徒然なるままに ~ Mikako Husselのブログ

ドイツ情報、ヨーロッパ旅行記、書評、その他「心にうつりゆくよしなし事」

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(6)~アウクスブルク・ドイツで2番目に古い街

2016年08月06日 | 旅行

7月30日、快晴の夏日和。私たちはパッサウを出発して、西へ210㎞余り車を走らせてアウクスブルク(Augsburg)に向かいました。

渋滞もそれほどなく、所要時間2時間ちょっとでアウクスブルク入りできましたが、例によって駐車場を探すのに手間取って時間を取られてしまいました。14時から始まる2時間の市内観光ツアーは13:30までにツーリストインフォでチケットを購入しなければならないとのことでしたので、車はダンナに任せて、私はチケットを買いに行きました。ツアーには市庁舎の「金のサロン」とフッガーライ(Fuggerei)の入場料も含まれているため、一人10ユーロとやや高め。ただしそのチケットで当日だけですが他の博物館でも割引が効きます。

下の写真はツーリストインフォのあるラートハウスプラッツ(Rathausplatz、市庁舎広場)。その名の通り市庁舎があります(3番目の写真)。
  

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日本語では「アウスブル」という濁音表記も時に見かけますが、ドイツ語発音としては大間違いです。ドイツ語のg、d、bは語末や他の子音の前では「硬化」します。つまり無声音k、t、pとなります。しかし現行の正書法ではこの無声化は表記には現れません。なのでドイツ語地名に多い「~burg」や「~berg」は常に「~ブルク」あるいは「~ベルク」と発音します。アウクスブルクの場合は、Aug-が子音sの前にあるのでこれも無声化し、【Auksburk】という発音になります。

ドイツ語の日本語表記で目立った間違いと言えば「w」の発音でしょうか。「フォルクスワーゲン(Volkswagen)」は英語読みですらないへんてこな読み方です。正しくは「フォルクスヴァ―ゲン」。英語読みなら「ヴォルクスワーゲン」。また作曲家「ワグナー(Wagner)」は正しくは「ヴァグナー」。

というわけで、アウクスブルクです。人口約29万人のバイエルン州で3番目に大きい都市ですが、ドイツでトリーアに次ぐ最古の都市でもあり、ローマ皇帝アウグストゥス(Augustus)が紀元前15年にローマ軍団駐屯地を置いたことに始まります。後にローマ帝国属州レティア(Raetia)の首都(総督府所在地)となりますが、レティアの軍事的中心拠点はパッサウに置かれました。ローマ帝国属州では例外的な措置ですが、恐らくアウクスブルクがドナウ川から南へ大分離れたところにあり、外敵を心配する必要があまりなかったせいかと思われます。アウクスブルクのラテン語名はアウグスタ・ヴィンデリクム(Augusta Vindelicum)、16世紀の修正地名はアウグスタ・ヴィンデリコールム(Augusta Vindelicorum)。AugustaはAugustusの女性形で、町名には女性形が普通だったために皇帝アウグストゥスの名を女性化して町名にしたと言われています。因みにトリーア(Trier)のラテン語名はアウグスタ・トレヴェロールム(Augusta Treverorum)で、現地名には後ろの部分しか残っていませんが、アウクスブルクの場合は前の部分しか残ってません( ´∀` )
ヴィンデルクムあるいはヴィンデリコールムの部分はその地に住んでいたケルト系部族ヴィンデリク族から来ています。トレヴェロールムはゲルマン系部族トレヴェル族に由来します。

アウクスブルクは神聖ローマ帝国時代には12世紀から自由都市、1316年から自由帝国都市となり、フッガー家(Fugger)やヴェルザー家(Welser)のような商家を中心に商業・金融業及び繊維業の中心地として繁栄しました。その繁栄の遺産(主にルネサンス期のもの)が現在観光客を喜ばせている次第です。もう少し詳しい歴史に興味のある方は取りあえずウィキペディアの記事などをご覧ください。

