長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.152スナック菓子に爪楊枝少年逮捕状!幼児的精神青少年は徴兵制

2015年01月16日 14時52分34秒 | 日記










スナック菓子に爪楊枝を刺したり万引きの動画を遊び感覚でアップする少年に逮捕状が出た。どうにも頭の悪い輩で、生活保護の身で何ら犯罪の意識がない。何度も不謹慎な犯罪行為の動画をネット上にアップして馬鹿で自己満足し、からから自嘲する。まるで幼稚園児のような19歳の馬鹿男だ。
 こういう事件や少年犯罪を何度も見聞きするにつれ「少年であっても厳罰化」「少年であってもひとを殺せば死刑に」と思う。とにかく、ニート青少年や生活保護者、ヲタク、引籠り、そういう人間のネット依存や社会悪を見せられるとやはり「日本でも韓国のように徴兵制」を実施して、自衛隊で老人ホームボランティアや自分の命と向き合う最前線におくって鍛え直さないと「ゆとり坊や」「ゆとりお嬢ちゃん」は治らないと思う。
億万長者や社会的成功などより、猫カフェでまったりするようなメンタリティでは世界はおろか日本国内でも成功できない。AKBだの嵐だのきゃりーぱむゅぱむゅだのどうだっていいから少しは現実世界でサバイバルして欲しい。
この楊枝(幼児)的青少年も徴兵制でかわるだろう。徴兵制しかない。あとは日本をフィンランドやスウェーデンやデンマークのような高福祉高負担国家にするしかない。
今の日本の危機はハイパーインフレとデフォルト(債務不履行)。増税、歳出削減、容積率倍増などの成長戦略しかない!

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.151フランステロ事件に憤る!言論の自由はいいがやり過ぎも反省しろ!

2015年01月15日 11時50分08秒 | 日記






仏新聞社のテロ事件では


「(だからって射殺テロが容認される訳ではないが)やや行き過ぎのイスラム教への侮蔑風刺画」

が事件への引金となったようである。


例えばイスラム教のムハンマドではなく、


キリストや釈迦がホモ行為をしている風刺画を掲載したら


仏教徒キリスト教徒はどう思うか?想像して欲しい。

In the terrorist attacks of france newspaper "(but are tolerated is so me shot dead terrorism is not but) slightly contempt caricature to Islam excesses" It is so that triggered the incident to. For example, rather than a Muslim Muhammad, or Buddhist Christians if I think if you posted a caricature of Christ and Buddha is a homo act? Imagine

Midorikawa Washu to 2015 the beginning of the year緑川鷲羽2015年始まりの年へ

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「米沢燃ゆ 上杉鷹山公」2017年度NHK大河ドラマ原作<上杉鷹山公の改革物語>「為せば成る」1

2015年01月15日 07時51分04秒 | 日記






米沢藩の中興の祖・不世出の名君
 「米沢燃ゆ 上杉鷹山公」師弟の軍旗
上杉鷹山公と尊師・細井平洲先生




              「よねざわもゆ うえすぎ ようざんこう
と、そんし・ほそいへいしゅうせんせい」(特別編)
                   ~為せば成る!~
                   200年前の行政改革
                  total-produced&wrtten&PRESENTED BY
                    MIDORIKAWA washu
                    緑川 鷲羽
       あらすじ

 上杉治憲(のちの鷹山)が日向(宮崎県)高鍋藩から出羽米沢藩(山形県米沢市)15万石の養子となり藩主となったのは明和四年、17才の頃である。その頃、米沢藩の台所は火の車であった。上杉謙信からの膨大な6千人もの家臣たちを雇い、借金で首がまわらない状況だった。まさに破産寸前だったのである。そのため、家臣たちからは藩を幕府に返上しようという考えまであがった。つまり、現代風にいえば「自主廃業」であった。
 そこで、上杉治憲は決心する。「改革を始めよう!」
 まず治憲の改革は質素倹約から始まった。着るものは木綿、一汁一菜…。しかし、それらは焼け石に水だった。江戸で改革をしてから2年後、治憲は米沢へと初入部する。しかし、そこで待っていたのは家臣の反発と死んだように希望のない領民たちの姿だった。
 しかし、治憲(のちの鷹山)は諦めなかった。なんとかヒット商品を考案し、学問を奨励し、さまざまな改革案を打ち出す。しだいに彼の改革に共鳴してくれる藩士たちもあらわれだす。だが、そうしたことを嫌うものたちもいた。芋川、須田、千坂ら七家である。これらの重役は治憲に対してクーデターをくわだてる。
 のちにゆう『七家騒動』である。
 上杉治憲(のちの鷹山)の改革はここでおわってしまうのか?
 鷹山、一世一代の危機!彼は危機をどう乗り越えるのか?しかし、彼は危機を乗りきり、やがて米沢藩の財政も立て直る。それは彼が亡くなって一年後のことであった。

  われわれはこの小説でなにを学ぶか?
 米沢藩の改革に生涯をかけた鷹山のいき様を描く!渾身の作品の完全版をお読み下さい。貧窮のどん底にあえぐ米沢藩…鷹山と家臣たちは藩政立て直しに渾身する。これは無私に殉じたひとたちの、きらきらとしたうつくしい物語である。       おわり


        the novel is a dramatic interpretation
        of event and character based on public
        soutces and an in complete historical
        record.some scenes and events are
        presented as composites or have been
        hypothesized condensed.

       ~なせば成る、なさねば成らぬ何事も、
               成らぬはひとのなさぬなりけり
                        上杉 鷹山(1751~1822)~



<参考文献・一部>*上杉家御年譜、米沢温故会編*鷹山公世紀、池田成章編、池田成彬*鷹山公偉蹟録、甘糟継成著、上杉神社社務所*米沢市史、米沢市史編さん委員会編*興譲館世紀、松野良寅編著、山形県米沢興譲館高等学校*代表的日本人、内村鑑三著、岩波文庫*上杉鷹山公、今泉亨吉著、米沢信用金庫*上杉鷹山公小伝、今泉亨吉著、御堀端史蹟保存会*人物叢書・上杉鷹山、横山昭男著、吉川弘文館*上杉鷹山のすべて、横山昭男編、新人物往来社*上杉鷹山の人間と生涯、安彦孝次郎著、壮年社*上杉鷹山公と農政、斎藤圭助、有斐閣*米沢燃ゆ 上杉鷹山公、緑川鷲羽*東海市史、東海市史編さん委員会編*近世藩校の総合的研究、笹井助治著、吉川弘文館*名古屋文学史、川島丈内著、川瀬書房*口語訳・嚶鳴館遺草、皆川英哉、ケイアンドケイ*細井平洲・附中西淡淵、鬼頭有一著、明徳出版*細井平洲と教師像、遠藤秀夫著、共同出版*細井平洲先生とその師友点描、東海市立平洲記念館*現代に生きる細井平洲、東海市教育委員会編*細井平洲『小語』注釈、小野重著、東海市教育委員会*嚶鳴館遺稿注釈 初編・米沢編、小野重著、東海市教育委員会*名指導者・上杉鷹山公に学ぶ、鈴村進、三笠書房*細井平洲と上杉鷹山、鈴村進、三笠書房





         序章

                    
  上杉治憲(のちの鷹山)にとって、それは尋常でない光景だった。
 貧しい領民たちががりがりに痩せて、歩いている。いや、首がひんまがった領民たちが、歩いてくるのだ。治憲は息を呑んだ。血色をなくした、泥のような顔であるが、治憲には見覚えがあった。間違いなく、米沢の領民たちである。
 治憲の頭頂から爪先まで、冷気が走り抜けた。手足が目にみえて震えだし、思うように筋肉に力が入らず、指はしばらく、戦慄きながら宙を泳いだ。
 そして、治憲は目がさめ、悪夢から解放された。
「……夢……か…」治憲は額に滲んだ汗を手でふいた。
  治憲が米沢藩の藩主となる数年前、米沢藩は困窮していた。
なお、この物語の参考文献はウィキペディア、「ネタバレ」、藤沢周平著作「漆の実のみのる国」童門冬二著作「小説 上杉鷹山」NHK映像資料「その時歴史が動いた」「歴史秘話ヒストリア」「ドラマ 上杉鷹山 二百年前の行政改革」、角川ザテレビジョン「大河ドラマ 天地人ガイドブック」角川書店、等です。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。裁判とか勘弁してください。

昔は墨田川が武蔵(むさし)国と下総(しもうさ)国の境界だった。そこで二つの国を結ぶ街道の隅田川界隈を両国と呼んだ。両国には火除地(ひよけち)としてつくられた一帯が両国広小路である。川端には茶屋が立ち並び、その両側には見世物、芝居、講釈などの小屋がひとをあつめている。
その雑踏の中で藁科松伯貞祐(わらしな・しょうはく・さだすけ)は足を止めた。
彼は出羽(でわ・現在の山形県)国米沢(よねざわ)藩に支える医師であり、また学者でもある。昨年宝暦七年(一七五七年)から江戸詰めとなり、桜田門にある上杉邸へ出仕している。俊才の誉れが高く、白皙痩身(はくせきそうしん)の彼は生来病弱だが、今日は気分がいい。
先だってから江戸の噂を耳にしていた。
「両国広小路の平洲先生の講釈を聞くと、毎日の仕事が楽しくなるぞ」
平洲(へいしゅう)先生、通称は細井甚三郎(ほそい・じんざぶろう)といって、尾張(おわり・現在の愛知県東海市)から出てきた学者である。いくつかの大名に招かれて講義に赴くかたわら、浜町(現在の東京都中央区日本橋浜町)に「嚶鳴館(おうめいかん)」という学塾を開いている。そして、度々両国で講釈を小屋で開いては人々を涙と仁愛の世界に導き、いつも黒山の人だかりになるという。
藁科は講釈小屋の人だかりをみて、中に入れずにいたが、平洲先生の語りであろう、よく通るやわらかい声が聞こえてくる。
「よいかな。たとえていえば、この花だ。花がたくさん咲いている木というものはそれは見事なものだ。だが、そうだからといっていつまでもたくさん花をつけていたのでは、しだいに木がひねて実も少なくなり、やがては枯れ枝が多くなって、さしもの銘木も惨めな姿にやつれ果ててしまう。されば、惜しいけれども枝を止め、蕾を透かしてやらねばならぬ。そうすれば木はいつまでも見事な花を楽しませてくれるものだ」
藁科松柏は思わず息を呑んだ。名門上杉家は今まさにそのような状態だ。干ばつや洪水で凶作が続き、藩の財政は極度に緊迫して多額の借財を返す見通しも立たない。改革の声さえ消されるか、押しつぶされ過去の栄光にこだわり、このままでは朽ちて果てる日を待つばかりだ。この先生こそ、米沢藩に是非とも必要なお方である。演壇の平洲は三十歳くらいで、松柏とそれほどかわらなかった。
<細井平洲と上杉鷹山 鈴村進著・三笠書房参考文献引用12~14ページ>

江戸の儒学にはいくつかの学派があった。朱子学派の林羅山(らざん)、山崎闇斎(あんざい)、陽明学派には中江藤樹(なかえ・とうじゅ)、熊沢番山(くまざわばんざん)、古儀(こぎ)学派には伊藤仁斎(じんさい)、そして古文辞(こぶんじ)学派には荻生徂徠(おぎょうそらい)らがいた。
細井平洲はこれらのどれにも属さないので折衷学派といわれた。その説くところは文字や言葉の解釈ではなく、現実の為政および生活面に学問を生かすことであった。そこで彼は実学者ともいわれる。
尾張国知多郡平島村(現愛知県東海市荒尾町)の富農の家に生まれた平洲は、幼少時代には近くの観音寺の住職義観(ぎかん・義寛ともいう)の教えを受けた。その才知には大人も舌を巻くほどだったが、やがて彼は勉学を進めようと京都に出た。
しばらくして、わが子は京都でどんな暮らしをしているのか案じた父親が訪ねてみると、平洲の家はひどいあばら家で衣食も粗末だった。見かねた父親は五十両という大金を与えたが、当時の平洲の師となるべき人にはついに巡り会わなかった。およそ一年後に帰郷した平洲が持ち帰ってきたものは、二頭の馬の背に積んだおびただしい書物だった。彼は父親からもらった大金をすべて書物を買うのにつかったのである。
その後平洲は、名古屋の中西淡淵(たんえん)に入門する。淡淵は三河挙母(みかわころも・豊田市)出身の儒学者で折衷学派の洗掘者といわれ、自ら「叢桂(そうけい)社」という学塾を開いていた。
彼の教えは高度であり、その卓抜な識見に感服した平洲は人にこう語った。
「図らざりき。わが師の近きにあらんとは(こんな近くにわたしが求めていた理想の先生がおられるとは思ってもみなかった)」
この感動に応えて、淡淵もまた「わが業を助けるのは平洲である」と漏らした。
平洲は中国人から中国語を学び、さらに韻文、漢文、詩文、書道、南画、禅学などの教養も身に着けた。干天の慈雨のように細井平洲は日本屈指の大学者になる。師が主君である尾張藩付家老(つけがろう)竹越山城守に従って江戸に出ると、平洲はあとを追うように江戸に出た。入門して六年目だった。江戸で私塾「嚶鳴館(おうめいかん)」を開塾、だが師は急死する。平洲は十巻にもおよぶ『詩経古伝』を著して声望を高めていたが、伊予西条藩主松平頼淳(よりあつ)が、中国黄檗山(おうばくさん)住職大鵬(たいほう)禅師を迎えたときの通訳を務めたことで、その実力を一段と高く評価されるようになった。この頃、彼の門人はすでに千人を超えていた。
<細井平洲と上杉鷹山 鈴村進著・三笠書房参考文献引用15~17ページ>

  米沢の冬は厳しい。しんしんと雪が降って、やがて豪雪となり、辺りを一面の銀世界にかえていく。雪が完全に溶けるのは4月頃だ。田畑も城下町の屋敷の屋根も、道も、すべてが真っ白に衣を着て、ときおり照りつける陽射しできらきらとハレーションをおこす。     それはしんとした感傷だ。しかし、そんな幻想とはうらはらに、領民はみんな飢えていた。   若い儒学者の藁科松伯は米沢にいた。藁科は米沢藩の儒学者で、頭脳明晰な男である。彼は確かに不思議な印象を与える人物である。禿頭で、ぴしっと和服を着て、年はまだ三十代にみえる。痩せていて、手足が細く、病気がちである。ちょっと見にも、学者とわかるのだが、瞳だけは大変に光っていて、唯一、力強さを感じさせた。
 弟子の寺脇孫兵衛門が急いでやってきた。その顔には笑顔があった。
「見付かったか!米沢藩のご養子が……」「はっ!」
 松伯はほっと安堵の溜め息をつき、寺脇孫兵衛門は場を去った。手紙は江戸にいる米沢藩の江戸家老・竹俣当綱からだった。米沢藩主・上杉重定公には姫しかなく、このままでは藩は取り潰しになる……そこで養子を取ろうということになったのだ。「なになに、日向高鍋藩主・秋月佐渡守種実公の次男坊で、名は直丸殿…か」藁科松伯は口元に笑みを浮かべた。しかし、そんな平和も一瞬で、彼は胸が苦しくなって激しく咳き込みだした。しかし、もう皆帰って誰もいなかった。
「ごほごほ…」藁科松伯は痛み止めの薬を飲んだ。……それでなんとか胸の劇痛が弱まった。彼は、「はやく江戸にいって直丸殿にお会いしたい!」と強く願った。「私が死ぬ前に…」藁科は医師でもある。だから、自分の病のことはだいたい把握していた。自分がもう長くは生きられないこと……もう生きられない…。
「…私が死ぬまえに是非…直丸殿にあっておきたい。是非…」彼はそう強く願った。
 そして、自分がその名君となるはずのご養子の成長や改革を目のあたりにできぬだろうことを残念がった。…私は死ぬ…だが、米沢のことは……直丸殿に頼るしか……ない。
 藁科松伯と弟子の寺脇や莅戸善政や木村高広らは雪道を歩き、興奮しつつ江戸へと旅立っていった。…雪深いため、ぬかるみ、転び…大変苦労した。
「……いやあ、こわいこわい(疲れた疲れた)」
 藁科松伯は珍しく米沢の方言をいった。
 松伯は江戸生まれで、米沢の人間ではないはずである。しかし、それにしても「自分も米沢の人間でありたい」と思っていた。だから、訛りを使ったのである。
「先生、少し休みますか?」
 弟子の寺脇がいうと、藁科松伯は「いやいや、急ごう!直丸殿に一刻も早く会いたい」「……無理しないでくだされよ、先生」
 莅戸善政がいう。
 木村も笑って「そうそう。先生あっての拙者らですから」といった。
「さようか」
 松伯は笑った。息がきれて、しんどかったが、それでも余裕の素振りをみせた。
  数日後、一行は江戸に辿り着いた。江戸の町は活気にあふれ、人がいっぱい歩いていた。人々の顔には米沢の領民のような暗い影がない。「米沢のひとに比べて江戸の庶民は…」藁科はふいに思った。
  米沢藩の江戸屋敷に着くと、竹俣当綱が一行を出迎えた。
 竹俣当綱は三十七歳。目がキッとつりあがっていて、髭も濃くて、黒い着物を着て、浅黒い肌にがっちりとした体が印象的な男だ。
 屋敷を歩くと、ぎじぎしと音がした。屋根からは雨漏りがする。戸も壊れていてなかなか開かなかった。……財政難で金がないため、直せないのだ。
「ところでご家老」藁科松伯は切り出した。「…ご養子が見つかったそうですな」
「はい、先生。日向高鍋藩主・秋月佐渡守種美公の次男坊で、名は直丸殿と申す」
 竹俣は笑顔でいった。「大変に賢き若君ときいております」
「そうですか…」藁科は微笑み、続けて「ぜひに、一刻も早く…直丸殿にお会いしたい」 と願った。
 竹俣当綱は「先生……わしもまだ会っておらん。だが、今、直丸殿は高鍋藩江戸屋敷にいるときいております。近々、拝謁させて頂きましょう」と言った。
「……直丸殿は今、御年いくつなので?」
「八歳です」
「そうですか」
 藁科松伯は満足気に深く頷いた。「それは重畳」
「……まぁ、いい年頃ではありますな」
「楽しみです」
 松伯はもう一度、満足気に深く頷いた。「…拝謁が楽しみです」
 竹俣当綱は「先生……わしもはよう会いたい」
「我々もでござる」
 莅戸や木村も笑顔をつくった。
 竹俣は「女房殿よりも愛しい方じゃな?」と冗談をいい、一同は笑った。
秋月直丸(あきづき・なおまる)、出羽米沢藩八代藩主・上杉重定(うえすぎ・しげさだ)の養子となり、上杉直丸(うえすぎ・なおまる)公、元服して上杉治憲(うえすぎ・はるのり)公、後年・晩年・上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)公となる。父親は日向(宮崎県)高鍋藩主・秋月佐渡守種美(たねみつ)公で、母親が上杉家の遠縁(米沢藩四代藩主・上杉綱憲の次女・豊姫と黒田長貞(筑前秋月藩主)との娘)の春姫である。
 俗な話をすれば上杉鷹山公は2014年度の大河ドラマだった「軍師 官兵衛」の主人公・黒田官兵衛(如水)の子孫でもある。
 また年末恒例でやる歌舞伎やドラマ「忠臣蔵」の悪役・吉良上野介の子孫でもあるのだ。つまり、治憲公にとっては母方(春姫)の祖母・豊姫の父親が上杉家養子で、吉良上野介の息子・吉良三郎こと上杉綱憲であり、母方の祖父が黒田如水(官兵衛)の親戚の筑前秋月藩主・黒田長貞なのである。
 まさにサラブレッドである。頭脳明晰で忍耐強く、私心がない訳だ。鷹山公の父親と母親はいわゆる「政略結婚」である。上杉綱憲の娘・豊姫と結婚して子を授かった筑前秋月藩主・黒田長貞(ながさだ)公が娘(のちの鷹山公を産む)春姫を、日向高鍋藩主・秋月種美の元に嫁がせた訳だ。
 では、米沢藩第八代藩主・上杉重定(しげさだ)はというと、上杉綱憲の子供・嫡男・上杉吉憲(よしのり・米沢藩第五代藩主)の三男(長男・第六代藩主・宗憲(むねのり)、次男・第七代藩主・宗房(むねふさ))である。
 上杉家は子宝に恵まれない家系である。
 藩祖は「生涯独身」を通した「合戦無敗伝説」の上杉謙信だが、米沢藩では謙信公の息子・姉の仙桃院からの養子・上杉景勝からを米沢藩第一代…と数えるのが一般的だ。
 後述するが上杉家三代目・上杉綱勝(つなかつ)は養子も跡取りも決めないまま若くして病死するのである。
 普通の藩ならば徳川幕府から「お家断絶」されてもおかしくない。だが、会津藩主・保科正之の取り計らいで、上杉綱勝の妹の参姫(さんひめ)と結婚していた幕府高家衆・吉良上野介義央の子供(吉良三郎)を無理やり上杉家第四代藩主とするのである。
 何故、会津藩主・保科正之(ほしな・まさゆき)は上杉家を助けたのか?「上杉家は名門だから」というのもあるだろう。
 しかし、正之は徳川家康の息子・秀忠の愛人との子であり、それを会津藩主としてもらった、という過去を持つ。
 幕末に会津藩に米沢藩が加勢したのも正之への恩である。保科正之には上杉の窮乏が「憐れ」に感じたに違いない。
 確かに米沢藩・上杉藩は、上杉綱憲(つなのり)を米沢藩第四代藩主とすることで「お家断絶」の危機は脱した。
 だが、かわりに領土・禄高を出羽米沢三十万石から、出羽米沢十五万石まで減らされたのだ。新たなる危機は禄高減少である。
 ただでさえ越後七十万石から、上杉景勝の時代、秀吉の命令で会津百二十万石に禄高も領土も増えた。が、歴史通なら当たり前に知るところだが、関ヶ原の合戦で、上杉景勝方は西軍・石田三成方につく。
 結果はやはりであった。関ヶ原では小早川秀秋の寝返りなどでたった一日で(徳川家康方の)東軍の大勝利……その間に東北地方の長谷堂で最上義光軍勢・伊逹政宗軍勢と戦っていた(長谷堂合戦)上杉軍に「西軍大敗・三成敗走」の報が届く。
 上杉軍は焦ったに違いない。知将でも知られる(2009年度大河ドラマ「天地人」の主人公)直江兼続は殿をつとめ、なんとか会津領土に帰還。しかし、その後の戦後処理で、上杉景勝・上杉軍は石田三成(近江の山中で捕えられ京三条河原で斬首)側についたとして会津(福島県)百二十万石から出羽米沢三十万石に禄高を減らされ転譜となる。
 上杉景勝や直江兼続らは、家臣を誰も減らさず六千人の家臣団を引き連れて米沢に転住する。土地も禄高も減らされ、しかも山奥の雪深い盆地に「島流し」にあった訳だ(笑)。
 苦労する訳である。今は上杉の城下町・米沢市には新幹線も通り、豪雪で知られた米沢だったが、最近はそんなに積雪も酷くなくなった。地球温暖化のおかげだろう。
 私の親戚のひとに聞くと、70年くらい前は、米沢の積雪は茅葺屋根の高さと同じくらいだったという。出入りの為にハシゴを玄関から積雪にかけて……モグラみたいに暮らしていたんだという(笑)
 雪国では、冬季には公費で除雪車が深夜道路などの除雪をしてくれる。除雪車は巨大な黄色のトラック程の巨大なものだ。だが、それは田中角栄首相(当時)が、豪雪を「激甚災害」に指定して「公費での除雪」を推進したからだ。
 私は、田中角栄は大嫌いだが(金満政治の元凶の為)、「除雪」に関しては感謝している。しかし、昔はほんとうに豪雪で大変であったろう。昔のひとは偉いものだ。話がそれた。


平洲の講釈が終わるのを待ちかねていた藁科松柏は、改めて挨拶し、是非とも今の話の先にあるものを聞かせていただきたいと懇願した。
快く承知した平洲は浜町の「嚶鳴館」まで松柏を同道すると、求められるままに自分の考えを語り聞かせた。それは辻講釈とは違って、直接経書に基づく高度なものであった。
松柏の身分を聞いた平洲は、特に国を治める指導者のあるべき姿について熱心に語った。それは経世済民(経済)であり、現実主義(リアリズム)であり、論語と算盤、でもあった。“上杉の義”等という理想論ではなく、“成果主義”でもあり、平洲は現実主義者(リアリスト)でもあった。平洲は拝金主義を嫌ったが、同時に綺麗ごとだけの主義も嫌った。平洲は「どんな綺麗事を並べ立てても銭がなければ一粒のコメさえ買えない。それが現実であり、銭は空からは降って来ないし、法令順守(コンプライアンス)を徹底し、論語と算盤で正しいやり方をして努力して善行を尽くせばほとんどの幸福は叶う」という。
平洲の話に時がたつのも忘れて傾倒し、感動を抑えきれず、その場で松柏は平洲に入門した。藁科松柏は本国の米沢にいるときには「菁莪(せいが)館」と名付けた書斎で多くの若者たちの教育にあたっていた。彼の教えを仰ぐ者の中には竹俣美作当綱(たけのまた・みまさく・まさつな)、莅戸(のぞき)九郎兵衛善政、木村丈八高広、神保容助綱忠らがいた。その頃の米沢藩は長年の貧窮に打ちひしがれ、息が詰まるほどの閉塞状態から脱出することも出来ないでいた。しかも、藩主上杉重定は寵臣(ちょうしん)森平右衛門利真(としざね)に籠絡(ろうらく)されて、自ら藩政を改革出来ないでいた。
竹俣当綱や莅戸らは密かに会合を持ち、後述するような森氏への謀殺を謀る訳だが、望みの期待の“改革派の頼りの綱”はわずか九歳の御世継の直丸(直丸→治憲→鷹山)だけであった。松柏は“大人物”細井平洲先生を一門に紹介し、積極的に御世継の教育にと便宜をはかった。「上からの論理ばかりでは“死角”ができる」、「諌言をさまたげ、甘言によっては“大きなツケ”ばかり残る」平洲の主張もごもっともであった。
竹俣も莅戸も木村も神保も平洲門下に列座する。「われわれには臥竜先生と臥竜の卵の御世継さまがおられる」
竹俣は「細井先生はいいが、失礼ながら直丸殿はまだ九歳の童べであろう」とため息をついた。望みがわずか九歳の御世継・秋月直丸、養子縁組で上杉直丸、のちの治憲公、鷹山公で、ある。溺れる者は藁をも掴むというが、何ともたよりない船出、であった。
<細井平洲と上杉鷹山 鈴村進著・三笠書房参考文献引用17~25ページ>



上杉鷹山公は公人、つまり公(おおやけ)のひと、である。
 何故、鷹山公は私心を捨てて、公人となったのか?やはりそこには江戸の学者であり、師匠でもある細井平洲先生による教育のたまものなのである。
 米沢市立図書館は私がよく執筆する際の資料の為に利用する。その米沢市立図書館は二十年くらい前に「上杉鷹山公の伝記漫画」の資料と調査研究をしてマンガ本を刊行したという。(資料を提供して無名の漫画家さんがコミックを描いた)
 当時の図書館員は「鷹山公に関する資料等を調査研究していくと、その人間像が浮き彫りにされ、あたかも私たちの目の前で鷹山公が「為せば成る。米沢の未来のため頑張りなさい。」と優しく励ましてくれるような錯覚におちいる。さらに、現代の私たちに近い、赤裸々な人間「鷹山公」を捜し求めたが、「公は」その姿を現してくれなかった。その分だけ、この漫画は面白味に欠けているかもしれない。鷹山公は「真心の人」であった。自分の信じるところに従って行動し、勇気を持ってあらゆる困難とよく闘った政治家。そして、郷土と民衆を心から愛した世界に誇る代表的日本人である。鷹山公の遺徳とその精神は、私たち米沢人の心の光かも知れない。それは、何時の時代にも消えることなく、我々の生きる道を照らしてくれるものだと信じたい。(「上杉鷹山公物語・監修 横山昭男 作画・小川あつむ」149ページ参照)」と記している。
 当時の米沢市立図書館員たちには「上杉鷹山公」は「現代の私たちに近い「赤裸々な人間像」」を現してくれなかったのかもしれない。まあ、時代だろう。
 二十年前はわからなかったことでも現在ならわかることもある。
 鷹山公が少年期に、利発で天才的な才覚を見せている姿からは普段想像も出来ないくらい涙もろかったり(藁科松伯から米沢藩の惨状を聞き「それは米沢人が憐れである」と涙をはらはら流したり)、幼少期に寝しょうべんがなかなか直らず布団に毎朝「日本地図」を描いていたり……私にはこれでもかこれでもかと「公は」「赤裸々な人間像」を見せてくれる。
 まあ、時代だろう。調べが甘い。夜郎自大も甚だしい。
 宝暦九年(1757年)、三月、秋月直丸は米沢藩主重定の養子に内定している。
 (注・鷹山公の母親・実母・春姫は宝暦七年(1757年)六月九日に三十五歳で病死しているが、この物語では話の流れでまだ生存していることになっている)
 (注・上杉鷹山公の生まれは宝暦元年(1751年)七月二十日、秋月家二男として生まれている。つまり、鷹山公はわずか七歳で実母を亡くしている訳だ)
 実際問題として、上杉重定の放蕩は目を伏せたくなるほどである。
 このひとは馬鹿ではないか?とおもうほど能や贅沢三昧の生活をする。
 でも、まあ、鷹山公や藩士にしたら「反面教師」だ。(注・「反面教師」という諺は中国の毛沢東(マオ・ツートン)の唱えた諺であるからこの時代の人々にはなじみのない諺かも知れない)
 借金まみれの米沢藩で「贅沢三昧」とはこれまた馬鹿野郎だが、まだのちに「七家騒動」をおこすことになる須田満主(みつぬし)ら老中もこの世の春を謳歌し、重定とともに財政悪化の元凶・贅沢三昧な大老・森平右衛門もこの世の春を謳歌していた時代である。
 上杉家の養子になった治憲公(直丸公)は秋月家家老三好善太夫(みよし・ぜんだゆう)に、
「わたしのような小藩からの養子の身分の者が……謙信公からの名門・上杉家の米沢藩をひとりで動かせるだろうか?」
 と不安な心境を吐露したという。
 すると秋月家庭園で、木刀で稽古をつけて、一服していた三好は平伏して
「確かにおひとりでは無理にござりまする」という。
「……やはりそうか」
「されどにござりまする、若。どんな大事業もたったひとりの力では無理なのです。米沢藩上杉家中は名門ゆえ優秀な人材も多いことでしょう。家臣の者たちとともに粉骨砕身なされませ」
 三好善太夫は鷹山公の傅役である。
 彼は少年の鷹山いや治憲に「奉贐書(はなむけたてまつるのしょ)」を送った。三好は鷹山が上杉家に養子に行く前に「殿さまとして守るべきことをしたためた「上言集」と「奉贐書」」を送り、宝暦十年(1760年)十月十九日に治憲が江戸の秋月家一本松邸より上杉家桜田邸へ移りおわったのを見届けたのち十一月二日、五十七歳の生涯を終える。
 鷹山はこの三好からの書状を一生の指針として、善太夫の死に涙をはらはら流したともいう。
 鷹山公は涙もろいのかも知れない。
 江戸から遠い米沢藩の田舎ではのちの竹俣当綱(たけのまた・まさつな)が江戸家老になり、莅戸善政(のぞき・よしまさ)が奉行に、藁科松伯(わらしな・しょうはく)らが米沢藩士としての志を新たにするのだった。
 時代は混沌としていた。改革前夜であり、米沢藩は深い闇の中、にあった。


  こうして竹俣当綱、藁科松伯、莅戸善政、木村高広の四名は、高鍋藩江戸屋敷に徒歩で向かった。江戸の町は活気にあふれ、人がいっぱい歩いている。武家も商人も、女子供にも…人々の顔には米沢の領民のような暗い影がない。「米沢のひとに比べて江戸の庶民は…」藁科はまた、ふいに思った。
 その日は快晴で、雲ひとつなく空には青が広がっていた。すべてがしんと輝いていくかのようにも思えた。きらきらとしんと。すべて光るような。
 高鍋藩邸宅は米沢のそれと同じで、殺風景でぼろくて今にも倒れそうだった。高鍋藩も財政危機で、修繕代が払えないのだ。
 ………貧乏藩は米沢十五万石だけではないのだな。
 竹俣当綱がそう不遜に思っていると、藁科松伯は低い垣根から、邸内を熱心に覗いていた。彼の横顔は笑顔だった。
「…いましたぞ、ご家老」
 と藁科。
 木村も覗き「あの若君が直丸殿ですか?」と竹俣に尋ねた。
 莅戸は「拙者にも見せてください」といった。
 竹俣当綱も垣根から邸内を覗き見て、「…おぉ。あれじゃ、あの方が直丸殿じゃ」と笑顔になった。「本当に賢そうな若じゃ」…邸内の庭では、秋月直丸という若君が剣術に励んでいた。一生懸命に木刀を何度も降り下ろす運動のためか、若君は額に汗をかいていた。直丸は八歳。すらりと細い手足に痩せたしかし、がっちりとした体。ハンサムで美貌の少年である。唯一、瞳だけがきらきら輝いている。
 この、秋月直丸こそが養子となり名を「上杉直丸」と変え、さらに元服後「上杉治憲」と名をかえた、のちの名君・上杉鷹山公そのひとであった。
「……いい顔をしている」
 四人は微笑んで、呟いた。



「……どちら様でしたか?」
 ふいに藁科ら四人に声をかける女がいた。…それが直丸の生母・春だった。(注・歴史的にはこの時期に鷹山公の実母・春は病死しているが、話の流れの為に存命していることにしている)
 確かに、春は美人であった。背も低くて、華奢であったが、三十五歳の着物姿は魅力的なものであった。
「あ、私は藁科松伯と申します。こちらが江戸家老の竹俣殿、こちらは莅戸殿に…木村殿です」
「はぁ」春はそういい、続けて「どちらの国の方です? 江戸の方ではないように思いますけど」
「わかりますか」竹俣は笑って「拙者たちは出羽米沢藩十五万石の上杉家家臣のものです。今日は、藩主・重定公の名代として参りました」
 と丁寧にいった。そして、一行は頭を深々と下げた。
「まぁ!」春は思い出して、「養子の話しですね?直丸の……。こんな外ではお寒いでしょうから、中にお入りくださいまし」と恐縮して一行を屋敷に招いた。

