わくわく記録帳

一日に見聞きすることをすべて記録すると文庫24冊になるらしい。
そんなに!?
記録しておかないのはもったいないよね。

エッキョウってなんだ?

2012-05-22 00:33:50 | オトナの学び
ちょっと前に、尊敬する先輩タナカジュンさんが
「越境学習、越境学習っていうけどさ、営業職に従事してるこの時期の新入社員の越境ぶりったらハンパない。毎日あらたな場所に、今までの自分が持っている文脈では通用しない場に飛び込んでいくのだから」(相当に乱暴な意訳です、スミマセン)とツイートされていた。


あぁ、なんか、あたしがここんとこ抱えてたもやもやがちょっと晴れた気がした。


そう、これだけいろんなところに出かけていて、おもしろそうな学びの場があれば飛びついていたわたくしですが、ここ数か月は(物理的な理由もあるのだけれど)、「越境学習」ってものに少々懐疑的でありました。


そもそも、越境学習ってコトバ自体、誰の定義によるものなのかわかんないし、この分野の第一人者である荒木先生ご自身が、いったい誰の造語なのやら、とおっしゃったとかとか・・・・越境して学んでいるっていう状態を示しているに過ぎないのにね。


以前、イタヤさんのLカレッジでお話ししたときに、あたしなりの越境学習の定義を


会社が用意した教育プログラム以外で自発的に学ぶ
 例えば…社会人大学院、セミナー、習い事・・・


専門領域外を学ぶ
 例えば…人事関係者がアカウンティングやマーケティングを学ぶ…


大前提として・・・
越境するからには「ホーム」がある  戻ってくるべき場所≒会社や専門領域がある


わたし自身にとっては後者の方が「越境」感は強い・・・かな?


としました。


そのときの資料を見ても、しゃべったことを思い出しても、越境学習の効果は知識や知見が見についた、っていう即物的かつわかりやすいことではなくって、そこで出会う人がステキだ、ってことに終始しておりました。まぁ、なんとチープなwww


学びのゴールに、スキルを身につける、○○の資格を持つ、○○になる…を掲げた垂直型の学び(語学、簿記会計、ロジカルシンキング…)というよりも関心が関心を呼ぶ“バルーン型”に近いんじゃないかと。
越境“学習”というより越境“ネットワーク”の中で経験する…に近い。だから楽しく学べているんじゃないか??
なんて締めくくっておりました。


で翻って。


カイシャの中では、全社共通の人材育成施策の立案、実行なんて役割も担っております。学ぶわたしってだけではなく、誰かを学ばせるわたしでもあるわけです。


誰かを学ばせるわたしの立場から見たときに、(前者)の越境学習を礼賛するか、って言ったら、はてなマークがアタマの上に飛びます。


カイシャで、仕事で、さらに風呂敷広げちゃうと、その人の生活/人生を豊かにするための教育を、”外”で”自発的”にとは言えんのです。
研修やOJTという形だけにとどまらず、10万時間だかを過ごすカイシャの中で、もっとちゃんと学ぶことってできるんじゃないの?と思っているのです。


あたし自身が、生活の9割を仕事に割いてた時代にいわゆる”学習”してたか?って言ったら、してない。けど、日々の仕事の中で、いろんな人にもまれながらそりゃーたくさんの経験をし、痛い思いもし、それが今の血肉になっている(と思っている)。
もちろん、陰となり日向となり支えてくれた人がいてこそ、ですけどね。


そういうこと、な気がするのです。


うちの父は、サラリーマン生活50年(計算合わないけどwww)を迎え、サラリーマンすごろく的には「あがり」と言っていい役職につきましたが、物心ついてからこっち、あたしは父が”勉強している”姿を見たことがなかった。本を読んでいる姿も見たことなかった。日経すら読んでなかったし。


でも、一部上場企業でいっぱしに仕事してきて、経済や産業の動きについては、一生懸命インプットしているあたしなんかよりもずーっとたくさんのことを知っていたし、実際にそれらの情報をつかって意思決定しているわけです。


勉強会だなんだと”学習”なんかしなくたって、ちゃんと知識なり知見なりを身につけている。それは、その当時のニッポンがまだまだ余裕があって、日日の仕事や組織の中に余力があって、その中で学べたんだろうとは思うのだけど。


後者の”越境”は、経験をデザインすることにも通じるのかな?違和感のある経験や、アウェイな場所/領域は視野を広げることにもなるから、意識的にやるといいような気がするなー。
よくある話だけど、組織の中で実務をきわめて来た人が、じゃあ、お前リーダーやれ、と言われて、いやぁ、僕は組織を束ねたり統率していくようなことはしたくないんです、となっちゃったり、実務エキスパートとして優位性を持っていて本人もそれが自分の価値だと思っていたらば、他部署に異動・・・同じようにはできないから自信をなくす・・・なんてことはよくある話です。


コミットせずに動かしてしまうカイシャの問題もあるけど、不本意な異動であってもそこに「何を」見出すか、はできる。フレームを変えられるだけの引き出しだったり、考え方だったり、まさに多様な価値観なりに触れていてこそ、できることなんだと思う。


あ、人事権によって異動した経験が、実は、その人のキャリアを形成していく上で意味を持っていた、という話に通じるねー。


何が言いたいのかわかんなくなってきたwww
ひとつ言えることは「あさって」を考える、ってことなんだと思う
これはとびラー講座のときのお話しだけど、美術館は無用の用。なくてもどーってことない。けど、美術館の存在が”何か”にはなるし、明日すぐに役立たなくてもあさってには役立つかもしれない、ってこと。人材育成もそうだなぁ、って思った。明日すぐに役に立たなくても長い年月の中で必要となることや深み、幅、みたいなことは機会として提供していかなくちゃ。


あさってってメタファは、もうひとつおもしろい解釈ができるな、って思っている。それは「ちょっと違うんちゃう?」っていう見当違いのあさって。見当違いなことは、イコール幅でもある。そういう無駄なことの中に、学びや気づきがあふれているような気もするのです。


それが、後者の”越境”の効果ではないかと。


そしてそれは必ずしも、カイシャの外で学ばなくっても、違和感があったり、自分にとってアウェイなことをすることでも実現できると思うのです。


あー、またオチもなんにもなくなっちゃいました(^_^;)


アウェイなことをどれだけ経験できるか、その状況を受け入れられるメンタリティも含めてね、それが何よりの”越境”なんじゃないかなーと思った次第。


というわけで明日は、イシヤマさんの博士論文の発表会です。
テーマが『プロフェッショナル人材の育成(!?)を考える : 越境学習と新たな「キャリア」』ですよ。「?」がついてるところがまたおかしいけど(笑)
あしたまたお話聞いてどんな感想や考えに至るか、自分で自分が興味深い。またリフレクションしよ。







コメント
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