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市内観光ツアーでまずはアウクスブルクの誇るラートハウス(Rathaus、市庁舎)へ。現在補修工事中で、ファサードにはファサードの絵が描かれた布がかかっていて、本物が見れませんが、写真だとそれが意外と目立たないのがちょっと驚きです。このラートハウスは1615-20年にエリアス・ホルと言う建築家がイタリアンルネサンス様式で建てたもので、3階には神聖ローマ帝国の帝国会議場となるはずだった「金色のサロン(Der Goldene Saal)」があります。この建物はファサードなどの壁を残して全て第2次世界大戦中の爆撃で破壊されてしまったので、「金色のサロン」はもちろんオリジナルではなく、戦後の復元です。金メッキではなく本物の金箔を使用しているとのことです。その豪華さは圧巻で、見入って首が痛くなること請け合いです( ´∀` ) 写真は拡大してご覧下さい。
     

この「金色のサロン」が帝国会議場として使われることがなかった理由は30年戦争にあります。1648年の停戦までにアウクスブルクの人口は50%以上失われ、経済的な打撃も非常に大きかったので、比較的被害の少なかったニュルンベルクに和平交渉の舞台(1649)を持っていかれ、1663年からはレーゲンスブルクが帝国議会の常時開催地となり、アウクスブルクの「金色のサロン」の出番は神聖ローマ帝国において永遠に失われてしまったのでした。

それはともかくサロンの隣には侯爵執務室があります。そこはキンキラキンではありませんが天井や壁の木彫りは豪華です。

   

アウクスブルクの見どころの一つはルネサンス期の豪華な噴水なのですが、ラートハウスプラッツにあるアウグストゥス噴水は…

何やら野外コンサートの準備とかで噴水はこんな俗なものに囲まれちゃってました。ここから北の方にはドーム(Dom Unserer Lieben Frau、聖母大聖堂)が見えます。10-11世紀に建てられた元はロマネスク様式の教会ですが、14-15世紀にゴシック様式に建て替えたらしいです。遠くから見ただけなので詳しくは分かりませんが。
 

ここから右(東)に曲がって歩行者天国にはなっていない通りを降りていくと、水路のあるレヒ地区(Lechviertel)に行けます。『小ベネチア』とか呼ばれてるそうですが、ベネチアのように臭くありませんでした( ´∀` )
この辺りは18世紀までアウクスブルクの手工業の中心地で、たくさんの職工、皮なめし工、金・銀細工師などの工房がありました。
   

ブレヒトハウスはベルトルト・ブレヒトの生誕家で現在博物館になっています。


味気ない通り(バーフューサーシュトラッセ&ヤコーバーシュトラッセ)を歩いて更に東へ。
 

世界最古の現存する福祉住宅街フッガーライ(Fuggerei)に到着。
  

フッガーライの全体像は下の写真で分かります。煙突がたくさんありますが、現在はガス暖房のため使用されていません。

フッガーライは1521年に豪商ヤコプ・フッガーが資金提供して、生活に困っているアウクスブルク市民のための建設されました。1年間の家賃(管理費・光熱費などは除く)は、今でも昔の1ライン・グルデンの額面価値(現在0.88ユーロ)のままで、寄進者とフッガー一族のために毎日三通りの祈りを奉げることも家賃の一部とされています。管理費は月85ユーロとのことです。全部で67件に区分けされた長屋には140のアパートがあり、現在150人の入居者が生活しています。

フッガーライは現在でも寄進されたフッガー財団の資産によって運営されています。その運営コンセプトは500年前から変わらず「自助努力を支援する」です。【施し】ではないのです。

ここには8つの通りと7つの門があり、教会や城壁、城門まで備えられた「街の中にあるもう一つの街」ということができます。500年前から変わらない伝統として、城門は22時に閉まります。門限以降にフッガーライに入るにはオクセンガッセ(雄牛通り)にあるオクセン門を待機している夜警に開けてもらい、心づけを払う必要があります。22時過ぎは50セント、0時過ぎは1ユーロとかだそうです。

