徒然なるままに ~ Mikako Husselのブログ

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ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(9)~ヴュルツブルク・ロマンチック街道終点

2016年08月08日 | 旅行

ヴュルツブルクがこの度のバイエルン州周遊旅行の最後の街となります。

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ヴュルツブルクの歴史は公式な文献にカステルム・ヴィルテブルク(Castellum Virteburch)として初めて登場した704年からスタートしますが、マイン川左岸の高台マリエンベルクに骨壺墓地文化時代(紀元前1000年頃)のケルト人が住んでいたことが分かっています。ケルト人は防備を固めた居住地をブリガ(briga)と呼ぶ習慣があったので、virti-briga(ヴィルトゥスの城塞都市)というのが8世紀のVirteburchとなり、現在のWürzburgとなった可能性があります。現地名の字面だけ見ると、Würz-「香辛料」プラスBurg「城、都市」のように分析できるので、それが語源だと考える人が昔から多かったようですが、ケルト語源説の方が整合性があり、有力な説とされています。

ヴュルツブルクはローマ帝国の属州になったことはなく、ゲルマン民族大移動の時代(4-5世紀)にまずアレマン族が入居し、その後6世紀にはフランク族がこの土地を取得し、650年ごろからメロヴィング王朝の将軍居城となったようです。

1168年、赤髭王フリートリヒ1世(Friedrich I. Barbarossa)がヴュルツブルクで開催された帝国議会において、当時の司教ヘロルトに公爵(Herzog)の位を与えたため、以降ヴュルツブルクの司教は侯爵司教(Fürstbischof)と名乗ることが許されました。

近世では宗教改革、対抗宗教改革そして魔女狩りなど陰惨な歴史の舞台となりました。1631-34年にはスウェーデンの占領下にありました。18世紀末-19世紀初頭はフランス軍に占領されていたこともあります。1802年、まだ帝国代表者主要決議(1803)の前に既にバイエルン選帝侯軍がヴュルツブルクを占領し、同年11月に侯爵司教ゲオルク・カール・フォン・フェヒェンバッハは侯爵位を退位して、ただの司教になりまた。その翌日バイエルン選帝侯王マクシミリアン1世がヴュルツブルクを実質的にバイエルン領としましたが、改革を急ぎ、市民に愛されていた祝日をなくすなどで民衆にかなり恨まれたそうです。1806年2月、第3次対仏大同盟戦争に終止符を打ったプレスベルクの和約で、ヴュルツブルクは大公領となり、トスカーナから来たフェルディナント3世の手に渡りました。同年10月にはナポレオンがヴュルツブルクに来て、大公領はライン同盟(Rheinbund)に加盟。しかし1813年、ナポレオンから離れたバイエルンがオーストリア軍と共にヴュルツブルクを攻撃し、フランス軍を撃退。1814年、ヴュルツブルクは再びバイエルン領になりました。その時バイエルン選帝侯王国皇太子はヴュルツブルクに居を構えることが決められ、それにより1821年ルイトポルトがヴュルツブルクのレジデンツで誕生しました。随分と忙しい近世ですね。でも、これ以降はずっとバイエルンの一都市で現在に至ります。現在人口約12万5千人の小都市。

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私たちがヴュルツブルクに到着した日、8月1日は非常にハードな日でした。私のこの旅行記シリーズをずっと読んでいただいている方にはお分かりかと思いますが、この日私たちはまずネルトリンゲンで城壁の巡視路を歩き、ヘッセルベルクを登り、ディンケルスビュール観光もこなしていました。だから、ヴュルツブルク入りしたらいい加減ホテルで休んでしまっても良さそうなんですが… そうはならないのが私たち、というか。

何はともあれ夜7時ころにホテルにチェックイン。ホテル・リントラインミューレという三ツ星ホテル。部屋もバスルームもすごく手狭な感じで二つ星かと見紛うばかり。口コミが全く当てにならないケースでした。