  秋月家江戸邸宅は質素そのものだった。
 …春は、恐縮しながら「申し訳ござりません。今、殿は外出しておりまして…」と言った。…竹俣や藁科らが座敷に案内されて座ると、「……粗末な食べ物ですが。御腹の足しによろしかったらどうぞ」
 と、そばがゆが運ばれた。
「いや! 奥方様、われらなどに気をつかわなくても…」と竹俣。莅戸は食べて「おいしいです」といった。「馬鹿者。……少しは遠慮せぬか」竹俣当綱は彼の耳元で囁くように注意した。秋月の奥方様(春)は笑った。すると藁科と木村も笑った。
「米沢は今どうですの?」                
 春は竹俣に尋ねた。すると竹俣は「政のことでござろうか?」と逆質問した。
「いいえ」春は首をふって笑顔になり、
「気候や風土のことをききましたの」
 といった。
「……それなら、今、米沢は雪景色です。毎日、家臣たちは雪かきに追われて…くたびっちゃくたびっちゃ(疲れた疲れた)といってます」
 竹俣は笑った。
「どうして直丸を上杉家の養子にすることになったのですか? 他にも若君はいっぱいおりますでしょうに」春が言った。すると藁科が、
「いえ。直丸殿ではなければダメなのです。拙者はよく巷で直丸殿の噂を耳にしました」「……どのような?」
「秋月家の次男坊は大変賢く、心優しい方で、学問や剣術に熱心だとか…」
「直丸が? ですか?」
「はい」藁科はにこりと頷いて、続けて「直丸殿のような傑出した若君が…どうしても米沢では必要なのです。ご存じの通り米沢藩の財政は火の車、殿には姫しかなく、この危機を乗り越えるためには傑出した名君が必要なのです」といった。
「…直丸が、名君に?まだ八歳の童子ですのに?」
 春は少し訝し気な顔になった。
「歳は関係ありませんよ、奥方様」莅戸がいうと、続けて藁科松伯が「直丸殿はきっと米沢の名君におなりになります。拙者にはわかります。直丸殿は臥竜なのです」
「……臥竜? まぁ」春はびっくりした。そんな時、直丸の父親・秋月佐渡守種美が屋敷に戻ってきた。春は「少し失礼します。ゆっくりしていてくださいまし」というと、座敷から出て夫を出迎えた。そして「…殿。いかがでしたか?」と夫に尋ねた。
「だめだ。どの商人も金を貸してはくれぬ。日向高鍋藩もここまでか……。疲れた」
 秋月佐渡守は、深く溜め息をつくと、座敷へと向かった。
 そして、座敷に座る「みすぼらしい服を着た四人の侍」を発見し、後退りして障子の陰に隠れてから、「…なんの客だ?ずいぶんガラが悪そうではないか」と春にボソボソと尋ねた。春は「出羽米沢十五万石の家臣の方のようです」と答えた。
「あぁ。そういえば養子の話しか…」
 種美は頷いた。春は「出羽米沢は十五万石。殿の日向高鍋は三万石……養子なんていい話しですこと」と微笑んだ。
「う~む」種美はそう唸ってから、「……とにかく話しをきこう」といい座敷内に入った。「わしは日向高鍋藩藩主、秋月佐渡守種美である。そちらは…?」
 藁科らは平伏してから、自己紹介をした。そして、「直丸殿に是非、拝謁したい次第で参上つかまつった」といった。
「よかろう」秋月佐渡守は満足そうに頷いて「直丸をこっちへ」と家臣に命じた。
 まもなく、八歳の直丸がやってきた。
「…秋月直丸にございます。以後お見知りおきを」
 彼は正座して頭を下げて竹俣らに言葉をかけた。その賢さ、礼儀正しさ、謙虚さは、藁科たちを喜ばせるのに十分だった。……これなら名君になれる。

  竹俣や藁科らは、秋月佐渡守とその次男坊の直丸とわきあいあいと話しをした。時間は刻々と過ぎていく。そろそろ夕方で辺りが暗くなってきたので、藁科が立ち上がり、
「今日は遅いので…これで。さぁ、みんな帰りますぞ」と言った。
「いや、せめて夕食だけでも食べていかれよ」
 佐渡守がとめたが、四人は、せっかくですが、と断った。
 そして、藁科は袋に詰めていた分厚い本を取りだして「これは儒教の書。これは『大学』こちらは孔子の書です。どうぞ」と直丸に手渡した。
 直丸は微笑んで礼をいった。
 藁科らは、黙々と秋月家屋敷を後にした。
 しかし、希望を見つけだした。あの若君は必ず名君になる。米沢を救ってくださる…四人はそう考えていた。…あの若君が米沢の希望だ。
 ………直丸は、さっそく本をめくり、熱心ににこにこ微笑みながら読み始めた。
 父・種美に尋ねられると、
「父上のような名君に、それがしもなりとうございます」
 と、のちの鷹山となる直丸は夢を語ったという。この当時、のちの鷹山公となる少年は「源義経の伝記「義経記」」「織田信長の伝記「信長公記」」「上杉謙信の伝記「越後軍記」」「天才軍師・諸葛孔明の活躍する「三国志記」」に熱中していた。
 なかでも上杉謙信公は養子先の藩祖でもあり治憲は憧れた。「上杉の義」とゆうのに憧れて、よくふざけて「上杉の義なりや!」「これぞ上杉の義なるぞ!」と歌舞伎役者のようにいったという。
 諸葛亮孔明は劉備への「忠義なところ」「軍略に優れたところ」がお気に入りであったという。
 私は諸葛亮孔明のように(米沢・上杉藩に)三顧の礼をもって迎えられるのかなあと無邪気にほほ笑んだりもしている。だが、そう思うと背筋がしゃきんと伸びもする。皆の期待を裏切る訳にはいかない!
 ちなみにのちに上杉鷹山として知られることになる秋月(上杉)直丸(治憲)は、宝暦元年7月20日(1751年9月9日)に誕生している。名を直松、直丸、勝興、治憲、鷹山……と変えた。が、後世では『上杉鷹山』として知られている。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「花燃ゆ」とその時代吉田松陰と妹の生涯2015年大河ドラマ原作<加筆維新回天特別編>アンコール連載小説5

2015年01月14日 04時38分58秒 | 日記







 話しを少し戻す。

長崎で、幕府使節団が上海行きの準備をはじめたのは文久二年の正月である。
 当然、晋作も長崎にら滞在して、出発をまった。
 藩からの手持金は、六百両ともいわれる。
 使節の乗る船はアーミスチス号だったが、船長のリチャードソンが法外な値をふっかけていたため、準備が遅れていたという。
 二十三歳の若者がもちなれない大金を手にしたため、芸妓上げやらなにやらで銭がなくなっていき……よくある話しである。
 …それにしてもまたされる。
 窮地におちいった晋作をみて、同棲中の芸者がいった。
「また、私をお売りになればいいでしょう?」
 しかし、晋作には、藩を捨てて、二年前に遊郭からもらいうけた若妻雅を捨てる気にはならなかった。だが、結局、晋作は雅を遊郭にまた売ってしまう。
 ……自分のことしか考えられないのである。
 しかし、女も女で、甲斐性無しの晋作にみきりをつけた様子であったという。
  当時、上海に派遣された五十一名の中で、晋作の『遊清五録』ほど精密な本はない。長州藩が大金を出して派遣した甲斐があったといえる。
 しかし、上海使節団の中で後年名を残すのは、高杉晋作と中牟田倉之助、五代才助の三人だけである。中牟田は明治海軍にその名を残し、五代は維新後友厚(ともあつ)と改名し、民間に下って商工会を設立する。
 晋作は上海にいって衝撃を受ける。
 吉田松陰いらいの「草奔掘起」であり「壤夷」は、亡国の途である。
 こんな強大な外国と戦って勝てる訳がない。
 ……壤夷鎖国など馬鹿げている!
 それに開眼したのは晋作だけではない。勝海舟も坂本龍馬も、佐久間象山、榎本武揚、小栗上野介や松本良順らもみんなそうである。晋作などは遅すぎたといってもいい。
 上海では賊が出没して、英軍に砲弾を浴びせかける。
 しかし、すぐに捕まって処刑される。
 日本人の「壤夷」の連中とどこが違うというのか……?
 ……俺には回天(革命)の才がある。
 ……日本という国を今一度、回天(革命)してみせる!
「徳川幕府は腐りきった糞以下だ! かならず俺がぶっつぶす!」
 高杉晋作は革命の志を抱いた。
 それはまだ維新夜明け前のことで、ある。

  伊藤博文は高杉晋作や井上聞多とともに松下村塾で学んだ。
 倒幕派の筆頭で、師はあの吉田松陰である。伊藤は近代日本の政治家で、立憲君主制度、議会制民主主義の立憲者である。外見は俳優のなべおさみに髭を生やしたような感じだ。 日本最初の首相(内閣総理大臣)でもある。1885年12月22日~1888年4月30日(第一次)。1892年8月8日~1896年8月31日(第二次)。1898年1月12日~1898年6月30日(第三次)。1900年10月19日~1901年5月10日(第四次)。 何度も総理になったものの、悪名高い『朝鮮併合』で、最後は韓国人にハルビン駅で狙撃されて暗殺されている。韓国では秀吉、西郷隆盛に並ぶ三大悪人のひとりとなっている。 天保12年9月2日(1841年10月16日)周防国熊手郡束荷村(現・山口県光市)松下村塾出身。称号、従一位。大勲位公爵。名誉博士号(エール大学)。前職は枢密院議長。明治42年10月26日(1909年)に旧・満州(ハルビン駅)で、安重根により暗殺された。幼名は利助、のちに俊輔(春輔、瞬輔)。号は春畝(しゅんぽ)。林十蔵の長男として長州藩に生まれる。母は秋山長左衛門の長女・琴子。
 家が貧しかったために12才から奉公に出された。足軽伊藤氏の養子となり、彼と父は足軽になった。英語が堪能であり、まるで死んだ宮沢喜一元・首相のようにペラペラだった。 英語が彼を一躍『時代の寵児』とした。
 彼は前まで千円札の肖像画として君臨した(今は野口英世)…。

         2 維新前夜





  伊藤博文の出会いは吉田松陰と高杉晋作と桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸孝允)であり、生涯の友は井上聞多(馨)である。伊藤博文は足軽の子供である。名前を「利助」→「利輔」→「俊輔」→「春輔」ともかえたりしている。伊藤が「高杉さん」というのにたいして高杉晋作は「おい、伊藤!」と呼び捨てである。吉田松陰などは高杉晋作や久坂玄瑞や桂小五郎にはちゃんとした号を与えているのに伊藤博文には号さえつけない。
 伊藤博文は思った筈だ。
「イマニミテオレ!」と。
  明治四十一年秋に伊藤の竹馬の友であり親友の井上馨(聞多)が尿毒症で危篤になったときは、伊藤博文は何日も付き添いアイスクリームも食べさせ「おい、井上。甘いか?」と尋ねたという。危篤状態から4ヶ月後、井上馨(聞多)は死んだ。
 井上聞多の妻は武子というが、伊藤博文は武子よりも葬儀の席では号泣したという。
 彼は若い時の「外国人官邸焼き討ち」を井上聞多や高杉晋作らとやったことを回想したことだろう。実際には官邸には人が住んでおらず、被害は官邸が全焼しただけであった。
 伊藤は井上聞多とロンドンに留学した頃も回想したことだろう。
 ふたりは「あんな凄い軍隊・海軍のいる外国と戦ったら間違いなく負ける」と言い合った。
 尊皇攘夷など荒唐無稽である。
 

 若くして「秀才」の名をほしいままにした我儘坊っちゃんの晋作は、十三歳になると藩校明倫館小学部に入学した。のちの博文こと伊藤俊輔もここに在席した。
 伊藤は井上聞多とともに高杉の親交があった。
 ふつうの子供なら、気をよくしてもっと勉強に励むか、あるいは最新の学問を探求してもよさそうなものである。しかし、晋作はそういうことをしない。
 悪い癖で、よく空想にふける。まあ、わかりやすくいうと天才・アインシュタインやエジソンのようなものである。勉強は出来たが、集中力が長続きしない。
 いつも空想して、経書を暗記するよりも中国の項羽や劉邦が……とか、劉備や諸葛孔明が……などと空想して先生の言葉などききもしない。
 晋作が十三歳の頃、柳生新陰流内藤作兵衛の門下にはいった。
 しかし、いくらやっても強くならない。
 桂小五郎(のちの木戸孝允)がたちあって、
「晋作、お前には剣才がない。他の道を選べ」という。
 桂小五郎といえば、神道無念流の剣客である。
 桂のその言葉で、晋作はあっさりと剣の道を捨てた。
 晋作が好んだのは詩であり、文学であった。
 ……俺は詩人にでもなりたい。
 ……俺ほど漢詩をよめるものもおるまい。
 高杉少年の傲慢さに先生も手を焼いた。
 晋作は自分を「天才」だと思っているのだから質が悪い。
 自称「天才」は、役にたたない経書の暗記の勉強が、嫌で嫌でたまらない。
  晋作には親友がいた。
久坂義助、のちの久坂玄瑞である。
 久坂は晋作と違って馬面ではなく、色男である。
 久坂家は代々藩医で、禄は二十五石であったという。義助の兄玄機は衆人を驚かす秀才で、皇漢医学を学び、のちに蘭学につうじ、語学にも長けていた。
 その弟・義助は晋作と同じ明倫館に進学していたが、それまでは城下の吉松淳三塾で晋作とともに秀才として、ともに争う仲だったという。
 その義助は明倫館卒業後、医学所に移った。名も医学者らしく玄瑞と改名した。
 明倫館で、鬱憤をためていた晋作は、
「医学など面白いか?」
 と、玄瑞にきいたことがある。
 久坂は、「医学など私は嫌いだ」などという。
 晋作にとっては意外な言葉だった。
「なんで? きみは医者になるのが目標だろう?」
 晋作には是非とも答えがききたかった。
「違うさ」
「何が? 医者じゃなく武士にでもなろうってのか?」
 晋作は冗談まじりにいった。
「そうだ」
 久坂は正直にいった。
「なに?!」
 晋作は驚いた。
「私の願望はこの国の回天(革命)だ」
 晋作はふたたび驚いた。俺と同じことを考えてやがる。
「吉田松陰先生は幕府打倒を訴えてらっしゃる。壤夷もだ」
「……壤夷?」
 久坂にきくまで、晋作は「壤夷」(外国の勢力を攻撃すること)の言葉を知らなかった。「今やらなければならないのは長州藩を中心とする尊皇壤夷だ」
「……尊皇壤夷?」
「そうだ!」
「吉田松陰とは今、蟄去中のあの吉田か?」
 晋作は興味をもった。
 しかし、松陰は幕府に睨まれている。
「よし。おれもその先生の門下になりたい」晋作はそう思い、長年したためた詩集をもって吉田松陰の元にいった。いわゆる「松下村塾」である。
「なにかお持ちですか?」
 吉田松陰は、馬面のキツネ目の十九歳の晋作から目を放さない。
「……これを読んでみてください」
 晋作は自信満々で詩集を渡す。
「なんです?」
「詩です。よんでみてください」
 晋作はにやにやしている。
 ……俺の才能を知るがいい。
 吉田松陰は「わかりました」
 といってかなりの時間をかけて読んでいく。
 晋作は自信満々だから、ハラハラドキドキはしない。
 吉田松陰は異様なほど時間をかけて晋作の詩をよんだ。
 そして、
「……久坂くんのほうが優れている」
 といった。
 高杉晋作が長年抱いていた自信がもろくもくずれさった。
 ……審美眼がないのではないか?
 人間とは、自分中心に考えるものだ。
 自分の才能を否定されても、相手が審美眼のないのではないか?、と思い自分の才能のなさを認めないものだ。しかし、晋作はショックを受けた。
 松陰はその気持ちを読んだかのように「ひと知らずして憤らず、これ君子なるや」といった。「は?」…松陰は続けた。「世の中には自分の実力を実力以上に見せようという風潮があるけど、それはみっともないことだね。悪いことでなく正道を、やるべきことをやっていれば、世の中に受け入れられようがられまいがいっこうに気にせず…これがすなわち”ひと知らずして憤らなず”ですよ」
「わかりました。じゃあ、先生の門下にして下さい。もっといい詩を書けるようになりたいのです」
 高杉晋作は初めて、ひとを師匠として感銘を受けた。門下に入りたいと思った。
「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」松陰はいった。

             
  長州の久坂玄瑞(義助)は、吉田松陰の門下だった。
 久坂玄瑞は松下村塾の優秀な塾生徒で、同期は高杉晋作である。ともに若いふたりは吉田松陰の「草奔掘起」の思想を実現しようと志をたてた。
 玄瑞はなかなかの色男で、高杉晋作は馬面である。
 なぜ、長州(山口県)という今でも遠いところにある藩の若き学者・吉田松陰が、改革を目指したのか? なぜ幕府打倒に執念を燃やしたのか?
 その起源は、嘉永二(一八四九)年、吉田松陰二十歳までさかのぼる。
 若き松陰は長州を発ち、諸国行脚をした。遠くは東北辺りまで足を運んだという。そして、人々が飢えに苦しんでいるのを目の当たりにした。
 ……徳川幕府は自分たちだけが利益を貪り、民、百姓を飢餓に陥れている。こんな政権を倒さなくてどうするか……
  松陰はまた晋作の才能も見抜いていた。
「きみは天才である。その才は常人を越えて天才的といえるだろう。だが、きみは才に任せ、感覚的に物事を掴もうとしている。学問的ではない。学問とはひとつひとつの積み重ねだ。本質を見抜くことだ。だから君は学問を軽視する。
 しかし、感覚と学問は相反するものではない。
 きみには才能がある」
 ……この人は神人か。
 後年、晋作はそう述懐しているという。

  松下村塾での晋作の勉強は一年に過ぎない。
 晋作は安政五年七月、十九歳のとき、藩命によって幕府の昌平黌に留学し、松下村塾を離れたためだ。
 わずか一年で学んだものは学問というより、天才的な軍略や戦略だろう。
 松陰はいう。
「自分は、門下の中で久坂玄瑞を第一とした。後にやってきた高杉晋作は知識は豊富だが、学問は十分ではなく、議論は主観的で我意が強かった。
 しかし、高杉の学問はにわかに長じ、塾の同期生たちは何かいうとき、暢夫(高杉の号)に問い、あんたはどう思うか、ときいてから結論をだした」
 晋作没後四十四年、維新の英雄でもあり松下村塾の同期だった伊藤博文が彼の墓碑を建てた。その碑にはこう書かれている。

              
 動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するも漠し…

 高杉晋作は行動だけではなく、行動を発するアイデアが雷電風雨の如く、まわりを圧倒したのである。
 吉田松陰のすごいところは、晋作の才能を見抜いたところにある。
 久坂玄瑞も、
「高杉の学殖にはかないません」とのちにいっている。
 久坂の妻となった久坂(旧姓・杉)文は苦手な料理や洗濯などかいがいしくこなしていたが、やがて久坂との大事な赤子を死産してしまう。ふたりは号泣したという。この事がきっかけでかはわからないが、文は「子供が産めない体」になるのだ。が、それは後述するとしよう。
  安政五年、晋作は十九歳になった。
 そこで、初めて江戸に着いた。江戸の昌平黌に留学したためである。
 おりからの「安政の大獄」で、師吉田松陰は捕らえられた。
  松陰は思う。
 ……かくなるうえは西洋から近代兵器や思想を取り入れ、日本を異国にも誇れる国にしなければならない……
 松陰はそんな考えで、小舟に乗り黒船に向かう。そして、乗せてくれ(プリーズ、オン・ザ、シップ!)、一緒に外国にいかせてくれ、と頼む。しかし、異人さんの答えは「ノー」だった。
 当時は、黒船に近付くことさえご法度だった。
 吉田松陰はたちまち牢獄へいれられてしまう。
 しかし、かれは諦めず、幕府に「軍艦をつくるべきだ」と書状をおくり、開国、を迫った。
  松陰は江戸に檻送されてきた。
高杉は学問どころではなく、伝馬町の大牢へ通った。
 松陰もまた高杉に甘えきった。
 かれは晋作に金をたんまりと借りていく。牢獄の役人にバラまき、執筆の時間をつくるためである。
 晋作は牢獄の師匠に手紙をおくったことがある。
「迂生(自分)はこの先、どうすればよいのか?」
 松陰は、久坂らには過激な言葉をかけていたが、晋作だけにはそうした言葉をかけなかった。
「老兄(松陰は死ぬまで、晋作をそう呼んだという)は江戸遊学中である。学業に専念し、おわったら国にかえって妻を娶り、藩庁の役職につきたまえ」
  晋作は官僚の息子である。
 そういう環境からは革命はできない。
 晋作はゆくゆくは官僚となり、凡人となるだろう。
 松陰は晋作に期待していなかった。
 松陰は長州藩に疎まれ「幽閉」される身となる。それでも我儘坊ちゃん高杉晋作の豪遊癖は直らない。久坂義助は玄瑞と号し、長州藩の奥医師の立場から正式な侍・武士になろうと奮起する。
 だが、そうそう自分の思い通りにいく程世の中は甘くない。酒に逃げる久坂を文は叱り、そして励ました。まさに内助の功である。
 松陰が幽閉されたのは長州藩萩の野山獄である。しかし、幕府により松陰は江戸に連行され殺される運命なのである。文やのちの伊藤博文となる伊藤俊輔らは江戸の処刑場までいき「吉田松陰の斬首」を涙を流しながら竹柵にしがみつきながら見届けた。  
 幕府は吉田松陰を処刑してしまう。
 「先生!せ……先生!松陰先生!」
 「寅にい!寅次郎にいやーん!にいーやーん!」
 このとき久坂文が号泣したのは当たり前だ。が、あまりに激怒したため幕府の役人を「卑怯者!身の程をしれ!」と口汚く罵った為に一時期軟禁状態にされ、高杉晋作か誰かが役人に賄賂金を渡して久坂文が釈放された、というのは小説やドラマのフィクションである。
 安政六(一八五九)年、まさに安政の大獄の嵐が吹きあれる頃だった。
…吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。
  かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえたという。
「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」
 玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。

  晋作の父は吉田松陰の影響を恐れ、晋作を国にかえした。
「嫁をもらえ」という。
 晋作は反発した。
 回天がまだなのに嫁をもらって、愚図愚図してられない………
 高杉晋作はあくまで、藩には忠実だった。
 革命のため、坂本龍馬は脱藩した。西郷吉之助(隆盛)や大久保一蔵(利道)は薩摩藩を脱藩はしなかったが藩士・島津久光を無視して”薩摩の代表づら”をしていた。
 その点では、高杉晋作は長州藩に忠実だった。
 ……しかし、まだ嫁はいらぬ。

坂本龍馬が「薩長同盟」を演出したのは阿呆でも知っている歴史的大事業だ。だが、そこには坂本龍馬を信じて手を貸した西郷隆盛、大久保利通、木戸貫治(木戸孝允)や高杉晋作らの存在を忘れてはならない。久光を頭に「天誅!」と称して殺戮の嵐の中にあった京都にはいった西郷や大久保に、声をかけたのが竜馬であった。杉文の二番目の夫となる小田村伊之助(慶応三年・1867年藩命で楫取素彦と改名)が大宰府で坂本竜馬と会ったのが、薩長同盟の端緒となってもいる。「薩長同盟? 桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)や高杉に会え? 錦の御旗?」大久保や西郷にはあまりに性急なことで戸惑った。だが、坂本龍馬はどこまでもパワフルだ。しかも私心がない。儲けようとか贅沢三昧の生活がしたい、などという馬鹿げた野心などない。だからこそ西郷も大久保も、木戸も高杉も信じた。京の寺田屋で龍馬が負傷したときは、薩摩藩が守った。大久保は岩倉具視邸を訪れ、明治国家のビジョンを話し合った。結局、坂本龍馬は京の近江屋で暗殺されてしまうが、明治維新の扉、維新の扉をこじ開けて未来を見たのは間違いなく、坂本龍馬で、あった。
 話を少し戻す。

「萩軍艦教授所に入学を命ず」
 そういう藩命が晋作に下った。
 幕末、長州藩は急速に外国の技術をとりいれ、西洋式医学や軍事、兵器の教育を徹底させていた。学問所を設置していた。晋作にそこへ行けという。
 長州藩は手作りの木造軍艦をつくってみた。
名を丙辰丸という。
 小さくて蒸気機関もついていない。ヨットみたいな軍艦で、オマケ程度に砲台が三門ついている。その丙辰丸の船上が萩軍艦教授所であった。
「これで世界に出られますか?」
 乗り込むとき、晋作は艦長の松島剛蔵に尋ねた。
 松島剛蔵は苦笑して、
「まぁ、運しだいだろう」という。
 ……こんなオモチャみたいな船で、世界と渡り合える訳はない。
「ためしに江戸まで航海しようじゃねぇか」
 松島は帆をかかげて、船を動かした。
 航海中、船は揺れに揺れた。
 晋作は船酔いで吐きつづけた。
 品川に着いたとき、高杉晋作はヘトヘトだった。品川で降りるという。
 松島は「軍艦役をやめてどうしようというのか?」と問うた。
 晋作は青白い顔のまま「女郎かいでもしましょうか」といったという。
 ……俺は船乗りにもなれん。
 晋作の人生は暗澹たるものになった。
 品川にも遊郭があるが、宿場町だけあって、ひどい女が多い。おとらとかおくまとか名そのままの女がざらだった。
 その中で、十七歳のおきんは美人ではないが、肉付きのよい体をして可愛い顔をしていた。晋作は宵のうちから布団で寝転がっていた。まだ船酔いから回復できていない。
 粥を食べてみたが、すぐ吐いた。
 ……疲れているからいい。
 ふたりはふとんにぐったりと横になった。
 ……また藩にもどらねば。
 晋作には快感に酔っている暇はなかった。

           
 この頃、晋作は佐久間象山という男と親交を結んだ。
 佐久間象山は、最初は湯島聖堂の佐藤一斉の門下として漢学者として世間に知られていた。彼は天保十年(一八三九)二十九歳の時、神田お玉ケ池で象山書院を開いた。だが、その後、主君である信州松代藩主真田阿波守幸貫が老中となり、海防掛となったので象山は顧問として海防を研究した。蘭学も学んだ。
 象山は、もういい加減いい年だが、顎髭ときりりとした目が印象的である。
 佐久間象山が勝海舟の妹の順子を嫁にしたのは嘉永五年十二月であった。順子は十七歳、象山は四十二歳である。象山にはそれまで多数の妾がいたが、妻はいなかった。
 勝海舟は年上であり、大学者でもある象山を義弟に迎えた。

 嘉永六年六月三日、大事件がおこった。
 ………「黒船来航」である。
 三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
 司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
 幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
 幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、勝海舟が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。勝海舟は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
 勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
 一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
 二、海防の軍艦を至急に新造すること。
 三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
 四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
 五、火薬、武器を大量に製造する。
  勝海舟が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
 その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。勝海舟は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。勝海舟は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用しした為である。
 幕府はオランダから軍艦を献上された。
 献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。
 咸臨丸は四月七日、ハワイを出航した。
 四月二十九日、海中に鰹の大群が見えて、それを釣ったという。そしてそれから数日後、やっと日本列島が見え、乗員たちは歓声をあげた。
「房州洲崎に違いない。進路を右へ向けよ」
 咸臨丸は追い風にのって浦賀港にはいり、やがて投錨した。
 午後十時過ぎ、役所へ到着の知らせをして、戻ると珍事がおこった。
 幕府の井伊大老が、登城途中に浪人たちに暗殺されたという。奉行所の役人が大勢やってきて船に乗り込んできた。
 勝海舟は激昴して「無礼者! 誰の許しで船に乗り込んできたんだ?!」と大声でいった。 役人はいう。
「井伊大老が桜田門外で水戸浪人に殺された。ついては水戸者が乗っておらぬか厳重に調べよとの、奉行からの指示によって参った」
 勝海舟は、何を馬鹿なこといってやがる、と腹が立ったが、
「アメリカには水戸者はひとりもいねぇから、帰って奉行殿にそういってくれ」と穏やかな口調でいった。
 幕府の重鎮である大老が浪人に殺されるようでは前途多難だ。

 勝海舟は五月七日、木村摂津守、伴鉄太郎ら士官たちと登城し、老中たちに挨拶を終えたのち、将軍家茂に謁した。
 勝海舟は老中より質問を受けた。
「その方は一種の眼光(観察力)をもっておるときいておる。よって、異国にいって眼をつけたものもあろう。つまびやかに申すがよい」
 勝海舟は平然といった。
「人間のなすことは古今東西同じような者で、メリケンとてとりわけ変わった事はござりませぬ」
「そのようなことはないであろう? 喉からでかかっておるものを申してみよ!」
 勝海舟は苦笑いした。そしてようやく「左様、いささか眼につきましは、政府にしても士農工商を営むについても、およそ人のうえに立つ者は、皆そのくらい相応に賢うござりまする。この事ばかりは、わが国とは反対に思いまする」
 老中は激怒して「この無礼者め! 控えおろう!」と大声をあげた。
 勝海舟は、馬鹿らしいねぇ、と思いながらも平伏し、座を去った。
「この無礼者め!」
 老中の罵声が背後からきこえた。
 勝海舟が井伊大老が桜田門外で水戸浪人に暗殺されたときいたとき、
「これ幕府倒るるの兆しだ」と大声で叫んだという。
 それをきいて呆れた木村摂津守が、「何という暴言を申すか。気が違ったのではないか」 と諫めた。
 この一件で、幕府家臣たちから勝海舟は白い目で見られることが多くなった。
 勝海舟は幕府の内情に詳しく、それゆえ幕府の行く末を予言しただけなのだが、幕臣たちから見れば勝海舟は「裏切り者」にみえる。
 実際、後年は積極的に薩長連合の「官軍」に寝返たようなことばかりした。
 しかし、それは徳川幕府よりも日本という国を救いたいがための行動である。
 勝海舟の咸臨丸艦長としての業績は、まったく認められなかった。そのかわり軍艦操練所教授方の小野友五郎の航海中の功績が認められた。
 友五郎は勝より年上で、その測量技術には唸るものがあったという。
 久坂玄瑞や真木和泉(まき・いずみ)ら長州藩士・不貞分子ら一大勢力や三条実美ら公家が京の都で、「天子さま(天皇陛下のこと)を奪還して長州藩に連れ出し政権を握る」という恐るべき計画を立てていた。当然ながら反対勢力も多かったという。
 のちの木戸孝允こと桂小五郎も「私は反対だ!無謀過ぎる!」と反対した。「畏れ多くも御所に火を放ち鉄砲・弓・矢を向けるなどとんでもないことだ」
 当たり前の判断である。だが、長州藩は追い込まれていた。ほかならぬ薩摩藩・会津藩にである。
 窮鼠猫を噛む、ではないが長州藩危険分子は時代に追い込まれていた。この頃、久坂文は亡き兄の忘れ形見でもある松下村塾で教える立場のようなものにもなり、久坂玄瑞はたんと嫁自慢をしたという。
 だが、乱世は近づいていた。文は子供の産めない体になり、文は号泣しながら崩れる夫・久坂玄瑞に泣きながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝り続けた。それが今生の別れとなるとは、誰も考えられなかったことだろう。
  勝海舟は、閑職にいる間に、赤坂元氷川下の屋敷で『まがきのいばら』という論文を執筆した。つまり広言できない事情を書いた論文である。
 内容は自分が生まれた文政六年(一八二三)から万延元年(一八六〇)までの三十七年間の世情の変遷を、史料を調べてまとめたものであるという。
 アメリカを見て、肌で自由というものを感じ、体験してきた勝海舟ならではの論文である。
「歴史を振り返っても、国家多端な状況が今ほど激しい時はなかった。
 昔から栄枯盛衰はあったが、海外からの勢力が押し寄せて来るような事は、初めてである。泰平の世が二百五十年も続き、士気は弛み放題で、様々の弊害を及ぼす習わしが積み重なってたところへ、国際問題が起こった。
 文政、天保の初めから士民と友にしゃしを競い、士気は地に落ちた。国の財政が乏しいというが、賄賂が盛んに行われ上司に媚諂い、賄賂を使ってようやく役職を得ることを、世間の人は怪しみもしなかった。
 そのため、辺境の警備などを言えば、排斥され罰を受ける。
 しかし世人は将軍家治様の盛大を祝うばかりであった。
 文政年間に高橋作左衛門(景保)が西洋事情を考究し、刑せられた。天保十年(一八三九)には、渡辺華山、高野長英が、辺境警備を私議したとして捕縛された。
 海外では文政九年(一八一二)にフランス大乱が起こり、国王ナポレオンがロシアを攻め大敗し、流刑に処せられた後、西洋各国の軍備がようやく盛んになってきた。
 諸学術の進歩、その間に非常なものであった。
 ナポレオンがヘレナ島で死んだ後、大乱も治まり、東洋諸国との交易は盛んになる一方であった。
 天保二年、アメリカ合衆国に経済学校が開かれ、諸州に置かれた。この頃から蒸気機関を用い、船を動かす技術が大いに発達した。
 天保十三年には、イギリス人が蒸気船で地球を一周したが、わずか四十五日間を費やしたのみであった。
 世の中は移り変り、アジアの国々は学術に明るいが実業に疎く、インド、支那のように、ヨーロッパに侮られ、膝を屈するに至ったのは、実に嘆かわしいことである」
 世界情勢を知った勝海舟には、腐りきった幕府が嘆かわしく思えた。

  井伊大老のあとを受けて大老となった安藤信正は幕臣の使節をヨーロッパに派遣した。 パリ、マルセーユを巡りロンドンまでいったらしいが、成果はゼロに等しかった。
 小人物は、聞き込んだ風説の軽重を計る感覚を備えてない。只、指をくわえて見てきただけのことである。現在の日本政治家の”外遊”に似ている。
 その安藤信正は坂下門下門外で浪人に襲撃され、負傷して、四月に老中を退いた。在職中に英国大使から小笠原諸島は日本の領土であるか? と尋ねられ、外国奉行に命じて、諸島の開拓と巡察を行ったという。開拓などを命じられたのは、大久保越中守(忠寛)である。彼は井伊大老に睨まれ、左遷されていたが、文久二年五月四日には、外国奉行兼任のまま大目付に任命された。
 幕府のゴタゴタは続いた。山形五万石の水野和泉守が、将軍家茂に海軍白書を提出した。軍艦三百七十余隻を備える幕臣に操縦させて国を守る……というプランだった。
「かような海軍を全備致すに、どれほどの年月を待たねばならぬのか?」
 勝海舟は、将軍もなかなか痛いところをお突きになる、と関心した。
 しかし、列座の歴々方からは何の返答もない。皆軍艦など知らぬ無知者ばかりである。 たまりかねた水野和泉守が、
「なにか申すことがあるであろう? 申せ」
 しかし、何の返答もない。
 大久保越中守の目配せで、水野和泉守はやっと勝海舟に声をかけた。
「勝麟太郎、どうじゃ?」
 一同の目が勝海舟に集まった。
 ”咸臨丸の艦長としてろくに働きもしなかったうえに、上司を憚らない大言壮語する” という噂が広まっていた。
 勝海舟が平伏すると、大久保越中守が告げた。
「勝海舟、それへ参れとのごじょうじゃ」
「ははっ!」
 勝海舟は座を立ち、家茂の前まできて平伏した。
 普通は座を立たずにその場で意見をいうのがしきたりだったが、勝海舟はそれを知りながら無視した。勝海舟はいう。
「謹んで申し上げます。これは五百年の後ならでは、その全備を整えるのは難しと存じまする。軍艦三百七十余隻は、数年を出ずして整うべしといえども、乗組みの人員が如何にして運転習熟できましょうか。
 当今、イギリス海軍の盛大が言われまするが、ほとんど三百年の久しき時を経て、ようやく今に至れるものでござります。
 もし海防策を、子々孫々にわたりそのご趣意に背かず、英意をじゅんぼうする人にあらざれば、大成しうるものにはございませぬ。
 海軍の策は、敵を征伐するの勢力に、余りあるものならざれば、成り立ちませぬ」
 勝海舟(麟太郎)は人材の育成を説く。武家か幕臣たちからだけではなく広く身分を問わずに人材を集める、養成するべき、と勝海舟は説く。