中央通り13・14番にあるアパートでかの有名なヴォルフガング・モーツァルトの曽祖父フランツ・モーツァルトが1681-1694年に住んでいたそうです。そこは博物館になっていて、ほぼ当時のままの住居を見学することができます。
寝室
 
 

居間
 
 

台所
  

中の設備などは現代化されても、基本的な間取りは昔のまま変わっていないそうです。面積は約60平方メートルで、寝室、居間、ダイニングキッチン、ユニットバス。日本でいう1LDKでしょうか。

現在のアパートのショールームもあります。
   

なかなか悪くないアパートです。これが年間88セントプラス管理費月85ユーロと言うから通常の福祉住宅と比べても尋常でない安さです。入居するにはもちろん条件があります。アウクスブルク市民であることと市の福祉課の要支援証明が公的な条件ですが、毎日のお祈りも「家賃」に入っていることと、その3つの祈りの中に『アヴェマリア』が入っていることで、カトリック教徒であることも暗黙の条件になっています。少し前まではお年寄りが優先的に入居できるようになっていましたが、近頃はシングルマザーも優先されるようになってきたのだとか。それでも現在の住民の平均年齢は63-4歳とのことです。

「街の中の街」と呼ばれるくらいなので、当然教会もあります。聖マルクス教会と言って、1581-82年にマルクス及びフィリップ・エドヴァルト・フッガーが建立したものです。

 

寄進者であるヤコプ・フッガーは、【富豪】ヤコプ・フッガー(Jakob Fugger, der Reiche)と通常呼ばれます。と言うのは、彼の父もヤコプ・フッガーだったからです。フッガー家の始祖と言えるハンス・フッガーは【富豪】ヤコプの祖父で、アウクスブルクのお嬢さんと結婚してアウクスブルクの市民権を獲得し、当時画期的だったバルヒェント(麻・綿混合布)の手織り職人で税金を払うほどお金持ちになりました。父ヤコプは手工業(手織り)ギルドから商人ギルドに転身して、布を始めとする様々なものの交易でフッガー家の富を増やしたとはいえ、まだ市内でもトップテンに入るような富豪にはなれませんでした。息子ヤコプは末息子として生まれ、稼業は兄たちが受け継ぎ、彼自身はイタリア・ベネチアへ留学して商業と特に複式簿記を学びました。兄たちが相次いで亡くなった後、息子ヤコプが事業を継いで、ハプスブルク家とローマ法王の金庫番として金融業で成功しました。ハプスブルク家が借金返済の代わりに採掘権を譲った銀山・銅山で【世界的な豪商】フッガー家の地位を築きました。彼は免罪符販売の金庫番でもあったため、宗教改革者マルチン・ルターの批判の対象となっていましたので、その批判をかわすために慈善事業フッガーライを創設したとも言われています。フッガーライ住民に彼とフッガー家のために祈らせていますが、フッガー家の業深さを思えば、フッガーライ10個建てても魂の救済には足りないのではないでしょうか。
フッガー家はフランス王家の破産やハプスブルク家の破産などで、相当その資産を減らしてしまいましたが、土地・建物や森林などは残され、現在残っているフッガー3家も十分に資産家です。 

さて、市内観光ツアーはフッガーライを出た後、レヒ地区の方へ戻り、かつての金・銀細工師の工房(一部現在でも継続)などを見学しました。

  

そしてまた坂を上がってマクシミリアン通り/モーリッツプラッツへ。かつての職工ギルドハウス(Weberhaus)があります。1389年に建設されたルネサンス様式の建物で、当時からファサードはカラフルなフレスコ画で飾られていたそうです。20世紀初頭にアウクスブルク市が買い取りましたが、損傷が激しかったので建て直し、その建物も第二次世界大戦の空襲で破壊されてしまいました。現在の建物は1959年に復元されたものです。


そして、ツアーの最後を飾ったのはフッガーホイザー(Fuggerhäuser、フッガー屋敷群)とその中のダーメンホーフ(Damenhof、婦人の中庭)でした。
 

フッガーホイザーはいくつもの隣り合った家を1511年に複合して、ファサードを統一した建物です。 現在もフッガー家所有です。中にはカフェやレストラン・居酒屋もあります。

