孫子女子勉強会の田中先生と大加瀬さんが翻訳された絵本。「おかねをかせぐ!」「おかねをつかう!」
先月の孫子女子勉強会で、「新刊が出ます!絵本です!うさぎちゃんです!」とお聞きして、制作秘話?もちょこっとお聞きしてから発売を心待ちにしておりました。
それなのに、うっかりしていたら、Amazonでは早速売り切れ。あらららーーーと焦って在庫検索してhontoで手に入れて、わくわくしながらページをめくる。
ん?んんんん?
わからない…。
これが1回目を読んだときの率直な感想でした。
絵本なので、文字量は少なく、平易な言葉で書かれているので、日本語としてはもちろん理解できる。けど、意味がつかめずにもやもやもやったーず。
そう、このときのわたしは「情報」としての読書をしていたのでした。
せっかくの絵本なのだから、と2回目はべたにひと文字ひと文字、ひと単語ずつ噛みしめながら読んでみた。
3回目は挿絵ををじっくり眺めてみた。
そうすると不思議なことに、受け取り方、受け止め方が少しずつ異なってくるのですよ。相変わらず意味はじゅうぶんに掴み切れていない気がするけど。
「つかう」と「かせぐ」ってセットなのかなー。どっちが先の方がハッピーなのかなー?
つかうのが得意な人、苦手な人、かせぐのが得意な人、苦手な人、どっちも得意な人、いろいろいるよなー。
「ほしい」じゃなくて「買いたい」って欲求はどこがどう違うんだろう? ほしい→手に入れる その手段としての「買う」であって、「買う」ための付属品?としてのお金なのかなー。
にんじん2本でロケット買うって答えを出してもよかったんじゃね? 1本残して次に買いたいものができたときに使うとか、そういう教えもあったんじゃないかなー。
「買う」=選ぶっていうのは確かにそうかも。にんじん3本で買えるものを選ぶ…それは「あきらめる」行為ではなく「選びとる」って行為なんだな。
「もらうのはうれしいけど、あげるのはイヤ」、こういう高飛車な発言、結構好き(え?) あげるのがイヤって言ってたのに、自分の歌声が多くの人に届くことが目標になるっていいよねぇ。再分配的な発想で。
とかとか、あれこれ考えを巡らせた。
おかねをかせぐってこういうこと!
好きなことでおかねをかせぐ。自分が直接働きかけて回収できるものは限界があるけど、別の手段を講じればそれが何倍にも何十倍にも広がる。
おかねをかせぐってこういうこと!の「こういうこと!」の意味がずーっとわからなくて、今でもわかってはいないんだけど、でも、「そういうこと?」「それともこういうこと?」とあれこれ考えを巡らせるってことが大事な気がするよ。これこそが、読書を情報としてではなくて、古典として読むってことなんだねぇ。
絵本を「絵」本として読んでみて思ったこと。
あぁぁあぁああああぁ、なんてわたしは「効率」に支配されちゃってるんだろうってこと。
まずは字面を追って、意味をとらえようとしてしまった。ビジネス書や専門書の読み方としてはそれでいいんだろうけど、絵本でそれをやっちゃもったいない。絵から想起すること、少ない文字量から想像すること、行間を埋めて行くこと・・・そういう余地や余白があるのが絵本のいいところなのにね。だから子どもは何度も何度も同じ絵本を読み返す。読むたびに新しい解釈ができるからなんだろうね。わたしだって、子どもの頃はそういう読み方をしていた。挿絵から空想(妄想)を広げて、自分で別の話を作ったりして。
で、じっくり読む、見るとほんとにおもしろい!
背景が出納帳のごとく罫線になっていたり、サニーのおうちの木がすっかり葉っぱがなくなってたり、サニーのママのスカートがかわいい♡とかとか。
みんなのお気に入りポイントを聞いてみたり、日を置いて読んだときに自分がどう感じるのか、どう考えるのかもめちゃくちゃ興味深い。こんなふうにいろんな味わい方ができるのも絵本ならでは、な気がする。読み重ねることで、解釈を積み重ねることができる。ということで、しばらく経ったらもう一度読んでみようと思います。
読んだ後にあれこれ考えを巡らせる、なんて贅沢な読書なんでしょう。
あらためて、田中先生、大加瀬さん、ステキな絵本を世に送り出してくださってありがとうございましたー!