「ここ来たかったの~」とミモロ。舞鶴を何度か訪れていましたが、ここ「舞鶴引揚記念館」は今回が初めて。
昭和20年、終戦を迎えた日本。戦後の復興が進む中、「舞鶴」が、終戦を迎えたのは、13年後の昭和33年と言えます。
かつて、多くの兵士や開拓団の移住者が、大陸に渡りました。そして昭和20年8月9日、ソ連軍の侵攻で、旧満州、中国、樺太、千島などには、日本に戻れず、取り残された人々が、兵隊350万人、民間人310万人の合わせて660万人に上るといわれます。
過酷な状況の中で、重労働などを強いられた人々…戦後、それらの人々の祖国への引揚げが始まり、昭和20年10月に舞鶴には、引揚げ第1船「雲仙丸」により、2100人の人々が祖国の地を踏むことに…。その後、何度も中断された引揚げ事業。最後まで引揚げ港として人々を迎えた舞鶴は、昭和33年に472人が最終船「白山丸」で戻ります。
ずらりと並ぶ引揚げ船…
その船に乗ること・・・それが命を繋ぐ唯一の手段だったのです。
九州、新潟などの港でも進んだ引揚げ事業ですが、舞鶴では、13年にわたり66万人余りの人々を受け入れたそう。
多くの人たちが、大陸に残され、過酷な状況の中で、命を失います。舞鶴では、遺骨16000柱を迎えることに…。
終戦から25年たった昭和45年に、引揚げ船が到着する舞鶴港を見下ろす丘に「引揚記念公園」が作られ、さらに昭和63年にここ「舞鶴引揚記念館」が開館。平和を祈る場所として、また悲惨な戦争の状況を後世に残し、二度と起きないことを誓う場所になりました。
館内には、引揚げ者の状況を物語る品々などが資料として多数展示されています。
多数の展示の中には、戦争当時の様子を示すものも…
「これが赤紙…」と資料ケースを見ていたミモロは、初めて実物の赤紙を目にします。
戦争への陸軍省から発行された召集令状です。
そして館内には、戦地へ出兵する人の姿…
それを見送る人の願いがこもった千人針なども展示されています。
「絶対、無事で帰って欲しい…って思いがヒシヒシと伝わってくるね~」と、送り出す人々の思いが胸に迫るミモロです。
さて、舞鶴港には、大陸からの多数の引揚げ者が到着しますが、ソ連軍の捕虜として、ソ連各所の収容所に送られ、終戦後も長期にわたり、重労働を強いられた多くの人がいます。
日本に戻れると思っていたのに、送られたのは、シベリアの奥地…。そういう人も数多くいたのです。捕虜収容所は、シベリアなど広範囲に分布しています。ソ連の国造りに従事させられた日本人捕虜。
その高い技術力は、いかなる状況でも発揮されたのが、日本人のすごいところ…でもあります。
塀で囲われた収容所…
そこの過酷な暮らしを示す模型も…
抑留者のわずかな持ち物に、その暮らしの過酷さが伝わります。
館内には、実際にシベリアの収容所を状況を体験できる場所が…
「この中に入るの…」と恐る恐る近づくミモロ。
中は、すごく冷えていて、シベリアの寒さの厳しさを体感…
「ブルブル…でも、本当は、もっともっと寒かったんでしょ…」と、ちょっとしかその場にいられないミモロです。
館内には、ボランティアガイドさんがいらして、展示物などの説明もしてくださいました。
シベリアに抑留された人の多くが、日本に戻れず命を落とした悲劇…。
「どれほど、日本に戻りたかっただろうね~」と、ミモロの目に涙が…。
命からがら帰国を果たした人たちに、舞鶴の人々は、温かく迎え、支援なども行ったそう。
ミモロがここ「舞鶴引揚記念館」を訪れたときは、アフガニスタンの問題は、まだ報道されていない時期。今、このブログを書いていて、アフガニスタンの人々の状況およびその思いが、強く迫ってきます。
平和な祖国が待っていると思える引揚げ者と、祖国を捨てて未知の国へと行かなくてはならないアフガニスタンの人々。その意識には、実は大きな違いがあると思われますが…。
ただ言えるのは、戦争は決して人々を幸せにしない!ということ。
舞鶴を訪れたら、ぜひ、足を運び、改めて平和の大切さを実感していただきたく思います。
*「舞鶴引揚記念館」の詳しい情報はホームページで
現在、緊急事態宣言のため、9月12日まで閉館中です。
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