蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

幸せは、考えてもやってこない。

2009-10-01 | 人生
義母は、日本古来の伝統的・正統派・宗教を信心している。
かなり熱心な信者で、お墓そうじ、お参り、お供え、読経、お布施など、
心物両面で、手厚く惜しみない熱情を注ぐ。
しかし、肝心の信心の元となる教義や歴史、時代背景、変遷などには、ほとんど無知。
そんなものは、すっとばして、毎日の行いで、信仰を実践している。
末端の信者というのは、ああいうものなのか。
お寺さんとしては、喜んで無条件で付いてきてくれる、大のお得意様である。

義母は、子供の教育にも熱心だ。
ただただ、がむしゃらに頑張っている姿は、尊敬に値する。
だが、具体的な、表面に現れているところは敏感に反応するが、深いところは関心を示さない。
なぜだろう?

先日、お彼岸の日に、義母の家に行った時の話題。
義母「このあたりの地域は、田舎なのに教育熱心よ。
先日も初めて聞いた話なんだけど、どこどこの誰誰は、一番上の子供さんは○○大学を出て、
○○に就職して、二番目は、これこれで・・・・優秀な人が、ごろごろいるのには、驚くわ」
と目を輝かせて説明してくれる。
「はぁ、そうですか。へえ、そうなんですね~」と、辛抱強く丁寧に、話を聞く私。
なるほど、人口の少ない小さなエリアの割には、比較的多くの優秀な逸材を輩出している。
そこで、私のコメント。
「この地の歴史を紐解くと、安土桃山時代にはすでに○○が、○○にまで足を伸ばし、
ひいては、その全国行脚に出かけた地域には、全国からも色々多彩な人が集まり、
そこで情報交換して交流したのでしょう。
それを、この地に持ち帰り、その結果、新たな文化の礎を築いたんでしょうね。
教育熱心な土壌は、昔の人々の交流がもたらした賜物かも知れません。
でないと、こんな田舎の小さな地域に、そんな画期的な教育の芽は育ちませんよね。
あくまでも私の想像ですけれど」

私がそう言うと、義母は赤い顔をするだけで、反応なし。
しかたないから、もう一度、手を変え品を変え、説明し直した。
が、結果は同じ。
そうか、そんな話、義母は興味ないんやー。
ある程度、年齢を重ねると、自分とは直接関係ないことは、面倒なのだろう。
あれだけいつも、うちの家は、どうたら、ああたら、と自慢してるのに、
肝心の背景となる、その地の歴史やルーツは、ご存知ないようだ。
自分の家や一族だけしか見ないようだ。
というか、見えてない。
蔵で私が見つけた、とても古い書物にも、「そんなん、あった? 知らないわ」と、無関心。
ふ~む、なぜなんだろう?
あれだけ家に尽し、家にために人生の大半を捧げたにも拘らず、
そういうことには、いたって関心が薄い。

私が想像するには、彼女の人生には選択肢がなかったからだろう。
嫁に来るのも、子育てするのも、自分で自ら能動的に選んでしたことではなく、
当時の時代背景によるものが大きいが、
狭い視野から頑なに、こうするべき、と、自らをがんじがらめにしたからだろう。
自分がもし道を能動的に選ぶとしたら、もっと深く考えるはず。
熟考しても、結果的には選ぶ余地がなかったので、
あるいは、熟考したが、消去法・消極的選択で、今の道がまだ一番マシだったので、
それ以後は、プロセスは、はしょって、結果だけを最重要視したのかも知れない。


目が開いたところで、どうしようもない現実が横たわっているとすると、
目が開かない方が、幸せだ。
毎日毎日の現実をクリアーしていくのが精一杯で、考える時間や余裕がなかったのだろう。
その方が、幸せかも知れない。
「幸福感の欠如」「目標がない」「生きがいがない」など、現代人の抱える問題ともつながる。

かつての日本のように、
目標に向かって、ひた走る方が、充実感、充足感に満ちあふれているだろう。
幸せは、あれこれ考えない方が、手っ取り早くやってくるものかも知れない。



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