ひと風呂ならぬひとシャワー浴びた後、旧市街へ繰り出し(ホテルは旧市街から2.4㎞離れている)、レストランを求めてふらふらしました。結局、レストラン・ヴュルツブルク(Restraunt Würtzburg)という市名を掲げた(でもtがよけいにある)ホテルレストランに決定。

地元のワイン、地元のスープを頂きましたが、メインはローカルなものとは関係のないウィーン風子牛カツにラムフィレ。美味でした。

    

 

食べて元気になったら、ちょっと市内観光。

夜のアルテ・マインブリュッケ(Alte Mainbrücke、古マイン橋)。1473-1543年に建立されたもの。1730年頃に聖人像が飾られたそうです。歩行者専用で、橋の端に居酒屋があるので、橋の上でお酒飲んでる人たちが一杯。

 

向こう岸の高台に見えるのはマリエンベルク要塞。706年にマリア教会が建てられ、1200年頃に教会を囲むように要塞と居城が作られ、増築に増築を繰り返して今に至る建物群。最後の増築は17世紀。

ノイミュンスター教会。バロックのファサードは18世紀のもの。

マリエンカペレ(聖母礼拝堂)。もう暗すぎて碌な写真にならない。

旧市街の散歩だけでは飽き足らず、私たちは高台のマリエンベルク要塞に登りました。もちろん駐車場のある所までは車で。でもそこから夜景が見えるところまで結構な距離を歩きました。
 

この日、私の万歩計アプリは22,000歩を記録しました。今回の旅行中の最高記録です。さすがに最後は足が上がらなくなってしまいました ( ̄∇ ̄;)

翌朝、そこそこ満足のいく朝食ビュッフェで機嫌を直し、新たな一日のスタート。 

ヴュルツブルクには普通の歩きの市内観光ツアーの他にオーディオガイドがあります。観光スポット11か所プラス街の歴史がデータとして入っています。順序不順で呼び出して聞くことも可能です。GPS機能がついているので登録された観光スポットのそばに来るとその観光スポットの解説がスタンバイします。3時間7.50ユーロ。チェックアウトに時間がかかってしまったので私たちはこのアオーディオガイドを借りて市内観光することにしたのですが、雨が降って散々でした。

まずはユネスコ世界遺産であるレジデンツ。ドイツバロックの最高峰と言われる宮殿で、侯爵司教ヨハン・フィリップ・フランツ・フォン・シェーンボルンの命により1720-1744年にバルターザー・ノイマン(Balthasar Neumann)の設計に基づいて建立されました。第2次世界大戦中の1945年3月16日の空襲で街の90%は破壊されましたが、このレジデンツは被害を受けずに済みました。現在博物館になっている部分の他、ヴュルツブルク大学のいくつかの学科や研究所が入っています。

  

ホーフキルヒェ(Hofkirche)は大学や研究所の入っている棟にあるので、入場料なしに見られます。祭壇分が2階建てになっている珍しい構造です。

   

入場料の要る博物館の方は観光客でごった返していたのと、かばんや上着などあらゆるものを預けなければいけないうえ、写真撮影も何もかも禁止という条件になんとなくもう嫌気がさし、「じゃあいいか」という感じで、レジデンツを出て旧市街の方へ。レジデンツから旧市街へ向かう道はホーフシュトラッセ(Hofstraße)というのですが、この道はダイレクトに聖キリアン大聖堂に続いてい。侯爵司教たちはここに埋葬されたので、生きている時から自分の埋葬場所をレジデンツから見ることができたのだそうで、いいんだか悪いんだか。。。

後ろ側から見た大聖堂とノイミュンスター教会。狭い広場を挟んで隣り合っているので、全体像がつかめません。

聖キリアン大聖堂。正面から。

ヴュルツブルクの聖キリアン大聖堂はドイツで4番目に古くて大きいロマネスク様式のホール型教会。11世紀に建てられ、18世紀にバロック風に模様替えされ(祭壇・聖歌隊席部分)、戦後の再建の際に現代的要素も取り入れられました(天井画等)。
      