  長州藩に「このひとあり」という男がいた。
 長井雅楽(ながい・うた)である。
 長井雅楽は根っからの保守派で、聡明、弁舌に長じ、見識もあり、優れた人物だったという。尊皇壤夷思想の吉田松陰でさえ、
「長井は、家中屈指の人物である」と認めている。
 長州藩の失敗は吉田松陰を死においやったことだ。
 だが、悪気があった訳ではない。長井も悩み、松陰を遠くの牢に閉じ込めていたのだが、幕府に命令されて江戸に檻送し、殺された……ということである。
 しかし、長州藩士は「長井は思想を違うとする松陰を死においやった!」ととった。
 長井は、文久元年、「航海遠略策」という政策案をつくり、藩主に献上した。
 ……開国か鎖国かと日本人が議論に紛糾しているあいだに、外敵がそれにつけこんで、術中におとし入れてしまう……
 と、長井は説く。
 江戸にいた久坂玄瑞や井上聞多(のちの馨)、伊藤俊輔(のちの博文)などが、過激分子としてあった。高杉晋作などもそのひとりで、
「長井雅楽を斬る!」
 といって憚らなかった。本気で暗殺しようとしたかはわからない。
 しかし、その暗殺計画が有名になり、桂がやめさせるために上海に晋作を送ったのである。だが、長井雅楽は、晋作が上海に向かっているあいだに失脚してしまった。


 幾松は京三本木(現・京都市上京区三本木通り)の芸子として知られるが、元々は芸者をやるような卑しい身分の者ではなかった。
 幾松こと後の木戸松子は天保十四年(1843年)に若狭国小浜藩士・山崎市兵衛と、小浜藩医学師・細井太仲の娘・未子の娘として生まれている。
 名は計(かず)、のちに芸者として幾松と知られ、維新後に桂小五郎(木戸孝允)の妻・木戸松子になり、夫の死後、翠香院と号した。
 武家の娘としてなに不自由なく育った計だったが、不幸は後から後からやってくる。
 実家が生活苦になったため、公家の九条家諸太夫の次男・難波恒次郎の養女となることになったのもまた運命である。
「お父上様、お母上様、お世話になりました。計は養女にまいりまする」
 計は幼いながらも父母に平伏して別れの挨拶をした。武家の身から公家の太夫に養女に出された。計は涙を堪えていた。「許せ、計!」父は涙を流していった。
 しかし、養女として出されたものの、義父・恒次郎は苦労知らずののぼせあがりであり、またそれも更なる不幸に繋がった。恒次郎は享楽に耽り、遊ぶ金が底をついた。
 そして、義父・恒次郎は遊ぶ金欲しさに計を芸子にしてしまう。
 こうして、京三本木の芸子・幾松(二代目)となった計は、覚悟を決めた。
「うちにはもう何もあらへん。これからは幾松として……芸者として身を立てにゃあかん」 麗しい芸子・幾松は三本木でも有名になっていく。
 そして、桂と出会った。それは文久元年(1861年)、幾松十八歳の頃だった。
 桂小五郎は長州藩士で、色男で、いろいろな女子にもてた。が、やがて幾松に夢中になり、恋人関係となっていく………


「いやぁ、かっちゃんには借りができちまった」
 若き土方歳三は江戸の町を歩きながらいった。”かっちゃん”とは島崎勝太、のちの近藤勇である。昼時で、空は限りなく蒼天だった。嘉永六年(一八五三)一月のことである。「かっちやんじやないよもう俺は…」近藤は頬に手を当てながらいった。「近藤先生の養子で次期宗家の”近藤勇”だ」
「いさみ? 何でいさむじゃないんだ?」
「知らないよ。先生がつけた名前だから」
 土方はおどけて「いさみ足のいさみか?」と笑った。
「そりゃないよトシさん」近藤はふくれた。「今だってトシさんの女に別れ話して平手打ちされたんだぜ。俺が……付き合ってもない女子に」
「ははは…」土方は笑った。「だから借りが出来たっていったろ?」
 近藤は呆れた。
 土方は誰もいないときは近藤勇を「近藤さん」とぞんざいに呼んだという。近藤は土方のことを「トシサン」で呼ぶ。同じ多摩の百姓出身である。近藤は、武州多摩郡上石原の出で、近在の田舎道場の天然理心流の指南役・近藤周助の養子となる。十代から二十代にかけて関東(八王子周辺)の村々をまわって農民相手に剣を教えたという。
 たまたま多摩郡日野村に斎藤彦五郎という郷土があり、彦五郎は土方にとって姉婿で、彦五郎は天然理心流の保護者であったともいわれている。それが近藤と土方の縁となった。 ともに親友で、青年時代を共にしてきたふたりは、緊密、なものがあった。
「トシさんはいつも女の尻ばかり追いかけてる」
 近藤は愚痴った。「もっと他にいいことないのか?」
「いいことって?」
「例えば、この日本国のために何かするとか…」
「日本国? へん、でかいこというね」土方は笑った。「それでかっちゃんは日本のために何をする?」
「まず剣で世の中を渡っていく。そして幕府を守るんだ」
「幕府? 百姓に何ができる?」
「百姓出身だって…」近藤は口をくもらせた。「秀吉だって百姓から天下人になった」
 その言葉は近藤自身にも薄っぺらに聞こえた。
 土方は「時代が違うよ、時代が! 戦国時代と今の幕藩体制では違うよ。今、秀吉が生まれてたら天下はとれないぜ、きっと」と嘲笑気味にいった。
「そりゃそうだがトシさん…」
 近藤は口をつぐんだ。とにかく土方は聞く耳をもたない。そんな相手に何をいってもムダというものだ。土方は「腹減ったな。蕎麦でも食べようぜ」といった。
 本当に聞く耳がない。
 町の蕎麦屋にいって近藤と土方は蕎麦をずるずるすすった。すると、遠くの席にいた男が「やはり江戸の蕎麦はマズイ!」とハッキリいった。
 ふたりはその男をみた。その男こそ長州の桂小五郎だった。りっぱな服を着て、きりりとした涼しい目をしたハンサムな男であった。「マズイ!」はっきりいった。
「……なんだと…この野郎」
 そういったのは店のものではない。土方だった。しかし、近藤がとめた。そして、
「あれ? 桂さん!」と気付いた。
「おう! 近藤くん」桂小五郎はにやりとした。近藤は「トシさん、こちらの方は長州の桂小五郎さん。近くの道場の師範だ」と土方に紹介した。しかし、土方は何も言わなかった。ムカムカしていた。よくも江戸の食べ物を馬鹿にしやがって!
 桂は席を立った。まだ蕎麦は一口つけただけである。
「桂さん蕎麦食べないのですか? 随分残ってますけど…」と近藤。
「マズイものはいらぬ」桂小五郎は冷ややかにいった。「君達の分も私が奢ろう」
 桂小五郎は代金三十六文を払った。
「桂さん、奢ってもらわなくても…」近藤は狼狽すると、土方が「江戸の食べ物を馬鹿にしやがって! 斬り殺してやる!」と殺気だった。
「馬鹿いうなトシサン。相手は神道無心流免許皆伝……かなう相手ではない」
 ふたりは店を出た。桂を追いかけた。「なんだね?」
「桂さん、俺たちはあなたに奢ってもらう訳にはいきません。銭は返します」
「断る!」桂小五郎はキッパリいった。
「どげんしたぜよ? 桂さん」急にやってきた男がいった。浅黒い肌の、近視のもじゃもじゃチヨンマゲの男だった。足には草履ではなくブーツを履いている。面長な男…
「やあ、坂本くんか」桂小五郎はにこりとした。そう、この若い男こそ坂本龍馬であった。これが初対面であったという。「わしは坂本龍馬じゃけんど、おぬしらは誰ぜよ?」
 桂はにやりとして「このふたりは貧乏道場の…」”貧乏は余計だ”近藤は思った。「天然なんとか流のもので」”理心流だ”近藤は思って舌打ちした。「近藤くんたちだ」
「よろしくぜよ!」龍馬は近藤らと握手した。ふたりは戸惑った。
 そんなとき、桂小五郎はもう橋の上だった。「坂本くん! 明日忘れるなよ」
 そういって桂は去った。
 土方は「あいついつかぶっ殺してやる!」と息巻いた。
「おいおいぶっそうなことはなしぜよ。おんなじ日本人同士じゃなかが」竜馬は笑った。 そして「明日、浦賀の黒船を見にいく。おぬしらも来るか?」と尋ねた。
「黒船? 桂さんと?」とは近藤。
 竜馬は「そう。そしてなんと佐久間象山先生も一緒ぜよ。象山先生はわしの砲術の先生でな」と平然といった。近藤と土方は興味津々だった。……黒船か……見てみたい…
「黒船みたら人生が変わるぜよ」竜馬はにやりといった。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「花燃ゆ」とその時代吉田松陰と妹の生涯2015年大河ドラマ原作<加筆維新回天特別編>アンコール連載小説4

2015年01月12日 08時04分22秒 | 日記









桂小五郎と新選組


  竜馬は江戸の長州藩邸にいき事情をかくかくしかしかだ、と説明した。
 晋作は呆れた。「なにーい?!勝海舟を斬るのをやめて、弟子になった?」
「そうじゃきい、高杉さんすまんちや。約束をやぶったがは謝る。しかし、勝先生は日本のために絶対に殺しちゃならん人物じゃとわかったがじゃ!」
「おんしは……このまえ徳川幕府を倒せというたろうが?」
「すまんちぃや。勝先生は誤解されちょるんじゃ。開国を唱えちょるがは、日本が西洋列強に負けない海軍を作るための外貨を稼ぐためであるし。それにの、勝先生は幕臣でありながら、幕府の延命策など考えちょらんぞ。日本を救うためには、幕府を倒すも辞さんとかんがえちょるがじゃ!」
「勝は大ボラ吹きで、二枚舌も三枚舌も使う男だ!君はまんまとだまされたんだ!目を覚ませ!」
「いや、それは違うぞ、高杉さん。まあ、ちくりと聞いちょくれ!」
 同席の山県有朋や伊藤俊輔(博文)らが鯉口を斬り、「聞く必要などない!こいつは我々の敵になった!俺らが斬ってやる!」と息巻いた。
「待ちい、早まるなち…」
 高杉は「坂本さん、刃向うか?」
「ああ…俺は今、斬られて死ぬわけにはいかんきにのう」
 高杉は考えてから「わかってた坂本君、こちらの負けだ。刀は抜くな!」
「ありがとう高杉さん、わしの倒幕は嘘じゃないきに、信じとうせ」竜馬は場を去った。
 
 夜更けて、龍馬は師匠である勝海舟の供で江戸の屋形船に乗った。
 勝海舟に越前福井藩の三岡八郎(のちの由利公正・ゆりきみまさ)と越前藩主・松平春嶽公と対面し、黒船や政治や経済の話を訊き、大変な勉強になった。
 龍馬は身分の差等気にするような「ちいさな男」ではない。春嶽公も龍馬も屋形船の中では対等であったという。
 そこには土佐藩藩主・山内容堂公の姿もあった。が、殿さまがいちいち土佐の侍、しかも上士でもない、郷士の坂本竜馬の顔など知る訳がない。
 龍馬が土佐勤王党と武市らのことをきくと「あんな連中虫けらみたいなもの。邪魔になれば捻りつぶすだけだ」という。
 容堂は勝海舟に「こちらの御仁は?」ときくので、まさか土佐藩の侍だ、等というわけにもいかず、
「ええ~と、こいつは日本人の坂本です」といった。
「日本人?ほう」
 坂本竜馬は一礼した。……虫けらか……武市さんも以蔵も報われんのう……何だか空しくなった。
 坂本竜馬がのちの妻のおりょう(樽崎龍)に出会ったのは京であった。
 おりょうの妹が借金の形にとられて、慣れない刀で刃傷沙汰を起こそうというのを龍馬がとめた。
「やめちょけ!」
「誰やねんな、あんたさん?!あんたさんに関係あらしません!」
 興奮して激しい怒りでおりょうは言い放った。
「……借金は……幾らぜ?」
「あんたにゃ…関係あらへんていうてますやろ!」
 宿の女将が「おりょうちゃん、あかんで!」と刀を構えるおりょうにいった。
「おまん、おりょういうがか?袖振り合うのも多少の縁……いうちゅう。わしがその借金払ったる。幾らぜ?」
 おりょうは激高して「うちは乞食やあらしまへん!金はうちが……何とか工面するよって…黙りや!」
「何とも工面できんからそういうことになっちゅうろうが?幾らぜ?三両か?五両かへ?」
「……うちは…うちは……乞食やあらへん!」おりょうは涙目である。悔しいのと激高で、もうへとへとであった。
「そうじゃのう。おまんは乞食にはみえんろう。そんじゃきい、こうしよう。金は貸すことにしよう。それでこの宿で、女将のお登勢さんに雇ってもらうがじゃ、金は後からゆるりと返しゃええきに」
 おりょうは絶句した。「のう、おりょう殿」竜馬は暴れ馬を静かにするが如く、おりょうの激高と難局を鎮めた。
「そいでいいかいのう?お登勢さん」
「へい、うちはまあ、ええですけど。おりょうちゃんそれでええんか?」
 おりょうは答えなかった。
 ただ、涙をはらはら流すのみ、である。

  武市半平太らの「土佐勤王党」の命運は、あっけないものであった。
 土佐藩藩主・山内容堂公の右腕でもあり、ブレーンでもあった吉田東洋を暗殺したとして、武市半平太やらは土佐藩の囚われとなった。
 武市は土佐の自宅で、妻のお富と朝食中に捕縛された。「お富、今度旅行にいこう」
 半平太はそういって連行された。
 吉田東洋を暗殺したのは岡田以蔵である。だが、命令したのは武市である。
 以蔵は拷問を受ける。だが、なかなか口を割らない。
 当たり前である。どっちみち斬首の刑なのだ。以蔵は武市半平太のことを「武市先生」と呼び慕っていた。
 だが、白札扱いで、拷問を受けずに牢獄の衆の武市の使徒である侍に「毒まんじゅう」を差し出されるとすべてを話した。
 以蔵は斬首、武市も切腹して果てた。壮絶な最期であった。
 一方、龍馬はその頃、勝海舟の海軍操練所の金策にあらゆる藩を訪れては「海軍の重要性」を説いていた。
 だが、馬鹿幕府は海軍操練所をつぶし、勝海舟を左遷してしまう。
「幕府は腐りきった糞以下だ!」
 勝麟太郎(勝海舟)は憤激する。だが、怒りの矛先がありゃしない。龍馬たちはふたたび浪人となり、薩摩藩に、長崎にいくしかなくなった。
 ちなみにおりょう(樽崎龍)が坂本竜馬の妻だが、江戸・千葉道場の千葉さな子は龍馬を密かに思い、生涯独身で過ごしたという。


  新選組の血の粛清は続いた。
 必死に土佐藩士八人も戦った。たちまち、新選組側は、伊藤浪之助がコブシを斬られ、刀をおとした。が、ほどなく援軍がかけつけ、新選組は、いずれも先を争いながら踏み込み踏み込んで闘った。土佐藩士の藤崎吉五郎が原田左之助に斬られて即死、宮川助五郎は全身に傷を負って手負いのまま逃げたが、気絶し捕縛された。他はとびおりて逃げ去った。 土方は別の反幕勢力の潜む屋敷にきた。
「ご用改めである!」歳三はいった。ほどなくバタバタと音がきこえ、屋敷の番頭がやってきた。「どちらさまで?」
「新選組の土方である。中を調べたい!」
 泣く子も黙る新選組の土方歳三の名をきき、番頭は、ひい~っ、と悲鳴をあげた。
 殺戮集団・新選組……敵は薩摩、長州らの倒幕派の連中だった。
  文久三年。幕府からの要請で、新選組は見回りを続けた。
 ……長州浪人たちが京を焼き討ちするという噂が広がっていた。新選組は毎晩警護にあたった。池田屋への斬り込みは元治元年(一八六四)六月五日午後七時頃だったという。このとき新選組は二隊に別れた。局長近藤勇が一隊わずか五、六人をつれて池田屋に向かい、副長土方が二十数名をつれて料亭「丹虎」にむかったという。
 最後の情報では丹虎に倒幕派の連中が集合しているというものだった。新選組はさっそく捜査を開始した。そんな中、池田屋の側で張り込んでいた山崎蒸が、料亭に密かにはいる長州の桂小五郎を発見した。山崎蒸は入隊後、わずか数か月で副長勤格(中隊長格)に抜擢され、観察、偵察の仕事をまかされていた。新選組では異例の出世である。
 池田屋料亭には長州浪人が何人もいた。
 桂小五郎は「私は反対だ。京や御所に火をかければ大勢が焼け死ぬ。天子さまを奪取するなど無理だ」と首謀者に反対した。行灯の明りで部屋はオレンジ色になっていた。
 ほどなく、近藤勇たちが池田屋にきた。
 数が少ない。「前後、裏に三人、表三人……行け!」近藤は囁くように命令した。
 あとは近藤と沖田、永倉、藤堂の四人だけである。
 いずれも新選組きっての剣客である。浅黄地にだんだら染めの山形模様の新選組そろいの羽織りである。
「新選組だ! ご用改めである!」近藤たちは門をあけ、中に躍り込んだ。…ひい~っ! 新選組だ! いきなり階段をあがり、刀を抜いた。二尺三寸五分虎徹である。沖田、永倉がそれに続いた。「桂はん…新選組です」のちの妻・幾松が彼につげた。桂は「すまぬ」といい遁走した。そして、十年前………


 桂小五郎は江戸幕府300年の支配体制を崩し、近代日本国家(官僚制と徹底した学歴主義)の礎を築いた。小五郎にはもちろん父親がいた。木戸孝允は名を桂小五郎という。父は和田昌景(まさかげ)であり、彼は息子・小五郎だけでなく息子の弟子的な高杉晋作や久坂玄瑞のひととなりを愛し、ひまがあれば小五郎や高杉少年らに学問や歴史の話をした。
「歴史から学べ。温故知新だ」「苦労は買ってでもせい」「学問で下級武士でもなんとかなる」そう言って憚らなかった。もう一人の教師は長州の偉人・吉田松陰である。
 時代に抜きん出た傑物で、長崎江戸で蘭学、医術を学び、海外にくわしく、航海発達の重要性を理解していた。ハイカラな兄さんで、小五郎や高杉晋作は学ぶことが多かった。
 桂小五郎家は長州下級武士であったが、父・昌景には先妻があり、女子二人をもうけ、長女を養子にとったところ長女が死に、次女をその後妻とした。後妻との間に小五郎と妹が出来た。
 大久保一蔵(利通)と西郷吉之助(隆盛)は島津公の後妻・お由羅と子の久光を嫌っていた。一蔵などは「お由羅と久光はこの薩摩の悪である」といって憚らなかった。
 だが、いわゆる「お由羅騒動」で大久保一蔵(利通)の父親・利世が喜界島に「島流し」にあう。父親の昌景が死ぬと小五郎は急に母親や妹の養育費や生活費にも困る有様に至った。箪笥預金も底をつくと借金に次ぐ借金の生活となった。「また借金か! この貧乏侍!」借金のためにあのプライドの高い桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)も土下座、唾や罵声を浴びせかけられても土下座した。「すんません、どうかお金を貸してくれなんもし!」
 悲惨な生活のユートピアは竹馬の友・高杉晋作、久坂玄瑞、吉田松陰先生との勉強会であった。吉田の塾は「松下村塾」という。
 それにしても圧巻し、尊敬出来るのは吉田松陰公である。桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞ともに最初は「尊皇攘夷派」であった。しかし公は「攘夷などくだらないぞ、草莽掘起だ!」という。何故か?「外国と我が国の戦力の差は物凄い。あんなアームストロング砲やマシンガン、蒸気船を持つ国と戦っても日本は勝てぬ。日本はぼろ負けする。だが、草莽の志士なら勝てるだろう!」
 なるほどな、と桂小五郎と高杉晋作、久坂玄瑞はおもった。さもありなん、である。この吉田松陰(しょういん)公は愚かではない。
  そんなとき、桂小五郎(木戸孝允)は結婚した。相手は芸者・幾松(いくまつ)である。松子と名を改めた。だがなんということだろう。知略に富んだ長州藩の大人物ともでいわれた吉田松陰公が処刑された。桂小五郎も高杉晋作も久坂玄瑞も「松陰公!」と家で号泣し、肩を震わせて泣いた。吉田松陰は船で黒船に近づき、「世界を見たい。乗せてくれ」といい断られ、ご禁制を破った大罪人として処刑されたのだ。何故だ?何故に神仏は松陰公の命を奪ったのですか?吉田松陰公なき長州藩はおわりじゃっ。この時期、薩摩の島津斉彬公も病死する。
 大久保利通や西郷隆盛は成彬公の策をまず実行することとした。薩摩の大名の娘(島津斉彬の養女)篤子(篤姫)を、江戸の徳川将軍家の徳川家定に嫁がせた。
 だが、一蔵も吉之助も驚いた。家定は知恵遅れであったのである。ふたりは平伏しながらも、口からよだれを垂らし、ぼーうっとした顔で上座に座っている家定を見た。呆れた。こんなバカが将軍か。だが、そんな家定もまもなく病死した。後釜は徳川紀州藩主の徳川家茂(いえもち)である。篤子(篤姫)は出家し「天璋院」と名をかえた。
 ここは江戸の貧乏道場で、天気は晴れだった。もう春である。
 土方は「俺もそう思ってた。サムライになれば尊皇壤夷の連中を斬り殺せる」
「しかし…」近藤は戸惑った。「俺たちは百姓や浪人出身だ。幕府が俺たちを雇うか?」「剣の腕があれば」斎藤一は真剣を抜き、バサッと斬る仕種をした。「なれる!」
 近藤らは笑った。
「近藤先生は、流儀では四代目にあらせられる」ふいに、永倉新八がそういった。
 三代目は近藤周助(周斎)、勇は十六歳のときに周斎に見込まれて養子となり、二十五歳のとき、すべてを継承した。
 いかにも武州の田舎流儀らしく、四代目の披露では派手な野試合をやった。場所は府中宿の明神境内東の広場である。安政五年のことだという。
 沖田惚次郎も元服し、沖田総司と名乗った。
 土方歳三は詐欺まがいのガマの油売りのようなことで薬を売っていた。しかし、道場やぶりがバレて武士たちにリンチをうけた。傷だられになった。
「……俺は強くなりたい」痛む体で土方は思った。
 近藤勇も道場の義母に「あなたは百姓です! 身の程を知りなさい」
 といわれ、悔しくなった。土方の兄・為次郎はいった。
「新しい風が吹いている。それは岩をも動かすほどの嵐となる。近藤さん、トシ…国のためにことを起こすのだ!」
 近藤たちは「百姓らしい武士になってやる!」と思った。
 この年(万延元年(一八六〇))勝海舟が咸臨丸でアメリカへいき、そして桜田門外で井伊大老が暗殺された。雪の中に水戸浪人の死体が横たわっている。
 近藤は愕然として、野次馬の中で手を合わせた。「幕府の大老が……」
「あそこに横たわっているのは特別な存在ではない。われわれと同じこの国を思うものたちです」山南敬助がいった。「陣中報告の義、あっぱれである!」酒をのみながら野次馬の中の芹沢鴨が叫んだ。
「俺も武士のようなものになりたい」土方は近藤の道場へ入門した。
 この年、近藤勇は結婚した。相手はつねといった。
 けっこう美人なほうである。

「百姓の何が悪い!」近藤は怒りのもっていく場所が見付からず、どうにも憂欝になった。せっかく「サムライ」になれると思ったのに……くそっ!
「どうでした? 近藤先生」
 道場に戻ると、沖田少年が好奇心いっぱいに尋ねてきた。土方も「採用か?」と笑顔をつくった。近藤勇は「ダメだった……」とぼそりといった。
「負けたのですか?」と沖田。近藤は「いや、勝った。全員をぶちのめした。しかし…」 と口ごもった。
「百姓だったからか?」土方歳三するどかった。ずばりと要点をついてくる。
「……その通りだトシサン」
 近藤は無念にいった。がくりと頭をもたげた。
 ……なにが身分は問わずだ……百姓の何が悪いってんだ?

  この頃、庄内藩(山形県庄内地方)に清河八郎という武士がいた。田舎者だが、きりりとした涼しい目をした者で、「新選組をつくったひと」として死後の明治時代に”英雄”となった。彼は藩をぬけて幕府に近付き、幕府武道指南役をつくらせていた。
  遊郭から身受けた蓮という女が妻である。清河八郎は「国を回天」させるといって憚らなかった。まず、幕府に武装集団を作らせ、その組織をもって幕府を倒す……まるっきり尊皇壤夷であり、近藤たちの思想「佐幕」とはあわない。しかし、清河八郎はそれをひた隠し、「壬生浪人組(新選組の前身)」をつくることに成功する。
 その後、幕府の密偵を斬って遁走する。

  文久三(一八六三)年一月、近藤に、いや近藤たちにふたたびチャンスがめぐってきた。それは、京にいく徳川家茂のボディーガードをする浪人募集というものだった。
 その頃まで武州多摩郡石田村の十人兄弟の末っ子にすぎなかった二十九歳の土方歳三もそのチャンスを逃さなかった。当然、親友で師匠のはずの近藤勇をはじめ、同門の沖田総司、山南敬助、井上源三郎、他流派ながら永倉新八、藤堂平助、原田左之助らとともに浪士団に応募したのは、文久二年の暮れのことであった。
 微募された浪士団たちの初顔合わせは、文久三(一八六三)年二月四日であった。
 会合場所は、小石川伝通院内の処静院であこなわれたという。    
 その場で、土方歳三は初めてある男(芹沢鴨)を見た。
 土方歳三の芹沢鴨への感情はその日からスタートしたといっていいという。
 幕府によって集められた浪人集は、二百三十人だった。世話人であった清河によって、隊士たちは「浪人隊」と名づけられた。のちに新微隊、そして新選組となる。
 役目は、京にいく徳川家茂のボディーガードということであったが、真実は京の尊皇壤夷の浪人たちを斬り殺し、駆逐する組織だった。江戸で剣術のすごさで定評のある浪人たちが集まったが、なかにはひどいのもいたという。
 京には薩摩や長州らの尊皇壤夷の浪人たちが暗躍しており、夜となく殺戮が行われていた。将軍の守護なら徳川家の家臣がいけばいいのだが、皆、身の危険、を感じておよび腰だった。そこで死んでもたいしたことはない”浪人”を使おう……という事になったのだ。「今度は百姓だからとか浪人だからとかいってられめい」
 土方は江戸訛りでいった。
「そうとも! こんどこそ好機だ! 千載一遇の好機だ」近藤は興奮した。
 すると沖田少年が「俺もいきます!」と笑顔でいった。
 近藤が「総司はまだ子供だからな」という。と、沖田が、「なんで俺ばっか子供扱いなんだよ」と猛烈に抗議しだした。
「わかったよ! 総司、お前も一緒に来い!」
 近藤はゆっくり笑顔で頷いた。
  今度は”採用取り消し”の、二の舞い、にはならなかった。”いも道場”試護館の十一人全員採用となった。「万歳! 万歳! これでサムライに取り立てられるかも知れない!」一同は歓喜に沸いた。
 近藤の鬼瓦のような顔に少年っぽい笑みが広がった。少年っぽいと同時に大人っぽくもある。魅力的な説得力のある微笑だった。
 彼等の頭の中には「サムライの世はもうすぐ終わる…」という思考はいっさいなかったといっても過言ではない。なにせ崩れゆく徳川幕府を守ろう、外国人を追い払おう、鎖国を続けようという「佐幕」のひとたちなのである。


  ある昼頃、近藤勇と土方歳三が江戸の青天の町を歩いていると、「やぁ! 鬼瓦さんたち!」と声をかける男がいた。坂本龍馬だった。彼はいつものように満天の笑顔だった。
「坂本さんか」近藤は続けた。「俺は”鬼瓦さん”ではない。近藤。近藤勇だ」
「……と、土方歳三だ」と土方は胸を張った。
「そうかそうか、まぁ、そんげんことどげんでもよかぜよ」
「よくない!」と近藤。
 龍馬は無視して「そげんより、わしはすごい人物の弟子になったぜよ」
「すごい人物? 前にあった佐久間なんとかというやつですか? 俺を鬼瓦扱いした…」「いやいや、もっとすごい人物じゃきに。天下一の学者で、幕府の重要人物ぜよ」
「重要人物? 名は?」
「勝!」龍馬はいかにも誇らしげにいった。「勝安房守……勝海舟先生じゃけん」
「勝海舟? 幕府の軍艦奉行の?」近藤は驚いた。どうやって知り合ったのだろう。
「会いたいきにか? ふたりとも」
 近藤たちは頷いた。是非、会ってみたかった。
 龍馬は「よし! 今からわしが会いにいくからついてきいや」といった。
  近藤たちは首尾よく屋敷で、勝海舟にあうことができた。勝は痩せた体で、立派な服をきた目のくりりとした中年男だった。剣術の達人だったが、ひとを斬るのはダメだ、と自分にいいきかせて刀の鍔と剣を紐でくくって刀を抜けないようにわざとしていた。
 なかなかの知識人で、咸臨丸という幕府の船に乗りアメリカを視察していて、幅広い知識にあふれた人物でもあった。
 そんな勝には、その当時の祖国はいかにも”いびつ”に見えていた。
「先生、お茶です」龍馬は勝に茶を煎じて出した。
 近藤たちは緊張して座ったままだった。
 そんなふたりを和ませようとしたのか、勝海舟は「こいつ(坂本龍馬のこと)俺を殺そうと押しかけたくせに……俺に感化されてやんの」とおどけた。
「始めまして先生。みどもは近藤勇、隣は門弟の土方歳三です」
 近藤は下手に出た。
「そうか」勝は素っ気なくいった。そして続けて「お前たち。日本はこれからどうなると思う?」と象山と同じことをきいてきた。
「……なるようになると思います」近藤はいつもそれだった。
「なるように?」勝は笑った。「俺にいわせれば日本は西洋列強の中で遅れてる国だ。軍艦も足りねぇ、銃も大砲もたりねぇ……このままでは外国に負けて植民地だわな」
 近藤は「ですから日本中のサムライたちが立ち上がって…」といいかけた。
「それが違う」勝は一蹴した。「もう幕府がどうの、薩長がどうの、会津がどうの黒船がどうのといっている場合じゃないぜ。主権は徳川家のものでも天皇のものでもない。国民皆のものなんだよ」
「……国民? 民、百姓や商人がですか?」土方は興味を示した。
「そうとも! メリケン(アメリカ)ではな。国の長は国民が投票して選ぶんだ。日本みたいに藩も侍も身分も関係ない。能力があればトップになれるんだ」
「………トップ?」
「一番偉いやつのことよ」勝は強くいった。
 近藤は「徳川家康みたいにですか?」と問うた。
 勝は笑って「まぁな。メリケンの家康といえばジョージ・ワシントンだ」
「そのひとの子や子孫がメリケンを支配している訳か?」
 勝の傲慢さに腹が立ってきた土方が、刀に手をそっとかけながら尋ねた。
「まさか!」勝はまた笑った。「メリケンのトップは世襲じゃねぇ。国民の投票で決めるんだ。ワシントンの子孫なんざもう落ちぶれさ」
「そうじゃきぃ。メリケンすごいじゃろう? わが日本国も見習わにゃいかん!」
 今まで黙っていた龍馬が強くいった。
 近藤は訝しげに「では、幕府や徳川さまはもういらぬと?」と尋ねた。
「………そんなことはいうてはいねぇ。ぶっそうなことになるゆえそういう誤解めいたことは勘弁してほしいねえ」勝海舟はいった。
 そして、「これ、なんだかわかるか?」と地球儀をもって近藤と土方ににやりと尋ねた。 ふたりの目は点になった。
「これが世界よ。ここが日本……ちっぽけな島国だろ?ここがメリケン、ここがイスパニア、フランス…信長の時代には日本からポルトガルまでの片道航海は二年かかった。だがどうだ? 蒸気機関の発明で、今ではわずか数か月でいけるんだぜ」
 勝に呼応するように龍馬もいった。「今は世界ぜよ! 日本は世界に出るんぜよ!」


 「浪人隊」の会合はその次の日に行われた。武功の次第では旗本にとりたてられるとのうわさもあり、すごうでの剣客から、いかにもあやしい素性の不貞までいた。処静院での会合は寒い日だった。場所は、万丈百畳敷の間だ。公儀からは浪人奉行鵜殿鳩翁、浪人取締役山岡鉄太郎(のちの鉄舟)が臨席したのだという。
 世話は出羽(山形県)浪人、清河八郎がとりしきった。
 清河が酒をついでまわり、「仲良くしてくだされよ」といった。
 子供ならいざしらず、互いに素性も知らぬ浪人同士ですぐ肩を組める訳はない。一同はそれぞれ知り合い同士だけでかたまるようになった。当然だろう。
 そんな中、カン高い声で笑い、酒をつぎ続ける男がいた。口は笑っているのだが、目は異様にぎらぎらしていて周囲を伺っている。
「あれは何者だ?」
 囁くように土方は沖田総司に尋ねた。この頃十代後半の若者・沖田は子供のような顔でにこにこしながら、
「何者でしょうね? 俺はきっと水戸ものだと思うな」
「なぜわかるんだ?」
「だって……すごい訛りですよ」
 土方歳三はしばらく黙ってから、近藤にも尋ねた。近藤は「おそらくあれば芹沢鴨だろう」と答えた。
「…あの男が」土方はあらためてその男をみた。芹沢だとすれば、有名な剣客である。神道無念流の使い手で、天狗党(狂信的な譲夷党)の間で鳴らした男である。
「あまり見ないほうがいい」沖田は囁いた。


  隊士二百三十四人が京へ出発したのは文久三年二月八日だった。隊は一番から七番までわかれていて、それぞれ伍長がつく。近藤勇は局長でもなく、土方も副長ではなかった。 のちの取締筆頭局長は芹沢鴨だった。清河八郎は別行動である。
 近藤たち七人(近藤、沖田、土方、永倉、藤堂、山南、井上)は剣の腕では他の者に負けない実力があった。が、無名なためいずれも平隊士だった。
  浪人隊は黙々と京へと進んだ。
   途中、近藤が下働きさせられ、ミスって宿の手配で失敗し、芹沢鴨らが野宿するはめになるが、それは次項で述べたい。
  浪人隊はやがて京に着いた。
 その駐屯地での夜、清河八郎はとんでもないことを言い出した。
「江戸へ戻れ」というのである。
 この清河八郎という男はなかなかの策士だった。この男は「京を中心とする新政権の確立こそ譲夷である」との思想をもちながら、実際行動は、京に流入してくる諸国脱・弾圧のための浪人隊(新選組の全身)設立を幕府に献策した。だが、組が結成されるやひそかに京の倒幕派に売り渡そうとしたのである。「これより浪士組は朝廷のものである!」
 浪士たちは反発した。清河はひとりで江戸に戻った。いや、その前に、清河は朝廷に働きかけ、組員(浪士たち)が反発するのをみて、隊をバラバラにしてしまう。
 近藤たちは京まできて、また「浪人」に逆戻りしてしまった。
 勇のみぞおちを占めていた漠然たる不安が、脅威的な形をとりはじめていた。彼の本能すべてに警告の松明がついていた。その緊張は肩や肘にまでおよんだが、勇は冷静な態度をよそおった。
「ちくしょうめ!」土方は怒りに我を忘れ叫んだ。
 とにかく怒りの波が全身の血管の中を駆けぬけた。頭がひどく痛くなった。
(清河八郎は江戸へ戻り、幕府の密偵を斬ったあと、文久三年四月十三日、刺客に殺されてしまう。彼は剣豪だったが、何分酔っていて敵が多すぎた。しかし、のちに清河八郎は明治十九年になって”英雄”となる)

