徒然なるままに ~ Mikako Husselのブログ

ドイツ情報、ヨーロッパ旅行記、書評、その他「心にうつりゆくよしなし事」

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(1)~ニュルンベルク前編

2016年08月03日 | 旅行

7月24日にザールブルク要塞(ヘッセン州)に寄った後、バイエルン州周遊旅行の第1ステーションであるニュルンベルクに向かいました。泊ったホテルはブルクホテル・ニュルンベルクというカイザーブルク(皇帝城)やアルプレヒト=デューラー・ハウスの近くにある三ツ星ホテル。なかなか伝統あるホテル、といえば聞こえはいいですが、プールはあっても、部屋のクーラーはないので、真夏日和の時に泊るのはかなり苦痛でした。また旧市街地内で駐車場がホテルの敷地内になく、徒歩5分くらいの公共駐車場を使わなくてはいけないので、車での旅行者には割と不便です。

部屋の中。

 

朝食ビュッフェ。アンティパスティなど前菜やサラダが豊富で、焼いたソーセージやベーコンなどもあり、三ツ星ホテルにしては豪華な方。

 

7月25日の10時半開始の市内観光ツアーには間に合わなかったので、午前中は地図を頼りに自力で観光。

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ニュルンベルク旧市街はペグニッツ川で二つの区域ゼーバルトとローレンツに分かれています。それぞれの区域に建つ教会の名前から来ています。街の発展は一番高い位置にあるカイザーブルクから徐々に南へと向かっていき、ペグニッツ川を超えた南のローレンツ区域はかなり計画的に街が形成されたことが通りの規則性からも伺われます。因みにニュルンベルク(岩山)の名前はカイザーブルクの建つ岩山から来ています。

ニュルンベルクは現在人口およそ51万人で、バイエルン州2番目、ドイツで15番目に大きい都市ですが、中世ではケルンに次ぐ神聖ローマ帝国第2の帝国自由都市で、商工業・手工業の中心地として栄えました。

ニュルンベルクに力を与えたのは1356年に発効したいわゆる「金色封書(Goldene Bulle)」というニュルンベルク法典で、これにより神聖ローマ帝国の皇帝選定方法などが定められ、ニュルンベルクは皇帝の戴冠後の第一回帝国議会の開催地となりました。ニュルンベルクの最盛期は1470ー1530年と言われています。30年戦争(1618ー1648)でニュルンベルクは経済的にかなりの痛手を受けたため、それ以降の意味のある建築物が建てられることはありませんでした。19世紀初頭にフランスに占領され、1806年にバイエルン王国に引き渡された後は工業都市として発展しました。

ただ、ニュルンベルクは神聖ローマ帝国の根幹法典の発祥の地であり、帝国議会の開催地で且つ30年戦争の和平交渉が行われた場所として政治的歴史的意味が大きかったため、ヒトラー政権下の「第3帝国」の象徴的首都として利用されてしまい、帝国(ナチ)党大会の開催地となり、かの悪名高い「ニュルンベルク法」も1935年9月に制定されました。 

第2次世界大戦でニュルンベルクの旧市街は約90%破壊されましたが、ニュルンベルク郊外の司法パレス(Justizpalast)は無事で、そこで1945年11月から「ニュルンベルク裁判」として知られる国際軍事裁判が行われました。ドイツ人に「ドイツ帝国の夢」を諦めさせるに相応しい場所、という意味合いがあったようです。もちろん「第2帝国」と言えるドイツ帝国(1871ー1918)の首都はベルリンでしたが、ナチスは長く続いた「ドイツ民族の神聖ローマ帝国(Das Heilige Römische Reich Deutscher Nation)」により強い象徴的繋がりを持とうとしていたので、その舞台となったニュルンベルクで戦犯を裁くのは理にかなっていると言えます。政治歴史的象徴には驚くほどの継続性があるのだとしみじみ実感した次第です。

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さて、ニュルンベルクはルネサンス期の画家・版画家・数学者として著名なアルプレヒト・デューラーの生まれ故郷でもあります。彼が1509年から住み、作業場としていた家が残されており、そこに続く道も彼に因んで、アルプレヒト・デューラー通りと名付けられています。最初の写真はアルプレヒト・デューラー通りにあることから「アルプレヒト・デューラー・シュトゥーベ」と名付けられたレストランですが、それ以外にデューラーとは縁も所縁もないけど、1559年に建てられた歴史ある木骨家屋です。2番目の写真がアルプレヒト・デューラー・ハウス。3番目の写真はアルプレヒト・デューラー・ハウスの向かい側にあるレストランで、1530年の建築。