ツアーはここで終了しました。16時になっていました。お昼を食べていなかった私たちはもうお腹ぺこぺこ。 ( ̄∇ ̄;) というわけで、市庁舎の地下のレストラン、ラーツケラー(Ratskeller)に食べに行きました。ランチタイムはとっくに過ぎていましたが、ディナータイムには早すぎたので場所によっては何も食べられないこともありますが、ラーツケラーはその点問題なしでした。

ラーツケラー・プファンネ(豚・牛肉、フライドポテト、野菜)とデザート(バニラアイス・キャラメルソースかけ)。
  

食後にもう一度フッガーライへ行って、博物館の歴史情報などを読み漁り、その後漸くホテルにチェックインしました。泊ったホテルはホリデーイン・エクスプレス・アウクスブルクという三ツ星ホテル。ツインルーム一晩95ユーロ(朝食付き)でしたが、パッサウの4つ星ホテルが一晩朝食付きで78ユーロだったことを考えると割高な感じは否めませんでした。それほど遅い時間だったわけでもないのにレセプションとバーにはたった一人しか居なくて、対応は悪かったですね。ホテル敷地内の駐車場はもう満杯だったので、2-3分歩いたところにあるショッピングモールの駐車場に車を止めろ、と言われましたが、私たちの車は既にそこに駐車してあって、荷物を下ろすために車をそこから出して、ホテル前にいったん止め、荷物を出した後にまたそこへ駐車したいと言ったら、ショッピングモールの駐車カードを「処理」して、これで駐車場から出られる、とだけ言われて駐車カードを返してもらったのですが、腑に落ちなかったのでもう一度質問しようとしたらすでに行列が… 仕方ないので駐車場から車出したら、案の定そのカードはターミナルに飲み込まれてしまいました。でもホテルの「処理」は1日8ユーロ。ホテルを介さず普通に清算したら、半額で済んでいたはずなので、噴飯ものです。結局車はちょっと離れた道路脇にただで問題なく駐車できました。この件で私たちのホテルの評価はかなりマイナスとなりました。

暑かったので、冷房がよく聞いていたのだけは助かりました。
  

翌朝、朝食ビュッフェでまたがっかりすることに。どこらへんががっかりかと言うと、温かいものがゆで卵のみだったこと、野菜がキュウリとトマトそして漬物コルニションしかなかったことです。二つ星や三ツ星ホテルでも朝食ビュッフェにかき卵、焼いたベーコンやソーセージ、簡単なサラダを出すところが結構あります。それに比べるとこのホリデーイン・エクスプレスは残念な部類です。

7月31日は前日の快晴とは打って変わって生憎天気が悪かったので、ダンナの希望もあって繊維工業博物館へ行きました。アウクスブルクは繊維業のメッカでした。1500年頃には人口約25000人で手織り職人(マイスター)は約1000人もいたそうです。かのハンス・フッガーもその一人でした。

 

博物館の中では写真を撮ってはいけないということでしたので、写真は博物館サイトから転載。
     

伝統的な機織り機から現代の全自動機械まで、と手動編み機から自動機械まで展示されていて、実際にそれを若い頃に職工として習ったというおじいさんがそれぞれ機械を動かして色々説明してくれました。なかなか興味深かったです。機械の他は繊維の作り方や染色・模様の印刷・モードの歴史等に関する展示物やビデオが見られます。

また特別展示でカーボン展(2016年11月6日まで)があったので、それも見てきたんですが、なんかもう頭がパンクしそうでした。分かったのは、カーボンは軽くて硬い、製造に手間がかかる、リサイクル問題未解決、でも未来のマテリアル、ということくらい。詳細には興味が持てなかったので、記憶のざるにも引っかからず流れ去っていきました~( ̄∇ ̄;)ハッハッハ

博物館ショップで博物館の指導で昔の機械で作った手ぬぐいなど色々なものが売っていたので、いくつかお土産を買ってきました。博物館の内容をまとめた本1冊、中世の発明と言う【バルヒェント】の手ぬぐい2枚、エプロン。