「近藤さん」土方は京で浪人となったままだった。「何か策はないか?」
 勇は迷ってから、ひらめいた。「そうだ。元々俺たちは徳川家茂さまの守護役できたのではないか。なら、京の治安維持役というのはどうだ?」
「それはいいな。さっそく京の守護職に文を送ろう」
「京の守護職って誰だっけ? トシサン」
「さあな」
「松平…」沖田が口をはさんだ。「松平容保公です。会津藩主の」
  近藤はさっそく文を書いて献上した。…”将軍が江戸にもどられるまで、われら浪士隊に守護させてほしい”
 文を読んだ松平容保は、近藤ら浪士隊を「預かり役」にした。
 この頃の京は治安が著しく悪化していた。浪人たちが血で血を洗う戦いに明け暮れていたのだ。まだ、維新の夜明け前のことである。
 近藤はこの時期に遊郭で深雪太夫という美しい女の惚れ込み、妾にした。
 勇たちは就職先を確保した。
 しかし、近藤らの仕事は、所詮、安い金で死んでも何の保証もないものでしかなかった。 近藤はいう。
 ……天下の安危、切迫のこの時、命捨てんと覚悟………

 ”芹沢の始末”も終り、京の本拠地を「八木邸(京都市中京区壬生)に移した。壬生浪人組。隊士たちは皆腕に覚えのあるものたちばかりだったという。江戸から斎藤一も駆けつけてきて、隊はいっそう強力なものとなった。そして、全国からぞくぞくと剣豪たちが集まってきていた。土方、沖田、近藤らは策を練る。まずは形からだ。あさきく色に山形の模様…これは歌舞伎の『忠臣蔵』の衣装をマネた。そして、「誠」の紅色旗………
 土方は禁令も発する。
 一、士道に背くこと 二、局を脱すること 三、勝手に金策すること 四、勝手の訴訟を取り扱うこと  (永倉日記より)
 やぶれば斬死、切腹。土方らは恐怖政治で”組”を強固なものにしようとした。
  永久三(一八六三)年四月二十一日、家茂のボディーガード役を見事にこなし、初仕事を終えた。近藤勇は満足した顔だった。人通りの多い道を凱旋した。
「誠」の紅色旗がたなびく。
 沖田も土方も満足した顔だった。京の庶民はかれらを拍手で迎えた。
  壬生浪士隊は次々と薩摩や長州らの浪人を斬り殺し、ついに天皇の御所警護までまかされるようになる。登りつめた! これでサムライだ!
 土方の肝入で新たに採用された大阪浪人山崎蒸、大阪浪人松原忠司、谷三十郎らが隊に加わり、壬生浪人組は強固な組織になった。芹沢は粗野なだけの男で政治力がなく、土方や山南らはそれを得意とした。近藤勇の名で恩を売ったり、近藤の英雄伝などを広めた。      
 そのため、パトロンであるまだ若い松平容保公(会津藩主・京守護職)も、
「立派な若者たちである。褒美をやれ」と家臣に命じたほどだった。
 そして、容保は書をかく。
 ……………新選組
「これからは壬生浪人組は”新選組”である! そう若者たちに伝えよ!」
 容保は、近藤たち隊に、会津藩の名のある隊名を与えた。こうして、『新選組』の活動が新たにスタートしたのである。
 新選組を史上最強の殺戮集団の名を高めたのは、かれらが選りすぐりの剣客ぞろいであることもあるが、実は血も凍るようなきびしい隊規があったからだという。近藤と土方は、いつの時代も人間は利益よりも恐怖に弱いと見抜いていた。このふたりは古きよき武士道を貫き、いささかでも未練臆病のふるまいをした者は容赦なく斬り殺した。決党以来、死罪になった者は二十人をくだらないという。
 もっとも厳しいのは、戦国時代だとしても大将が死ぬば部下は生き延びることができたが、新選組の近藤と土方はそれを許さなかった。大将(伍長、組頭)が討ち死にしたら後をおって切腹せよ! …というのだ。
 このような恐怖と鉄の鉄則によって「新選組」は薄氷の上をすすむが如く時代の波に、流されていくことになる。                             



 和宮と若き将軍・家茂(徳川家福・徳川紀州藩)との話しをしよう。
 和宮が江戸に輿入れした際にも悶着があった。なんと和宮(孝明天皇の妹、将軍家へ嫁いだ)は天璋院(薩摩藩の篤姫)に土産をもってきたのだが、文には『天璋院へ』とだけ書いてあった。様も何もつけず呼び捨てだったのだ。「これは…」側女中の重野や滝山も驚いた。「何かの手違いではないか?」天璋院は動揺したという。滝山は「間違いではありませぬ。これは江戸に着いたおり、あらかじめ同封されていた文にて…」とこちらも動揺した。
 天皇家というのはいつの時代もこうなのだ。現在でも、天皇の家族は子供にまで「なんとか様」と呼ばねばならぬし、少しでも批判しようものなら右翼が殺しにくる。
 だから、マスコミも過剰な皇室敬語のオンパレードだ。        
 今もって、天皇はこの国では『現人神』のままなのだ。
「懐剣じゃと?」
 天璋院は滝山からの報告に驚いた。『お当たり』(将軍が大奥の妻に会いにいくこと)の際に和宮が、懐にきらりと光る物を忍ばせていたのを女中が見たというのだ。        
「…まさか…和宮さんはもう将軍の御台所(正妻)なるぞ」
「しかし…再三のお当たりの際にも見たものがおると…」滝山は深刻な顔でいった。
「…まさか…公方さまを…」
 しかし、それは誤解であった。確かに和宮は家茂の誘いを拒んだ。しかし、懐に忍ばせていたのは『手鏡』であった。天璋院は微笑み、「お可愛いではないか」と呟いたという。 天璋院は家茂に「今度こそ大切なことをいうのですよ」と念を押した。
 寝室にきた白装束の和宮に、家茂はいった。「この夜は本当のことを申しまする。壤夷は無理にござりまする。鎖国は無理なのです」
「……無理とは?」
「壤夷などと申して外国を退ければ戦になるか、または外国にやられ清国のようになりまする。開国か日本国内で戦になり国が滅ぶかふたつだけでござりまする」
 和宮は動揺した。「ならば公武合体は……壤夷は無理やと?」
「はい。無理です。そのことも帝もいずれわかっていただけると思いまする」
「にっぽん………日本国のためならば……仕方ないことでござりまする」
「有り難うござりまする。それと、私はそなたを大事にしたいと思いまする」
「大事?」
「妻として、幸せにしたいと思っておりまする」
 ふたりは手を取り合った。この夜を若きふたりがどう過ごしたかはわからない。しかし、わかりあえたものだろう。こののち和宮は将軍に好意をもっていく。
  この頃、文久2年(1862年)3月16日、薩摩藩の島津久光が一千の兵を率いて京、そして江戸へと動いた。この知らせは長州藩や反幕府、尊皇壤夷派を勇気づけた。この頃、土佐の坂本龍馬も脱藩している。そしてやがて、薩長同盟までこぎつけるのだが、それは後述しよう。
  家茂は妻・和宮と話した。
 小雪が舞っていた。「私はややが欲しいのです…」
「だから……子供を産むだけが女の仕事ではないのです」
「でも……徳川家の跡取がなければ徳川はほろびまする」
 家茂は妻を抱き締めた。優しく、そっと…。「それならそれでいいではないか……和宮さん…私はそちを愛しておる。ややなどなくても愛しておる。」
 ふたりは強く強く抱き合った。長い抱擁……
  薩摩藩(鹿児島)と長州藩(山口)の同盟が出来ると、いよいよもって天璋院(篤姫)の立場は危うくなった。薩摩の分家・今和泉島津家から故・島津斉彬の養女となり、更に近衛家の養女となり、将軍・家定の正室となって将軍死後、大御台所となっていただけに『薩摩の回し者』のようなものである。
 幕府は天璋院の事を批判し、反発した。しかし、天璋院は泣きながら「わたくしめは徳川の人間に御座りまする!」という。和宮は複雑な顔だったが、そんな天璋院を若き将軍・家茂が庇った。薩摩は『将軍・家茂の上洛』『各藩の幕政参加』『松平慶永(春嶽)、一橋慶喜の幕政参加』を幕府に呑ませた。それには江戸まで久光の共をした大久保一蔵や小松帯刀の力が大きい。そして天璋院は『生麦事件』などで薩摩と完全に訣別した。こういう悶着や、確執は腐りきった幕府の崩壊へと結び付くことなど、幕臣でさえ気付かぬ程であり、幕府は益々、危機的状況であったといえよう。
 話しを少し戻す。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.150フランステロ事件に憤る!言論の自由を!犠牲者の冥福祈る!

2015年01月11日 19時10分06秒 | 日記







フランスのテロ事件での惨状に憤っている。

イスラム教のひとが悪い訳ではないが、


一部の狂信的なイスラム原理主義者のテロリストたちが


無辜の仏人たちを銃弾で殺し、言論弾圧をした。

許せない。


何とも怒りのもっていきようがない。


とにかく犠牲者たちのご冥福を祈るのみ。



至誠をもって動かざるものなし!


2015年緑川鷲羽始まりの年へ

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

"Thomas Piketty" 21 century of capital

2015年01月11日 15時14分24秒 | 日記





<The "gist" translator complete description of the book that shook the world> "Thomas Piketty" 21 century of capital can be seen in 5 minutes "<Read the global bestseller>" supervision, Hiroo Yamagata, statement-Shogakukan SAPIO editorial department , together Midorikawa Washu January 11, 2015
New Year, the new book corner of major bookstores, this is an economy of technical books in the Taisho of 700 pages more than (normal and if mojikumi 1000 page super-Japanese translation version.) Have been stacked Zurarito flat - "21 century of capital "(Thomas Piketty al., Hiroo Yamagata, other translation, Misuzu Shobo published) is.
The French version of the original has been released in August 2013. When the English version will be released in next April, soon to become 50 million copies of the best-selling in the United States, was supposed to be translated in 35 countries around the world (including the schedule). He also appeared in the Japan finally is "once the breakthrough is written in '10" (Japanese translator Yamagata Mr.). The "gist" of Taisho 700 pages based on the cooperation of Hiroo Yamagata Mr. and Shogakukan SAPIO editing section, the gist of the contents can be seen in 10 minutes and was described in Q & A format.
<Q1 Why, of this book is so much become a hot topic? >
A1 In a conventional modern economics "wealth if development is capitalism spreads to many people, gap towards the nature eliminated with nature" idea that was common sense. In contrast, if you do not do anything, disparities where it was to expand rather than be eliminated there was a novelty to overturn the conventional wisdom. Especially as "occupation case the Wall Street" movement is symbolic, though inequality becomes a big agenda, because claims of this book was shocking. In addition, the Americans seem to indicate the disappearance of the American Dream that can succeed in the effort and personal talent it was shock.
<The most points in Q2 this book? >
A2 historically Look between the wealthy and the general workers, such as capitalists there is always economic disparities, the future continues its trend, the biggest claim is that. So become a point, it is theorem that is Written to cover "r> g". r in the "rate of return on capital", real estate or stock, that the rate of revenue born from any such debt "assets". g the "economic growth", in other words that the rate of increase in income obtained by labor. Sometimes referred to as "r> g" means that the "rate of return on capital r is higher than the economic growth rate g". Economic disparity of capitalists and workers when the theorem holds to enlarge.
Piketi is to guess the rate of return on capital r and economic growth rate g of up to modern from AD 0 years, we expect the r and g up to 2010. r is 5 percent from 4 percent stand consistently, g has been reached in the second half of the 20th century to 3 · 5% to 4%, Historically and it is an exception, is 2% most of the time . In other words, the rich are seen more and more wealth, the poor person is that increasingly poor.
<Q3 "r> assertion other than g"? >
A3 gap "r> g" is had one time period which is reduced, as described above, it is only exception. To narrow the gap there is a need for political policy, it is two.
<Q4 Why became so thick book? >
A4 handle data because it is huge. Piketi and their co-workers, over 15 years and 19 century have collected data on more than 20 countries of the income from the (1870) up to the present, the more persistent "gap between the rich and the poor do not shrink forever , rich is seen further wealth, I have proven that the poor become more poor. "
<Q5 why economic disparities expansion? >
When the A5 real estate and stock, the rate of revenue comes from all assets such as bonds (r) is large, wealthy, you can enlarge it further assets based on its revenue.
On the other hand, economic growth rate (g) because it is the growth rate of national income, growth in labor income of the general had and it is small will be smaller.
<Q6 is the rationale? >
A6 does not have a clear rationale shown, Piketi has demonstrated proven on the basis of the data described above. Piketi longer span up to it, research examples demonstrated for the disparity on a large scale is not in the past, there is a great significance.
<Reason that "Le P&#232;re Goriot" has been featured in the Q7 Balzac? >
(In 1835 work, the Paris of the 1819 stage) A7 "Le Père Goriot" that young man who tries to Noshiagaro In the upper class, to act as a lawyer with the (labor income), to marry the daughter of capitalist (capital acquisition), I will trouble to either is good. Piketi analyzes the time of data, towards the capital acquisition I have concluded that there was greater than labor income.
<What is read from Q8 billionaires ranking? >
A8 of economic inequality, the gap between rich and poor, to stop those who are kicking in more wealth, it is that.
<Someday and exceptional time to Q9 disparity was towards the reduction? >
A9 20 century two world wars that happened mid from early and it is time of the Great Depression. Until the early 1970s, which was revived from there. Assets of wealthy is lost by the Great Depression, (decrease of r) taxation is enhanced for the wealthy for war procurement On the other hand, it is from the continued economic growth for the post-war reconstruction (rise of g).
<Q10 now, why are again toward the gap is widening? >
A10 American Reagan administration, the United Kingdom of Thatcher regime was born, and take the neo-liberal economic policy, tax is abolished, which is suppressing the expansion of the gap, it has been relaxed. Began to be and one after another wealthy "super managers" in the United States. Although it is only 1%. So, I 99% of the poor.
<Q11 Is it written about Japan? >
A11 United Kingdom, France, the United States is taken up in the center, but mention of Japan is limited, Japan is the world Similarly, data that "capital / income ratio" is higher has been shown. In addition to the low growth, because the decrease population will significantly, meaning increases with the wealth of hereditary, and. It has been suggested that toward the widening gap.
<How do I have written about China image of Q12 disparity society is strong? >
A12 China on the data, surprisingly income gap also is not very violently. Percentage of top 1% of income in GDP, but in the United States is about 20%, in China is about 11% (2010). However the case of China, because there is a problem with the credibility of the data, you may need to receive carefully.
<And should I How can to eliminate the Q13 disparity? >
A13 Piketi in the world political policy, we have proposed a progressive tax on the wealthy. Because If you do only one countries capital escapes to the Low Countries and tax Haven tax rate (tax havens), there is no effect. Then, when the progressive taxation in cooperation all over the world. Piketi itself, implementation is not easy, and I am looking at, at the same time, given that the Swiss bank in the United States of pressure began to disclose customer information, it says it is also not altogether impossible.
<Q14 is but title that reminds the "Capital" of Marx, whether Piketi is a Marxist? >
A14 from American conservatives have been affixed such a label. But it is not a Marxist. In response to the interview then you have revealed that it has not read through the "Kapital", there is also criticism that from leftist wrong Marx's interpretation.
<What not Q15 opposite theory? >
A15 Paul Krugman While Joseph Stiglitz, Nobel Prize in Economics winners such as Robert Solow has praised the book, in the Financial Times and the Clinton administration at the time Secretary of the Treasury, big shot of the original Harvard University president economist Lawrence Summers et al. but, I have been criticized for not fact that concentrated wealth as claims of Piketi. Government are often agree with Keynes economists to think that he should intervene in the market, intervention in the market seems there are many objections from the neo-liberal economic school that should be eliminated.

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<世界震撼書「骨子」完全解説>「トマ・ピケティ『21世紀の資本』監修・山形浩生、文・小学館SAPIO編集部

2015年01月11日 14時53分38秒 | 日記







<世界を震撼させた書の「骨子」を訳者が完全解説>「5分でわかるトマ・ピケティ『21世紀の資本』<世界的ベストセラーを読む>」監修・山形浩生、文・小学館SAPIO編集部、まとめ緑川鷲羽2015年1月11日
年末年始、大手書店の新刊コーナーに、700ページ超(通常の文字組みなら1000ページ超。日本語訳版)の大書で経済の専門書である本が、ずらりと平積みされた――『21世紀の資本』(トマ・ピケティ著、山形浩生・他訳、みすず書房刊)である。
原著のフランス語版が発売されたのは2013年8月。翌4月に英語版が発売されると、たちまちアメリカで50万部のベストセラーとなり、世界35カ国で翻訳されることになった(予定を含む)。その「10年に一度の画期的な書」(日本語翻訳者・山形氏)がついに日本にも登場したのだ。700ページの大書の「骨子」を山形浩生氏と小学館SAPIO編集部の協力をもとに、10分でわかるように内容の骨子をQ&A形式で解説した。
<Q1なぜ、この本がそんなに話題になっているの?>
A1従来の近代経済学では「資本主義が発展すれば冨は多くの人に行き渡り、格差は自然と自然に解消に向かう」という考えが常識でした。それにたいして、何もしなければ、格差は解消されるどころか拡大するとしたところが従来の常識を覆す目新しさがありました。特に「ウォール街を占拠せよ」運動が象徴するように、格差拡大が大きな議題になっていて、本書の主張が衝撃的だったからです。また、個人の才能と努力で成功できるアメリカンドリームの消滅を示すようでアメリカ人にはショックでした。
<Q2本書の一番のポイントは?>
A2歴史的に見て資本家などの富裕層と一般の労働者の間にはつねに経済格差があり、今後もその傾向が続く、というのが最大の主張。そこでポイントとなるのが、カバーにもかかれている「r>g」という定理です。rは「資本収益率」で、不動産や株式、債務などあらゆる「資産」から生まれる収益の率のこと。gは「経済成長率」、つまり労働によって得られる所得の増加率のこと。「r>g」ということは、「資本収益率rは経済成長率gより高い」ことを意味します。その定理が成り立つとき資本家と労働者の経済格差は拡大します。
ピケティは、紀元0年から現代までの資本収益率rと経済成長率gを推測し、2010年までのrとgを予測しています。rが一貫して4%台から5%台で、gは20世紀後半には3・5%~4%に達しましたが、歴史的に見るとそれは例外で、ほとんどの期間は2%です。つまり、金持ちはますます冨み、貧しき者は益々貧しくなるということです。
<Q3「r>g」以外の主張は?>
A3「r>g」の格差は前述したように縮小した期間は一時期あったが、それは例外に過ぎない。格差を縮小するには政治的な政策が必要である、の2つです。
<Q4なぜ、こんなに分厚い本になったのか?>
A4取り扱うデータが膨大だからです。ピケティとその共同研究者は、15年かけて、19世紀(1870年)から現在に至るまでの世界20カ国以上の所得に関するデータを集めていて、しつこいほど「貧富の格差は永遠に縮小せず、お金持ちはさらに冨み、貧乏人はさらに貧乏になる」ことを証明しています。
<Q5なぜ経済格差は拡大するのか?>
A5不動産や株式、債券などあらゆる資産から生まれる収益の率(r)が大きいと、富裕層はその収益をもとにしてさらに資産を拡大出来ます。
一方、経済成長率(g)は国民所得の伸び率なので、それが小さいとい一般の労働者の所得の伸びは小さくなります。
<Q6その論理的根拠は?>
A6明確な論理的根拠は示されていませんが、ピケティは、前述したデータをもとに実証的に証明しました。それまでピケティほど長いスパン、大きな規模で格差について実証した研究例は過去になく、大きな意義があります。
<Q7バルザックの『ゴリオ爺さん』が取り上げられている理由は?>
A7『ゴリオ爺さん』(1835年作で、1819年のパリを舞台)では上流階級にのし上がろうとする青年が、法律家として働くこと(労働所得)と、資本家の娘と結婚すること(資本取得)の、どちらがいいかに悩みます。ピケティは当時のデータを分析し、資本取得の方が労働所得より大きかったと結論を出しました。
<Q8長者番付から何が読み取れるのか?>
A8経済格差の拡大、貧富の差、富める者がもっと冨にけり、ということです。
<Q9格差が縮小に向かった例外的な時期とはいつか?>
A9 20世紀の初期から半ばにかけておこったふたつの世界大戦と世界大恐慌のときです。そこから復興した1970年代前半まで。大恐慌により富裕層の資産が失われ、戦費調達のために富裕層に対する課税が強化される(rの低下)一方、戦後の復興のために経済成長が続いた(gの上昇)からです。
<Q10今、再び格差が拡大に向かっている理由は?>
A10アメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権が誕生し、新自由主義的な経済政策を採り、格差の拡大を抑えていた税制が撤廃、緩和されました。アメリカには「スーパー経営者」など続々と富裕層が出来始めました。わずか1%ですが。だから、99%は貧困層なのです。
<Q11日本については書かれているのか?>
A11イギリス、フランス、アメリカが中心に取り上げられ、日本についての言及は限定的ですが、日本は世界同様、「資本/所得比率」が高くなっているデータが示されています。低成長に加え、人口減が著しくなるので、富の世襲の持つ意味が大きくなる、と。格差拡大に向かうと示唆されています。
<Q12格差社会のイメージが強い中国についてはどう書かれているのですか?>
A12中国はデータ上、意外にも所得格差はあまり激しくありません。トップ1%の所得がGDPに占める割合は、アメリカでは20%程度ですが、中国では11%程度です(2010年)。もっとも中国の場合、データの信用性に問題があるので、慎重に受け取る必要があるかもしれません。
<Q13格差を解消するにはどうしたらいいの?>
A13ピケティは世界的な政治政策で、富裕層への累進課税を提唱しています。一か国だけで行うと資本は税率の低い国やタックス・ヘブン(租税回避地)に逃げてしまうので、効果がありません。そこで、世界中で連携して累進課税をすると。ピケティ自身は、実現は容易ではない、と見ていますが、同時に、アメリカの圧力でスイスの銀行が顧客情報を開示するようになったことを考えれば、あながち不可能ではないとも述べています。
<Q14マルクスの『資本論』を連想させる書名だが、ピケティはマルクス主義者なのか?>
A14アメリカの保守派からはそうしたレッテルを貼られています。しかしマルクス主義者ではありません。インタビューを受けて『資本論』を読み通していないと明かしていますし、左派からはマルクスの解釈が間違っているという批判もあります。
<Q15反対論はないのか?>
A15ポール・クルーグマン、ジョセフ・スティグリッツ、ロバート・ソローといったノーベル経済学賞受賞者たちが本書を絶賛する一方、フィナンシャル・タイムズやクリントン政権当時の財務長官で、元ハーバード大学学長の大物経済学者ローレンス・サマーズらが、ピケティの主張ほど冨が集中している事実はないと批判しています。政府は市場に介入すべきだと考えるケインズ経済学者に賛同が多く、市場への介入は排除すべきだという新自由主義経済学派からは反論が多いようです。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「花燃ゆ」とその時代吉田松陰と妹の生涯2015年大河ドラマ原作<加筆維新回天特別編>アンコール連載小説3

2015年01月11日 08時18分15秒 | 日記








 あるとき吉田松陰は弟子の宮部鼎蔵とともに諸国漫遊の旅、というか日本視察の旅にでることになった。松陰は天下国家の為に自分は動くべきだ、という志をもつようになっていた。この日本という国家を今一度洗濯するのだ。
 「文よ、これがなんかわかるとか?」松陰は地球儀を持ってきた。「地球儀やろう?」「そうや、じゃけん、日本がどこにばあるとかわからんやろう?日本はこげなちっぽけな島国じゃっと」
 「へ~つ、こげな小さかと?」「そうじゃ。じゃけんど、今一番経済も政治も強いイギリスも日本と同じ島国やと。何故にイギリス……大英帝国は強いかわかると?」「わからん。何故イギリスは強いと?」
 松陰はにやりと言った。「蒸気機関等の産業革命による経済力、そして軍艦等の海軍力じゃ。日本もこれに習わにゃいかんとばい」
 「この国を守るにはどうすればいいとか?寅次郎にいやん」「徳川幕府は港に砲台を築くことじゃと思っとうと。じゃが僕から見れば馬鹿らしかことじゃ!日本は四方八方海に囲まれとうと。大砲が何万台あってもたりんとばい」
 徳川太平の世が二百七十年も続き、皆、戦や政にうとくなっていた。信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。が、そういう戦もなくなり皆、剣術でも火縄銃でも型だけの「飾り」のようになってしまっていた。
 吉田松陰はその頃、こんなことでいいのか?、と思っていた。
 だが、松陰も「黒船」がくるまで目が覚めなかった。
  この年から数年後、幕府の井伊直弼大老による「安政の大獄」がはじまる。
 松陰は「世界をみたい! 外国の船にのせてもらいたいと思っとうと!」
 と母親につげた。
 すると母親は「せわぁない」と笑った。
 松陰は風呂につかった。五衛門風呂である。
 星がきれいだった。
 ……いい人物が次々といなくなってしまう。残念なことだ。「多くのひとはどんな逆境でも耐え忍ぶという気持ちが足りない。せめて十年死んだ気になっておれば活路が開けたであろうに。だいたい人間の運とは、十年をくぎりとして変わるものだ。本来の値打ちを認められなくても悲観しないで努めておれば、知らぬ間に本当の値打ちのとおり世間が評価するようになるのだ」
 松陰は参禅を二十三、四歳までやっていた。
 もともと彼が蘭学を学んだのは師匠・佐久間象山の勧めだった。剣術だけではなく、これからは学問が必要になる。というのである。松陰が蘭学を習ったのは幕府の馬医者である。
 吉田松陰は遠くは東北北部まで視察の旅に出た。当然、当時は自動車も列車もない。徒歩で行くしかない。このようにして松陰は視察によって学識を深めていく。
 旅の途中、妹の文が木登りから落ちて怪我をした、という便りには弟子の宮部鼎蔵とともに冷や冷やした。が、怪我はたいしたことない、との便りが届くと安心するのだった。 
  父が亡くなってしばらくしてから、松陰は萩に松下村塾を開いた。蘭学と兵学の塾である。「学ぶのは何の為か?自分の為たい!自分を、己を、人間を磨くためばい!」
 久坂玄瑞と高杉晋作は今も昔も有名な松下村塾の龍・虎で、ある。ふたりは師匠の実妹・文を「妹のように」可愛がったのだという。
 塾は客に対応する応接間などは六畳間で大変にむさくるしい。だが、次第に幸運が松陰の元に舞い込むようになった。
 外国の船が沖縄や長崎に渡来するようになってから、諸藩から鉄砲、大砲の設計、砲台の設計などの注文が相次いできた。その代金を父の借金の返済にあてた。
 しかし、鉄砲の製造者たちは手抜きをする。銅の量をすくなくするなど欠陥品ばかりつくる。松陰はそれらを叱りつけた。「ちゃんと設計書通りつくれ! ぼくの名を汚すようなマネは許さんぞ!」
 松陰の蘭学の才能が次第に世間に知られるようになっていく。
「“兵学”の吉田(松陰)、“儒学”の小田村(伊之助)がいれば長州藩も安泰じゃ」
 のちの文の二番目の旦那さんとなる楫取素彦(かとり・もとひこ)こと小田村伸之介が、文の姉の杉寿(すぎ・ひさ)と結婚したのはこの頃である。文も兄である吉田寅次郎(松陰)も当たり前ながら祝言に参加した。まだ少女の文は白無垢の姉に、
「わあ、寿姉やん、綺麗やわあ」
 と思わず声が出たという。松陰は下戸ではなかったが、粗下戸といってもいい。お屠蘇程度の日本酒でも頬が赤くなったという。
 少年時代も青年期も久坂玄瑞は色男である。それに比べれば高杉晋作は馬顔である。
 当然ながら、というか杉文は久坂に淡い懸想(けそう・恋心)を抱く。現実的というか、歴史的な事実だけ書くならば、色男の久坂は文との縁談を一度断っている。何故なら久坂は面食いで、文は「器量が悪い(つまりブス)」だから。
 だが、あえて大河ドラマ的な場面を踏襲するならば文は初恋をする訳である。それは兄・吉田松陰の弟子の色男の少年・久坂義助(のちの玄瑞)である。ふたりはその心の距離を縮めていく。最初、杉文は尊兄・吉田松陰の親友の小田村伊之助(楫取素彦)に恋い焦がれていた。しかし、あえなく失恋。小田村が杉文の姉・杉寿と祝言をあげたためだ。
そして久坂玄瑞との運命。
 若い秀才な頭脳と甘いマスクの少年と、可憐な少女はやがて恋に落ちるのである。雨宿りの山小屋での淡い恋心、雷が鳴り、文は義助にきゃあと抱きつく。可憐な少女であり、恋が芽生える訳である。
 今まで、只の妹のような存在であった文が、懸想の相手になる感覚はどんなものであったろうか。これは久坂義助にきく以外に方法はない。久坂玄瑞は神社でおみくじを引けば大凶ばかりでる“貧乏・親の借金・低い身分”の不幸人・苦労人であった。
しかし、文が励ました。
「大凶がでても何度でも何回でも引けば必ず吉が出ます。人生も同じです!おみくじ箱には大吉も必ずはいってるんじゃけえ。さあ、何度もおみくじをひきなされ!」
「あんたになにがわかるんや?!おみくじだけじゃない!僕はいつも人生で不幸ばかりする!貧乏で、運が悪い、不幸な星の生まれなんや、僕は!」
癇癪を起こす久坂に文は「いいや!あなたは才能がある!私にはわかります。きっとこの長州を、日本国を回天させる人物やと思うとうとですよ、あたしは!」
「せやけど、文さんの尊兄・松陰先生に「出て来い国賊・吉田寅次郎!この久坂が斬り捨ててやる!」と抜刀して騒動を起こしたのはただならぬ僕ですよ?」
「それは寅にい、が国禁を犯したための怒り……日本人なら当然やわ」
「日本人?」
「そうや!日本人や!長州でも徳川幕府でも薩摩でもない、これからは日本です!」
こうして杉文と久坂玄瑞の中は急接近してゆく。そしていずれ夫婦に、そして悲劇の別れ、が待ち受けているのだ。
 文や寅次郎や寿(ひさ)の母親・杉瀧子(杉滝)が病気になり病床の身になる。「文や、学問はいいけんど、お前は女子なのだから料理や裁縫、洗濯も大事なんじゃぞ。そのことわかっとうと?」
 「……は…はい。わかっとう」母親は学問と読書ばかりで料理や裁縫をおろそかにする文に諭すようにいった。
 杉家の邸宅の近くに吉田家と入江家というのがあり、そこの家に同じ年くらいの女の子がいた。それが文の幼馴染の吉田稔麿の妹・吉田ふさや入江九一の妹・入江すみらの御嬢さんで親友であった。
 近所には女子に裁縫や料理等を教える婆さまがいて、文はそこに幼馴染の娘らと通うのだが、
「おめは本当に下手糞じゃ、このままじゃ嫁にいけんど。わかっとうとか?」などと烙印を押される。
 文はいわゆる「おさんどん」は苦手である。そんなものより学問書や書物に耽るほうがやりがいがある、そういう娘である。
 だからこそ病床の身の母親は諭したのだ。だが、諸国漫遊の旅にでていた吉田寅次郎が帰郷するとまた裁縫や料理の習いを文はサボるようになる。
「寅次郎兄やん、旅はどげんとうとですか?」
「いやあ、非常に勉強になった。百は一見にしかず、とはこのことじゃ」
「何を見聞きしたとですか?先生」
 あっという間に久坂や高杉や伊藤や品川ら弟子たちが「松陰帰郷」の報をきいて集まってきた。
「う~ん、僕が見てきたのはこの国の貧しさじゃ」
「貧しい?せやけど先生はかねがね「清貧こそ志なり」とばいうとりましたでしょう?」
「そうじゃ」吉田松陰は歌舞伎役者のように唸ってから、「じゃが、僕が見聞きしたのは清貧ではない。この国の精神的な思想的な貧しさなんや。東北や北陸、上州ではわずかな銭の為に娘たちを遊郭に売る者、わずかな収入の為に口減らしの為に子供を殺す者……そりゃあ酷かった」
 一同は黙り込んで師匠の言葉をまっていた。吉田松陰は「いやあ、僕は目が覚めたよ。こんな国では駄目じゃ。今こそ草莽掘起なんだと、そう思っとうと」
「草莽掘起……って何です?」
「今、この日本国を苦しめているのは「士農工商」「徳川幕府や幕藩体制」という身分じゃなかと?」
 また一同は黙り込んで師匠の言葉を待つ。まるで禅問答だ。「これからは学問で皆が幸せな暮らしが出来る世の中にしたいと僕は思っとうと。学問をしゃかりきに学び、侍だの百姓だの足軽だのそんな身分のない平等な社会体制、それが僕の夢や」
「それで草莽掘起ですとか?先生」
 さすがは久坂である。一を知って千を知る天才だ。高杉晋作も「その為に長州藩があると?」と鋭い。
「そうじゃ、久坂君、高杉君。「志を立ててもって万事の源となす」「学は人たる所以を学ぶなり」「至誠をもって動かざるもの未だこれ有らざるなり」だよ」
 とにかく長州の人々は松門の者は目が覚めた。そう覚醒したのだ。
 嘉永六年(1853年)六月三日、大事件がおこった。
 ………「黒船来航」である。
 三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
 司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
 幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
 幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、松陰が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。松陰は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
 幕府の勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
 一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
 二、海防の軍艦を至急に新造すること。
 三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
 四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
 五、火薬、武器を大量に製造する。