  

聖ゼーバルト教会。中には入りませんでした。ここで皇太子ヴェンツェルが洗礼を受けたそうですが、その際彼は粗相をして、洗礼水を汚した、というエピソードが伝わっています。

 

ハウプトマルクトにある聖母教会。こちらも外から見ただけ。この聖母教会は1349年にペストポグローム(Pestpogrom)と呼ばれるユダヤ人虐殺事件の際に破壊されたシナゴーグの跡地に建てられました。教会は皇帝の宮廷教会として利用され、フュァシュペナーゲゼルシャフト(Fürspännergesellschaft)という貴族騎士団体の集会所としても使われていました。

西側の切妻の時計の下には「メンラインラウフェン(Männleinlaufen)」という仕掛けがあり、正午の鐘が鳴り響いた後に人形たちが皇帝の周りを3度回ります。この仕掛けは1356年にカール4世皇帝が前述の「金色封書」を記念して寄贈したものです。実際に仕掛け時計が教会に設置されたのは1509年です。

 

 

フライシュブリュッケ(肉橋)には面白いエピソードがあります。写真に写ってる建物が橋の名の元で、元場。小さなアーチの上に鎮座する雄牛がそのことを思い出させているのですが、雄牛の下にラテン語で「すべての物事にはじまりがある。この雄牛が子牛だったことはない」と書かれています。「はあ???」というのが正しい反応です。この為地元の人は訳のわからない話を聞いた時、「そんな話ならフライシュブリュッケでも聞ける」と言うそうです。

 

ムゼウムスブリュッケ(博物館橋)。ハウプトマルクトが7月29-31日の「吟遊詩人集会(Bardentreffen)」という音楽祭の準備のために封鎖されていたため、市場はムゼウムスブリュッケに避難。

  

ペグニッツ川を渡って聖ローレンツ教会へ。気温28度に耐えられなくなって、教会の中に入って涼みました。

  

この教会にはサクラメントハウスという聖歌隊席の柱に寄り添うように作られた大きな彫刻があります。アダム・クラフトという彫刻家がハンス・イムホフという人の依頼で1493-1496年に作成したそうですが、20mの高さの彫刻には圧倒されます。第二次世界大戦中の爆撃で彫刻の上の方は破壊されてしまったそうで、戦後に復元されました。

  

 

ムセウムスブリュッケから撮ったペグニッツ川の中州・シュット島。絵に描いたような風景です。

後部シュット島のペグニッツ川畔とヒュープナー門(西門)。

    

 

トレーデルマルクトというペグニッツ川東部の中州にかかる木造の橋ヘンカーシュテーク(Henkersteg)。ヘンカーは「死刑執行人」という意味。元は城壁外の死刑執行人塔があった所に架けられたことから命名されました。屋根付きの橋になったのは1595年に洪水で最初の橋が流されてしまった後に再建された時から。現在のヘンカーシュテークは1954年に再構されたもの。

  

ヘンカーハウス(死刑執行人住居)。現在は博物館。

マックスブリュッケから撮った風景。ハラートァ(ハラ―門)ブリュッケが見えます。

 

ヴァイスゲルバーガッセ(皮なめし工通り)。中世のニュルンベルクの皮なめし工は金持の代名詞と言ってもいいほど、お金持ちが多かったとか。ヴァイスゲルバーガッセは金持ちの皮なめし工たちが建てた木骨家屋が立ち並んでいます。

 

市内観光ツアーを終えて、ホテルのプールでひと泳ぎした後は近くのレストラン、ブルクシェンケで夕食。地元のビールを試そうと思い、トゥハーのウァフレンキッシュ・ドゥンケル(元祖フランケンの暗いビール)に挑戦。実はノンアルコール

 

前菜はベーコンサラダ。メインはニュルンベルクのブラートヴルスト(焼きソーセージ)とザウアークラウト。旦那のはヴルストヴァリエーション。

  

残念ながらお味の方は平均的というか、今一でした。

ヴルストはドイツの伝統食品ですが、中世では香辛料が高かったので使われることは稀でした。ニュルンベルクは交易路の交差する重要拠点であったため、他と比べればコショウが市場に出回る頻度は高かったのですが、コショウ入りのヴルストは非常に高価でした。そのことから、「コショウ入りの値段(gepfefferte Preise)」は高い値段のことを指すようになったそうです。