  

バルヒェントは縦糸が麻、横糸が綿で綾織されたもので、麻の丈夫さと綿の柔らかさを活かした布ということで14世紀に市場を席巻した代物だそうですが、19世紀末には衰退し、現在ではほとんど使われることが無くなっています。このバルヒェント手ぬぐいは一生使える、という触れ込みですが、それが納得できるほど厚みがあっていかにも丈夫そうな手触りです。これで顔なんか拭いたらちょっと痛そうな気はしますが( ´∀` ) 1枚19.90ユーロでした。

エプロンの方はジャカード織。こちらは綿100%で柔らかく、そこらで売ってるエプロンよりずっと厚みがあります。これは結構値が張って29.90ユーロでした。博物館ショップのものはちょっとネットで注文、というわけにはいかないようです。まさに「お土産」ですね。

さてアウクスブルクは【ロマンチック街道】のハイライトの一つでもあります。私たちはここからロマンチック街道を北上し、ヴュルツブルク(ロマンチック街道終着点あるいは出発点)へ向かっていきました。

ネルトリンゲン編へ続く。


ドイツ: ローマ帝国軍駐屯地ザールブルク

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(1)~ニュルンベルク前編

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(1)~ニュルンベルク後編

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(2)~レーゲンスブルク(ユネスコ世界文化遺産)

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(3)~ドナウシュタウフ・ヴァルハラ

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(4)~バイエルンの森・ガラス街道

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(5)~パッサウ・イタリアンバロックの街


ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(5)~パッサウ・イタリアンバロックの街

2016年08月06日 | 旅行

散々雨に降られつつバイエルンの森からパッサウに辿り着きましたが、ホテルがインシュタットというイン川を超えた向こう岸で、狭い街中からそこに至るには橋が一本しかないという状況から当然の帰結としての大渋滞に思いっきり巻き込まれ、パッサウの第一印象は最悪なものとなってしまいました。

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パッサウはイン川(左)、ドナウ川、イルツ川(右端の一番細い川)の三つの川が合流する、ドイツ・オーストリア国境の街で、ドライフリュッセシュタット(Dreiflüssestadt、三川街)という異名もあります。イン川(左)はドナウよりも幅が広く流れが速いそうですが、水深が浅いために大型船の航行はできません。

ローマ時代もドナウ川がゲルマニアとの国境で、パッサウは数ある要塞都市の一つで、カストラ・バターヴァ(Castra Batava)と呼ばれていました。バターヴァはそこで傭兵をしていた西ゲルマン系部族バターヴィ族から来ています。そのゲルマン系部族やローマ人たちがくる以前にいわゆるラ・テーヌ文化に属するケルト人たちが住んでいた痕跡があるのですが、どうしていなくなってしまったのかは不明です。地名「パッサウ(Passau)」はこの「バターヴァ(Batava)」が変形したものです。言語学に詳しい方なら、すぐにその「変形」がグリムの法則・第二子音推移によるものと分かるかもしれませんが、普通は想像もつきませんよね。

大まかな歴史の流れはレーゲンスブルクなどと同じで、ゲルマン民族大移動時代の5世紀にローマ軍が去り、6世紀にバイエルン族が来て、その後739年にキリスト教司教が来て修道院を創設し、パッサウは司教区に。

ただしパッサウは、ニュルンベルクやレーゲンスブルクとは違って帝国自由都市にはなれず、侯爵司教区(Fürstbistum)として世俗の権力を持ち合わせた侯爵司教(Fürstbischof)に支配されました。1225年に都市権を得て、市民の力が増し、14世紀には何度も司教支配に抵抗する反乱が起きましたが、毎回不成功に終わってました。

宗教戦争がヨーロッパを席捲していた1552年に「パッサウ条約(Passauer Vertrag)」が結ばれ、違う宗派に対する寛容を取り決めた「アウクスブルクの和議(Augsburger Religionsfrieden)」に至る道を決定づけることになる近世の歴史的舞台でもあります。

