友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

民主主義は実現できるのか

2008年04月08日 23時17分54秒 | Weblog
 国会は大詰めを迎えているのに、なんだか少しもそんな雰囲気が伝わってこない。3月末の段階で、全てを解決するとしていた国民年金問題は、何も解決できていない。それならば、政府は責任を取って総辞職するのが道理というものだ。海上自衛隊のイージス艦「あたご」と漁船の衝突の問題もまだ解明されていないし、国土交通省の外郭団体の不適切な金の使い方もどこかにいってしまっている。

 こんなにもでたらめな政治状況なのに、解散権を持つ福田総理は「そんなことは言っていないでしょう」とか「期待させてしまったとしたなら、説明不足でした」と言う。舛添大臣も「国民の皆さんに夢を持たせてしまったなら、謝罪しなくてはいけない」とまで、国民を馬鹿にした発言をしている。私たちは「期待」してもいなかったし、ましてや「夢」は見ていなかった。キチンとやって欲しいと望んでいたに過ぎないが、民主党がそうであるように、どこまでその責任を追及できるのか、不安には思っていた。

 政治に国民は参加していない。議員と官僚が勝手に国を動かしているだけだ。そんな気持ちが国民を支配しているような気がする。小学校の児童会、中学高校の生徒会、大学の自治会、本当にそこに民主主義は存在したのか。自分たちのことは自分たちで決める民主主義の原則が確立されていたのか。この3つの組織で役員をやってきた自分が言うことはヘンかもしれないが、民主主義など存在しなかったのではないかと思う。

 選挙で、自分たちの代わりにものを言ってくれる人を選ぶ。直接民主主義で、全員が何らかの形で話し合っても、決めたことの執行となるとみんなが執行者になることはできないから、代理の者を置く。するともうそこに、代理者と任命者との間に開きが生まれる。人間の社会はどこまでいっても、民と執行者とに乖離が生まれる社会なのかもしれない。これを埋めることは人間の智恵では出来ないことかもしれない。

 しかし、仮に、埋めることはできないことが人間社会の本質であるとしても、できる限り民と執行者との間を近づける工夫をすることはできるはずだ。選挙で、首長なり議員なりの候補者に投票する時、人は何を基準に判断するのだろう。身近な選挙であれば、かなりじっくりと候補者の政策や人柄を見て決めるだろう。県会議員やもっと大きな国会議員の場合は、政策はマニフェストにひとまとめにされてしまうので、結局は政党がどういう政策集団なのかを検討して決めるのだろう。

 私自身も何度か選挙を経験したが、有権者に「口利きや利益誘導」を売りにする候補者は政治を堕落させる以外の何者でもないと訴えてきても、しかし現実はそうした候補が多く当選してしまっている。ポスターの印刷代や自動車の借上げ代やそのガソリン代、挙句に運転手の日当や事務職員の日当など、市がお金を出す選挙公営費を水増し請求したり、勝手に運用してしまうことが平然と行われている。お金が無くても選挙に立候補できるための仕組みなのに、それが「税金」であるがゆえに、みんなで勝手に運用してしまえばそれが当たり前になってしまう。

 本当にみんなの意思が反映できる政治の仕組みはできるのだろうか。できるように考えなくてはいけないが。

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