  勝が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
 その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。勝は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。勝海舟は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用視した為である。
 幕府はオランダから軍艦を献上された。
 献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。松下村塾からは維新三傑のひとり桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸考充)や、禁門の変の久坂玄瑞や、奇兵隊を組織することになる高杉晋作など優れた人材を輩出している。
 吉田松陰は「外国にいきたい!」
 という欲望をおさえきれなくなった。
 そこで小船で黒船まで近付き、「乗せてください」と英語でいった。(プリーズ、オン・ザ・シップ)しかし、外国人たちの答えは「ノー」だった。
 この噂が広まり、たちまち松陰は牢獄へ入れられてしまう。まさに大獄の最中である…
だが、吉田松陰は密航に失敗したものの黒船に載れなかった訳でもない。松陰が密航しようとした黒船はぺルリ(ペリー)らの黒船であったというから驚く。そこで甲板上で松陰と弟子の金子重輔は“佐久間象山より書いてもらった英文の密航の嘆願書”を見せて外国人船員たちに渡した。だが、それでも答えは「ノー」だったのだ。そして、その行動ののちにペリーは「あの日本人の知識への貪欲さにはいささか驚いた。ああした日本人が大半になれば日本国は間違いなく大国になれるであろう」と感想を述べている。
とにかく松陰と弟子の金子は囹圄のひととなった。その報はすぐに長州藩萩の杉家にも伝えられた。父親の杉百合之助らが畑を耕していると飛脚が文をもってきた。というか、長男の杉梅太郎(民治・みんじ)が急いでやってきて父・百合之助や母・滝らにしらせた。
「な、なにっ?!寅次郎が黒船で密航しようとして幕府に捕えられた」一同は驚愕するしかない。妹の杉文も驚愕のあまりへたり込んでしまった。「……何でや?寅にい…」
吉田松陰は武士だから“侍用の監獄”『野山獄(ひとりに一部屋)』にいれられたが、弟子の金子重輔は“足軽・百姓用の監獄”『岩倉獄(雑居房)』にいれられた。金子はそこで獄死してしまう。松陰は『野山獄』で二十一回孟子(二十一回戦うひと)と称して「孟子」の講義を始める。いかつい罪人や牢獄の美女・高須久子らも吉田寅次郎(松陰)を先生と呼んで慕うようになる。そののち獄を出て蟄居中に開いた私塾が「松下村塾」である。
山口県萩市に現在も塾施設が大切に保存されている。「松下村塾」の半径数十メートル以内に九十人の人材を輩出したという。だが、罪人である吉田松陰に自分の子供を任せるのに難色を示す親も多かったという。高杉晋作の両親もそうしたひとりであったが、晋作が「どうしても吉田松陰先生に学びたい」と隠れて通塾したともいう。
松陰は『徳川幕府は天下の賊(ぞく・悪人)』と建白書をしたためる。また、幕府の老中らを暗殺するべきとも。当然、幕府も長州藩もカンカンになって怒った。長州藩の重臣・椋梨藤太(むくなし・とうた)や周布政之助(すふ・まさのすけ)も吉田松陰の罪を藩主・毛利敬親公にあげつらった。こうして松陰は遺言書『留魂録(志をしたためた書)』を書いてのち処刑される。弟子の高杉晋作、桂小五郎、久坂玄瑞らが松陰の遺髪を奉じて墓を建てた。墓には“二十一回孟子”とも掘られたということである。(NHK番組内『歴史秘話ヒストリア』より)

  吉田松陰はあっぱれな「天才」であった。彼の才能を誰よりも認めていたのは長州藩藩主・毛利敬親(たかちか)公であった。公は吉田松陰の才能を「中国の三国志の軍師・諸葛亮孔明」とよくだぶらせて話したという。「三人寄れば文殊の知恵というが、三人寄っても吉田松陰先生には敵わない」と笑った。なにしろこの吉田松陰という男は十一歳のときにはもう藩主の前で講義を演じているのである。
「個人主義を捨てよ。自我を没却せよ。我が身は我の我ならず、唯(た)だ天皇の御為め、御国の為に、力限り、根限り働く、これが松陰主義の生活である。同時に日本臣民の道である。職域奉公も、この主義、この精神から出発するのでなければ、臣道実践にはならぬ。松陰主義に来たれ!しこうして、日本精神の本然に立帰れ!」
  これは山口県萩市の「松陰精神普及会本部」の「松陰精神主義」のアピール文であり、吉田松陰先生の精神「草莽掘起」の中の文群である。第二次世界大戦以前は、吉田松陰の「尊皇思想」が軍事政権下利用され、「皆、天皇に命を捧げる吉田松陰のようになれ」と小学校や中学校で習わされたという。天皇の為に命を捧げるのが「大和魂」………?
 さて、では吉田松陰は「天皇の為に身を捧げた愛国者」であったのであろうか?そんな者であるなら私はこの「「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰と妹の生涯」という小説を書いたりしない。そんなやつ糞くらえだ。
 確かに吉田松陰の「草莽掘起」はいわゆる「尊皇攘夷」に位置するようにも映る。だが、吉田松陰の「草莽掘起」「尊皇攘夷」とは日本のトップを、「将軍」から「天皇」に首を挿げ替える「イノベーション(刷新)」ではないと思う。
 確かに300年もの徳川将軍家を倒したのは薩長同盟軍だ。中でも吉田松陰門下の長州藩志士・桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸孝允)、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、井上聞多(馨)などは大活躍である。しかるに「吉田松陰=尊皇攘夷派」と単純解釈する者が多い。
 それこそ「木を見て森を見ず論」である。
 「草莽掘起=尊皇攘夷」だとしたら明治維新の志士たちの「開国政策」「脱亜入欧主義」「軍備拡張主義」「富国強兵政策」は何なのか? 彼らは松陰の意に反して「突然変異」でもしたというのか? それこそ「糞っくらえ」だ。
 ちなみに著者(緑川鷲羽わしゅう)のブログ(インターネット上の日記)のタイトルも「緑川鷲羽 上杉奇兵隊日記「草莽掘起」」だ。だが、著者は「尊皇思想」も「拝皇主義」でもない。吉田松陰は戦前の「軍国主義のプロパガンダ(大衆操作)」の犠牲者なのである。
 吉田松陰は「尊皇攘夷派」ではなく「開国派」いや、「世界の情勢を感じ取った「国際人」」であるのだ。それを忘れないで欲しいものだ。
 黒船密航の罪で下田の監獄に入れられていた吉田松陰は、判決が下り、萩の野山獄へと東海道を護送されていた。
 唐丸籠(とうまるかご)という囚人用の籠の中で何度も殴られたのか顔や体は傷血だらけ。手足は縛られていた。だが、吉田松陰は叫び続けた。
「もはや、幕府はなんの役にも立ちませぬ!幕府は黒船の影におびえ、ただ夷人にへつらいつくろうのみ!」役人たちは棒で松陰を突いて、ボコボコにする。
「うるさい!この野郎!」「いい加減にだまらぬか!」
「若者よ、今こそ立ち上がれ!異国はこの日の本を植民地、奴隷国にしようとねらっているのだぞ!若者たちよ、腰抜け幕府にかわって立ち上がれ!この日の本を守る、熱き志士となれ!」
 またも役人は棒で松陰をぼこぼこにした。桂小五郎たちは遠くで下唇を噛んでいた。
「耐えるんだ、皆!我々まで囚われの身になったら、誰が先生の御意志を貫徹するのだ?!」涙涙ばかりである。
萩近くでは杉家のものたちも唐丸籠で護送される吉田松陰をすがるように見届けた。妹も兄も涙ながらに「なんでや?!寅にい!なんで国禁を犯して…密航なん?!なんでや!」という。
松陰は泣くばかりで答えなかった。


 江戸伝馬町獄舎……松陰自身は将軍後継問題にもかかわりを持たず、朝廷に画策したこともなかったが、その言動の激しさが影響力のある危険人物であると、井伊大老の片腕、長野主膳に目をつけられていた。安政六年(一八五九年)遠島であった判決が井伊直弼自身の手で死罪と書き改められた。それは切腹でなく屈辱的な斬首である。そのことを告げられた松陰は取り乱しもせず、静かに獄中で囚人服のまま歌を書き残す。
 やがて死刑場に松陰は両手を背中で縛られ、白い死に装束のまま連れてこられた。
 柵越しに伊藤や妹の文、桂小五郎らが涙を流しながら見ていた。「せ、先生!先生!」「兄やーん!兄やーん!」
 座らされた。松陰は「目隠しはいりませぬ。私は罪人ではない」といい、断った。強面の抑えのおとこふたりにも「あなた方も離れていなされ、私は決して暴れたりいたせぬ」と言った。
 介錯役の侍は「見事なお覚悟である」といった。
 松陰はすべてを悟ったように前の地面の穴を見ながら「ここに……私の首が落ちるのですね……」と囁くように言った。雨が降ってくる。松陰は涙した。
 そして幕府役人たちに「幕府のみなさん、私たちの先祖が永きにわたり…暮らし……慈(いつく)しんだこの大地、またこの先、子孫たちが、守り慈しんでいかねばならぬ、愛しき大地、この日の本を、どうか……異国に攻められないよう…お願い申す……私の愛する…この日の本をお守りくだされ!」
 役人は戸惑った顔をした。松陰は天を仰いだ。もう未練はない。「百年後……二百年後の日本の為に…」
 しばらくして松陰は「どうもお待たせいたした。どうぞ」と首を下げた。
「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちるとも、留め置かまし大和魂!」松陰は言った。この松陰の残した歌が、日の本に眠っていた若き志士たちを、ふるい立たせたのである。
「ごめん!」
 吉田松陰の首は落ちた。
 雨の中、長州藩の桂小五郎らは遺体を引き取りに役所の門前にきた。皆、遺体にすがって号泣している。掛けられたむしろをとると首がない。
 高杉晋作は怒号を発した。「首がないぞ!先生の首はどうしたー!」
「大老井伊直弼様が首を検めますゆえお返しできませぬ」
 長州ものは顔面蒼白である。雨が激しい。
「拙者が介錯いたしました……吉田殿は敬服するほどあっぱれなご最期であらせられました」
 ……身はたとえ武蔵の野辺に朽ちるとも、留め置かまし大和魂!
 長州ものたちは号泣しながら天を恨んだ。晋作は大声で天に叫んだ、
「是非に大老殿のお伝えくだされ!松陰先生の首は、この高杉が必ず取り返しに来ると!聞け―幕府!きさまら松陰先生を殺したことを、きっと悔やむ日が来るぞ!この高杉晋作がきっと後悔させてやる!」
 雨が激しさを増す。まるで天が泣いているが如し、であった。


  風が強い。
 文久二年(一八六二)、東シナ海を暴風雨の中いく艦船があった。
 海面すれすれに黒い雲と強い雨風が走る。
 嵐の中で、まるで湖に浮かぶ木の葉のように、三百五十八トンの艦船が揺れていた。
 この船に、高杉晋作は乗っていた。
「面舵いっぱい!」
 艦長のリチャードソンに部下にいった。
「海路は間違いないだろうな?!」
 リチャードソンは、それぞれ部下に指示を出す。艦船が大嵐で激しく揺れる。
「これがおれの東洋での最後の航海だ! ざまのない航行はするなよ!」
 リチャードソンは、元大西洋航海の貨物船の船長だったという。それがハリファクス沖で時化にであい、坐礁事故を起こしてクビになった。
 船長の仕事を転々としながら、小船アーミスチス(日本名・千歳丸)を手にいれた。それが転機となる。東洋に進出して、日本の徳川幕府との商いを開始する。しかし、これで航海は最後だ。
 このあとは引退して、隠居するのだという。
「取り舵十五度!」
 英国の海軍や船乗りは絶対服従でなりたっているという。リチャードソンのいうことは黒でも白といわねばならない。
「舵輪を動かせ! このままでは駄目だ!」
「イエス・サー」
 部下のミスティは返事をして命令に従った。
 リチャードソンは、船橋から甲板へおりていった。すると階段下で、中年の日本人男とあった。彼はオランダ語通訳の岩崎弥四郎であった。
 岩崎弥四郎は秀才で、オランダ語だけでなく、中国語や英語もペラペラ喋れる。
「どうだ? 日本人たち一行の様子は? 元気か?」
 岩崎は、
「みな元気どころかおとといの時化で皆へとへとで吐き続けています」と苦笑した。
「航海は順調なのに困ったな。日本人はよほど船が苦手なんだな」
 リチャードソンは笑った。
「あの時化が順調な航海だというのですか?」
 長崎港を四月二十九日早朝に出帆していらい、確かに波はおだやかだった。
 それが、夜になると時化になり、船が大きく揺れ出した。
 乗っていた日本人は船酔いでゲーゲー吐き始める。
「あれが時化だと?」
 リチャードソンはまた笑った。
「あれが時化でなければ何だというんです?」
「あんなもの…」
 リチャードソンはにやにやした。「少しそよ風がふいて船がゆれただけだ」
 岩崎は沈黙した。呆れた。
「それよりあの病人はどうしてるかね?」
「病人?」
「乗船する前に顔いっぱいに赤い粒々をつくって、子供みたいな病気の男さ」
「ああ、長州の」
「……チョウシュウ?」
 岩崎は思わず口走ってしまったのを、リチャードソンは聞き逃さなかった。
 長州藩(現在の山口県)は毛利藩主のもと、尊皇壤夷の先方として徳川幕府から問題視されている。過激なゲリラ活動もしている。
 岩崎は慌てて、
「あれは江戸幕府の小役人の従僕です」とあわてて取り繕った。
「……従僕?」
「はい。その病人がどうかしたのですか?」
 リチャードソンは深く頷いて、
「あの男は、他の日本人が船酔いでまいっているときに平気な顔で毎日航海日誌を借りにきて、写してかえしてくる。ああいう人間はすごい。ああいう人間がいえば、日本の国が西洋に追いつくまで百年とかかるまい」と関心していった。
 極東は西洋にとってはフロンティアだった。
 英国はインドを植民地とし、清国(中国)もアヘン(麻薬)によって支配地化した。
 フランスと米国も次々と極東諸国を植民地としようと企んでいる。

  観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。
 米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。
 装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。
 一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。
 日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。
 ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。
 クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。
 オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。
 長崎海軍伝習所の発足にあたり、日本側は諸取締役の総責任者に、海防掛目付の永井尚志を任命した。
 長崎にいくことになった勝海舟も、小譜請から小十人組に出世した。当時としては破格の抜擢であったという。
  やがて奥田という幕府の男が勝海舟を呼んだ。
「なんでござろうか?」
「今江戸でオランダ兵学にくわしいのは佐久間象山と貴公だ。幕府にも人ありというところを見せてくれ」
 奥田のこの提案により、勝海舟は『オランダ兵学』を伝習生たちに教えることにした。「なんとか形にはなってきたな」
 勝海舟は手応えを感じていた。海兵隊の訓練を受けていたので、勝海舟は隊長役をつとめており明るかった。
 雪まじりの風が吹きまくるなか、勝海舟は江戸なまりで号令をかける。
 見物にきた老中や若年寄たちは喜んで歓声をあげた。
 佐久間象山は信州松代藩士であるから、幕府の旗本の中から勝海舟のような者がでてくるのはうれしい限りだ。
 訓練は五ツ(午前八時)にはじまり夕暮れに終わったという。
 訓練を無事におえた勝海舟は、大番組という上級旗本に昇進し、長崎にもどった。
 研修をおえた伝習生百五人は観光丸によって江戸にもどった。その当時におこった中国と英国とのアヘン戦争は江戸の徳川幕府を震撼させていた。
 永井尚志とともに江戸に帰った者は、矢田堀や佐々倉桐太郎(運用方)、三浦新十郎、松亀五郎、小野友五郎ら、のちに幕府海軍の重鎮となる英才がそろっていたという。
 勝海舟も江戸に戻るはずだったが、永井に説得されて長崎に残留した。
  安政四年八月五日、長崎湾に三隻の艦船が現れた。そのうちのコルベット艦は長さ百六十三フィートもある巨大船で、船名はヤッパン(日本)号である。幕府はヤッパン号を受け取ると咸臨丸と船名を変えた。
  コレラ患者が多数長崎に出たのは安政五年(一八五八)の初夏のことである。
 短期間で命を落とす乾性コレラであった。
 カッテンデーキは日本と首都である江戸の人口は二百四十万人、第二の都市大阪は八十万人とみていた。しかし、日本人はこれまでコレラの療学がなく経験もしていなかったので、長崎では「殺人事件ではないか?」と捜査したほどであった。
 コレラ病は全国に蔓延し、江戸では三万人の病死者をだした。

 コレラが長崎に蔓延していた頃、咸臨丸の姉妹艦、コルベット・エド号が入港した。幕府が注文した船だった。幕府は船名を朝陽丸として、長崎伝習所での訓練船とした。
 安政五年は、日本国幕府が米国や英国、露国、仏国などと不平等条約を次々と結んだ時代である。また幕府の井伊大老が「安政の大獄」と称して反幕府勢力壤夷派の大量殺戮を行った年でもある。その殺戮の嵐の中で、吉田松陰らも首をはねられた。
 この年十月になって、佐賀藩主鍋島直正がオランダに注文していたナガサキ号が長崎に入港した。朝陽丸と同型のコルベット艦である。
 日米修交通商条約批准のため、間もなく、外国奉行新見豊前守、村垣淡路守、目付小栗上野介がアメリカに使節としていくことになった。ハリスの意向を汲んだ結果だった。 幕府の中では「米国にいくのは日本の軍艦でいくようにしよう」というのが多数意見だった。白羽の矢がたったのは咸臨丸であった。

  幕府の小役人従僕と噂された若者は、航海日誌の写しを整理していた。
 全身の発疹がおさまりかけていた。
 その男は馬面でキツネ目である。名を高杉晋作、長州毛利藩で代々百十石の中士、高杉小忠太のせがれであるという。高杉家は勘定方取締役や藩御用掛を代々つとめた中級の官僚の家系である。
 ひとり息子であったため晋作は家督を継ぐ大事な息子として、大切に育てられた。
 甘やかされて育ったため、傲慢な、可愛くない子供だったという。
 しかし不思議なことにその傲慢なのが当然のように受け入れられたという。
 親戚や知人、同年代の同僚、のみならず毛利家もかれの傲慢をみとめた。
 しかし、その晋作を従えての使節・犬塚は、
「やれやれとんだ貧乏くじひいたぜ」と晋作を認めなかった。
 江戸から派遣された使節団は西洋列強国に占領された清国(中国)の視察にいく途中である。
 ひとは晋作を酔狂という。
 そうみえても仕方ない。突拍子もない行動が人の度肝を抜く。
 が、晋作にしてみれば、好んで狂ったような行動をしている訳ではない。その都度、壁にぶつかり、それを打開するために行動しているだけである。
 酔狂とみえるのは壁が高く、しかもぶつかるのが多すぎたからである。
「高杉くん。 だいじょうぶかね?」
 晋作の船室を佐賀藩派遣の中牟田倉之助と、薩摩藩派遣の五代才助が訪れた。
 長崎ですでに知り合っていたふたりは、晋作の魅力にとりつかれたらしく、船酔のあいだも頻繁に晋作の部屋を訪れていた。
「航海日録か……やるのう高杉くん」
 中牟田が関心していった。
 すると、五代が、
「高杉どんも航海術を習うでごわすか?」と高杉にきいてきた。
 高杉は青白い顔で、「航海術は習わない。前にならったが途中でやめた」
「なにとぜ?」
「俺は船に酔う」
「馬鹿らしか! 高杉どんは時化のときも酔わずにこうして航海日録を写しちょうとがか。船酔いする人間のすることじゃなかばい」
 五代が笑った。
 中牟田も「そうそう、冗談はいかんよ」という。
 すると、高杉は、
「時化のとき酔わなかったのは……別の病気にかかっていたからだ」と呟いた。
「別の病気? 発疹かい?」
「そうだ」高杉晋作は頷いた。
 そして、続けて「酒に酔えば船酔いしないのと同じだ。それと同じことだ」
「なるほどのう。そげんこつか?」
 五代がまた笑った。
 高杉晋作はプライドの高い男で、嘲笑されるのには慣れていない。
 刀に自然と手がゆく。しかし、理性がそれを止めた。
「俺は西洋文明に憧れている訳じゃない」
 晋作は憂欝そうにいった。
「てことは高杉どんは壤夷派でごわすか?」
「そうだ! 日本には三千年の歴史がある。西洋などたかだか数百年に過ぎない」
 のちに、三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい……
 という高杉の名文句はここからきている。

  昼頃、晋作と中牟田たちは海の色がかわるのを見た。東シナ海大陸棚に属していて、水深は百もない。コバルト色であった。
「あれが揚子江の河水だろう」
「……揚子江? もう河口に入ったか。上海はもうすぐだな」
 揚子江は世界最大の川である。遠くチベットに源流をおき、長さ五千二百キロ、幅およそ六十キロである。
 河を遡ること一日半、揚子江の沿岸に千歳丸は辿り着いた。
 揚子江の広大さに晋作たちは度肝を抜かれた。
 なんとも神秘的な風景である。
 上海について、五代たちは「じゃっどん! あげな大きな船があればどけな商いでもできっとじゃ!」と西洋の艦隊に興味をもった、が、晋作は冷ややかであった。
 晋作が興味をもったのは、艦船の大きさではなく、占領している英国の建物の「設計」のみごとさである。軍艦だけなら、先進国とはいいがたい幕府の最大の友好国だったオランダでも、また歴史の浅い米国でもつくれる。
 しかし、建物を建てるのはよっぽどの数学と設計力がいる。
 しかし、中牟田たちは軍艦の凄さに圧倒されるばかりで、英国の文化などどこ吹く風だ。 ……各藩きっての秀才というが、こいつらには上海の景色の意味がわかってない。晋作やのちの木戸孝允(桂小五郎)は西洋列強の植民地化した清国(今の中国)の悲惨さを理解した。そう「このまま日本国が幕府だのなんとか藩だのと内乱が続けば、清国のように日本が西洋列強国の植民地化とされかねない」と覚醒したのだ。
 坂本竜馬が上海に渡航したのはフィクションである。だが、高杉晋作は本当に行っている。その清国(現在の中国)で「奴隷国になるとはどういうことか?」を改めて知った。
「坂本さん、先だっての長崎酒場での長州ものと薩摩ものの争いを「鶏鳥小屋や鶏」というのは勉強になりましたよ。確かに日本が清国みたいになるのは御免だ。いまは鶏みたいに「内輪もめ」している場合じゃない」
「わかってくれちゅうがか?」
「ええ」晋作は涼しい顔で言ったという。「これからは長州は倒幕でいきますよ」
 竜馬も同意した。この頃土佐の武市半平太ら土佐勤王党が京で「この世の春」を謳歌していたころだ。場所は京都の遊郭の部屋である。
 武市に騙されて岡田以蔵が攘夷と称して「人斬り」をしている時期であった。
 高杉晋作は坊主みたいに頭を反っていて、「長州のお偉方の意見など馬鹿らしい。必ず松陰先生が正しかったとわからせんといかん」
「ほうじゃき、高杉さんは奇兵隊だかつくったのですろう?」
「そうじゃ、奇兵隊でこの日の本を新しい国にする。それがあの世の先生への恩返しだ」
「それはええですろうのう!」
 竜馬はにやりとした。「それ坂本さん!唄え踊れ!わしらは狂人じゃ!」
「それもいいですろうのう!」
 坂本竜馬は酒をぐいっと飲んだ。土佐ものにとって酒は水みたいなものだ。

 話を過去に戻す。
  坂本龍馬という怪しげな奴が長州藩に入ったのはこの時期である。桂小五郎も高杉晋作もこの元・土佐藩の脱藩浪人に対面して驚いた。龍馬は「世界は広いぜよ、桂さん、高杉さん。黒船をわしはみたが凄い凄い!」とニコニコいう。
「どのようにかね、坂本さん?」
「黒船は蒸気船でのう。蒸気機関という発明のおかげで今までヨーロッパやオランダに行くのに往復2年かかったのが…わずか数ヶ月で着く」
「そうですか」小五郎は興味をもった。
 高杉は「桂さん」と諌めようとした。が、桂小五郎は「まあまあ、晋作。そんなに便利なもんならわが藩でも欲しいのう」という。
 龍馬は「銭をしこたま貯めてこうたらええがじゃ! 銃も大砲もこうたらええがじゃ!」
 高杉は「おんしは攘夷派か開国派ですか?」ときく。
「知らんきに。わしは勝先生についていくだけじゃきに」 
「勝? まさか幕臣の勝麟太郎(海舟)か?」
「そうじゃ」 
 桂と高杉は殺気だった。そいっと横の畳の刀に手を置いた。
「馬鹿らしいきに。わしを殺しても徳川幕府の瓦解はおわらんきにな」
「なればおんしは倒幕派か?」
 桂小五郎と高杉晋作はにやりとした。
「そうじゃのう」龍馬は唸った。「たしかに徳川幕府はおわるけんど…」
「おわるけど?」 
 龍馬は驚くべき戦略を口にした。「徳川将軍家はなくさん。一大名のひとつとなるがじゃ」
「なんじゃと?」桂小五郎も高杉晋作も眉間にシワをよせた。「それではいまとおんなじじゃなかが?」龍馬は否定した。「いや、そうじゃないきに。徳川将軍家は只の一大名になり、わしは日本は藩もなくし共和制がええじゃと思うとるんじゃ」
「…おんしはおそろしいことを考えるじゃなあ」
「そうきにかのう?」龍馬は子供のようにおどけてみせた。
 この頃、長州藩では藩主が若い毛利敬親(もうり・たかちか)に世代交代した。天才の長州藩士で藩内でも学識豊富で一目置かれている吉田寅次郎は松陰と号して公の教育係ともなる。文には誇らしい兄者と映ったことであろう。だが、歴史に詳しい者なら知っている事であるが、吉田松陰の存在はある人物の台頭で「風前の灯」となる。そう徳川幕府大老の井伊直弼の台頭である。
 吉田松陰は井伊大老の「安政の大獄」でやがては「討幕派」「尊皇攘夷派」の「危険分子」「危険思想家」として江戸(東京)で斬首になるのは阿呆でも知っていることだ。
 そう、世の中は「意馬心猿(いばしんえん・馬や猿を思い通りに操るのが難しいように煩悩を抑制するのも難しい)」だ。だが吉田松陰のいう「知行合一(ちこうごういつ・智慧と行動は同じでなければならない)」だ。世の中は「四海兄弟(しかいけいだい・世界はひとつ人類皆兄弟)」であるのだから。
 世の中は「安政の大獄」という動乱の中である。そんななかにあって松陰は大罪である、脱藩をしてしまう。井伊大老を恐れた長州藩は「恩を仇でかえす」ように松陰を左遷する。
 当然、松門門下生は反発した。「幕府や井伊大老のいいなりだ!」というのである。もっともだ。この頃、小田村伸之助(のちの楫取素彦)は江戸に行き、松陰の身を案じて地元長州に連れ帰り、こののち吉田松陰は「杉家・育(はぐくみ)」となるのである。
 桂小五郎は万廻元年(1860年)「勘定方小姓格」となり、藩の中枢に権力をうつしていく。三十歳で驚くべき出世をした。しかし、長州の田舎大名の懐刀に過ぎない。
 公武合体がなった。というか水戸藩士たちに井伊大老を殺された幕府は、策を打った。攘夷派の孝明天皇の妹・和宮を、徳川将軍家・家茂公の婦人として「天皇家」の力を取り込もうと画策したのだ。だが、意外なことがおこる。長州や尊皇攘夷派は「攘夷決行日」を迫ってきたのだ。幕府だって馬鹿じゃない。外国船に攻撃すれば日本国は「ぼろ負け」するに決まっている。だが、天皇まで「攘夷決行日」を迫ってきた。幕府は右往左往し「適当な日付」を発表した。だが、攘夷(外国を武力で追い払うこと)などする馬鹿はいない。だが、その一見当たり前なことがわからぬ藩がひとつだけあった。長州藩である。吉田松陰の「草莽掘起」に熱せられた長州藩は馬関(下関)海峡のイギリス艦船に砲撃したのだ。
 だが、結果はやはりであった。長州藩はイギリス艦船に雲海の如くの砲撃を受け、藩領土は火の海となった。桂小五郎から木戸貫治と名を変えた木戸も、余命幾ばくもないが「戦略家」の奇兵隊隊長・高杉晋作も「欧米の軍事力の凄さ」に舌を巻いた。
 そんなとき、坂本龍馬が長州藩に入った。「草莽掘起は青いきに」ハッキリ言った。
「松陰先生が間違っておると申すのか?坂本龍馬とやら」
 木戸は怒った。「いや、ただわしは戦を挑む相手が違うというとるんじゃ」
「外国でえなくどいつを叩くのだ?」
 高杉はザンバラ頭を手でかきむしりながら尋ねた。
「幕府じゃ。徳川幕府じゃ」
「なに、徳川幕府?」 
 坂本龍馬は策を授け、しかも長州藩・奇兵隊の奇跡ともいうべき「馬関の戦い」に参戦した。後でも述べるが、九州大分に布陣した幕府軍を奇襲攻撃で破ったのだ。
 また、徳川将軍家の徳川家茂が病死したのもラッキーだった。あらゆるラッキーが重なり、長州藩は幕府軍を破った。だが、まだ徳川将軍家は残っている。家茂の後釜は徳川慶喜である。長州藩は土佐藩、薩摩藩らと同盟を結ぶ必要に迫られた。明治維新の革命まで、後一歩、である。
 この時期から長州藩は吉田松陰を幕府を恐れて形だけの幽閉とした。
寅次郎は牢獄に入っている。妹の杉文は格子越しに、涙ながらに兄・松陰に訴える。
「何で寅次郎にいやんは国禁を犯して密航なんぞやらかしたとですか?」
「世界を知りたかったんや!文ならわかるとやろう?世界は夢の最先端の技術がある!」
「なら私等はどうでもよかとですか?」
「光が見えたんや!この国の希望が………これからはこの日本国も軍艦・西洋の武器・文化・政治制度・民主主義…すべてこの国の為じゃけえ。わかってくれ、文!」
「わたしたちの光は?」
「いずれわかると!僕を信じてくれ!すべてゃこの国や長州の為ばい!」
「なら私らにもみせてつかあさい!寅にいの志で見えた光りが、けっして一刻の私事ではなく“国の為道の為”の救国の光であることを!天下国家の為に寅にいの学識があるのだということを!」
吉田寅次郎(松陰)も文も号泣した。松陰は「僕は天下国家の救国の為に命を…捧げる覚悟じゃ!至誠を持って動かざる者未だなし!すべてこの国のためなんじゃ!」
「………わかったとばい。寅にいはこの国の回天・改革の為に命を捧げるとですね?」
「そうじゃ!文、わかってくれとうとか?!」
「わかりました。兄やんを信じます」文は悟ったようにいった。「これからは自由に旅も学問も出来ない寅にいのかわりに私が寅にいの耳と目になりまする!」
それからの文は兄が好きな節句餅を食べさせたくて料理を頑張ってつくり、幽閉先の牢屋にもっていく。牢獄の仲間に高須久子も、いた。 
「この節句餅は上手か~あ、文が僕の為につくったとか?」
「そうや。寅次郎にいやんは天才なんじゃけえくじけたらあかんよ。冤罪は必ず晴れるんじゃけえ」
「おおきになあ、僕はうれしか」松陰と文は熱い涙を流した。
 こののち久坂玄瑞(十八歳)と杉文(十五歳)は祝言をあげて結婚する。
 そして病床の身であった母親・杉瀧子が、死ぬのである。(注訳・この小説上の架空の設定。本当の杉文の母親は明治23年(1890年)、母・瀧が死去)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「花燃ゆ」とその時代吉田松陰と妹の生涯2015年大河ドラマ原作<加筆維新回天特別編>アンコール連載小説2