お隣のノイミュンスター教会。ノイミュンスターは1000年の歴史があります。ここで3聖人キリアン、コロナート、トトナンが斬首刑にされたそうです。それを偲ぶために8世紀に記念碑が建てられ、教会の基礎になってます。大元はお隣の聖キリアン大聖堂同様ロマネスク様式のホール型教会で18世紀に例によってバロック風に改装されました。

バロックファサードの後ろには丸屋根。
     

面白いのは真ん中のカーテンの彫刻。

3聖人キリアン、コロナート、トトナン。

ノイミュンスター教会の裏手には少々分かりづらいのですがルーザムゲルトヒェン(Lusamgärtchen)と呼ばれる中庭があります。後期ロマネスク様式の歩廊に囲まれたなかなか風情のあるところです。そこには日本ではほとんど知られていないと思いますが、12世紀の吟遊詩人ヴァルター・フォン・フォーゲルヴァイデのお墓があります。彼が本当にそこに埋葬されたかどうかは実は定かではないのですが、伝説に従い恐らく18世紀中様に墓碑をここに置いたとのことです。


場所は変わりまして、マルクト広場のファルケンハウス。ロココファサードが素晴らしい。元はホテル&レストラン。現在は市営図書館とツーリストインフォメーションが入居してます。ロイヤルエアフォースによる爆撃で旧市街の90%は破壊されましたが、ファルケンハウスは戦後最初にオリジナル通りに再建されたそうです。

ファルケンハウスの向かい側にあるのは1377-1480年に建てられた後期バロック様式のマリエンカペレ。大きいのにチャペル(カペレ)というのは司祭権がないことによるそうです。建設費は金持ちの市民が負担しました。ここに埋葬されるのは金持ち市民の特権だったそうです。中の装備品は戦後に新調したもの。
  

なぜか「信仰のアップデート」という箱物が置いてあるのがわらえました。電源は入ってなかったので、どんなものなのか判断しかねますが。

マルクト広場の近くにある、1413年に既に文書に登場するレストラン・シュタッヘル(Stachel)。ここは市民暴動の連絡場所にもなったとか。今でもレストランです。

市庁舎は13世紀に建てられたロマネスク様式の塔のある建物なのですが、補修工事中で、包まれてしまっているので何も見れませんでした(´;ω;`)

アルテ・マインブリュッケ再び。どんより~
 

ヴュルツブルクにはもっと見どころがあるのですが、何分雨で歩き回る気力も萎えてしまい、オーディオガイドの紹介するポイントだけ見て観光を終了し、帰途につきました。

天候にあまり恵まれなかったせいもあるでしょうが、今回の周遊旅行は異常に疲れました。4年前のフランス横断旅行よりもずっとハードに感じました。多分、文化・歴史の詰め込みが多く、自然の景観を楽しんで頭を休める日が雨のせいでなくなってしまったからではないかと思いますが、年のせいもあるかもしれません。今後こういう旅行の仕方は止めようかと反省しております。


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ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(8)~ヘッセルベルク&ディンケルスビュール(ロマンチック街道の街)

2016年08月08日 | 旅行

ヘッセルベルク(Hesselberg)のことはネルトリンゲンの観光ガイドさんに聞きました。ネルトリンゲンに1500万年前に落ちた隕石は半径23-25㎞の窪地を作っただけではなく、そのエネルギーによってその窪地の外にも地質構造上の影響を与え、ヘッセルベルクと言う逆転地層を示す【証人山】ができたらしいのです。ジュラ紀の地層が表面に出ているらしいです。地学的な知識がないので、詳しいことは分かりませんが。とにかくフランケンアルプと呼ばれる地域で一番高い山です。

 

 

ダンナは、本当はネルトリンガー・リースと呼ばれる窪地の縁を成す丘陵地に行きたがっていたのですが、正確な地名が思い出せず、記憶していたのがヘッセルベルクだけでしたので、そこに向かった次第です。ロマンチック街道からは外れますが、そういう寄り道もよかろうということで。。。

 

天気が良かったので、平地に囲まれた標高689mのヘッセルベルクからの眺めは非常に気持ちよかったです。

  

