7月4日はアメリカの独立記念日。アメリカにいる友だちは現地で何を見て、何を感じたのだろう。私は高校の社会で、アメリカの独立宣言、フランスの人権宣言を学び、人類は長い歴史の末にやっと人権と民主主義にたどり着いたことを知った。アメリカの独立宣言は1776年7月4日に議会で承認された。トーマス・ジェファーソンの起草によるもので、全文は忘れてしまったが、「全ての人間は平等につくられている」と書かれていたことはよく覚えている。
どうしてこんなことを覚えているかといえば、中学・高校の時の私の関心は「人間は皆平等」ということに尽きるような気がする。平等などあり得ないと言う人もいる。年老いた人もいれば若い人もいる。キレイな人もいればそうでない人もいる。足の速い人もいれば遅い人もいる。人間は様々なのであって同じはずはないと言う。そのとおりだと思う。人間は一人ひとりみんな違う。だからこそ違っているけれど平等であるということだ。違いを認め、しかし、そこにはいかほどの違いもないという思想が大事なのだ。
アメリカ独立宣言は「生存・自由そして幸福を求めることは侵すことの出来ない権利」と謳っていた。そして「人は政府という機関を持つけれど、その権力は被統治者の同意に基づいている」と規定している。しかもその政府が古いものと同じように人々を苦しめるなら(ここは私の解釈なので間違っているかも知れないが)、「権力の乱用や権利の侵害が度重なるなら、そのような政府を投げ打つことは人民の権利」と革命するの権利を認めている。
それから13年後に、フランス革命が起きた。フランス革命の最中になされた人権宣言は、フランス国旗に象徴されているように、自由・平等・友愛を掲げている。これは当時の人々の悲願というか目標だった。つまり当時の人々には、自由も平等もなかったのだ。友愛と訳している人もいれば博愛と訳している人もいるが、自由と平等に続けて愛することを基本とする考え方は画期的だと思う。それは未来を象徴している。どのような社会を作り出すべきかという積極的な思想だと私は思った。
イギリスの清教徒革命に続き、アメリカの独立宣言、フランスの人権宣言と、人間は真に平等な社会へと進んだのだと思っていた。けれどもその後に起きた歴史は、資源の確保という領土の奪い合いだった。自由は、富を得るためのものとなり、競争に競り勝つことが当然の権利になってしまった。多数決は単なる決め方のひとつだったのに、まるで金科玉条となった。
本当にこれでいいのだろうか、アメリカの独立宣言やフランスの人権宣言で、人々が目指したものは何だったのだろう。今朝の新聞は「ヒッグス粒子発見」と大きく報道していた。それがどのようなものか、私には説明できないけれど、宇宙がどのようにして生まれたのか、つまりは私たち人間がどのようにして誕生したのかが解明されるのだろう。誕生が明らかになるのであれば、消滅も明らかとなるのだろう。
それで、自由・平等・友愛に続いて、もっと確かな何かに行き着くのだろうか。この先がどうなっていくのか、興味深い。