知立市の無量寿寺のカキツバタが、咲き誇っている写真が新聞に掲載されていた。先週の土曜・日曜日はきっとかなりの人出があったことだろう。在原業平がこの地で歌を読んだと知ったのは、高校生の時だったと思う。平安時代の中でも歌作りもうまく、かなりの男前だったという話は誰から聞いたのだろう。大学生の時にカミさんを誘ってここを訪ねたことがある。
在原業平の歌は、「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもう」と、そんなに何か深い意味があるとは思えない。ただ、おそらくその頃も咲き誇っていたであろうカキツバタを、言葉の頭に置いて歌を作っているところが技の見せどころだろう。詩を作る人は西洋も東洋も同じように、言葉の遊びをする。それは遊びだけれど、頭脳競争のようなもので、「どうだ!」と出来栄えを誇ったのだろう。
調べてみるとカキツバタは全国どこの湿地帯でも生えていたようだ。知立市の隣りの刈谷市井ケ谷には、全国一といわれるカキツバタの群生地がある。三河は台地状の地形のため、米作りには苦労があったようで、江戸時代までは農業用のため池が多く作られ、この池の水を利用して米作りが行なわれてきた。井ケ谷のカキツバタの群生地は東側にこんもりとした森があり、そこから流れてくる水が大きな湿地帯を形成したようだ。
私は中学生の時、境川の源流を調べてみたくなってこの井ケ谷まで自転車で来たことがある。夏だったのでカキツバタは見られなかったが、お百姓の人からスイカを食べさせてもらった。「境川の源流を見に行く」と話すと、「一日では辿り着かない」と教えられて引き返した覚えである。お茶を持っていなかったし、あの頃はどこにも水を売っている所はなかったから、お百姓さんに出会わなかったら、暑さで倒れていたかも知れなかった。
知立市の無量寿寺の辺りをどうして八橋というのか。京都のお菓子、八橋と関係あるのか。そんな疑問が湧いて、調べてみた。無量寿寺の傍には逢妻川が流れていて、昔は川が8つに流れていいたという。そのため、8つの橋がかけられたのが由来とあった。「伊勢物語」の故事にちなむ「八橋伝説地」とある県指定名勝である。本当かと思うけれど、日本庭園の八橋もここから生まれたようだ。
京都のお菓子、八橋との関係はあるのだろうか。お菓子が作られるようになったのは江戸時代中期で、名前の由来は2説ある。1つは箏曲の祖、八橋検校が用いた箏の形を模した説、もう1つは「伊勢物語」のカキツバタの橋の形という説である。カキツバタは質素で控えめな花だけれど、花の色は気高いほどのブルーだ。日本人が好んだ青色だと思う。