モーツァルトを描いた映画で印象に残っているのは『アマデウス』だ。モーツァルトの肖像画を見たことのある人なら、若々しく美しい顔立ちの青年を思うだろう。私の小学校も中学校も、音楽室の壁には、バッハやヘンデル、ベートーベンなどの楽聖と並んで、とても若くてハンサムなモーツァルトの肖像画が掲げてあった。学校で学んだモーツァルトの旋律も滑らかで美しかったように思う。
しかし、映画『アマデウス』のモーツァルトは、まるで奇人変人であった。酔っ払って「ヒヒヒヒ」と笑う姿は恐ろしいほどだった。映画なのだから、本当のモーツァルトはそんな人ではないと思っても、未だにモーツァルトのイメージとして私の中に定着してしまっている。モーツァルトの伝記などを読むと、映画の人物が本物のモーツァルトなのかも知れないとさえ思われてくる。
映画『アマデウス』は、天才モーツァルトに嫉妬したオーストラリア皇帝に仕える音楽家のサリエリがモーツァルトを毒殺した筋立てになっていた。老いたサリエリが精神病院の病床で「許してくれ、モーツァルト、君を殺したのは私だ」と言った。そのためか、サリエリによる毒殺説は根強い。映画では余りにも才能溢れるモーツァルトに宮廷音楽家の地位を奪われるのではないかと危惧するサリエリ、ドイツ語でオペラは歌えないと主張するサリエリ、しかしモーツァルトは次々とドイツ語のオペラを完成させていく。凡人と天才の違いが見てとれた。
イタリア人であるサリエリは、大衆にも受けるモーツァルトの音楽の素晴しさが理解できるがために、いっそうモーツァルトを疎ましく思う。ネズミ色の外套を着た怪しげな男〈サリエリ?〉が、モーツァルトの家を訪れ『レクイエム』の作曲を依頼する。狂気のように作曲に取り掛かるモーツァルト。酒を飲み、狂ったように怯え、狂人となっていく。35歳のモーツァルトは、1791年12月5日に亡くなった。その亡骸は共同墓地に埋葬された。
先日、私の友人が演じたモーツァルト劇では、妻を寝取られたホーフデーメルによって撲殺されたとなっていた。『撲殺されたモーツァルト』はイタリアの数学者がモーツァルトの死因を解き明かしたものだ。しかし、学校の音楽室で見たモーツァルトは天才の風貌はしているけれど、どこか寂しげではあり、決して狂人とは思えない。私の中のモーツァルトは、それは全く事実でないとしても、繊細で孤独な天才である。
「金持ちは友情というものを、全く知りません。特に生まれた時からの金持ちは」。「「望みを持ちましょう。でも望みは多すぎてもいけません」。「結婚したらいろいろ分かってきますよ。今まで半分謎だったことが」。これらはモーツァルトの手紙だが、誰に出したものなのだろう。