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このなんてことないような山にも歴史があり、石器自体から継続的に人が住んでいたようです。紀元前13世紀から8世紀辺りには既にかなり堅固な防御壁に囲まれていたようです。紀元前6世紀から紀元前後まではラ・テーヌ期のケルト人が住んでいた痕跡もあります。紀元後1世紀にはローマ人が来ていましたが、ヘッセルベルクから少し離れたところにリーメス(国境防御壁)を築き、ヘッセルベルク自体は防衛システムに組み込まれなかったようです。

その後は、アレマン族とフランク族の境界を成す山として取ったり取られたりが繰り返されたようです。現在でもヘッセルベルクはアレマン方言(シュヴァーベン方言)とフランケン方言の境界線を成しています。中世・近世もこの山の持ち主はころころ変わり、1806年にバイエルン領となり、現在はキリスト教会の所有となっています。

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歴史はこの辺にして、実はヘッセルベルクの頂上付近には休憩所があるのですが、トイレがないんです。( ´゚д゚`)エー なので、当初の予定ではロマンチック街道に戻ってローテンブルク・オプ・デァ・タウバー(Rothenburg ob der Tauber)と言うところに行く予定だったのですが、それは離れすぎているということで、途中でトイレがないかどうか探しながらヘッセルベルクから一番近いロマンチック街道の街・ディンケルスビュール(Dinkelsbühl)を目指しました。そしたら見事に途中に何もなくて、ディンケルスビュールについて、最初に目にした営業中のカフェに飛び込んで用を足す羽目に… なんとも情けない話ですが、そういういきさつで到着した街でした。わざわざこの街を目指していらっしゃる観光客の方々には申し訳ないかもしれませんが…

 

取りあえずカフェで一息つきました。ザッハートルテで、「ザッハー」と書いてあるケーキは初めて見ました( ´∀` ) 美味でした。

 

カフェで一服している間に街のホームページを呼び出すと、なんと「ドイツで最も美しい旧市街」と言うタイトルが!それはまた随分と大きく出たものだ、と思いつつ現在位置とツーリストインフォのある場所を確認しました。

私たちはローテンブルガー門の近くに居たので、ツーリストインフォに辿り着くまでに観光のメインは見てしまいました。驚いたのは、いくらロマンチック街道とはいえノイシュヴァンシュタイン城に比べればかなりマイナーな所にもかかわらず日本人観光客グループが居たことです。女性ばかりだったような気がします。

実際かわいらしい素敵なところです。

    

 

   

 

   

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ディンケルスビュールは私たちが今回訪れた街の中では珍しく中世からその歴史が始まります。地形が防衛に適していたことと、重要な交易路・東海→ドイツ中部→イタリアとヴォルムス→プラハ→クラーカウの交差点が近くにあったことが理由で、ホーエンシュタウフェン家とヴェルフ家が覇権争いをしていた時代、1130年にシュタウフェン家の所領を結ぶ防衛拠点の一部として形成されたもので、元々カロリング朝時代に創られたヴェルニッツ川渡渉地点沿いの入植地を拡充させてできた街です。街の中心に大きな市場がなく、あちこちに分散していろんな市場(壺市場、パン市場、食用油市場、家畜市場、皮革製品市場など)があったことが特徴的です。街の象徴ともいえる聖ゲオルグ教会は1499年に完成。これ以降街並みは基本的に変わっていないそうです。それでも、ディンケルスビュールの旧市街は、19世紀から20世紀に大規模な拡張がなされました。市を完全に取り巻く壁が完成し、西側と南側には濠が掘られ、北にはローテンブルガー池が設けられ、東側はヴェルニッツ川につながる洪水調整池が造られました。つまり外側から見る旧市街の景観は15世紀とは大分違うわけですね。

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ツーリストインフォで入手した地図を手にぐるっと街を回って満足した後、私たちはディンケルスビュールを後にし、ロマンチック街道の終点(あるいは始点)であるヴュルツブルクに向かいました。本当のロマンチック街道を車で走らせると時間がかかってしまうので、アウトバーンを使ってびゅんと( ´∀` )

 

ヴュルツブルク編に続く。


 

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