1662年と1680年に大規模な火災があり、町の大部分が焼失してしまい、イタリアの建築家たちが招聘された街の再建に携わったため、イタリアンバロックやロココ様式の建物が多く、ちょっとした小路などもイタリア風のアーチがかかっていたりして、ドイツの街には珍しい雰囲気があります。

1803年の神聖ローマ帝国の帝国代表者会議主要決議(Reichsdeputationshauptschluss)によって、教会所領の「世俗化」が決定し、司教区だったパッサウはバイエルンの一都市となりましたが、もしその当時住民投票のようなものがあったら、パッサウはバイエルンよりもオーストリア・ハンガリー帝国に所属することを選んでいたかもしれない、と言う地元の人たちもいるようです。1803年からパッサウは「眠り姫の眠り」についたという感覚が支配的なようですが、バイエルンについてもオーストリアについても「端っこ」であることには変わりがなく、地理的な条件から工業化には向いていないため、どちらにせよ近代化の波には乗れなかったのではないでしょうか。

パッサウは現在人口約5万人。うち1万3000人が大学生。もし大学がなかったら、もっと落ちぶれていたかもしれません。ちなみに秋田市の姉妹都市だそうです。

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私たちが泊ったホテルはドルメオホテル・パッサウという4つ星ホテル。

 

 

赤を基調とするモダンなデザインは好みではありませんでしたし、レセプションの女性が見習いか何かだったらしく非常に不慣れでチェックインがもたついたので、「4つ星ホテルの割には…」とホテルの印象はマイナス。

お隣がEdekaというスーパーで、お向かいがバス停と「P&R(駐車&バス・電車利用)」の大きい駐車場があったので、車を止めるところに困らなかったのはプラスの印象。

取りあえずトリップアドヴァイザーを頼りに歩いて行けるレストランを探し、イン川沿いをぶらぶら歩きだしました。

 

 

最初に入ったメキシコ料理のレストランはうるさ過ぎて耐えられなくなったので、料理を注文する前に退散。次に見つけたのがヴェンティトレ(23)というイタンリアン。天気が持つことを祈りつつ中庭の席を取りました。イカ、エビ、サケの盛り合わせ。パッサウの白ビール(ノンアルコール)を頂きました。ちょっと、というかかなり時間がかかりましたが、美味しかったです。デザートはチョコレートアイスのような… 残念ながらなんというものだったか忘れてしまいました。

  

 

食後は、恐らく昼間には渋滞で行くのが難しいだろうと思われた、ドナウとイルツに挟まれた高台の上にあるフェステ・オーバーハウス(Veste Oberhaus)に行きました。フェステは1219年に侯爵司教ウルリヒ2世によって、すでに建っていた聖ゲオルグ教会を囲むように作られた要塞居城です。ナポレオン1世がこの要塞を対オーストリア戦の拠点にしたらしいです。要塞は一度オーストリアに投降しますが、1815年のウィーン会議後はバイエルン軍の要塞兼監獄として使用され、「バイエルンのバスティーユ」と恐れられていたとか。現在は博物館になっています。

   

フェステからみたパッサウの夜景

翌朝、7月29日は10時半に始まる市内観光ツアーに参加する予定だったのですが、バスを降りる場所を間違えたのと、集合場所がツーリストインフォのある旧市庁舎前ではなく、聖シュテファン大聖堂の前だったため、時間通りに集合場所に辿り着けず、断念することに。結構急いで走ったりしたので、エネルギーを使い果たしてしまいました。

集合場所だと思って行った旧市庁舎。14-15世紀に建てられた富裕市民の住宅を繋げた建物。塔はネオゴシック。
 

仕方がないのでドライフリュッセンエック(Dreiflüsseneck、三川角)という三つの川が合流する地点に面する岬のような公園で一休みすることにしました。イン川を背にドナウ川とその向こうに聳えるフェステ・オーバーハウスを眺めながら、「ああ、向こう側はゲルマン領だったんだあ」などとぼんやりと考えていました。因みにフェステ・オーバーハウスの大砲はこちら側(市庁舎のある側)を向いて設置されていて、実際に市街地に向けて撃たれたという話ですから、それも怖いものです。あの高台が取れないと勝てないという戦略的に重要な位置であることがよく分かります。