2015年01月10日 20時13分36秒 | 日記









 立志


 長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利氏を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。藩庁は長く萩城(萩市)に置かれていたために萩藩(はぎはん)とも呼ばれていたが、幕末には周防山口の山口城(山口政事堂)に移ったために、周防山口藩(すおうやまぐちはん)と呼ばれることとなった。一般には、萩藩・(周防)山口藩時代を総称して「長州藩」と呼ばれている。幕末には討幕運動の中心となり、続く明治維新では長州藩の中から政治家を多数輩出し、日本の政治を支配した藩閥政治の一方の政治勢力「長州閥」を形成した。毛利元就、藩祖の毛利氏は大江広元の4男を祖とする一族。戦国時代に安芸に土着していた分家から毛利元就が出ると一代にして国人領主から戦国大名に脱皮、大内氏の所領の大部分と尼子氏の所領を併せ、最盛期には中国地方十国と北九州の一部を領国に置く最大級の大名に成長した。元就の孫の毛利輝元は豊臣秀吉に仕え、安芸・周防・長門・備中半国・備後・伯耆半国・出雲・石見・隠岐の120万5000石を安堵(石見銀山50万石相当、また以前の検地では厳密にこれを行っていなかったことを考慮すると実高は200万石超)され、本拠を吉田郡山城からより地の利の良い広島に移す。秀吉の晩年には五大老に推され、関ヶ原の合戦では西軍石田三成方の名目上の総大将として担ぎ出され大坂城西の丸に入ったが、主家を裏切り東軍に内通していた従弟の吉川広家により徳川家康に対しては敵意がないことを確認、毛利家の所領は安泰との約束を家康の側近から得ていた。ところが戦後家康は広家の弁解とは異なり、輝元が西軍に積極的に関与していた書状を大坂城で押収したことを根拠に、一転して輝元の戦争責任を問い、所領安堵の約束を反故にして毛利家を減封処分とし、輝元は隠居となし、嫡男の秀就に周防・長門2国を与えることとした。実質上の初代藩主は輝元であるが、形式上は秀就である。また、秀就は幼少のため、当初は輝元の従弟の毛利秀元と重臣の福原広俊・益田元祥らが藩政を取り仕切っていた。周防・長門2国は慶長5年の検地によれば29万8480石2斗3合であった。これが慶長10年(1605年)御前帳に記された石高である。慶長12年(1607年)、領国を4分の1に減封された毛利氏は新たな検地に着手し、慶長15年(1610年)に検地を終えた。少しでも石高をあげるため、この検地は苛酷を極め、山代地方(現岩国市錦町・本郷町)では一揆も起きている。この検地では結果として53万9268石余をうちだした。慶長18年(1613年)、今次の江戸幕府に提出する御前帳が今後の毛利家の公称高となるため、慎重に幕閣と協議した。ところが、思いもよらぬ50万石を超える高石高に驚いた幕閣(取次役は本多正信)は、敗軍たる西軍の総大将であった毛利氏は50万石の分限ではないこと(特に東軍に功績のあった隣国の広島藩主福島正則49万8000石とのつりあい)、毛利家にとっても高石高は高普請役負担を命じられる因となること、慶長10年御前帳の石高からの急増は理に合わないことを理由に、石高の7割である36万9411石3斗1升5合を表高として公認した。この表高は幕末まで変わることはなかったが、その後の新田開発等により実高(裏高)は寛永2年(1625年)には65万8299石3斗3升1合、貞享4年(1687年)には81万8487石余であった。宝暦13年(1763年)には新たに4万1608石を打ち出している。幕末期には100万石を超えていたと考えられている。また新しい居城地として防府・山口・萩の3か所を候補地として伺いを出したところ、これまた防府・山口は分限にあらずと萩に築城することを幕府に命じられた。萩は、防府や山口と異なり、三方を山に囲まれ日本海に面し隣藩の津和野城の出丸の遺構が横たわる鄙びた土地であった。長州藩士はこの毛利家が防長二州に転じた際に、一緒に山口に移った毛利家の家臣をルーツに持つといわれる。彼らは元来が広島県-安芸・備後を本拠としたために非常に結束が固かった。輝元はかつての膨大な人数を養う自信がなかったので「ついて来なくてもいい」と幾度もいったが、みな聞かなかった。戦国期までは山陽山陰十ヵ国にまたがる領地を持ち、表日本の瀬戸内海岸きっての覇府というべき広島から裏日本の萩へ続く街道は、家財道具を運ぶ人のむれで混雑し、絶望と、徳川家への怨嗟の声でみちた。家臣のうち、上級者は家禄を減らされて萩へ移ったが、知行も扶持も貰えない下級者は農民になり山野を開墾した。幕末、長州藩が階級・身分を越えて結束が強かったのは、江戸期に百姓身分であった者も先祖は安芸の毛利家の家来であったという意識があり、それが共有されていたためともいわれる。前述のような辛酸を舐めたことから、長州藩では江戸時代を通じて「倒幕」が極秘の「国是」で、新年拝賀の儀で家老が「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立てると、藩主は毎年「時期尚早」と答えるのが習わしだったという。この伝説について、毛利家現当主・毛利元敬は「あれは俗説」と笑い、「明治維新の頃まではあったのではないか」という問いに「あったのかもしれないが、少なくとも自分が帝王学を勉強した時にはその話は出なかった」と答えている。ただ長州藩主導により倒幕・明治維新を迎え借りは利息をつけて返したわけであるから、維新も遠くなった昭和初年の生まれである現当主に、そのような教育はむしろ弊害としてされなかったことは考えられるかもしれない(当時華族は学習院に学ぶわけであるから、徳川家と先輩・後輩関係、同級生関係になる可能性はあった。実際、元敬は水戸徳川家と同級生で仲良くしていたことも言及している)。また、藩士は江戸に足を向けて寝るのが習慣となった(ただし、参勤交代時は藩主が江戸に在住している訳であり、また正室・世子は常に江戸に在住していること、萩から江戸方向は天子のおわす京と同方向であることをどう考えたのかは疑問が残るところである。しかし今でも旧藩士の家ではその伝統が伝えられている家がある)。
毛利重就。江戸時代中期には、第7代藩主毛利重就が、宝暦改革と呼ばれる藩債処理や新田開発などの経済政策を行う。文政12年(1829年)には産物会所を設置し、村役人に対して特権を与えて流通統制を行う。天保3年(1831年)には、大規模な長州藩天保一揆が発生。その後の天保8年(1836年)4月27日には、後に「そうせい侯」と呼ばれた毛利敬親が藩主に就くと、村田清風を登用した天保の改革を行う。改革では相次ぐ外国船の来航や中国でのアヘン戦争などの情報で海防強化も行う一方、藩庁公認の密貿易で巨万の富を得る。村田の失脚後は坪井九右衛門、椋梨藤太、周布政之助などが改革を引き継ぐが、坪井、椋梨と周布は対立し、藩内の特に下級士層に支持された周布政之助が安政の改革を主導する。幕末。幕末になると長州藩は公武合体論や尊皇攘夷を拠り所にして、おもに京都で政局をリードする存在になる。また藩士吉田松陰の私塾(当時の幕府にとっては危険思想の持ち主とされ事実上幽閉)松下村塾で学んだ多くの藩士がさまざまな分野で活躍、これが倒幕運動につながってゆく。
1863年(文久3年)旧4月には、激動する情勢に備えて、幕府に無断で山口に新たな藩庁を築き、「山口政事堂」と称する。敬親は萩城から山口(中河原の御茶屋)に入り、幕府に山口移住と新館の造営を正式に申請書を提出し、山口藩が成立した。これにより、萩藩は(周防)山口藩と呼ばれることとなった。 この年、会津藩と薩摩藩が結託した八月十八日の政変で京都から追放された。
長州藩は攘夷も決行した。下関海峡と通る外国船を次々と砲撃した。結果、長州藩は欧米諸国から敵と見做され、1863年(文久三年)5月と1864年(元治元年)7月に、英 仏 蘭 米の列強四国と下関戦争が起こった。長州藩はこの戦争に負け、賠償金を支払うこととなった。
禁門の変。1864年(元治元年)の池田屋事件、禁門の変で打撃を受けた長州(山口)藩に対し、幕府は尾張藩主徳川慶勝を総督とした第一次長州征伐軍を送った。長州(山口)藩では椋梨ら幕府恭順派が実権を握り、周布や家老・益田親施らの主戦派は失脚して粛清され、藩主敬親父子は謹慎し、幕府へ降伏した。その後、完成したばかりの山口城を一部破却して、毛利敬親・元徳父子は長州萩城へ退いた。
恭順派の追手から逃れていた主戦派の藩士高杉晋作は、伊藤俊輔(博文)らと共に、民兵組織である力士隊と遊撃隊を率いてクーデター(元治の内戦)を決行した。初めは功山寺で僅か80人にて挙兵した決起隊に、民兵組織最強の奇兵隊が呼応するなど、各所で勢力を増やして萩城へ攻め上り、恭順派を倒した。この後、潜伏先より帰って来た桂小五郎(木戸孝允)を加え、再び主戦派が実権を握った長州藩は、奇兵隊を中心とした諸隊を正規軍に抜擢し、幕府の第二次長州征伐軍と戦った。高杉と村田蔵六(大村益次郎)の軍略により、長州藩は四方から押し寄せる幕府軍を打ち破り、第二次幕長戦争(四境戦争)に勝利する。長州藩に敗北した幕府の力は急速に弱まった。
更に、1866年(慶応2年)には、主戦派の長州藩重臣である福永喜助宅において土佐藩の坂本龍馬を仲介として議論された末、京都薩摩藩邸(京都市上京区)で薩摩藩との政治的・軍事的な同盟である薩長同盟を結んだ。又、旧5月に敬親が山口に戻った事で(周防)山口藩が再び成立する。
鳥羽・伏見の戦い。左が桑名藩などの幕府軍、右が長州藩などの新政府軍。
薩長による討幕運動の推進によって、15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、江戸幕府は崩壊した。そして、王政復古が行われると、薩摩藩と共に長州藩は明治政府の中核となっていく。戊辰戦争では、藩士の大村益次郎が上野戦争などで活躍した。
だが、1869年(明治2年)旧11月、山口藩の藩兵による反乱(萩の乱)が起こり、一時は山口藩庁が包囲されたこともある。
明治4年(1871年)旧6月、山口藩は支藩の徳山藩と合併し、同年8月29日(旧7月14日)の廃藩置県で山口藩は廃止され、山口県となった。毛利家当主元徳は藩知事を免官されて東京へ移り、第15国立銀行頭取、公爵、貴族院議員となった。
尚、戊辰戦争の戦後処理と明治期における山縣有朋に代表される長州閥の言動の影響から、戦闘を行った会津藩(会津若松市)と長州藩(萩市)の間には今でも複雑な感情が残っているとも言われる。実際は、長州藩軍は進軍が遅れたため、会津戦争では戦闘を行なっておらず、また、占領統治を指揮する立場でもなかった。 現代の観光都市化の流れの中で現れた戦後会津の観光史学により、事実が歪められているという議論も行われている。
 
 吉田松陰は吉田矩方という本名で、人生は1830年9月20日(天保元年8月4日)から1859年(安政6年10月27日)までの生涯である。享年30歳……
 通称は吉田寅次郎、吉田大次郎。幼名・寅之助。名は矩方(よりかた)、字(あざな)は義卿(ぎけい)または子義。二十一回猛士とも号する。変名を松野他三郎、瓜中万二ともいう。長州藩士である。江戸(伝馬町)で死罪となっている。
 尊皇壤夷派で、井伊大老のいわゆる『安政の大獄』で密航の罪により死罪となっている。名字は杉寅次郎ともいう。養子にはいって吉田姓になり、大次郎と改める。
 字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。松陰の名は尊皇家の高山彦九郎おくり名である。1830年9月20日(天保元年8月4日)、長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)に叔父である山鹿流兵学師範である吉田大助の養子になるが、天保6年(1835年)に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた塾で指導を受けた。吉田松陰の初めての伝記を示したのは死後まもなく土屋瀟海(しょうかい)、名を張通竹弥之助という文筆家で「吉田松陰伝」というものを書いた。が、その出版前の原稿を読んだ高杉晋作が「何だ! こんなものを先生の伝記とすることができるか!」と激高して破り捨てた為、この原稿は作品になっていない。
 また別の文筆家が「伝記・吉田松陰」というのを明治初期にものし、その伝記には松陰の弟子の伊藤博文や山県有朋、山田顕義(よしあき)らが名を寄せ寄稿し「高杉晋作の有名なエピソード」も載っている。天保六年(1835年)松陰6歳で「憂ヲ憂トシテ…(中訳)…楽ヲ享クル二至ラサラヌ人」と賞賛されている。
 ここでいう吉田松陰の歴史的意味と存在であるが、吉田松陰こと吉田寅次郎は「思想家」である前に「維新の設計者」である。当時は松陰の思想は「危険思想」とされ、長州藩も幕府を恐れて彼を幽閉したほどだ。我々米沢や会津にとっては薩摩藩長州藩というのは「官軍・明治政府軍」で敵なのかも知れない。が、会津の役では長州藩は進軍に遅れて参戦しておらず、米沢藩とも戦っていないようだ。ともあれ150年も前の戊辰戦争での恨み、等「今更?」だろう。吉田松陰は本名を吉田寅次郎といい号が松陰(しょういん)である。
「死にもの狂いで学ばなければこの日本国はもはや守れん!」松陰は貪欲に学んでいく。
文政13年(1830年)9月20日長州萩藩(現在・山口県萩市)生まれで、没年が安政6年(1859年)11月21日東京での処刑までの人生である。そして、この物語「「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰と妹の生涯」の主人公・杉文(すぎ・ふみ)の13歳年上の実の兄である。ちなみに兄の吉田松陰に塾を開くようにアドバイスしたのも文、「寅次郎兄やん、私塾をやるのはどげんと?」「私塾?僕が?」「そうや。寅にいの素晴らしい考えを世の中に知らせるんや」。おにぎりや昼飯を甲斐甲斐しくつくって松門の教え子たち(久坂や高杉や伊藤博文ら)を集め「皆さん兄の私塾で学びませんか?」「はあ?!」「そのかわり毎日おいしいご飯食べさせますばい」、励ましたのも文、「みなさん、御昼ごはん!握り飯ですよー!」「おーっ!うまそうだ!」「皆さんがこの長州、日本国を変える人材になるのです」。姉の寿の前に小田村(楫取)を好きになり「お嫁さんにしてつかあさい!」と頼むが叶わず母の死に落ち込む楫取を励まし、のちに姉寿死後、楫取と再婚し、最後は鹿鳴館の花となるのも文、である。大河ドラマとは少し違うかも知れないがこの作品が緑川流「花燃ゆ」なのである。
  松陰は後年こういっている。
「私がほんとうに修行したのは兵学だけだ。私の家は兵学の家筋だから、父もなんとか私を一人前にしようと思い、当時萩で評判の叔父の弟子につけた。この叔父は世間並みの兵学家ではなくて、いまどき皆がやる兵学は型ばかりだ。あんたは本当の兵学をやりなさい、と言ってくれた。アヘン戦争で清が西洋列強国に大敗したこともあって嘉永三年(1850年)に九州に遊学したよ。そして江戸で佐久間象山先生の弟子になった。
 嘉永五年(1852年)長州藩に内緒で東北の会津藩などを旅行したものだから、罪に問われてね。士籍剥奪や世禄没収となったのさ」
 吉田松陰は「思想家」であるから、今時にいえばオフィスワーカーだったか?といえば当然ながら違うのである。当時はテレビもラジオも自動車もない。飛脚(郵便配達)や駕籠(かご・人足運搬)や瓦版(新聞)はあるが、蒸気機関による大英帝国の「産業革命・創成期」である。この後、日本人は「黒船来航」で覚醒することになる。だが、吉田松陰こと寅次郎は九州や東北北部まで歩いて「諸国漫遊の旅」に(弟子の宮部鼎蔵(みやべ・ていぞう)とともに)出ており、この旅により日本国の貧しさや民族性等学殖を深めている。当時の日本は貧しい。俗に「長女は飯の種」という古い諺がある。これはこの言葉どうり、売春が合法化されてていわゆる公娼(こうしょう)制度があるときに「遊郭・吉原(いまでいうソープランド・風俗業)」の店に残念ながらわずかな銭の為に売られる少女が多かったことを指す。公娼制度はGHQにより戦後撤廃される。が、それでも在日米軍用に戦後すぐに「売春婦や風俗業に従事する女性たち」が集められ「強姦などの治安犯罪防止策」を当時の日本政府が展開したのは有名なエピソードである。
 松陰はその田舎の売られる女性たちも観ただろう。貧しい田舎の日本人の生活や風情も視察しての「倒幕政策」「草莽掘起」「維新政策」「尊皇攘夷」で、あった訳である。
 当時の日本は本当に貧しかった。物流的にも文化的にも経済的にも軍事的にも、実に貧しかった。長州藩の「尊皇攘夷実行」は只の馬鹿、であったが、たった数隻の黒船のアームストロング砲で長州藩内は火の海にされた。これでは誰でも焦る訳である。このまま国内が内乱状態であれば清国(現在の中国)のように植民地にされかねない。だからこその早急な維新であり、戊辰戦争であり、革命であるわけだ。すべては明治維新で知られる偉人たちの「植民地化への焦り」からの維新の劇場型政変であったのだ。
そんな長州藩萩で、天保14年(1843年)この物語の主人公の杉文(すぎ・ふみ)は生まれた。あまり文の歴史上の資料やハッキリとした写真や似顔絵といったものはないから風体や美貌は不明ではある。
 だが、吉田松陰は似顔絵ではキツネ目の馬面みたいだ。
 であるならば十三歳歳の離れた松陰の実妹は美貌の人物の筈はない。2015年大河ドラマ「花燃ゆ」で文役を演ずる井上真央さんくらい美貌なのか?は、少なくとも2013年大河ドラマ「八重の桜」の新島八重役=綾瀬はるかさん、ぐらい(本当の新島八重はぶくぶくに太った林檎ほっぺの田舎娘)、大河ドラマ「花燃ゆ」の杉文役=井上真央さんは、本人に遠い外見であることだろう。「文よ、お前はどう生きる?」寅にいこと松陰は妹に問う。 
この物語と大河ドラマでは、家の強い絆と、松蔭の志を継ぐ若者たちの青春群像を描く!吉田松陰の実家の杉家は、父母、三男三女、叔父叔母、祖母が一緒に暮らす多い時は11人の大家族。杉家のすぐそばにあった松下村塾では、久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎ら多くの若者たちが松陰のもとで学び、日夜議論を戦わせた。若者の青春群像を描くとされていることから中心になる長州藩士 久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎らは20代後半の役者がキャスティング(配役)されてましたよね。吉田松陰の妹 杉文(美和子)とは?天保14年(1843年)、杉家の四女の文が生まれる。1843年に文が誕生。文は大河ドラマ『八重の桜』新島八重の2つ年上。文の生まれた年は1842年と1843年の二つの説があり。文(美和子)(松陰の四番目の妹で、久坂玄瑞の妻であったが、後に、楫取の二番目の妻となる)。楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかりの人 ─長州藩士、吉田松蔭の妹。久坂玄端の妻、楫取素彦の後妻(最初の妻は美和子の姉)。家格は無給通組(下級武士上等)、石高26石という極貧の武士であったため、農業もしながら生計を立て、7人の子供を育てていた。杉常道 - 父は長州藩士の杉常道、 母は滝子。杉家は下級武士だった。大正10までの79年間の波乱の生涯はドラマである。名前は杉文(すぎふみ)→久坂文→小田村文→楫取文→楫取美和子と変遷している。楫取美和子(かとりみわこ)文と久坂玄端の縁談話。しかし、面食いの久坂は、なんと師匠・松蔭の妹との結婚を一度断った。理由は「器量が悪い」から。1857年(安政4年)、吉田松陰の妹・文(ふみ)と結婚しました。玄瑞18歳、文15歳の時でした。久坂玄瑞:高杉晋作 1857年 文は久坂玄端と結婚。1859年 兄・松蔭は江戸で処刑される。1863年 禁門の変(蛤御門の変)で夫・久坂は自刃。文はというと、39歳の時に再婚。文はすぐさま返事はしなかったが「玄瑞からもらった手紙を持って嫁がせてくれるなら」ということに。そして文は玄瑞の手紙とともに素彦と再婚。生前の久坂から、届いたただ一通の手紙。その手紙と共に39歳の時に、文は再婚。1883(明治16)年 松陰の四人の妹のうち、四番目の妹(参考 寿子は二番目)で、久坂玄瑞(1840年~1864年)に嫁ぎ、久坂の死で、22歳の時から未亡人になっていた文(美和子)と再婚(この時 、楫取 55歳)。楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかりの人 ─1883年 文は39~40歳。自身の子どもは授からなかったが、毛利家の若君の教育係を担い、山口・防府の幼稚園開園に関わったとされ、学問や教育にも造詣が深い。NHK大河「花燃ゆ」はないないづくし 識者は「八重の桜」の“二の舞”を懸念していたという (日刊ゲンダイ) - Yahoo!ニュース。そして文は玄瑞の手紙とともに素彦と再婚し、79歳まで生きました。1912年 文の夫・楫取素彦が死去。1921年 文(楫取美和子)が死去。1924年 文の姉・千代が死去。
 杉千代(吉田松陰の妹・文の姉)千代は松陰より2歳年下の妹であった。1832年 萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助(常道)の長女として生まれる。杉寿(吉田松陰の妹・文の姉)杉 常道(すぎ つねみち、文化元年2月23日(1804年4月3日) - 慶応元年8月29日(1865年10月18日))は、江戸時代後期から末期(幕末)の長州藩士。吉田松陰の父。杉常道 - 杉瀧子(吉田松陰・文の母)家族から見た吉田松陰。 杉瀧子 吉田松陰の母。久坂 玄瑞(くさか げんずい)は、幕末の長州藩士。幼名は秀三郎、名は通武、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹、文。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。天保11年(1840年)長門国萩平安古(ひやこ)本町(現・山口県萩市)に萩藩医・久坂良迪の三男・秀三郎として生まれる。安政4年(1857年)松門に弟子入り。安政4年(1857年)12月5日、松陰は自分の妹・文を久坂に嫁がせた。元治元年(1864年)禁門の変または蛤御門の変で鷹司邸内で自刃した。享年25。高杉 晋作(たかすぎ しんさく)は、江戸時代後期の長州藩士。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。高杉晋作 - 1839年 長門国萩城下菊屋横丁に長州藩士・高杉小忠太・みちの長男として生まれる。1857年 吉田松陰が主宰していた松下村塾に入る。1859年 江戸で松陰が処刑される。万延元年(1860年)11月 防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門の次女・まさと結婚。文久3年(1863年)6月 志願兵による奇兵隊を結成。慶応3年4月14日(1867年5月17日)肺結核でこの世を去る。楫取 素彦(かとり もとひこ、文政12年3月15日(1829年4月18日) - 大正元年(1912年)8月14日)は、日本の官僚、政治家。錦鶏間祗候正二位勲一等男爵。楫取素彦 - 吉田松陰とは深い仲であり、松陰の妹二人が楫取の妻であった。最初の妻は早く死に、久坂玄瑞の未亡人であった松陰の末妹と再婚したのである。通称は米次郎または内蔵次郎→小田村伊之助→小田村文助・素太郎→慶応3年(1867年)9月に楫取素彦と改める。1829年 長門国萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に藩医・松島瑞蟠の次男として生まれる。1867年 鳥羽・伏見の戦いにおいて、江戸幕府の死命を制する。明治5年(1872年)に群馬 県参与、明治7年(1874年)に熊谷県権令。明治9年(1876年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県令(知事)となった。楫取の在任中に群馬県庁移転問題で前橋が正式な県庁所在地と決定。明治14年(1881年) 文の姉・寿子と死別。明治16年(1883年) 文と再婚。1884年 元老院議官に転任。1887年 男爵を授けられる。大正元年(1912年)8月14日、山口県の三田尻(現・防府市)で死去。84歳。木戸 孝允 / 桂 小五郎(きど たかよし / かつら こごろう)幕末から明治時代初期にかけての日本の武士、政治家。嘉永2年(1849年)、吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される(のちに松陰は「桂は、我の重んずるところなり」と述べ、師弟関係であると同時に親友関係ともなる)。天保4年6月26日(1833年8月11日)、長門国萩城下呉服町に藩医・和田昌景の長男として生まれる。嘉永2年(1849年)、吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される。元治元年(1864年)禁門の変。明治10年(1877年)2月に西南戦争が勃発。5月26日、朦朧状態の中、大久保利通の手を握り締め、「西郷いいかげんにせいよ!」と明治政府と西郷隆盛の両方を案じる言葉を発したのを最後にこの世を去る。伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。幼年期には松下村塾に学び、吉田松陰から「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」と評され、「俊輔、周旋(政治)の才あり」とされた。1941年 周防国熊毛郡束荷村字野尻の百姓・林十蔵の長男として生まれる。安政4年(1857年)2月、吉田松陰の松下村塾に入門する。伊藤は身分が低いため、塾外で立ち聞きしていた。松蔭が安政の大獄で斬首された際、師の遺骸をひきとることになる。明治18年(1885年)伊藤は初代内閣総理大臣となる。明治42年(1909年)10月、ハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家テロリスト・安重根によって射殺された。心に残る 吉田松陰 エピソード。「いやしくも一家を構えている人は、何かにつけて、色々と大切な品物が多いはずです。ですから、一つでも多く持ち出そうとしました。私の所持品のようなものは、なるほど私にとっては大切なものですが、考えてみれば、たいしたものではありません。」吉田 松陰先生の2歳年下の妹千代兄を語る。松陰の先生の家が火事になり、松蔭が自分のものを持ち出さなかった理由について語った言葉。人間にとって、利他の心を持ち、相手の立場に立って行動するということは、大切なことです。と妹・千代は語った。杉寿は兄・松陰のことは嫌いではなかったが、兄の親友の小田村伊之助と結婚すると、何かとトラブルばかり起こす松陰に対して愛情ゆえの手厳しい言葉と行動で当たった。その為に「杉家の烈女」等というありがたくない別名で呼ばれることが多い。
 とにもかくにも美人なんだかブスなんだか不明の吉田松陰の十三歳年下の妹・杉文(すぎ・ふみ)は、天保14年(1843年)に誕生した。母親は杉瀧子という巨漢な女性、父親は杉百合之助(常道)である。
 赤子の文を可愛いというのは兄・吉田寅次郎こと松陰である。寅次郎は赤子の文をあやした。子供好きである。
 大河ドラマとしては異常に存在感も歴史的に無名な杉文が主人公ではあった。大河ドラマ「篤姫」では薩摩藩を、大河ドラマ「龍馬伝」では土佐藩を、大河ドラマ「花燃ゆ」では長州藩を描いた。
 大河ドラマ「江 姫たちの戦国」のような低視聴率になることはほぼ決まりのようだったが嬉しい誤算になった。が、NHKは大河ドラマ「篤姫」での成功体験が忘れられない。
 だが、朝の連続テレビ小説「あまちゃん」「ごちそうさん」「花子とアン」並みの高視聴率等期待するだけ無駄だろう。
  話しを戻す。
 長州藩の藩校・明倫館に出勤して家学を論じた。次第に松陰は兵学を離れ、蘭学にはまるようになっていく。文にとって兵学指南役で長州藩士からも一目置かれているという兄・吉田寅次郎(松陰)の存在は誇らしいものであったらしい。松陰は「西洋人日本記事」「和蘭(オランダ)紀昭」「北睡杞憂(ほくすいきゆう)」「西侮記事」「アンゲリア人性海声」…本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。あるとき、本屋で新刊のオランダ兵書を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。
「これはいくらだ?」松陰は主人に尋ねた。
「五十両にござりまする」
「高いな。なんとかまけられないか?」
 主人はまけてはくれない。そこで松陰は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五十両をもって本屋に駆け込んだ。が、オランダ兵書はすでに売れたあとであった。
「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら松陰はきいた。
「大町にお住まいの与力某様でござります」
 松陰は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。
「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」
 与力某は断った。すると松陰は「では貸してくだされ」という。
 それもダメだというと、松陰は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い吉田松陰でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」
  松陰は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。
 松陰の住んでいるところから与力の家には、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、松陰は写本に通った。あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、
「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。松陰は断った。
「すでに写本があります」
 しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。松陰は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇両の値がついたという。

  松陰は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により松陰の名声は世に知られるようになっていく。松陰はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない」

 文は幼少の頃より、兄・松陰に可愛がられ、「これからは女子も学問で身をたてるときが、そんな世の中がきっとくる」という兄の考えで学問を習うようになる。吉田松陰は天才的な思想家であった。すでに十代で藩主の指南役までこなしているのだ。それにたいして杉文なる人物がどこまで学問を究めたか?はさっぱり資料もないからわからない。
 2015年度の大河ドラマ「花燃ゆ」はほとんどフィクションの長州藩の維新の志士達ばかりがスポットライトが当たるドラマになった。
 歴史的な資料がほとんどない。ということは小説家や脚本家が「好きに脚色していい」といわれているようなものだ。吉田松陰のくせは顎をさすりながら、思考にふけることである。
 しかも何か興味があることをあれやこれやと思考しだすと周りの声も物音も聞こえなくなる。「なんで、寅次郎にいやんは、考えだすと私の声まできこえんとなると?」文が笑う。と松陰は「う~ん、学者やからと僕は思う」などと真面目な顔で答える。それがおかしくて幼少の文は笑うしかない。
 家庭教師としては日本一優秀である。が、まだ女性が学問で身を立てる時代ではなかった。まだ幕末の混迷期である。当然、当時の人は「幕末時代」等と思う訳はない。徳川幕府はまだまだ健在であった時代である。「幕末」「明治維新」「戊辰戦争」等という言葉はのちに歴史家がつけたデコレーションである。
 大体にして当時のひとは「明治維新」等といっていない。「瓦解」といっていた。つまり、「徳川幕府・幕藩体制」が「瓦解」した訳である。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.149『21世紀の資本』(トマ・ピケティ著、山形氏・訳)後日「骨子」掲載予定

2015年01月10日 19時40分17秒 | 日記






『21世紀の資本』


(トマ・ピケティ著、山形浩生・他訳、みすず書房刊)の書

  の「骨子」を後でブログ等で完全解説して掲載したい。


確かに700ページもある分厚い本。



簡単に言うとお金持ち資本家と低所得者の格差は広がり、決して格差解消はしない


事を分析した書だ。



貧富の差は永遠と世界を震撼させた。


しかも、著者は私より一歳年下のフランス人だから唖然とするしかない。

僕は『遅咲きの臥竜』とはいえ、世界のひのき舞台にでるのが遅れている。

僕の不徳の致すところ也。Fight! washu midorikawa!

2015midorikawa washu 緑川鷲羽2015年始まりの年へ

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エノラ・ゲイ 原爆投下!<加筆・広島への原爆投下の真実>戦後70年記念企画アンコールブログ連載小説5

2015年01月10日 08時01分46秒 | 日記






         6 ポツダム宣言




 核兵器によってアメリカは短期間、軍事的に有利な立場に立つかもしれないが、それはアメリカの威信に対する心理的損失によって相殺されてしまうだろう。
 アメリカは、それによって、全世界に及ぶ兵器競争の幕を切って落とすことになるかもしれない。
 ――アルバート・アインシュタインのルーズベルト大統領への勧告(一九四五年四月)
(参考文献引用『エノラ・ゲイ ドキュメント原爆投下』著作ゴードン・トマス+マックス・モーガン=ウィッツ、松田銑日本語訳、TBSブリタニカ出版1980年)

  甲板で、榎本中将は激をとばした。
「日本の勝利は君たちがやる! 鬼畜米英なにするものぞ! 神風だ! 神風特攻隊で米英軍の艦隊を駆逐するのだ!」
 若い日本兵一同は沈黙する。
 ……神風! 神風! 神風! ……
 榎本陸軍千余名、沖縄でのことである。地上戦戦没者二十万人……

 七月七日、トルーマン米国大統領はドイツのポツダムに着いた。
 そこで、「ポツダム宣言」を受諾させ、日本などの占領統治を決めるためである。
 会議のメンバーは左のとおりである。

 アメリカ合衆国     ハリー・S・トルーマン大統領
 ソビエト連邦      ヨゼフ・スターリン首相
 イギリス        ウィンストン・チャーチル首相               
 中華民国(中国)    蒋介石国民党総裁(対日戦争のため欠席)


  なおトルーマンは会議議長を兼ねることになったという。
 一同はひとりずつ写真をとった。そして、一同並んで写真をとった。
 有名なあの写真である。しかし、トルーマンは弱気だった。
 彼は国務省にあのジェームズ・バーンズを指名したばかりだった。
 トルーマンは愛妻ベスに手紙を送る。
 ……親愛なるベスへ。私は死刑台の前まで歩いているような気分だ。
 ……失敗したりしないか。ヘマをやらかさないか、頭の中は不安でいっぱいだ。
 議題は、
  一、ソ連対日参戦
  二、天皇制維持
  三、原爆投下(米国しか知らない秘密事項)
 
 七月十六日、トルーマンの元に電報が届く。
 ……手術は成功しました。ただ術後経過はわかりません。
              ヘンリー・スティムソン

 つまり、手術とは原爆の実験のこと。それに成功した。ということはつまり米国最新の兵器開発に成功したことを意味する訳だ。
 トルーマンは「ヤルタの密約」を実行するという。
 つまり、八月十五日に日本攻撃に参戦するというのだ。
 それまでのソ連はドイツ戦で大勢の兵士を失ったとはいえ、軍事力には自信をもち、いずれは米国政府も交渉のテーブルにつくだろうと甘くみていた。よって、ソ連での事業はもっぱら殖産に力をいれていた。
 とくにヨーロッパ式農法は有名であるという。林檎、桜桃、葡萄などの果樹津栽培は成功し、鉱山などの開発も成功した。
 しかし、「ソヴィエト連邦」は兵力を失ったかわりに米国軍は核を手にいれたのである。力関係は逆転していた。


  一九四五年八月昼頃、日本陸軍総裁山本五十六はプロペラ機に乗って飛んでいた。
 東南アジアのある場所である。
「この戦争はもうおわりだ」
 五十六はいった。「われわれは賊軍ではない。しかし、米国を敵にしたのは間違いだ」 だが、部下の深沢右衛門は「総統、米軍が賊軍、われらは正義の戦しとるでしょう」というばかりだ。
 五十六は「今何時かわかりるか?」とにやりといった。
 深沢は懐中時計を取り出して「何時何分である」と得意になった。
 すると、五十六は最新式の懐中時計を取りだして、
「……この時計はスイス製品で最新型だ。妻にもらった」といった。
 そんな中、米軍は山本五十六の乗る大型のプロペラ機をレーダーと暗号解析でキャッチした。米軍はただちに出撃し、やがて五十六たちは撃墜され、玉砕してしまう。
  Bー29爆撃機が東京大空襲を開始したのはこの頃である。黒い編隊がみえると東京中パニックになったという。「急げ! 防空壕に入るんだ!」爆弾のあれ霰…一面火の海になる。その威力はすごく阪神淡路大地震どころの被害ではない。そこら中が廃墟と化して孤児があふれた。火の海は遠くの山からも見えたほどだという。10万人が死んだ。
 しかしリアクションの東京大空襲だった。被害者意識ばかりもってもらっても困るのだ。……恐ろしい戦争の影が忍び寄ってきて……勝手になにもしないで忍び寄ってきた訳じゃない。侵略戦争の果ての結果だった。しかし、これで幼い子供たちが親兄弟を失い、女の子は体を売り、男の子は闇市で働くことになる。がめつい農家は傲慢さを発揮し、高価な着物などと米や野菜を交換した。日本人はその日の食事にもことかく有様だった。


「……お元気でしたか?」
 スティムソンはトルーマンを気遣った。
 するとトルーマンは「私はとくになんともない。それより……」
 と何かいいかけた。
「…なんでしょうか?」
「あれが完成まで到達したそうじゃ。ジャップたちを倒すために『聖なる兵器』などと称しておるそうで……馬鹿らしいだけだ」
「馬鹿らしい?」H・スティムソンは驚いた。
「日本軍は満州を貸してほしい国連に嘆願しておるという」
「日本軍はドイツのように虐殺を繰り返しているそうです。罰が必要でしょう」
 トルーマンは、
「そうだな。どうせ原爆の洗礼を受けるのは黄色いジャップだ」と皮肉をいった。
 スティムソンは「確かに……しかし日本の技術力もあなどれません。戦争がおわって経済だけが問われれば、日本は欧米に迫ることは確実です」
「あの黄色が?」
 トルーマンは唖然ときいた。
  日本軍の満州処理を国連は拒否し、日本軍は正式に”賊軍”となった。
 同年、米国海軍は、甲鉄艦を先頭に八隻の艦隊で硫黄島に接近していた。
 同年、米国軍は軍儀をこらし、日本の主要都市に原爆を落とす計画を練った。アイデアはバーンズが出したともトルーマンがだしたともいわれ、よくわからない。
 ターゲットは、新潟、東京、名古屋、大阪、広島、長崎……
 京都や奈良は外された。

「さぁ、君達はもう自由だ。日本にいる家族までもどしてあげよう」
 連合国総指揮者・マッカーサーたちは捕らえた日本軍人たちを逃がしてやった。
 もう八月だが、マッカーサーは原爆投下のことを知らされてない。
 捕虜の中に田島圭蔵の姿もその中にあった。
 ……なんといいひとじゃ。どげんこつしてもこのお方は無事でいてほしいものでごわす。 田島は涙を流した。
 米軍たちにとって日本軍人らは憎むべき敵のはずである。しかし、寛大に逃がしてくれるという。なんとも太っ腹なマッカーサーであった。
「硫黄島戦争」の命運をわけたのが、甲鉄艦であった。最強の軍艦で、艦隊が鉄でおおわれており、砲弾を弾きかえしてしまう。
 米軍最強の艦船であった。
 それらが日本本土にせまっていた。
 日本軍部たちは焦りを隠せない。
 ……いまさらながら惜しい。原爆があれば……

  野戦病院ではジュノー博士は忙しく治療を続けていた。
 もうすぐ戦は終わる。看護婦は李春蘭という可愛い顔の少女である。
 中国人は龍雲という病人をつれてきた。
「ジュノー先生、頼みます!」
 中国人はジュノー医師に頭をさげた。
「俺は農民だ! ごほごほ…病院など…」
 龍雲はベットで暴れた。
 李春蘭は「病人に将軍も農民もないわ! じっとしてて!」
 とかれをとめた。龍雲は喀血した。
 ジュノー病室を出てから、
「長くて二~三ケ月だ」と中国人にいった。
 中国人は絶句してから、「お願いします」と医者に頭をさげた。
「もちろんだ。病人を看護するのが医者の仕事だ」
「……そうですか…」
 中国人は涙を浮かべた。

  すぐに大本営の日本軍人たちは軍儀を開いた。
 軍部は「なんとしても勝つ! 竹やりででも戦う!」と息巻いた。
 すると、三鳥が「しかし、米軍のほうが軍事的に優位であります」と嘆いた。
 回天丸艦長の甲賀が「米軍の艦隊の中で注意がいるのが甲鉄艦です! 艦体が鉄でできているそうで大砲も貫通できません」
 海軍奉行荒井は「あと一隻あれば……」と嘆いた。
 軍人はきっと怖い顔をして、
「そんなことをいってもはじまらん!」と怒鳴った。
 昭和天皇は閃いたように「ならもうやることはひとつ」といった。
「……どうなさるのですか?」
 一同の目が天皇に集まった。
「あと一年以内に朕は降伏すべきであると思う。沖縄では戦争で民間人が犠牲になった」 天皇は決起した。「あと一年以内に降伏である」


