今月は62名でした。
浄土宗第三祖 良忠上人をテーマに設えました。
結構纏まった話になったような気がしますが幾分うまくは伝えられず苦戦もしました。
久々にお顔を拝見する方もいらっしゃたので嬉しかったですが、お見えにならなかったお顔もあって残念な限りでした。
来月は閻魔さま、地蔵会を予定しています。
ぜひお越しくださいませ。
良忠上人のこと・・・1199-1287(正治1-弘安10)浄土宗第三祖。二祖の弁長の教えを継いで専修念仏を弘め、多くの書を著わして浄土宗の教学を大成しました。 主として関東に布教し、多数の寺院を建立して門弟の育成に専念し、浄土宗教団発展への礎地を作られました。石見国三隅庄(島根県那賀郡)出身。 姓は藤原氏。
16歳で出家し、出雲国 鰐淵寺月珠房信暹(しんせい)の門に入り受戒しました。天台・倶舎・法相・禅・律などを学び故郷の多蛇寺に帰り不断念仏を数年行い、生仏法師の勧めで、上妻天福寺(福岡県)に行き弁長の弟子となったのは38歳です。修学一両年、弁長の印可を受け後継者となり故郷に帰り安芸(あき)(広島県)地方を教化し浄意尼の依頼で京都に行き、それから信濃の善光寺に参詣、利根川に沿って関東に入り、下総の教化を始めました。千葉氏一族の外護を受け、常陸・上総・下総の三国にわたる教化活動・浄土宗学の基本となる講義を続け多数の弟子を育成しましたが、寺領・感情問題で外護者と衝突し、数人の弟子を連れて下総から鎌倉に入り大仏勧進聖浄光の坊に仮住いをしました。厳しい生活でしたが、良忠とその門下は模範的な生活を続け目立つ存在となっていきました。その後、鎌倉で指導的立場に立つとともに、他宗僧侶の間でも大きな位置を占めました。72年(文永9)大病を患って比叡山東塔極楽房で修行中の良暁を呼びよせ遺言状を与え浄土宗の奥義を習得させました。病気は快方に向い良暁にはさらに学問を積ませ公私にわたる後継者に定めました。
鎌倉での基礎も確立した77歳の良忠は、弟子らの要請を受け入れ上洛し11年の間京都にて布教に努めました。老齢の身をもって超人的な活躍を続け88歳の時、鎌倉に帰りました。そして良暁に法然・弁長・良忠と三代相承の袈裟と硯を与え、さらに浄土宗三代相伝の付法状を伝えてすべてを伝授し、良暁の正統性を意味づけ、87年7月6日、89歳で入寂されました。
鎌倉光明寺に墓塔があります。
浄土宗第三祖 良忠上人をテーマに設えました。
結構纏まった話になったような気がしますが幾分うまくは伝えられず苦戦もしました。
久々にお顔を拝見する方もいらっしゃたので嬉しかったですが、お見えにならなかったお顔もあって残念な限りでした。
来月は閻魔さま、地蔵会を予定しています。
ぜひお越しくださいませ。
良忠上人のこと・・・1199-1287(正治1-弘安10)浄土宗第三祖。二祖の弁長の教えを継いで専修念仏を弘め、多くの書を著わして浄土宗の教学を大成しました。 主として関東に布教し、多数の寺院を建立して門弟の育成に専念し、浄土宗教団発展への礎地を作られました。石見国三隅庄(島根県那賀郡)出身。 姓は藤原氏。
16歳で出家し、出雲国 鰐淵寺月珠房信暹(しんせい)の門に入り受戒しました。天台・倶舎・法相・禅・律などを学び故郷の多蛇寺に帰り不断念仏を数年行い、生仏法師の勧めで、上妻天福寺(福岡県)に行き弁長の弟子となったのは38歳です。修学一両年、弁長の印可を受け後継者となり故郷に帰り安芸(あき)(広島県)地方を教化し浄意尼の依頼で京都に行き、それから信濃の善光寺に参詣、利根川に沿って関東に入り、下総の教化を始めました。千葉氏一族の外護を受け、常陸・上総・下総の三国にわたる教化活動・浄土宗学の基本となる講義を続け多数の弟子を育成しましたが、寺領・感情問題で外護者と衝突し、数人の弟子を連れて下総から鎌倉に入り大仏勧進聖浄光の坊に仮住いをしました。厳しい生活でしたが、良忠とその門下は模範的な生活を続け目立つ存在となっていきました。その後、鎌倉で指導的立場に立つとともに、他宗僧侶の間でも大きな位置を占めました。72年(文永9)大病を患って比叡山東塔極楽房で修行中の良暁を呼びよせ遺言状を与え浄土宗の奥義を習得させました。病気は快方に向い良暁にはさらに学問を積ませ公私にわたる後継者に定めました。
鎌倉での基礎も確立した77歳の良忠は、弟子らの要請を受け入れ上洛し11年の間京都にて布教に努めました。老齢の身をもって超人的な活躍を続け88歳の時、鎌倉に帰りました。そして良暁に法然・弁長・良忠と三代相承の袈裟と硯を与え、さらに浄土宗三代相伝の付法状を伝えてすべてを伝授し、良暁の正統性を意味づけ、87年7月6日、89歳で入寂されました。
鎌倉光明寺に墓塔があります。