わくわく記録帳

一日に見聞きすることをすべて記録すると文庫24冊になるらしい。
そんなに!?
記録しておかないのはもったいないよね。

どっちがホームでどっちがアウェイ?越境的学習のメカニズム出版記念イベントに行ってきた

2018-03-14 06:51:52 | オトナの学び


気づけばもう1週間も前のことになりますが、大学院の先輩でもあり、尊敬する石山さんの新著「越境的学習のメカニズム」の出版記念イベントに行ってきました。
せっかくだからと図々しくグラレコも描かせてもらっちゃいました♡
(毎回、自分の描いたグラレコって写真撮り損ねちゃうので、ご参加の皆さんがSNSにアップしてくださっているのを、こっそり拾っておりますm(__)m 今回は事務局のナガサワさんの投稿からこっそり拝借。この切り取り方、素晴らしすぎる!!!)


2010年頃、石山さんから越境学習の実践者としてインタビューを受けたことがあるけど、その頃と比べると、世の中は確実に変化している。だって、その頃は「越境学習者は隠れキリシタン!」なんて言われてて、勉強会に行くと言って会社を出ると白い目で見られるから、「合コンに行く」って言ってたとかなんとか(笑) 合コンはさておき、社内に公然と越境学習、さらには副業・複業してる、なんて言える雰囲気じゃなかったわけで。それが今や、企業が主導で、社員に越境体験をさせるわけですもの。すごい変化だ。


この新著、中原先生や長岡先生がべた褒めするなど、「そうそう、そういうことなのよー!」とこれまで、ひっそりと暗黙の了解の上に語られてきた越境学習について、その定義や範囲、効果について、丁寧に書かれていて、とーーーーっても勉強になった。これ、完全マスターしたい。本当に多くの人が待っていたご本だと思うのですよ。


そんなご本の出版を記念してのイベント。
相変わらず石山さんの講演(トーク)はキレッキレで、ついつい聞き入っちゃってきちんと記録できなかったことは内緒です(汗)
石山さんは、越境学習を「自分が思うホームと、自分が思うアウェイを行ったり来たりすること」と定義されていて、この「自分が思う」という但し書きに大いに納得、共感、腹落ち。


ずいぶんと昔、自分の越境学習について、長岡先生の授業でお話ししたことがあって、そのときに、自分なりのまとめとして、「越境学習っていいもののように思うけど、結構、罠があるよね。行った先が気持ちよくなって帰ってこない罠とか、越境してると思ったらいつもの顔ぶれで全然越境じゃなかった罠とか…」というようなことをお話しした。
そうか、往還かーーーー!と今更ながら腑に落ちたわけです。


チープな表現ですが、
外で学んだことを仕事や自分の活動(=ホーム)で活かそうとする。そうするとやってみるとできることもあれば、できないこともある。足りないと思ったら、また外に出て学ぶ。そんなサイクルが学びなんだと思うわけです。
一方で、たまぁにあるけど、外に出ていることが気持ちよくなっちゃう。特に今の会社や仕事にちょこっとでも不満や居心地の悪さを感じているときには、「へへん、わたしには外の世界があるもんね」的に、外にも世界を持っていることでなんだか安心しちゃう。外の世界がよりどころになったり、つまらない日常を補ってくれるものになってしまったりするわけです。となると、この時点で、アウェイだったはずの外の世界が、ホームにすり替わっちゃう。だから、こういう場合には、「越境」とは言わないんでしょう。


今回、石山さんのお話を聞きながら、つらつらと考えたのは、アウェイであると認識するのってどんなときなんだろう?どんなこと/要素があればアウェイだと感じるのだろう?ってこと。そのひとつが「違和感」を感じるかどうか、なのかもしれない。越境って、物理的に違う境界に行くことではなくて、ホームではない場所に行くこと。だから、仮に「越境」である場に行ったとしても居心地がよいと感じればそこはホームになるし、違和感を感じればアウェイにもなる。


わたし自身の越境史をひも解くと、
初期(大学院に通って、中原先生のイベントに行き始めた頃)は、そりゃーもう違和感満載。違和感っていうよりも「すみません、わたし、こんな場違いなところに来ちゃって…」という気後れ感。お近くの人と名刺交換して談笑、なんて高等なことはできないし、話を理解するのも大変だし、とにかく肩身が狭い。

中期(大学院修了して、いろんな場に出かけて、社内でもワークショップをやり始めた頃)は、どこに行っても楽しい期。知らない話を聞くこと、新しい経験をすることがとにかく楽しくて、さらに場慣れしてきたこともあって、名刺1枚で延々とお話しし続けられる技術(?)も身につけた。荒れた(!)イベントや場であってもおもしろがれたし、いまだにわけわかんないプレイフルラーニングのワークショップ(2011年12月に吉野ネオミュージアムで行われたワークショップ)も泰然とその場を楽しんでいた。長岡先生に「ひめさんは、大抵のことは楽しいって言うもんなぁ」と言われたっけ。

そして後期(この地に来て以降)は、どこに行っても違和感満載(え?)。これまでの経験もあってか、大抵の場に行くと知り合いもいるし、気づくとコミュニティの中心付近に居られる。それってとっても光栄なことだし、学びも大きいんだけど、常に違和感。全力で楽しんだり、全力で傾倒したりできなくなってる。


これってなんでだろう?とずーっと考えていたのですが、1つは、還元する先がぼんやりしていることが大きいんじゃないかな?と思う。サラリーマン時代のわたしは、誰に頼まれたわけでもないのに、学んだことや体験したことを社内で実施しようとしてた、役割や年次的にもそれができる環境だったこともあるし、何よりも、みんなにこれを体験してほしい!という暑苦しい思いがあった。今は不特定多数に向けてであり、一期一会的な還元であることが影響しているのかもしれない。
そしてもう1つは、曲がりなりにも、わたしがホームを持ってしまったこと。ホームっていうか、専門分野や価値観が強固になってしまったことによるのかもしれない。自分のやり方、自分の譲れない思い、価値観・・・そんなものができつつあるから、それと違ったことに「むむむ?」と違和感を覚えるのかも。


なるほど、これが「学び直し」Unlearnなのですね。
「学び直し」は「学びほぐし」だから、「これまでの自分をひも解けばよいのですよ、みなさんは既にたくさんのものを持っているのだから」と担当している社会人向けの大学院プログラムではお伝えしているものの、やっぱりUnlearnには痛みが伴うものなのだなぁ、としみじみ。ひめさん越境中期のように、何を聞いても楽しいと吸収していた頃とは違って、苦いんだけど自分の中に飲み込んで、それをアジャストさせていく、という作業が必要になってきている。
でも、一方で違和感を感じること=アウェイな感覚を持てるってことは、学びも大きいわけで、ぐっと飲みこんで咀嚼して味わっていこうと思うのだな。子どもの頃に苦手だったピーマンが、大人になったら食べられるようになってたみたいにね。


がつがつ噛んで、丈夫な顎にいたしましょう。


最後に、石山さん、グラレコ描かせてください!という突撃お願いをありがたがってくださった2枚目の名刺のみなさん、九州からご一緒したえがちゃん、会場でお会いできた学び仲間のみなさん、良質で豊かな時間・場をありがとうございました! そして空き時間にKatyで食べたアップルパイに最大級の感謝を。


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