  ツィツィンエルホーン宮殿で『ポツダム会議』が開かれていた。
 ソ連対米英……
 スターリンは強気だった。
 どこまでもソ連の利益にこだわる。
 トルーマンはスターリンに失望した。
「…神様は七日間で世界をつくったのに……われわれは何週間もここで議論している」
 会議は回る。
 余興で、ヴァイオリンとピアノの演奏があった。

 ………スターリンはすべて自分勝手になんでも決めようとする。私はソ連に、いやスターリンに幻滅した。………
            トルーマン回顧録より

  そんな中、米国アリゾナ州ロスアラモスで原爆実験成功という報が入ってきた。
 ……壮大で戦慄。まさに空前に結果。爆発から30秒後に辺りが火の海になった。全能の神の手に触れたかのように震えを感じた。………
               オッペンハウアー博士回顧録より

 トルーマンは自信を取り戻した。
 この最新兵器があれば、ジャップたちを終戦に導かせられる。
 原爆の人体実験までできるではないか……
 ……ソ連抜きで日本に勝てる!
 ”手術は八月十五日以降なら、八月十日なら確実でしょう”
 トルーマンはスターリンに、
「われわれはとてつもない兵器を手にいれました」といった。
 その当時、情報をつかんでなかったスターリンはきょとんとする。
 しかし、チャーチルは情報を握っていた。
 チャーチルは「なにが卑怯なもんか! 兵器使用は国際法で認められた立派な戦法だ。卑怯といえばジャップじゃないか。天皇を担いで、正義の戦争などと抜かして…」
「それはそうですが……」
 チャーチルは無用な議論はしない主義である。
「原爆使用はいかがでしょう」
 チャーチルは提案した。「原爆を脅しとして使って、実際には使わずジャップの降伏を待つのです」
 トルーマンは躊躇して、
「確かに……犠牲は少ないほうがいい」
 といった。声がうわずった。
「どちらにしても戦には犠牲はつきものです」
「原爆を落とすのはジャップだよ。黄色いのだ」
「そういう人種偏見はいけませんな」
「しかし……原爆を使わなければ米兵の血が無用に流れる」
 チャーチルは沈黙した。
「とにかく……実際には使わずジャップの降伏を待つのです」
 やっと、チャーチルは声を出した。
「……首相………」
 トルーマンは感激している様子だった。

  さっそくゼロ戦に戦闘員たちが乗り込んでいった。
 みな、かなり若い。
 鈴木歳三も乗り込んだ。
 しかし、鈴木とてまだ三十五歳でしかない。
 海軍士官・大塚浪次郎も乗り込む。「神風だ! 鬼畜を倒せ!」
「おう! 浪次郎、しっかりいこうや!」
 大塚雀之丞は白い歯を見せた。
 英語方訳の山内六三郎も乗り込む。
「神風だ!」
 若さゆえか、決起だけは盛んだ。
 しかし、同じ英語方訳の林董三郎だけは乗せてもらえなかった。
「私も戦に参加させてください!」
 董三郎は、隊長の甲賀源吾に嘆願する。
 が、甲賀は「総裁がおぬしは乗せるなというていた」と断った。
「なぜですか?! これは義の戦でしょう? 私も義を果たしとうごりまする!」
 林董三郎はやりきれない思いだった。
 高松がそんなかれをとめた。
「総裁は君を大事に思っているのだ。英語方訳が日本からいなくなっては困るのだ」
「…しかし……」
「君も男ならききわけなさい!」
 董三郎を高松は説得した。
 こうして、神風特攻隊は出陣した。

「日本軍がせめて……きたのでしょう?!」
 病院のベットで、龍雲は暴れだした。看護婦の李春蘭は、
「……龍雲さん、おとなしくしてて!」ととめた。
 龍雲は日本軍と戦う、といってきかない。そして、また喀血した。
「龍雲のことを頼みます、ジュノーさん」
 病院に蒋介石総裁がきた。
「あなたがジュノー博士か?」
 蒋は不躾な言葉で、ジュノーに声をかけた。
「ジュノーさん」
「はい」
「……元気で。お体を大切になさってください。戦は必ずこちらが勝ちます」
「しかし……」
「心配はいりません。わが軍の姿勢はあくまで共順……中華民国は共和国です。連合軍とも仲良くやっていけます」
 蒋介石自身にも、自分の言葉は薄っぺらにきこえた。
「誰か! 誰かきて!」
 李春蘭が声をあげた。「龍雲さんが……!」
「……す、すいません!」
 ジュノーは病室にむけ駆け出した。

         7 生還






  スイス人医師、マルセル・ジュノー博士は海路中国に入った。
 国際赤十字委員会(ICRC)の要請によるものだった。
 当時の中国は日本の侵略地であり、七〇万人もの日本軍人が大陸にいたという。中国国民党と共産党が合体して対日本軍戦争を繰り広げていた。
 当時の日本の状況を見れば、原爆など落とさなくても日本は敗れていたことがわかる。日本の都市部はBー29爆撃機による空襲で焼け野原となり、国民も戦争に嫌気がさしていた。しかも、エネルギー不足、鉄不足で、食料難でもあり、みんな空腹だった。
 米国軍の圧倒的物量におされて、軍艦も飛行機も撃沈され、やぶれかぶれで「神風特攻隊」などと称して、日本軍部は若者たちに米国艦隊へ自爆突撃させる有様であった。
 大陸の七〇万人もの日本軍人も補給さえ受けられず、そのため食料などを現地で強奪し、虐殺、強姦、暴力、侵略……16歳くらいの少年まで神風特攻隊などと称して自爆テロさす。 ひどい状態だった。
 武器、弾薬も底をついてきた。
 もちろん一部の狂信的軍人は”竹やり”ででも戦ったろうが、それは象に戦いを挑む蟻に等しい。日本はもう負けていたのだ。
 なのになぜ、米国が原爆を日本に二発も落としたのか?
 ……米国軍人の命を戦争から守るために。
 ……戦争を早くおわらせるために。
 といった米国人の本心ではない。つまるところ原爆の「人体実験」がしたかったのだ。ならなぜドイツには原爆をおとさなかったのか? それはドイツ人が白人だからである。 なんだかんだといっても有色人種など、どうなろうともかまわない。アメリカさえよければそれでいいのだ。それがワシントンのポリシー・メーカーが本音の部分で考えていることなのだ。
 だが、日本も日本だ。
 敗戦濃厚なのに「白旗」も上げず、本土決戦、一億日本民族総玉砕、などと泥沼にひきずりこもうとする。当時の天皇も天皇だ。
 もう負けは見えていたのだから、                        
 ……朕は日本国の敗戦を認め、白旗をあげ、連合国に降伏する。
 とでもいえば、せめて原爆の洗礼は避けられた。
 しかし、現人神に奉りあげられていた当時の天皇(昭和天皇)は人間的なことをいうことは禁じられていた。結局のところ天皇など「帽子飾り」に過ぎないのだが、また天皇はあらゆる時代に利用されるだけ利用された。
 信長は天皇を安土城に連れてきて、天下を意のままに操ろうとした。戊辰戦争、つまり明治維新のときは薩摩長州藩が天皇を担ぎ、錦の御旗をかかげて官軍として幕府をやぶった。そして、太平洋戦争でも軍部は天皇をトップとして担ぎ(何の決定権もなかったが)、大東亜戦争などと称して中国や朝鮮、東南アジアを侵略し、暴挙を繰り広げた。
 日本人にとっては驚きのことであろうが、かの昭和天皇(裕仁)は外国ではムッソリーニ(イタリア独裁者)、ヒトラー(ナチス・ドイツ独裁者)と並ぶ悪人なのだ。
 只、天皇も不幸で、軍部によるパペット(操り人形)にしか過ぎなかった。
 それなのに「極悪人」とされるのは、本人にとっては遺憾であろう。
 その頃、日本人は馬鹿げた「大本営放送」をきいて、提灯行列をくりひろげていただけだ。まぁ、妻や女性子供たちは「はやく戦争が終わればいい」と思ったらしいが口に出せば暴行されるので黙っていたらしい。また、日本人の子供は学童疎開で、田舎に暮らしていたが、そこにも軍部のマインド・コントロールが続けられていた。食料難で食べるものもほとんどなかったため、当時の子供たちはみなガリガリに痩せていたという。
 そこに軍部のマインド・コントロールである。
 小学校(当時、国民学校といった)でも、退役軍人らが教弁をとり、長々と朝礼で訓辞したが、内容は、                   
 ……わが大和民族は世界一の尚武の民であり、わが軍人は忠勇無双である。
 ……よって、帝国陸海軍は無敵不敗であり、わが一個師団はよく米英の三個師団に対抗し得る。
 といった調子のものであったという。
 日本軍の一個師団はよく米英の三個師団に対抗できるという話は何を根拠にしているのかわからないが、当時の日本人は勝利を信じていた。
 第一次大戦も、日清戦争も日露戦争も勝った。      
 日本は負け知らずの国、日本人は尚武の民である。
 そういう幼稚な精神で戦争をしていた。
 しかし、現実は違った。
 日本人は尚武の民ではなかった。アメリカの物量に完敗し、米英より戦力が優っていた戦局でも、日本軍は何度もやぶれた。
 そして、ヒステリーが重なって、虐殺、強姦行為である。
 あげくの果てに、六十年後には「侵略なんてなかった」「慰安婦なんていなかった」「731部隊なんてなかった」「南京虐殺なんてなかった」
 などと妄言を吐く。
 信じられない幼稚なメンタリティーだ。
 このような幼稚な精神性を抱いているから、日本人はいつまでたっても世界に通用しないのだ。それが今の日本の現実なのである。

  一九四五年六月………
 マルセル・ジュノーは野戦病院で大勢の怪我人の治療にあたっていた。
 怪我人は中国人が多かったが、中には日本人もいた。
 あたりは戦争で銃弾が飛び交っており、危険な場所だった。
 やぶれかぶれの日本軍人は、野蛮な行為を繰り返す。
 ある日、日本軍が民間の中国人を銃殺しようとした。
「やめるんだ!」
 ジュノーは、彼らの銃口の前に立ち塞がり、止めたという。
 日本軍人たちは呆気にとられ、「なんだこの外人は?」といった。
 ……とにかく、罪のないひとが何の意味もなく殺されるのだけは願い下げだ!
 マルセル・ジュノー博士の戦いは続いた。


 戦がひとやすみしたところで、激しい雨が降ってきた。
 日本軍の不幸はつづく。
 暴風雨で、艦隊が坐礁し、米英軍に奪われたのだ。
「どういうことだ?!」
 山本五十六は焦りを感じながら叱った。
 回天丸艦長・森本は、
「……もうし訳ござりません!」と頭をさげた。
「おぬしのしたことは大罪だ!」
 山本は激しい怒りを感じていた。大和を失っただけでなく、回天丸、武蔵まで失うとは………なんたることだ!
「どういうことなんだ?! 森本!」とせめた。
 森本は下を向き、
「坐礁してもう駄目だと思って……全員避難を……」と呟くようにいった。
「馬鹿野郎!」五十六の部下は森本を殴った。
「坐礁したって、波がたってくれば浮かんだかも知れないじゃないか! 現に米軍が艦隊を奪取しているではないか! 馬鹿たれ!」
 森本は起き上がり、ヤケになった。
「……負けたんですよ」
「何っ?!」
 森本は狂ったように「負けです。……神風です! 神風! 神風! 神風!」と踊った。 岸信介も山本五十六も呆気にとられた。
 五十六は茫然ともなり、眉間に皺をよせて考えこんだ。
 いろいろ考えたが、あまり明るい未来は見えてはこなかった。
  大本営で、夜を迎えた。
 米軍の攻撃は中断している。
 日本軍人たちは辞世の句を書いていた。
 ……もう負けたのだ。日本軍部のあいだには敗北の雰囲気が満ちていた。
「鈴木くん出来たかね?」
「できました」
「どれ?」

  中国の野戦病院の分院を日本軍が襲撃した。
「やめて~っ!」
 看護婦や医者がとめたが、日本軍たちは怪我人らを虐殺した。この”分院での虐殺”は日本軍の汚点となる。
 ジュノーの野戦病院にも日本軍は襲撃してきた。
 マルセル・ジュノーは汚れた白衣のまま、日本軍に嘆願した。
「武士の情けです! みんな病人です! 助けてください!」
 日本の山下は「まさか……おんしはあの有名なジュノー先生でこごわすか?」と問うた。「そうだ! 医者に敵も味方もない。ここには日本人の病人もいる」
 関東軍隊長・山下喜次郎は、
「……その通りです」と感心した。
 そして、紙と筆をもて!、と部下に命じた。
 ………日本人病院
 紙に黒々と書く。
「これを玄関に張れば……日本軍も襲撃してこん」
 山下喜次郎は笑顔をみせた。
「………かたじけない」
 マルセル・ジュノーは頭をさげた。

  昭和二十年(一九四五)六月十九日、関東軍陣に着弾……
 山下喜次郎らが爆撃の被害を受けた。
 ジュノーは白衣のまま、駆けつけてきた。
「………俺はもうだめだ」
 山下は血だらけ床に横たわっている。
「それは医者が決めるんだ!」
「……医療の夢捨…てんな…よ」
 山下は死んだ。
  野戦病院で、マルセル・ジュノー博士と日本軍の黒田は会談していた。
「もはや勝負はつき申した。蒋介石総統は共順とばいうとるがでごわそ?」
「……そうです」
「ならば」
 黒田は続けた。「是非、蒋介石総統におとりつぎを…」
「わかりました」
「あれだけの人物を殺したらいかんど!」
 ジュノーは頷いた。
 六月十五日、北京で蒋介石総統と日本軍の黒田は会談をもった。
「共順など……いまさら」
 蒋介石は愚痴った。
「涙をのんで共順を」黒田はせまる。「……大陸を枕に討ち死にしたいと俺はおもっている。総統、脅威は日本軍ではなく共産党の毛沢東でしょう?」
 蒋介石はにえきらない。危機感をもった黒田は土下座して嘆願した。
「どうぞ! 涙をのんで共順を!」
 蒋介石は動揺した。
 それから蒋介石は黒田に「少年兵たちを逃がしてほしい」と頼んだ。
「わかりもうした」
 黒田は起き上がり、頭を下げた。
 そして彼は、分厚い本を渡した。
「……これはなんです?」
「海陸全書の写しです。俺のところに置いていたら灰になる」
 黒田は笑顔を無理につくった。
 蒋介石は黒田参謀から手渡された本を読み、
「みごとじゃ! 殺すには惜しい!」と感嘆の声をあげた。
  少年兵や怪我人を逃がし見送る黒田……
 黒田はそれまで攻撃を中止してくれた総統に頭を下げ、礼した。
 そして、戦争がまた開始される。
 旅順も陥落。
 残るはハルビンと上海だけになった。
  上海に籠城する日本軍たちに中国軍からさしいれがあった。
 明日の早朝まで攻撃を中止するという。
 もう夜だった。
「さしいれ?」星はきいた。
 まぐろ               
「鮪と酒だそうです」人足はいった。
 荷車で上海の拠点内に運ばれる。
「……酒に毒でもはいってるんじゃねぇか?」星はいう。
「なら俺が毒味してやろう」
 沢は酒樽の蓋を割って、ひしゃくで酒を呑んだ。
 一同は見守る。
 沢は「これは毒じゃ。誰も呑むな。毒じゃ毒!」と笑顔でまた酒を呑んだ。
 一同から笑いがこぼれた。
 大陸関東日本陸軍たちの最後の宴がはじまった。
 黒田参謀は少年兵を脱出させるとき、こういった。
「皆はまだ若い。本当の戦いはこれからはじまるのだ。大陸の戦いが何であったのか……それを後世に伝えてくれ」
 少年兵たちは涙で目を真っ赤にして崩れ落ちたという。

  日本軍たちは中国で、朝鮮で、東南アジアで暴挙を繰り返した。
 蘇州陥落のときも、日本軍兵士たちは妊婦と若い娘を輪姦した。そのときその女性たちは死ななかったという。それがまた不幸をよぶ。その女性たちはトラウマをせおって精神疾患におちいった。このようなケースは数えきれないという。
 しかし、全部が公表されている訳ではない。なぜかというと言いたくないからだという。中国人の道徳からいって、輪姦されるというのは恥ずかしいことである。だから、輪姦さ  はずか               
れて辱しめを受けても絶対に言わない。
 かりに声をあげても、日本政府は賠償もしない。現在でも「従軍慰安婦などいなかったのだ」などという馬鹿が、マンガで無知な日本の若者を洗脳している。
  ジュノー博士は衝撃的な場面にもでくわした。
 光景は悲惨のひとことに尽きた。
 死体だらけだったからだ。
 しかも、それらは中国軍人ではなく民間人であった。
 血だらけで脳みそがでてたり、腸がはみ出したりというのが大部分だった。
「……なんとひどいことを…」
 ジュノーは衝撃で、全身の血管の中を感情が、怒りの感情が走りぬけた。敵であれば民間人でも殺すのか……? 日本軍もナチスもとんでもない連中だ!
 日本軍人は中国人らを射殺していく。
 虐殺、殺戮、強姦、暴力…………
 日本軍人は狂ったように殺戮をやめない。
 そして、それらの行為を反省もしない。
 只、老人となった彼等は、自分たちの暴行も認めず秘密にしている。そして、ある馬鹿のマンガ家が、
 …日本軍人は侵略も虐殺も強姦もしなかった……
 などと勘だけで主張すると「生きててよかった」などと言い張る。
 確かに、悪いことをしたとしても「おじいさんらは間違ってなかった」といわれればそれは喜ぶだろう。たとえそれが『マンガ』だったとしても……
 だが、そんなメンタリティーでは駄目なのだ。
 鎖国してもいいならそれでもいいだろうが、日本のような貿易立国は常に世界とフルコミットメントしなければならない。
 日中国交樹立の際、確かに中国の周恩来首相(当時)は「過去のことは水に流しましょう」といった。しかし、それは国家間でのことであり、個人のことではない。
 間違った閉鎖的な思考では、世界とフルコミットメントできない。
 それを現在の日本人は知るべきなのだ。

  民間の中国人たちの死体が山のように積まれ、ガソリンがかけられ燃やされた。紅蓮の炎と異臭が辺りをつつむ。ジュノー博士はそれを見て涙を流した。
 日本兵のひとりがハンカチで鼻を覆いながら、拳銃を死体に何発か発砲した。
「支那人め! 死ね!」
 ジュノーは日本語があまりわからず、何をいっているのかわからなかった。
 しかし、相手は老若男女の惨殺死体である。
「……なんということを…」
 ジュノーは号泣し、崩れるのだった。

  自然のなりゆきだろうか、ジョンとジェニファーは恋におちた。ハワイでのことである。マイケルを失ったジェニファー、オードリーを失ったジョン……
 愛の行為は、ジョンにもジェニファーにもいまだかってないほどすばらしかった。ジョンの疲れがひどく丁寧に優しく、おだやかにするしかなかったからか、それはわからない。 裸のままシーツにぐったりと横たわり、唇をまた重ねた。
「ふたりとも恋人をなくした」
 ジョンがいうと、ジェニファーは「そうね。でも、もうひとりじゃないわ」といった。 しかし、奇跡がおこる。マイケルが生還したのだ。死んではいなかったのだ!
「ぼくの恋人をとりやがった!」マイケルとジョンは喧嘩になった。ジョンは謝った。
 しかし、ジェニファーはマイケルとよりをもどすことはなかった。
「なぜ? ……もう一度やりなおそう!」
「駄目。わたし妊娠してるの……ジョンの子よ」彼女の言葉に、マイケルは衝撃を受けた。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「花燃ゆ」とその時代吉田松陰と妹の生涯2015年大河ドラマ原作<加筆維新回天特別編>アンコール連載小説1

2015年01月09日 16時34分39秒 | 日記







「花燃(はなも)ゆ」 とその時代 吉田松陰と妹の生涯
<維新回天特別編>
 



                「はな・もゆ」とそのじだい  よしだしょういんといもうとのしょうがい
~三千世界の烏を殺し~
               ~開国へ! 奇兵隊!
               吉田松陰の「草莽掘起」はいかにしてなったか。~
                セミ・ノンフィクション小説
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  MIDORIKAWA washu
                   緑川  鷲羽
         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ

          あらすじ

2015年のNHK大河ドラマが発表され、幕末の長州藩士で思想家の吉田松陰の妹・文(ふみ)が主役のオリジナル作品「花燃ゆ」に決まり、女優の井上真央さんが主演を務めた。井上さんが大河ドラマに出演するのは初めてで、NHKのドラマに出演するのは11年のNHK連続テレビ小説「おひさま」で主演を務めて以来、約4年ぶりとなった。同日、NHKふれあいホール(東京都渋谷区)で制作発表会見が開かれ、井上さんは「勉強しないといけないこともある。責任を持って頑張りたい」と意気込みを語った。「花燃ゆ」に高まる萩市、 観光客誘致の起爆剤に期待 山口。2013.12.13 02:05■維新150年に弾み。平成27年のNHK大河ドラマが吉田松陰の妹、文(ふみ)が主人公の「花燃ゆ」と決まり、舞台となる山口県萩市は、観光振興の起爆剤になると期待を高めていた。萩が舞台の大河は昭和52年の中村梅之助さん主演「花神」(司馬遼太郎原作)以来38年ぶり。萩市は30年の明治維新150年に向け、観光客誘致を進めており、大河放送で弾みがついた。(将口泰浩)「偉人ではないので不安もあるけど、私みたいに歴史に疎い方でも身近に感じられると思う」2013年12月3日に東京で開かれた記者発表で、主演の井上真央さん(28)がこう語ったように、文の経歴はほとんど知られていない。文は天保14(1843)年に杉百合之助の4女として誕生した。13歳年上の兄・松陰が開いた松下村塾に学ぶ高杉晋作や久坂玄瑞に妹のようにかわいがられて育った。その後、玄瑞と結婚、玄瑞18歳、文15歳だった。晋作と並び「村塾の双璧」といわれた玄瑞に嫁がせたことで、松陰の妹への愛情、玄瑞への高い評価がうかがい知れる。しかし、玄瑞は元治元(1864)年の禁門の変(蛤御門の変)で負傷、同じ塾生の寺島忠三郎とともに鷹司邸内で自刃した。享年25。若すぎる死だった。維新後、西郷隆盛は「もし久坂さんが生きていたら、私は参議などと大きな顔をしていられない」と語ったといわれる俊才だった。文は若くして未亡人となる。その後は藩主である毛利家の奧女中として長く仕えていたが、明治14(1881)年、楫取(かとり)素彦の妻であった姉の寿子(杉寿・すぎ・ひさ(こ))が死亡、2年後、文は素彦と再婚、美和子と改名した。素彦は、倒幕派志士として活躍した松島剛蔵の弟で、長州藩の藩校明倫館で学んだ。松陰の死後は松下村塾で塾生を指導し、教育者、松陰の遺志を受け継いだ男でもある。維新後は官界に入り、初代群馬県令(知事)となった。 松陰、玄瑞…。79歳で亡くなるまでの間、文は時代から愛する男たちを奪われる。「運命に翻弄(ほんろう)されながらも、芯の強い女性を表現できたらいい」と井上さんは意気込む。ドラマのテーマは「明治維新はこの家族から始まった」。心優しい松陰や文を育てた杉家のおおらかな家族愛と絆も重要な要素という。平成27年1月から放送された。井上さんは「地域密着型で山口県を盛り上げて、ロケしながらおいしい物を食べたい」と話していた。萩市の野村興児市長は「大河ドラマは萩観光の起爆剤になる」と期待を高めていた。もう一つのドラマの見所として、松下村塾での教育のあり方も興味深かった。「学は人たる所以を学ぶなり」(学問とは、人間とは何かを学ぶもの)「志を立ててもって万事の源となす」(志を立てることがすべての源となる)「至誠にして動かざるものは未だこれ有らざるなり」(誠を尽くせば動かすことができないものはない)松陰が語りかける言葉の一つ一つに感銘を受ける若き久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎ら。人間形成にとって教育とはいかなるものか。われわれに問いかける。黒船来航…幕末、伊藤博文は吉田松陰の松下村塾で優秀な生徒だった。親友はのちに「禁門の変」を犯すことになる高杉晋作、久坂玄瑞である。高杉は上海に留学して知識を得た。長州の高杉や久坂にとって当時の日本はいびつにみえた。彼らは幕府を批判していく。
 将軍が死んでしまう。かわりは一橋卿・慶喜であった。幕府に不満をもつ晋作は兵士を農民たちからつのり「奇兵隊」を結成。やがて長州藩による蛤御門の変(禁門の変)がおこる。幕府はおこって軍を差し向けるが敗走……龍馬の策によって薩長連合ができ、官軍となるや幕府は遁走しだす。やがて官軍は錦の御旗を掲げ江戸へ迫る。
 勝は西郷隆盛と会談し、「江戸無血開城」がなる。だが、榎本幕府残党は奥州、蝦夷へ……
 しかし、晋作は維新前夜、幕府軍をやぶったのち、二十七歳で病死してしまう。晋作の死をもとに長州藩士たちはそれぞれ明治の時代に花開いた。       おわり


         1 草莽掘起


 坂本竜馬はいつぞやの土佐藩の山内容堂公の家臣の美貌の娘・お田鶴(たず)さまと、江戸で偶然出会った。お田鶴は徳川幕府の旗本のお坊ちゃまと結婚し、江戸暮らしをはじめていて、龍馬は江戸の千葉道場に学ぶために故郷・土佐を旅立っていた。
「お田鶴さまお久ぶりです」「竜馬……元気そうですね。」ふたりは江戸の街を歩いた。「江戸はいいですね。こうして二人で歩いてもとがめる人がいない……」「ああ!ほんに江戸はええぜよ!」
 忘れてはならないのは龍馬とお田鶴さまは夜這いや恋人のような仲であったことである。二人は小さな神社の賽銭箱横にすわった。まだ昼ごろである。
「幸せそうじゃの、お田鶴さま。旦那様は優しい人ですろうか?」「つまらぬ人です。旗本のたいくつなお坊ちゃま。幸せそうに見えるなら今、龍馬に会えたからです」「は……はあ」「わたしはあの夜以来、龍馬のことを想わぬ日は有りませぬ。人妻のわたしは抜け殻、夜……抱かれている時も、心は龍馬に抱かれています。お前はわたしのことなど忘れてしまいましたか?」「わ、忘れちょりゃせんですきに」
 二人はいいムードにおちいり、境内、神社のせまい中にはいった。「お田鶴さま」「竜馬」
「なぜお田鶴さまのような方が、幸せな結婚ができなかったんじゃ…どうしちゅうたらお田鶴さまを幸せに出来るんじゃ?!」
そんなとき神社の鈴を鳴らし、柏手を打ち、涙ながらに祈る男が訪れた。面長な痩せた男・吉田松陰である。
「なにとぞ護国大明神!この日の本をお守りくだされ!我が命に代えても、なにとぞこの日の本をお守りくだされ!」
 龍馬たちは唖然として音をたててしまった。
「おお!返事をなさった!護国大明神!わが祈りをお聞き入れくださりますか!」松陰は門を開けて神社内にはいり無言になった。
 龍馬とお田鶴も唖然として何も言えない。
「お二人は護国大明神でありますか?」
「いや、わしは土佐の坂本竜馬、こちらはお田鶴さまです。すまんのう。幼馴染なものでこんな所で話し込んじょりました」
 松陰は「そうですか。では、どうぞごゆっくり…」と心ここにあらずでまた仏像に祈り続けた。
「護国大明神!このままではこの日の本は滅びます。北はオロシア、西にはフランス、エゲレス、東よりメリケンがこの日の本に攻めてまいります!吉田松陰、もはや命は捨てております!幕府を倒し、新しき政府をつくらねばこの国は夷人(えびすじん)どもの奴隷国となってしまいます!なにとぞわたくしに歴史を変えるほどの力をお与えください」
 松陰は涙をハラハラ流し祈り続けた。龍馬とお田鶴は唖然とするしかない。しばらくして松陰は「お二人とも私の今の祈願は、くれぐれも内密に…」といい、龍馬とお田鶴がわかったと頷くと駿馬の如くどこぞかに去った。
 すると次に四人の侍が来た。「おい、武家姿の御仁を見かけなかったか?」狐目の男が竜馬たちにきいた。
「あっ、見かけた」
「なに!どちらにいかれた?!」
「それが……秘密といわれたから…いえんぜよ」
「なにい!」狐目の男が鯉口を切ろうとした。「まあ、晋作」
「わたしは長州藩の桂小五郎と申します。捜しておられるのは我らの師吉田松陰という御仁です。すばらしいお方じゃが、まるで爆弾のようなお人柄、弟子として探しているんだ。頼む!お教え願いたい」
 四人の武士は高杉晋作、桂小五郎(のちの木戸孝允)、久坂玄瑞、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)であった。
 龍馬は唖然としながらも「なるほど、爆弾のようなお方じゃった。確かに独り歩きはあぶなそうな人だな、その方は前の道を右へ走って行かれたよ」
「かたじけない。ごめん!」
 四人も駿馬の如しだ。だが、狐目の男(高杉晋作)は「おい!逢引も楽しかろうが……世間ではもっと楽しい事が起きてるぞ!」と振り返り言った。
「なにが起こっちゅうがよ?」
「浦賀沖に、アメリカ国の黒船が攻めてきた!いよいよ大戦がはじまるぜ!」そういうと晋作も去った。
「黒船……?」竜馬にはわからなかった。
  
 吉田松陰は黒船に密航しようとして大失敗した。松陰は、徳川幕府で三百年も日本が眠り続けたこと、西欧列強に留学して文明や蒸気機関などの最先端技術を学ばなければいかんともしがたい、と理解する稀有な日本人であった。
 だが、幕府だって馬鹿じゃない。黒船をみて、外国には勝てない、とわかったからこその日米不平等条約の締結である。
 吉田松陰はまたも黒船に密航を企て、幕府の役人に捕縛された。幕府の役人は殴る蹴る。野次馬が遠巻きに見物していた。「黒船に密航しようとしたんだとさ」「狂人か?」
「先生!先生!」「下がれ!下がれ!」長州藩の例の四人は号泣しながら、がくりと失意の膝を地面に落とし、泣き叫ぶしかない。
 松陰は殴られ捕縛されながらも「私は、狂人です!どうぞ、狂人になってください!そうしなければこの日の本は異国人の奴隷国となります!狂い戦ってください!二百年後、三百年後の日本の若者たちのためにも、今、あなた方のその熱き命を、捧げてください!!」
「先生!」晋作らは泣き崩れた。
 

 日本の歴史に『禁門の変』と呼ばれる事件を引き起こしたとき、久坂玄瑞は二十五歳の若さであった。久坂の妻となっていた女性こそこの物語の主人公・久坂(旧姓・杉)文で、ある。「あや」ではない。「ふみ」である。ちょうど、薩摩藩(鹿児島県)と会津藩(福島県)の薩会同盟ができ、長州藩が幕府の敵とされた時期だった。
  文の十三歳年上の実兄・吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。
 伊藤と文は柵外から涙をいっぱい目にためて、白無垢の松陰が現れるのを待っていた。やがて処刑場に、師が歩いて連れて来られた。「先生!」意外にも松陰は微笑んだ。
「……伊藤くん文…。ひと知らずして憤らずの心境がやっと…わかったよ」
「先生! せ…先生!」「寅にい!寅次郎にいやん!にいーやん!」
 やがて松陰は処刑の穴の前で、正座させられ、首を傾けさせられた。斬首になるのだ。鋭い光を放つ刀が天に構えられる。「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」「ごめん!」閃光が走った……
「寅にい!にいやーん!」文は号泣しながら絶叫した。暗黒の時代である。幕末の天才・思想家「吉田松陰の「死」」……
  かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえたという。
「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」
 玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。
NHK大河ドラマ『花燃ゆ』第一話「人むすぶ妹」では、少女の頃の杉文が極端な人見知りという設定で、末の弟でろうあ者(耳に生まれながらの障害があり手話でしか話せない)の敏三郎としか交われない、という。若き小田村伊之助が川辺で禁書の本を落とし、義母との不仲でひとり泣いていた為に文が伊之助を庇って叔父さんに「なぜこのような本を持っておる!」と殴られる。だが、庇って小田村伊之助の名前を告げ口しない。「誰のものか言うまで外におれ!」だが、十三歳年上の兄・寅次郎(のちの松陰)が励まし、「禁書と言うが「敵を知り己を知れば百戦して危うからず」という。何故われわれは学ぶのか?“禁書を破り捨てる”ことは出来ても“知識は破れない”。ひとも本も同じじゃ」といい、文の人見知りが治り、吉田寅次郎と小田村伊之助も親友になる。脳科学者の中野信子氏は「吉田松陰はプライドの高い“変人”」という。叔父の玉木文之進の養子に5歳でなり、蚊に額を刺されて指で掻いただけでも「蚊に刺されても気にするな!蚊は私事だろう!」とスパルタ教育で、おもいっきり青あざや出血するまで殴られ続けた。「だがのう、文。叔父上は厳しいが真面目な方じゃ。叔父上は僕の学問の栄達の為に僕を殴り続けたがじゃ」寅次郎は長崎に学問留学に行って、アヘン戦争で清国(当時の中国)と英国のアヘン戦争を知り、欧米の武力の圧倒的性能の高さを知る。そして“不羈(ふき)独立”の歴史も。つまり、メリケン(アメリカ)が英国より独立したことを、だ。「今のままでの山鹿兵法を含めて、このままの日本の武器では欧米列強に勝てない」吉田松陰は「僕は私事より公事を大切にする!ひとは“公のひと”となれ!」と。「日本国が清国と同じように侵略・植民地化されるのは御免じゃ!日本国もメリケンのように“不羈独立”や!」。松陰は松下村塾で弟子たちに言う。「もはや古い兵法も考えも武器も主義も世界にはこの日本国には通用しない。諸君、狂いたまえ!狂って維新回天の志士となれ!」「おおっ!」弟子たちが声をあげた。吉田松陰の命日は10月28日。山口県の萩市では毎年「慰霊祭」が営まれている。話を戻す。吉田寅次郎、小田村伊之助らは共に江戸に遊学し、やがて運命に翻弄されていくのである。寅次郎と文と小田村伊之助の関係が巧みに交錯し、第二話では「波乱の恋文」と題して杉文が小田村伊之助に「お嫁さんにしてつかあさい!」と懸想をいいふられ、伊之助は文の姉の寿(ひさ)と結婚してしまう。で、寅次郎が脱藩するので、ある。

  長州藩と英国による戦争は、英国の完全勝利で、あった。
 長州の馬鹿が、たった一藩だけで「攘夷実行」を決行して、英国艦船に地上砲撃したところで、英国のアームストロング砲の砲火を浴びて「白旗」をあげたのであった。
  長州の「草莽掘起」が敗れたようなものであった。
 同藩は投獄中であった高杉晋作を敗戦処理に任命し、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)を通訳として派遣しアーネスト・サトウなどと停戦会議に参加させた。
 伊藤博文は師匠・吉田松陰よりも高杉晋作に人格的影響を受けている。