ヴァリエーションとして「塩入りの値段(gesalzene Preise)」という言い方もあります。塩も高い香辛料の一種でしたので。

後編に続く。


ドイツ: ローマ帝国軍駐屯地ザールブルク


ドイツ: ローマ帝国軍駐屯地ザールブルク

2016年08月03日 | 旅行

7月24日(日)、ドイツヘッセン州・ザールブルクにあるローマ軍駐屯地でかつてローマ帝国とゲルマニアの境界線の関所だった所に来ました。このローマ遺跡は、19世紀に発掘がはじまり、20世紀初頭にヴィルヘルム2世の命令で再建されました。ただし、正確なローマ時代の施設の再建ではなく、ヴィルヘルム2世の好みで中世風に変えられてしまった部分もあります。

入場料を払ってはいる部分はかつての要塞ですが、そこに至るまでにvicusと呼ばれる駐屯兵の家族や軍御用達の商人たちの集落の遺跡を見ることができます。いくつかの井戸と地下室などしか残ってないので、面白くないと言えばそれまでなんですが。

 

下がvicus の様子と建物の構造を示すイラストです。

 

要塞の入り口。二つの塔の間隔はヴィルヘルム2世の命によって、オリジナルよりも狭められています。

 

 

ザールブルク近辺の模型。峠を塞ぐ形で建っているのが分かるでしょうか?
 

地図上の赤線がローマ帝国とゲルマニアの国境線で、赤丸が要塞や見張り塔のあった場所を示しています。この550㎞に及ぶ国境線はLimes(リーメス)と呼ばれ、ユネスコ世界遺産になっています。

ローマ帝国とゲルマニアの国境線は本来自然の国境線であるライン川(左の縦に流れる川)とドナウ川(下の横に流れる川)でした。ライン川とドナウ川に挟まれた三角地帯を紀元後2世紀からローマ軍が占領し、ライン川からドナウ川に至る国境線を短縮しようとしたため、このような防御設備が必要になったわけです。

 

 

 

 

 

 

見張り塔の見取り図。3階建てで、入り口は2階。1階には貯蔵庫。

 

ザールブルク要塞の見取り図。 

 

ヴィルヘルム2世が自身で設置したという礎石。「礎石。1900年10月11日、ヴィルヘルム2世皇帝によって置かれた」と書かれています。

 

神殿。ローマ帝国の徽章と、皇帝の似顔絵の書かれた皿などが祀られています。

 

将校たちの食堂。椅子ではなく、カウチに寝そべって食べていました。

 

こちらは兵たちの宿舎。8人で1部屋共有していました。
 

要塞内に設置された”Taberna”(ラテン語「食堂」)で、ローマ料理が楽しめます。
 

靴と骨加工工房及び食堂のキッチンのモデル。工房がザールブルクの要塞内にあったという証拠はありませんが、他の要塞内の工房をモデルに展示してあります。   

パン焼き釜。

 

ザールブルク要塞の近くのリーメス。柵はもちろんオリジナルではありません。柵の後ろの堀はもっと深かったのですが、時と共に均されてしまったようです。それでも痕跡は明らかです。

 

ザールブルクは既に紀元後90年には簡単な木造要塞が作られていました。現在の再構された要塞は紀元後135年に建てられ、約500人が駐屯していたようです。A.D.260年にアレマン人戦争の際に陥落してしまったので、大して長い期間は持たなかったことになります。中世から近世まで、この要塞は採石場となっていました。この要塞の石は主にヴェーァハイムのトローン修道院の教会建設に転用されたそうです。 18世紀にはそこがローマ遺跡であることが知られていたようですが、本格的な発掘調査が始まるのは19世紀末からです。帝国リーメス委員会によって1892年にリーメスの調査がテオドール・モムゼン指揮の下開始され、委員会に属していたルイス・ヤコービが1897年ヴィルヘルム2世皇帝を説得し、ザールブルク要塞再建を実現したそうです。

ヴィルヘルム2世の趣味で考古学的な間違いが含まれる施設となってしまいましたが、建設からすでに100年以上経過しており、この施設自体が文化財保護の下に保護されているので、その間違いを訂正することはできないとのことです。