  

 

休憩して少し回復してからイン川沿いを歩いて聖シュテファン大聖堂に向かいました。

途中にパッサウのシンボルの一つであるシャイプリングストゥルム(Schaiblingsturm)があります。

この塔はイン川岸に突出した岩の上に1250年城砦の一部として建てられました。防波堤の意味もあったようです。
塩貿易最盛期の時代には荷揚げされたものを収容する倉庫の機能もあったようです。数世紀の間に何度も改装・改修されてきましたが、
今の白っぽい壁は2004年の大規模改修時に塗られたものです。
費用26万ユーロをかけて、ヒーターやトイレも付けたので、住むことも可能になりましたが、壁の穴は残されました。
ツバメやコウモリが巣作りできるようにするため、だそうです。
2013年の大洪水時にかなり損傷したので、その補修工事も8万ユーロかかったと言います。随分とお金のかかる
シンボルですね。

 

聖シュテファン大聖堂は旧市街の最も高い所に建っています。聖シュテファンの歴史は紀元後720年まで遡りますが、戦争や火事で破壊・焼失してしまったので、現在残っているのは8世紀の修道院の回廊の一部〔中庭)、1407-1598年に建てられて、1662年と1680年の火事を生き延びた教会東部の後期ゴシック様式の部分と、火事の後1668-1693年に再建されたイタリアンバロック様式の部分だけです。この高台にローマ軍団のカストラ・バターヴァがあったので、その出土品が教会の中庭に展示されています。

イタリアンバロックの彫刻や天井のフレスコ画は完成度の高い美しさです。下のサムネイルをクリックするとオリジナルの大きさの写真が見られますので、ご堪能下さいませ。

   
 
この金色の説教壇も豪華で芸術的です。1720年代にウィーンの宮廷大工が製作したものだそうです。
 

世界一大きい教会オルガンが鎮座しています。このオルガンは5つのオルガンから成り、231の音栓と14388のパイプを備えています。地元のオルガン製作所アイゼンバルト(Eisenbarth)が1978–1984年にと1993年に製作したものとのことなので、教会ほど古くありません。

 

 

上の写真は教会の正面から撮りましたが、裏側(レジデンツプラッツ、Residenzplatz)に回るとゴシック様式の部分が見えます。中世のステンドグラスは残念ながら破壊されたままで修復されることなく、ただのガラスが嵌められています。

聖歌隊席のある丸い部分の左側に回るとゴシック様式とバロック様式の境界線がくっきりと見えます。

右側の何本も溝の入った柱のある方がゴシック、左側の平らで蒲鉾のような形の窓のある方がバロックです。
興味のある方は拡大して見比べてみて下さい。

 

様々な建築様式が混じっている教会は珍しくありませんが、ゴシックとバロックの組み合わせは私は今回初めて見ました。

ドームプラッツに立つ銅像はバイエルン王マクシミリアンで、ドナウに背を向け、ミュンヘンの方を向いています。前述の帝国代表者主要決議によって1803年からバイエルンの所領となったパッサウ市民たちに向けた「今後はバイエルン首都のミュンヘンの方を向いて、それに従え」というメッセージが込められているそうです。それまでパッサウはドナウ川を通商路とした貿易で栄えてきたので、どちらかと言えばドナウの方、すなわちオーストリアの方を見て生活してきたので、市民にとってはかなり強烈な方向転換だったようです。

昼休憩は大聖堂広場の教会から出て左手にあるカフェ・シュテファンスドーム(Café Stephan's Dom)で、疲れの吹っ飛ぶサマークレープ。クレープの中はラズベリーとバニラアイスがたっぷり。一人ではボリュームがあり過ぎるので、ダンナと分けて頂きました。店内には美味しそうなケーキもたくさんありましたが、何分暑かったので、ケーキと言う気分にはなれませんでした。

