アレッと思った。【赤い鼻緒がぷつりと切れた すげてくれる手ありゃーしない 置いてけ堀をけとばして 駆け出す指に血がにじむ】とある。「置いてけ堀」は間違いだろうと思って、パソコンで歌詞を探すと、やはり「置いてけ堀」になっている。私は「置いてきぼり」とすべきではないのかと思ったのだが、パソコンで見る歌詞は全て「置いてけ堀」である。私の記憶では、置いてけぼりは落語で聞いたことがある。そこで「置いてけ堀」をパソコンで探すとその点は間違いなかった。

 

 江戸時代の本所七不思議の中のひとつにこんな話がある。錦糸町辺りの堀で魚釣りをしているとたくさんの魚が釣れた。そこで喜び勇んで帰ろうとすると、堀の中から「置いていけ、置いていけ」という声が聞こえ、びっくりして魚篭を置いて逃げ帰ったという。そこから、置き去りにすることを「おいてきぼり」と言うようになったらしい。今では、遅れた者をあとに残していく時に使うので、歌詞はひらがなで「おいてきぼり」の方が分かりやすいと思う。せめて「置いてけぼり」ならまだいいのではないだろうか。

 

 下駄の鼻緒が切れても、差し込んで直してくれる人がいなくて、困っているのに先に行ってしまい、置いてきぼりにされてしまう。急いで直そうとして指に血が滲んでしまった。そんな情景なのだが、歌詞のように「置いてけ堀」とあると、落語のことを知らない人は堀を蹴飛ばすことは出来ないぞと読めてしまいそうだ。これも笑い話だが、唱歌『ふるさと』の「うさぎ追いし」という歌詞を「うさぎ美味し」と思っていた人がいた。文字を見ないと分からないこともある。

 

 「好きだ」と言うだけでは、「愛している」とささやくだけでは、伝わらない場合がある。「消費税増税」と言われても、なんとなく分かるようで分からない。言葉に心が伴わなければ白々しくなるばかりだ。

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