茶雅馬茶道教室 ~MIHO企画~

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松戸 本土寺

2008年06月18日 | Weblog
今、アジサイの花が綺麗です。
日蓮宗のお寺さんですが、花寺と知られ大勢の方が足を運んでは愛でて行かれます。歴史を感じるお寺です。

日蓮宗由緒寺院の一つ。千葉県松戸市に所在。長谷山と号す。また古来、長栄山本門寺(池上)、長興山妙本寺(鎌倉)と共に朗門の三長三本と称せられる。平賀の領主、陰山土佐守が、日蓮聖人に帰依し、文永六年(一二六九)五月狩野の松原に法華堂を建立したのが起源であるという。ところが建治三年(一二七七)風雨の災禍に遭ったので、大野の領主曽谷教信(法蓮日礼)が、鼻和地蔵堂を法華堂に改めて日朗を請じたが、日朗は弟子日伝に日蓮聖人授与の大曼荼羅、九条大衣及び水晶念珠を授け、代りに住せしめた。日伝は師日朗を椎して開山とし、また当地は日朗らの母妙朗尼の閑居地なので、別に妙泉院を建てた。延慶二年(一三〇九)正月、日朗は当寺を日伝に付し、かつ当寺及び本門・妙本の三寺をもって永く一寺となし、法水の不同を禁じた。同年、佐倉城主の千葉大隈守貞胤が亡くなり、後室の芝崎夫人(教信の娘)が平賀六郷の地を寄進して堂宇を造営した。延文三年(一三五八)大風のため本堂破損し次いで四世日実、これを再建し、また三十番神堂を建造したが、五世日満の時、本堂廃絶し、法蔵もまた焼失した。六世日願に至り「北谷山日蓮本土寺」と称するを現山号「長谷山」に改称し、当寺をもって朗門三寺中の根本道場なりとし、本門寺と共に地位を争い、妙本寺の命に服さなかったが、永徳元年(一三八一)身延山七世日叡が、妙本、本門両寺に董するに及び、三山一主の制を始めた。康応元年(一三八九)一〇月、本堂を重興し、中の坊に談所を設け、次いで七世日饒は三寺の学頭となり日蓮聖人の影像を造立した。八世日福の時、その兄、典宗が本堂を造建する。文安五年(一四四八)妙光院日意、二八歳の時九世の席を襲い、檀越である曽谷弾正直満、狩野但馬入道行蓮、信濃入道朗意たちの力をかりて、平賀の伽藍円備する。平賀在山一八年、山色榮に就く。文明一四年(一四八二)正月、日瑞の時、六崎大福寺の梵鐘を購買しこれをかかげる。一三世日隆は名僧と謳われた偉材で寺運を大いに興隆した。天正一九年(一五九一)一〇月、徳川家康の命により武田信玄の生母、秋山おつまの方を当寺に葬し、ために朱印一〇石を給し山林竹木等の諸役を免除せられる。後、日弘は日奥の不受不施の義に加担し、伊豆戸田に預けられて、長谷寺を創したが、本土寺は、その他の諸寺と同様に身延の圧力にあったが、敢然としてこれを退けた。日耀・日恵・日誠を経て日述に至って、小湊日運・碑文谷日晴・奥津日遵・谷中日誠らと共に不受不施を唱導し、寛文五年(一六六五)一二月、甲斐(山梨県)法蓮寺日完と共に伊豫(愛媛県)吉田に配流せられ、時に小西正法寺、野呂妙興寺等が当寺より離別する。これより先、寛文三年、日令が幕府の命を受けて一八世の席を継ぎ、寺中を整理し、貞享元年(一六八四)一二月、二一世日信の時、水戸光圀参詣し、秋山夫人の墓所を改葬し、香華料二〇石六斗を給し、元禄年中(一六八八-一七〇四)、仁王門を再建した。享保二年(一七一七)二二世日詮の時、大堂(二〇間四面)を重建し、寛政年中(一七八九-一八〇〇)、鐘楼、朗師門等を改造し、文化年中(一八〇四-一七)、仁王門を重修し、天保年中(一八三〇-四三)、日像堂及び日像門を重興した。明治維新の後、衰微したが昭和五年(一九三〇)、芝蓮乗寺の堂を移建して白毫殿となし、翌年、書院、方丈、朗師門等を今の地に移し、また庫裡、宝物殿等を新造し、七年、客殿を建立す。現在、この他、仁王門、鐘楼、土蔵、像師堂、妙朗堂等がある。当寺は曽谷氏の菩提所なるのみならず、また日像、日輪の誕生地でもあり、日朗、日像、日伝三師と妙朗尼の墓がある。境内には誕生桜や芭蕉の句碑などがある。近年、境内には茶室も完備され、紫陽花の名所として人気を集めている。なお什宝として日蓮聖人の筆と伝える二四枚継の大本尊の他、『大学三郎御書』『諸人御返事』などの真蹟、日伝の『十二因縁抄』、日意所持の『録内御書』日朗の『三長三本置文』等を蔵し、また建治から元禄に至る古い『過去帖』(三冊)も当山の歴史を語る重要な資料である。