 

昼休憩の後、私は一人で市内観光ツアーに参加しましたが、ダンナは旧市庁舎の隣にあるガラス博物館に行きました。

ツアーは一人5ユーロ。旧市街の本当に狭い範囲しか歩きませんでしたが、それなりに面白かったです。洪水にまつわる話が多かったです。2013年の13m近くまで到達した洪水が記憶に新しいためでしょう。予報では9mという話だったのに一晩で一気に13m近くまで水位が上がったので、準備が全く役に立たずに甚大な被害が出たそうです。8mくらいの洪水は毎年1回はあり、そのくらいならパッサウ旧市街の住民たちはなれているらしいのですが…

下の家はヘルガッセ(Höllgasse、地獄小路)とプファッフェンガッセ(Pfaffengasse、牧師小路)の交差点に建っていて、ドナウ川岸からほんの数メートルしか離れていない低地にあります。歴史的な洪水の水位を丸い張り出し部分の二つの窓の間のところに記録してあり、2013年の水位は2階の窓が全部水没したことが分かります。サムネイルをクリックして拡大すると、その記録がよく見えるかと思います。2階の窓の半分より上の部分の記録は1954年7月10日の水位で、2013年の洪水が起こるまではそこが最高水位だったらしいですね。

 

 

パッサウの旧市街に残る中世的な小路。

   

 

下の写真は旧市庁舎の隣のガラス博物館が入っているホテル≪ヴィルダー・マン(Wilder Mann)≫の一部ですが、ドナウの方を向いて聖ニコラス像が飾ってあります。聖ニコラスは船乗りの保護聖人なので、その位置に取り付けられたとのことですが、この彫像は2013年の洪水で流されてしまい、一時行方不明になっていました。復旧作業の際に青年消防団がイルツ川合流地点近くのドナウに架かるルイポルト橋の下部の補強鉄骨に引っかかっている聖ニコラス像を発見し、泥を洗い流した後にヴィルダー・マンの所有者に返還したとのこと。プロフェッショナルな補修はされていないので、よく見れば汚れがしみとなって残っているのが分かります。

 

旧市庁舎からミルヒガッセ(Milchgasse、牛乳小路)を登るとイエズス会の教会聖ミカエル教会と現在はギムナジウムとして使われているかつてのイエズス会コレジオがあります。聖ミカエル教会は1677年の建立。内部の豪華な化粧しっくい細工は聖シュテファン大聖堂にも化粧しっくい細工を施したジョヴァンニ・バティスタ・カルローネと言う人の作です。

   

中は拡大してご覧ください。

聖ミカエル教会の全体像。ウィキペディアより転載。
 

イン川方面の狭い小路。
  

レジデンツプラッツ。パッサウで最も豪華な建物に囲まれた広場。司教居城があり、その中は教区の博物館にもなっています。
  

 

新司教居城の入り口の一つでロココ風の装飾が施されています。ここから入ると、「パッサウで最も美しいロココ調の階段室」があります。
   

    

「最も美しい」と言うから期待したのですが、ちょっと期待外れでした。目が肥えすぎてるのかもしれません。

これでパッサウ観光は終了です。

ダンナの報告によるとパッサウのガラス博物館は私的な収集だけあってかなり偏りがあり、そういうのが趣味の人たちには垂涎ものがたくさん展示されているのかも知れませんが、ガラスについて体系立って学ぼうという人には不向きで、バイエルンの森・フラウエナウのガラス博物館の方が分かりやすかった、とのことです。

 

翌7月30日。パッサウ最後の朝食を終えて、西へ210㎞ほどのアウクスブルクへ向かいました。

 

アウクスブルク編に続く。 


ドイツ: ローマ帝国軍駐屯地ザールブルク

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(1)~ニュルンベルク前編

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(1)~ニュルンベルク後編

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(2)~レーゲンスブルク(ユネスコ世界文化遺産)

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(3)~ドナウシュタウフ・ヴァルハラ

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(4)~バイエルンの森・ガラス街道