うーん
長岡先生の授業は、授業そのものは「へぇ」「ほぅ」という気づきがたくさんあって楽しい。
けど、振り返ると「で、なんだったんだっけ?」と訳わかんなくなるんだよねー。
この前の授業では学習のメカニズムがテーマで、行動主義とか認知主義とか、学習していくときの脳内のメカニズムやヒトはどう学んでいくか?という教育学的な視点での話がメイン。
でも、話の本質はそんなところじゃなくって、先生が強調されていたのは
学習とは何か?「学び」で何を達成したいのか、どんな効果が得たいのか?を考えることが置き去りにされている
企業における学習、学びはその企業が持つ課題や優先事項、状況によって変わるものだから、一律には定義できない。
でも、この原点=学習とは何か?を定義することをきちんと行わないで、学習や学びは語れない、ということ。
つまり、何を学習したいのか、そして、どんな効果が得たいのか、によって、どう学習するかの方法論が異なってくる。
例えば、研修なんかでよくとられる協調学習・・・ワークショップなど、複数のメンバーがあるテーマについて討論したり、ワークしたりしていくスタイル。
協調学習の効果っていくつかあるんだけど、語ることで聴く力もついていく、というのは二次的で、本来の目的は新しい視点や発見が得られること。自分の考え以外にほかの考えもあるんじゃないか?っていうのを探っていくこと。
内省=振り返りの工程を踏むことで人は深く理解もできるし、前進もできる。でもなかなか一人では内省できない。そんなときにこの協調学習っていうのは効果的なんだと思う。
で、この協調学習をより高次でサポートするのがストーリーテリング。
これは話法の手法のようにとられているけれど、解釈はそれにとどまらない。
論理的に考えることだけが理解する、学ぶということではない。それ以外の方法でより深く理解することができるんじゃないか?っていうアプローチ。
論理以外の理解の仕方をナラティブモードと呼ぶ。ニホンゴ的には「腹落ち」する、ってことかな?理解の先の共感を得るには、理屈だけじゃないよ、ってこと。
体験談を聞くと、へぇ、そうか~と思ってしまうのは、こういうことなんだ。
でね、あたしがまたまた「で、なんだったんだっけ?」となってしまったのは
学びの定義を決めるようとしたとき、”誰にとっての”定義なんだろう?ってこと。
学習者?その上司?企画部門?ベンダー?
うしろ2つは置いといて、往々にして、学習者の意向よりも、上司(決裁者)の意向が色濃く出るよね。その場合、どっちを優先すべきなんだろう?そして、ふたつの利害がぶつかってしまったらどうなるんだろう???
ぐるぐるぐるぐる・・・・。
今、前年比10%という予算のなかで、教育計画を企画しています。
この中で何ができるか、何をすべきか、どういう効果をとりに行くのか、そしてそもそも”誰のための”教育、育成、学び、学習なのか????
そんなことを考えて、毎日毎日ぐるぐるぐるぐるしています。
長岡先生の授業は、授業そのものは「へぇ」「ほぅ」という気づきがたくさんあって楽しい。
けど、振り返ると「で、なんだったんだっけ?」と訳わかんなくなるんだよねー。
この前の授業では学習のメカニズムがテーマで、行動主義とか認知主義とか、学習していくときの脳内のメカニズムやヒトはどう学んでいくか?という教育学的な視点での話がメイン。
でも、話の本質はそんなところじゃなくって、先生が強調されていたのは
学習とは何か?「学び」で何を達成したいのか、どんな効果が得たいのか?を考えることが置き去りにされている
企業における学習、学びはその企業が持つ課題や優先事項、状況によって変わるものだから、一律には定義できない。
でも、この原点=学習とは何か?を定義することをきちんと行わないで、学習や学びは語れない、ということ。
つまり、何を学習したいのか、そして、どんな効果が得たいのか、によって、どう学習するかの方法論が異なってくる。
例えば、研修なんかでよくとられる協調学習・・・ワークショップなど、複数のメンバーがあるテーマについて討論したり、ワークしたりしていくスタイル。
協調学習の効果っていくつかあるんだけど、語ることで聴く力もついていく、というのは二次的で、本来の目的は新しい視点や発見が得られること。自分の考え以外にほかの考えもあるんじゃないか?っていうのを探っていくこと。
内省=振り返りの工程を踏むことで人は深く理解もできるし、前進もできる。でもなかなか一人では内省できない。そんなときにこの協調学習っていうのは効果的なんだと思う。
で、この協調学習をより高次でサポートするのがストーリーテリング。
これは話法の手法のようにとられているけれど、解釈はそれにとどまらない。
論理的に考えることだけが理解する、学ぶということではない。それ以外の方法でより深く理解することができるんじゃないか?っていうアプローチ。
論理以外の理解の仕方をナラティブモードと呼ぶ。ニホンゴ的には「腹落ち」する、ってことかな?理解の先の共感を得るには、理屈だけじゃないよ、ってこと。
体験談を聞くと、へぇ、そうか~と思ってしまうのは、こういうことなんだ。
でね、あたしがまたまた「で、なんだったんだっけ?」となってしまったのは
学びの定義を決めるようとしたとき、”誰にとっての”定義なんだろう?ってこと。
学習者?その上司?企画部門?ベンダー?
うしろ2つは置いといて、往々にして、学習者の意向よりも、上司(決裁者)の意向が色濃く出るよね。その場合、どっちを優先すべきなんだろう?そして、ふたつの利害がぶつかってしまったらどうなるんだろう???
ぐるぐるぐるぐる・・・・。
今、前年比10%という予算のなかで、教育計画を企画しています。
この中で何ができるか、何をすべきか、どういう効果をとりに行くのか、そしてそもそも”誰のための”教育、育成、学び、学習なのか????
そんなことを考えて、毎日毎日ぐるぐるぐるぐるしています。
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