  ……動けば雷電の如し、発すれば驟雨の如し……

 伊藤博文が、このような「高杉晋作」に対する表現詩でも、充分に伊藤が高杉を尊敬しているかがわかる。高杉晋作は強がった。
「確かに砲台は壊されたが、負けた訳じゃない。英国陸海軍は三千人しか兵士がいない。その数で長州藩を制圧は出来ない」
 英国の痛いところをつくものだ。
 伊藤は関心するやら呆れるやらだった。
  明治四十二年には吉田松陰の松下村塾(しょうかそんじゅく)門下は伊藤博文と山県有朋だけになっている。
 ふたりは明治政府が井伊直弼元・幕府大老の銅像を建てようという運動には不快感を示している。時代が変われば何でも許せるってもんじゃない。  
 松門の龍虎は間違いなく「高杉晋作」と「久坂玄瑞」である。今も昔も有名人である。
 伊藤博文と山県有朋も松下村塾出身だが、悲劇的な若死をした「高杉晋作」「久坂玄瑞」に比べれば「吉田松陰門下」というイメージは薄い。
 伊藤の先祖は蒙古の軍艦に襲撃をかけた河野通有で、河野は孝雷天皇の子に発しているというが怪しいものだ。歴史的証拠資料がない為だ。伊藤家は貧しい下級武士で、伊藤博文の生家は現在も山口県に管理保存されているという。
「あなたのやることは正しいことなのでわたくしめの力士隊を使ってください!」
 奇兵隊蜂起のとき、そう高杉晋作にいって高杉を喜ばせている。
なお、この物語の参考文献はウィキペディア、「ネタバレ」、堺屋太一著作、司馬遼太郎著作、童門冬二著作、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作「小説 高杉晋作」、津本陽著作「私に帰らず 勝海舟」、日本テレビドラマ映像資料「田原坂」「五稜郭」「奇兵隊」、NHK映像資料「歴史秘話ヒストリア」「その時歴史が動いた」大河ドラマ「龍馬伝」「篤姫」「新撰組!」「八重の桜」「坂の上の雲」、「花燃ゆ」漫画「おーい!竜馬」一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、他の複数の歴史文献。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。
なおここから数十行の文章は小林よしのり氏の著作・『ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり「大東亜論 第5章 明治6年の政変」』小学館SAPIO誌2014年6月号小林よしのり著作漫画、72ページ~78ページからの文献を参考にしています。
 盗作ではなくあくまで引用です。前述した参考文献も考慮して引用し、創作しています。盗作だの無断引用だの文句をつけるのはやめてください。
  この頃、決まって政治に関心ある者たちの話題に上ったのは「明治6年の政変」のことだった。
 明治6年(1873)10月、明治政府首脳が真っ二つに分裂。西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の五人の参謀が一斉に辞職した大事件である。
 この事件は、通説では「征韓論」を唱える西郷派(外圧派)と、これに反対する大久保派(内治派)の対立と長らく言われていきた。そしてその背景には、「岩倉使節団」として欧米を回り、見聞を広めてきた大久保派と、その間、日本で留守政府をに司っていた西郷派の価値観の違いがあるとされていた。しかし、この通説は誤りだったと歴史家や専門家たちにより明らかになっている。
 そもそも西郷は「征韓論」つまり、武力をもって韓国を従えようという主張をしたのではない。西郷はあくまでも交渉によって国交を樹立しようとしたのだ。つまり「親韓論」だ。西郷の幕末の行動を見てみると、第一次長州征伐でも戊辰戦争でも、まず強硬姿勢を示し、武力行使に向けて圧倒な準備を整えて、圧力をかけながら、同時に交渉による解決の可能性を徹底的に探り、土壇場では自ら先方に乗り込んで話をつけるという方法を採っている。勝海舟との談判による江戸無血開城がその最たるものである。
 西郷は朝鮮に対しても同じ方法で、成功させる自信があったのだろう。
 西郷は自分が使節となって出向き、そこで殺されることで、武力行使の大義名分ができるとも発言したが、これも武力行使ありきの「征韓論」とは違う。
 これは裏を返せば、使節が殺されない限り、武力行使はできない、と、日本側を抑えている発言なのである。そして西郷は自分が殺されることはないと確信していたようだ。
 朝鮮を近代化せねばという目的では西郷と板垣は一致。だが、手段は板垣こそ武力でと主張する「征韓論」。西郷は交渉によってと考えていたが、板垣を抑える為に「自分が殺されたら」と方便を主張。板垣も納得した。
 一方、岩倉使節団で欧米を見てきた大久保らには、留守政府の方針が現実に合わないものに見えたという通説も、勝者の後付けだと歴史家は分析する。
 そもそも岩倉使節団は実際には惨憺たる大失敗だったのである。当初、使節団は大隈重信が計画し、数名の小規模なものになるはずだった。
 ところが外交の主導権を薩長で握りたいと考えた大久保利通が岩倉具視を擁して、計画を横取りし、規模はどんどん膨れ上がり、総勢100人以上の大使節団となったのだ。
 使節団の目的は国際親善と条約改正の準備のための調査に限られ、条約改正交渉自体は含まれていなかった。
しかし功を焦った大久保や伊藤博文が米国に着くと独断で条約改正交渉に乗り出す。だが、本来の使命ではないので、交渉に必要な全権委任状がなく、それを交付してもらうためだけに、大久保・伊藤の2人が東京に引き返した。大使節団は、大久保・伊藤が戻ってくるまで4か月もワシントンで空しく足止めされた。大幅な日程の狂いが生じ、10か月半で帰国するはずが、20か月もかかり、貴重な国費をただ蕩尽(とうじん)するだけに終わってしまったのだ。
 一方で、その間、東京の留守政府は、「身分制度の撤廃」「地租改正」「学制頒布」などの新施策を次々に打ち出し、着実に成果を挙げていた。
 帰国後、政治生命の危機を感じた大久保は、留守政府から実権を奪取しようと策謀し、これが「明治6年の政変」となったのだ。大久保が目の敵にしたのは、板垣退助と江藤新平であり、西郷は巻き添えを食らった形だった。
 西郷の朝鮮への使節派遣は閣議で決定し、勅令まで下っていた。それを大久保は権力が欲しいためだけに握りつぶすという無法をおこなった。もはや朝鮮問題など、どうでもよくなってしまった。
 ただ国内の権力闘争だけがあったのだ。こうして一種のクーデターにより、政権は薩長閥に握られた。
 しかも彼ら(大久保や伊藤ら)の多くは20か月にも及んだ外遊で洗脳されすっかり「西洋かぶれ」になっていた。もはや政治どころではない。国益や政治・経済の自由どころではない。
 西郷や板垣らを失った明治政府は誤った方向へと道をすすむ。日清戦争、日露戦争、そして泥沼の太平洋戦争へ……歴史の歯車が狂い始めた。
(以下文(参考文献ゴーマニズム宣言大東亜論)・小林よしのり氏著作 小学館SAPIO誌7月号74~78ページ+8月号59~75ページ+9月号61~78ページ参考文献)
この頃、つまり「明治6年の政変」後、大久保利通は政治家や知識人らや庶民の人々の怨嗟(えんさ)を一身に集めていた。維新の志を忘れ果て、自らの政治生命を維持する為に「明治6年の政変」を起こした大久保利通。このとき大久保の胸中にあったのは、「俺がつくった政権を後から来た連中におめおめ奪われてたまるものか」という妄執だけだった。
西郷隆盛が何としても果たそうとした朝鮮使節派遣も、ほとんど念頭の片隅に追いやられていた。これにより西郷隆盛ら5人の参議が一斉に下野するが、西郷は「巻き添え」であり…そのために西郷の陸軍大将の官職はそのままになっていた。この政変で最も得をしたのは、井上馨ら長州汚職閥だった。長州出身の御用商人・山城屋和助が当時の国家予算の公金を使い込んだ事件や……井上馨が大蔵大臣の職権を濫用して民間の優良銅山を巻き上げ、自分のものにしようとした事件など、長州閥には汚職の疑惑が相次いだ。だが、この問題を熱心に追及していた江藤新平が政変で下野したために、彼らは命拾いしたのである。
江藤新平は初代司法卿として、日本の司法権の自立と法治主義の確立に決定的な役割を果たした人物である。江藤は政府で活躍したわずか4年の間に司法法制を整備し、裁判所や検察機関を創設して、弁護士・公証人などの制度を導入し、憲法・民法の制定に務めた。
もし江藤がいなければ、日本の司法制度の近代化は大幅に遅れたと言っても過言ではない。そんな有能な人材を大久保は政府から放逐したのだ。故郷佐賀で静養していた江藤は、士族反乱の指導者に祭り上げられ、敗れて逮捕された。江藤は東京での裁判を望んだが、佐賀に3日前に作られた裁判所で、十分な弁論の機会もなく、上訴も認めない暗黒裁判にかけられ、死刑となった。新政府の汚職の実態を知り尽くしている江藤が、裁判で口を開くことを恐れたためである。それも斬首の上、さらし首という武士に対してあり得ない屈辱的な刑で……しかもその写真が全国に配布された。(米沢藩の雲井龍雄も同じく死刑にされた)すべては大久保の指示による「私刑」だった。
「江藤先生は惜しいことをした。だが、これでおわりではない」のちの玄洋社の元となる私塾(人参畑塾)で、武部小四郎(たけべ・こしろう)はいった。当時29歳。福岡勤皇党の志士の遺児で、人参畑塾では別格の高弟であった。身体は大きく、姿は颯爽(さっそう)、親しみ易いが馴れ合いはしない。質実にて華美虚飾を好まず、身なりを気にせず、よく大きな木簡煙管(きせる)を構えていた。もうひとり、頭山満が人参畑塾に訪れる前の塾にはリーダー的な塾生がいた。越智彦四郎(おち・ひこしろう)という。武部小四郎、越智彦四郎は人参畑塾のみならず、福岡士族青年たちのリーダーの双璧と目されていた。だが、二人はライバルではなく、同志として固い友情を結んでいた。それはふたりがまったく性格が違っていたからだ。越智は軽薄でお調子者、武部は慎重で思慮深い。明治7年(1874)2月、江藤新平が率いる佐賀の役が勃発すると、大久保利通は佐賀制圧の全権を帯びて博多に乗り込み、ここを本営とした。全国の士族は次々に社会的・経済的特権を奪われて不平不満を強めており、佐賀もその例外ではなかったが、直ちに爆発するほどの状況ではなかった。にもかかわらず大久保利通は閣議も開かずに佐賀への出兵を命令し、文官である佐賀県令(知事にあたる)岩村高俊にその権限を与えた。文官である岩村に兵を率いさせるということ自体、佐賀に対する侮辱であり、しかも岩村は傲慢不遜な性格で、「不逞分子を一網打尽にする」などの傍若無人な発言を繰り返した。こうして軍隊を差し向けられ、挑発され、無理やり開戦を迫られた形となった佐賀の士族は、やむを得ず、自衛行動に立ち上がると宣言。休養のために佐賀を訪れていた江藤新平は、やむなく郷土防衛のため指揮をとることを決意した。これは、江藤の才能を恐れ、「明治6年の政変」の際には、閣議において西郷使節派遣延期論のあいまいさを論破されたことなどを恨んだ大久保利通が、江藤が下野したことを幸いに抹殺を謀った事件だったという説が今日では強い。そのため、佐賀士族が乱をおこした佐賀の乱というのではなく「佐賀戦争」「佐賀の役」と呼ぶべきと提唱されている。その際、越智彦四郎は大久保利通を訪ね、自ら佐賀との調整役を買って出る。大久保は「ならばおんしに頼みたか。江藤ら反乱軍をば制圧する「鎮撫隊」をこの福岡に結成してくれもんそ」という。越智彦四郎は引き受けた。だが、越智は策士だった。鎮撫隊を組織して佐賀の軍に接近し、そこで裏切りをして佐賀の軍と同調して佐賀軍とともに明治政府軍、いや大久保利通を討とう、という知略を謀った。武部は反対した。
「どこが好機か?大久保が「鎮撫隊」をつくれといったのだ。何か罠がある」
だが、多勢は越智の策に乗った。だが、大久保利通の方が、越智彦四郎より一枚も二枚も上だった。大久保利通は佐賀・福岡の動静には逐一、目を光らせていて、越智の秘策はすでにばれていた。陸軍少佐・児玉源太郎は越智隊に鉄砲に合わない弾丸を支給して最前線に回した。そのうえで士族の一部を率いて佐賀軍を攻撃。福岡を信用していなかった佐賀軍は越智隊に反撃し、同士討ちの交戦となってしまった。越智隊は壊滅的打撃を受け、ようやくの思いで福岡に帰還した。その後、越智彦四郎は新たな活動を求めて、熊本・鹿児島へ向かった。武部はその間に山籠もりをして越智と和解して人参畑塾に帰還した。
「明治6年の政変」で下野した板垣退助は、江藤新平、後藤象二郎らと共に「愛国公党」を結成。政府に対して「民選議員設立建白書」を提出した。さらに政治権力が天皇にも人民にもなく薩長藩閥の専制となっていることを批判し、議会の開設を訴えた。自由民権運動の始まりである。だが間もなく、佐賀の役などの影響で「愛国公党」は自然消滅。そして役から1年近くが経過した明治8年(1875)2月、板垣は旧愛国公党を始めとする全国の同志に結集を呼びかけ「愛国社」を設立したのだった。板垣が凶刃に倒れた際「板垣死すとも自由は死せず」といったというのは有名なエピソードだが、事実ではない。
幕末、最も早く勤王党の出現を見たのが福岡藩だった。だが薩摩・島津家から養子に入った福岡藩主の黒田長溥(ながひろ)は、一橋家(徳川将軍家)と近親の関係にあり、動乱の時代の中、勤王・佐幕の両派が争う藩論の舵取りに苦心した。黒田長溥は決して愚鈍な藩主ではなかった。だが次の時代に対する識見がなく、目前の政治状況に過敏に反応してしまうところに限界があった。大老・井伊直弼暗殺(桜田門外の変)という幕府始まって以来の不祥事を機に勤王の志士の動きは活発化。これに危機感を覚えた黒田長溥は筑前勤王党を弾圧、流刑6名を含む30余名を幽閉等に処した。これを「庚申(こうしん)の獄」という。その中にはすでに脱藩していた平野國臣もいた。女流歌人・野村望東尼(ぼうとうに)は獄中の國臣に歌(「たぐいなき 声になくなる 鶯(ウグイス)は 駕(こ)にすむ憂きめ みる世なりけり」)を送って慰め、これを機に望東尼は勤王党を積極的に支援することになる。尼は福岡と京都をつなぐパイプ役を務め、高杉晋作らを平尾山荘に匿い、歌を贈るなどしてその魂を鼓舞激励したのだった。
この頃、坂本竜馬らよりもずっと早い時点で、薩長連合へ向けた仲介活動を行っていたのが筑前勤王党・急進派の月形洗蔵(つきがた・せんぞう、時代劇「月形半平太(主演・大川橋蔵)」のモデル)や衣斐茂記(えび・しげき)、建部武彦らだった。また福岡藩では筑前勤王党の首領格として羨望があった加藤司書(かとう・ししょ)が家老に登用され、まさしく維新の中心地となりかけていたという。だが、すぐに佐幕派家老が勢力を取り戻し、さらに藩主・黒田長溥が勤王党急進派の行動に不信感を抱いたことなどから……勤王党への大弾圧が行われたのだ。これを「乙丑(いっちゅう)の獄」という。加藤、衣斐、建部ら7名が切腹、月形洗蔵ら14名が斬首。野村望東尼ら41名が流罪・幽閉の処分を受け、筑前勤王党は壊滅した。このとき、姫島に流罪となる野村望東尼を護送する足軽の中に15歳の箱田六輔がいた。そして武部小四郎は「乙丑の獄」によって切腹した建部武彦の遺児であった(苗字は小四郎が「武部」に改めた)。福岡藩は佐幕派が多かったが、戊辰の役では急遽、薩長官軍についた。それにより福岡藩の家老ら佐幕派家老3名が切腹、藩士23名が遠島などの処分となった。そして追い打ちをかけるように薩長新政府は福岡藩を「贋札づくり」の疑惑で摘発した。当時、財政難だった藩の多くが太政官札の偽造をしていたという。西郷隆盛は寛大な処分で済まそうと尽力した。何しろ贋札づくりは薩摩藩でもやっていたのだ。だが大久保利通が断固として、福岡藩だけに過酷な処罰を科し、藩の重職5名が斬首、知藩事が罷免となった。これにより福岡藩は明治新政府にひとりの人材も送り込めることも出来ず、時代から取り残されていった。この同じ年、明治8年9月、近代日本の方向性を決定づける重大な事件が勃発した。「江華島(こうかとう・カンファンド)事件」である。これは開国要請に応じない朝鮮に対する砲艦外交そのものであった。そもそも李氏朝鮮の大院君はこう考えていた。「日本はなぜ蒸気船で来て、洋服を着ているのか?そのような行為は華夷秩序(かいちつじょ)を乱す行為である」
華夷秩序は清の属国を認める考えだから近代国家が覇を競う時代にあまりに危機感がなさすぎる。だからといって、砲艦外交でアメリカに開国させられた日本が、朝鮮を侮る立場でもない。どの国も、力ずくで国柄を変えられるのは抵抗があるのだ。日本軍艦・雲揚(うんよう)は朝鮮西岸において、無許可の沿海測量を含む挑発行動を行った。さらに雲揚はソウルに近い江華島に接近。飲料水補給として、兵を乗せたボートが漢江支流の運河を遡航し始めた時、江華島の砲台が発砲!雲揚は兵の救援として報復砲撃!さらに永宗島(ヨンジュンド)に上陸して朝鮮軍を駆逐した。明治政府は事前に英米から武力の威嚇による朝鮮開国の支持を取り付け、挑発活動を行っていた。そしてペリー艦隊の砲艦外交を真似て、軍艦3隻と汽船3隻を沖に停泊させて圧力をかけた上で、江華島事件の賠償と修好条約の締結交渉を行ったのだった。この事件に、鹿児島の西郷隆盛は激怒した。
「一蔵(大久保)どーん!これは筋が違ごうじゃろうがー!」
大久保らは、「明治6年の政変」において、「内治優先」を理由としてすでに決定していた西郷遣韓使節を握りつぶしておきながら、その翌年には台湾に出兵、そしてさらに翌年にはこの江華島事件を起こした。「内治優先」などという口実は全くのウソだったのである。特に朝鮮に対する政府の態度は許しがたいものであった。
西郷は激昴して「ただ彼(朝鮮)を軽蔑して無断で測量し、彼が発砲したから応戦したなどというのは、これまで数百年の友好関係の歴史に鑑みても、実に天理に於いて恥ずべきの行為といわにゃならんど!政府要人は天下に罪を謝すべきでごわす!」
西郷は、測量は朝鮮の許可が必要であり、発砲した事情を質せず、戦端を開くのは野蛮と考えた。
「そもそも朝鮮は幕府とは友好的だったのでごわす!日本人は古式に則った烏帽子直垂(えぼしひたたれ)の武士の正装で交渉すべきでごわす!軍艦ではなく、商船で渡海すべきでごわんそ!」
西郷は政府参与の頃、清と対等な立場で「日清修好条規」の批准を進め、集結した功績がある。なのに大久保ら欧米使節・帰国組の政府要人は西郷の案を「征韓論」として葬っておきながら、自らは、まさに武断的な征韓を行っている。西郷隆盛はあくまでも、東洋王道の道義外交を行うべきと考えていた。西郷は弱を侮り、強を恐れる心を、徹底的に卑しむ人であった。大久保は西洋の威圧外交を得意とし、朝鮮が弱いとなれば侮り、侵略し、欧米が強いとなれば恐れ、媚びへつらい、政治体制を徹底的に西洋型帝国の日本帝国を建設しようとしたのだ。西郷にとっては、誠意を見せて朝鮮や清国やアジア諸国と交渉しようという考えだったから大久保の考えなど論外であった。だが、時代は大久保の考える帝国日本の時代、そして屈辱的な太平洋戦争の敗戦で、ある。大久保にしてみれば欧米盲従主義はリアリズム(現実主義)であったに違いない。そして行き着く先がもはや「道義」など忘れ去り、相手が弱いと見れば侮り、強いと見れば恐れ、「WASPについていけば百年安心」という「醜悪な国・日本」なのである。

<ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり著作「大東亜論 血風士魂篇」第9章前原一誠の妻と妾>2014年度小学館SAPIO誌10月号59~78ページ参照(参考文献・漫画文献)
明治初期、元・長州藩(山口県)には明治政府の斬髪・脱刀令などどこ吹く風といった連中が多かったという。長州の士族は維新に功ありとして少しは報われている筈であったが、奇兵隊にしても長州士族にしても政権奪還の道具にすぎなかった。彼らは都合のいいように利用され、使い捨てされたのだ。報われたのはほんの数人(桂小五郎こと木戸孝允や井上馨(聞多)や伊藤博文(俊輔)等わずか)であった。明治維新が成り、長州士族は使い捨てにされた。それを憤る人物が長州・萩にいた。前原一誠である。前原は若い時に落馬して、胸部を強打したことが原因で肋膜炎を患っていた。明治政府の要人だったが、野に下り、萩で妻と妾とで暮らしていた。妻は綾子、妾は越後の娘でお秀といった。
前原一誠は吉田松陰の松下村塾において、吉田松陰が高杉晋作、久坂玄瑞と並び称賛した高弟だった。「勇あり知あり、誠実は群を抜く」。晋作の「識」、玄瑞の「才」には遠く及ばないが、その人格においてはこの二人も一誠には遠く及ばない。これが松陰の評価であった。そして晋作・玄瑞亡き今、前原一誠こそが松陰の思想を最も忠実に継承した人物であることは誰もが認めるところだった。一誠の性格は、頑固で直情径行、一たび激すると誰の言うことも聞かずやや人を寄せつけないところもあったが、普段は温厚ですぐ人を信用するお人好しでもあった。一誠は戊辰戦争で会津征討越後口総督付の参謀として軍功を挙げ、そのまま越後府判事(初代新潟県知事)に任じられて越後地方の民政を担当する。
いわば「占領軍」の施政者となったわけだが、そこで一誠が目にしたものは戦火を受けて苦しむ百姓や町民の姿だった。「多くの飢民を作り、いたずらに流民を作り出すのが戦争の目的ではなかったはずだ。この戦いには高い理想が掲げられていたはず!これまでの幕府政治に代って、万民のための国造りが目的ではなかったのか!?」
少年時代の一誠の家は貧しく、父は内職で安物の陶器を焼き、一誠も漁師の手伝いをして幾ばくかの銭を得たことがある。それだけに一誠は百姓たちの生活の苦しさをよく知り、共感できた。さらに、師・松陰の「仁政」の思想の影響は決定的に大きかった。
「機械文明においては、西洋に一歩を譲るも、東洋の道徳や治世の理想は、世界に冠たるものである!それが松陰先生の教えだ!この仁政の根本を忘れたからこそ幕府は亡びたのだ。新政府が何ものにも先駆けて行わなければならないことは仁政を行って人心を安らかにすることではないか!」一誠は越後の年貢を半分にしようと決意する。中央政府は莫大な戦費で財政破綻寸前のところを太政官札の増発で辛うじてしのいでいる状態だったから、年貢半減など決して許可しない。だが、一誠は中央政府の意向を無視して「年貢半減令」を実行した。さらに戦時に人夫として徴発した農民の労賃も未払いのままであり、せめてそれだけでも払えば当面の望みはつなげられる。未払い金は90万両に上り、そのうち40万両だけでも出せと一誠は明治政府に嘆願を重ねた。だが、政府の要人で一誠の盟友でもあった筈の木戸孝允(桂小五郎・木戸寛治・松陰門下)は激怒して、「前原一誠は何を考えている!越後の民政のことなど単なる一地方のことでしかない!中央には、一国の浮沈にかかわる問題が山積しているのだぞ!」とその思いに理解を示すことは出来なかった。
この感情の対立から、前原一誠は木戸に憎悪に近い念を抱くようになる。一誠には越後のためにやるべきことがまだあった。毎年のように水害を起こす信濃川の分水である。一誠は決して退かない決意だったが、中央政府には分水工事に必要な160万両の費用は出せない。政府は一誠を中央の高官に「出世」させて、越後から引き離そうと画策。一誠は固辞し続けるが、政府の最高責任者たる三条実美が直々に来訪して要請するに至り、ついに断りきれなくなり参議に就任。信濃川の分水工事は中止となる。さらに一誠は暗殺された大村益次郎の後任として兵部大輔となるが、もともと中央政府に入れられた理由が理由なだけに、満足な仕事もさせられず、政府内で孤立していた。一誠は持病の胸痛を口実に政府会議にもほとんど出なくなり、たまに来ても辞任の話しかしない。「私は参議などになりたくはなかったのだ!私を参議にするくらいならその前に越後のことを考えてくれ!」
木戸や大久保利通は冷ややかな目で前原一誠を見ているのみ。
「君たちは、自分が立派な家に住み、自分だけが衣食足りて世に栄えんがために戦ったのか?私が戦ったのはあの幕府さえ倒せば、きっと素晴らしい王道政治が出来ると思ったからだ!民政こそ第一なのだ!こんな腐った明治政府にはいたくない!徳川幕府とかわらん!すぐに萩に帰らせてくれ!」大久保や木戸は無言で前原一誠を睨む。三度目の辞表でやっと前原一誠は萩に帰った。明治3年(1870)10月のことだった。政府がなかなか前原一誠の辞任を認めなかったのは、前原一誠を帰してしまうと、一誠の人望の下に、不平士族たちが集まり、よりによって長州の地に、反政府の拠点が出来てしまうのではないかと恐れたためである。当の一誠は、ただ故郷の萩で中央との関わりを断ち、ひっそりと暮らしたいだけだった。が、周囲が一誠を放ってはおかなかった。維新に功のあった長州の士族たちは「自分たちは充分報われる」と思っていた。しかし、実際にはほんの数人の長州士族だけが報われて、「奇兵隊」も「士族」も使い捨てにされて冷遇されたのだった。そんなとき明治政府から野に下った前原一誠が来たのだ。それは彼の周囲に自然と集まるのは道理であった。しかも信濃川の分水工事は「金がないので工事できない」などといいながら、明治政府は岩倉具視を全権大使に、木戸、大久保、伊藤らを(西郷らは留守役)副使として数百人規模での「欧米への視察(岩倉使節団)」だけはちゃっかりやる。一誠は激怒。
江藤新平が失脚させられ、「佐賀の役」をおこすとき前原一誠は長州士族たちをおさえた。「局外中立」を唱えてひとりも動かさない。それが一誠の精一杯の行動だった。
長州が佐賀の二の舞になるのを防いだのだ。前原一誠は激昴する。「かつての松下村塾同門の者たちも、ほとんどが東京に出て新政府に仕え、洋風かぶれで東洋の道徳を忘れておる!そうでなければ、ただ公職に就きたいだけの、卑怯な者どもだ!井上馨に至っては松下村塾の同窓ですらない!ただ公金をかすめ取る業に長けた男でしかないのに、高杉や久坂に取り入ってウロチョロしていただけの奴!あんな男までが松下村塾党のように思われているのは我慢がならない!松陰先生はよく「天下の天下の天下にして一人の天下なり」と仰っていた。すなわち尊皇である。天子様こそが天下な筈だ!天下一人の君主の下で万民が同じように幸福な生活が出来るというのが政治の理想の根本であり、またそのようにあらしめるのが理想だったのだ!孔孟の教えの根本は「百姓をみること子の如くにする」。これが松陰先生の考えである!松陰先生が生きていたら、今の政治を認めるはずはない!必ずや第二の維新、瓦解を志す筈だ!王政復古の大号令は何処に消えたのだ!?このままではこの国は道を誤る!」その後、「萩の乱」を起こした前原一誠は明治政府に捕縛され処刑された。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.146小説『「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰と妹の生涯』加筆 近日公開!

2015年01月07日 19時07分08秒 | 日記







2015年度NHK大河『花燃ゆ』


第一話「ひと結ぶ妹」を観たが、


何となく『篤姫』路線なのか?


所詮は『江姫たちの戦国』の結果なのか?


判断が難しい。


私の感想は「う~ん。普通」。


特段瞠目すべきストーリー展開でなく


民放ドラマ風(笑)


まあ、それも含めて小説を加筆した。後日ブログ連載開始予定!

緑川鷲羽2015年はじまりの年へ

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジャンヌ・ダルク 処女の棺ジャンヌ・ダルクの物語<加筆・新世紀維新回天編>アンコールブログ連載小説3

2015年01月07日 07時54分06秒 | 日記





        3 オルレアン戦争







アドリアン・アルマンという研究家が、ジャンヌの服や武具に対する考察から導き出した結果を、レジーヌ・ペルヌー女史およびクラン女史が紹介しているのだが、それによればジャンヌの体格は、衣服の大きさからして、
『身長は、一メートル五十八センチくらい。均整がとれ、強健』
 そして顔立ちは、
『美形である』
 ということである。
 参考文献からの引用・参考文献『ジャンヌ・ダルクの生涯』藤本ひとみ著作(中公文庫、2001年出版)からの引用

  オルレアンの夜。
 月の高い夜だ。空は灰色一色だった。ときどき厚い雲の隙間から、蒼白いかすかな月明りが差し込んだが、すぐに雲に消された。その暗闇は、すべてを凍りつかせる氷のようだった。暗闇は恐ろしいくらいに人々を高揚させた。
 やがて、兵士たちは、ジャンヌのことをきいた。
「伝説の乙女?」
 バラックから出てきた兵士が、まわりにきいた。
「……そうだ。小娘らしい……?」
「馬鹿らしい」兵士は言った。「女に命令されるくらいなら……格下でも他の将軍に支えたほうがましだ」
「そうだ、そうだ」
「小娘はドレス姿でくるのかな」
 一同は笑った。
  そんな中、ジャンヌが男装のまま馬でやってきた。
 ここは英国軍との前線で、フランス軍のやるべきことはオルレアンを守ることだった。  
イギリス軍はトゥレール砦を占領している。
 砦を奪還するのが、フランス軍の戦果であった。
「われはジャンヌ! 神の名のもとやってきた!」
 フランス軍兵士たちはしらけていた。
 砦奪還戦は難航していた。
  老人がひとり、ジャンヌのもとにやってきた。
 老人はジャンヌに食事をごちそうして、彼女に温泉を案内した。
「こっちだよ!」エトの孫娘・マヤリが無邪気に、ジャンヌを温泉に案内した。正直いってひさしぶりのお風呂だ。ジャンヌはうきうきしていた。女子にとってお風呂に入れないのは辛いことだ。だが、やっと汗や垢をおとしてさっぱりできる。
 ジャンヌは温泉につかり、しんと癒された。

  着替えも済ませ陣に戻ると、将軍たちが軍儀をしているところだった。
 老人がいない。
「ようこそ、ジャンヌ」
 将軍が苦笑していった。部屋には沢山の武器があって、中央に壁かけ用絨毯が壁にかけてあった。そこには剣をもった人間の姿が編まれていた。
「さあ、こちらへ」
 ジャン将軍の部下がいった。
「……すごい武器ね」
「兵四千人分ですじゃ」
「そう」ジャンヌは納得したように頷いた。そして、「この壁掛け絨毯は?」と尋ねた。 すると将軍の家臣が、「…伝説のローレヌの乙女の姿が編まれています。われわれが永く待った救世主……その伝説の乙女の姿が編まれております。昔から伝わる寓話によれば、民が苦しめられている時、遠方より伝説の乙女があらわれ、その力によって民を混沌から救う…と」
「伝説の乙女……? あたしのことか?」
「そうじゃと思う」
「でも……」ジャンヌは困った顔をして「伝説の乙女だなんていっても…わたし…人を斬ることが恐ろしくて……怖わ」
 と心の内を吐露した。
 すると将軍が笑って、「人を斬るのもなにもかも部下がやる。あんたはただ見ていればいい」と諭した。そして、将軍たちは軍儀を続けた。
 ジャンヌは苛立った。
 ……”これでは自分はのけものの飾りではないか!”…
 彼女は「なぜわたしを軍儀に加えないのだ?!」と文句をいった。
「………女のお前に何が出来る? 伝説の乙女だかなかだか知らんが、黙って見ておれ!」「……………女だから?!」
「そうだ!」
 ジャンヌはそういわれた瞬間、予想もしなかった行動にでた。刀で、長い髪をバッサリ切ったのだ。これには将軍たちも唖然とした。
「これで……わたしは女ではない! 神のための使者となった!」
 ジャン将軍やバルト将軍は口を開き、また閉じた。
 こんなときに何といえばいいのだろう?
「要塞を正面から攻めるのだ!」
 シャンヌはいった。「神がそうせよといっている!」
「無理だ! 散々試した……正面攻撃は無茶だ!」
「神が…神が……そうやれといっている!」
 ジャンヌはそういうばかりだ。
 さっきの老人がきた。
「兵士たちが待ってます。激を飛ばしてくだされ、伝説の乙女殿!」といった。
 陣を出ると、フランス民兵たち四千人がまっていた。みんな屈強な男達ばかりだ。勇気に燃える顔、顔、顔。
 今は、みんなの士気は高まっていた。
 うおおっ、とジャンヌの姿をみつけ歓声があがる。
 ジャンヌはしばらく歩き、中央につくと、「みんな!」と大声で激をとばした。
「私はトゥレール砦を陥す! …神のために……平和のために…! 私と一緒にいきたい者、戦いたい者はついてきて! 強制はしない。自由のために戦う者を私は重視する! さぁ、いこう! イギリスを倒すんだ!」
 ジャンヌの激に、大勢の兵たちから歓声があがる。そして、次々と彼女に賛同する声があがった。………とにかく戦うのだ! 自由のために……神のために…!
 こうして、兵は砦の攻撃を再開した。


オルレアンの市民は絶望していた。
 窮した市民たちは、恥もプライドも捨て、この攻撃をやめてくれと敵側(英国軍)に泣きつきすらした。しかし、それもきっぱりと断られ、もう精根つきはてていた。
 そこに現れたのが、ジャンヌであった。
 神の声をきいてオルレアンをイギリス軍から解放するという。
 神によってたすけられる、オルレアン市民もフランス軍も、狂喜したに違いない。
 フランス軍四千VSイギリス軍四千、ほぼ互角の対決である。
 だが、イギリス軍は各砦に四百づつ十の砦に分散して陣取っている。神の声をきいたとされるジャンヌは戦闘経験などなかったが何故か軍略家のようにフランス軍四千の兵士でイギリス軍の砦ごとに攻撃を開始した。
 私はこれは偶然か、軍師の策に従ったのだと思っているが、最前線で聖母マリアとキリストの三角旗を振り味方軍を鼓舞するジャンヌは頼りがいがあったことだろう。
 実戦ではジャンヌは誰ひとり斬り殺してはおらず、兵士が戦ったわけだが、胸の近くに流れ矢があたっても動じることなく、自らの手で無理やり矢を引き抜いてキリストの旗を振り続ける。味方は鼓舞され"神の使徒"と狂喜するが、敵には”悪魔の手先”に思えたろう。
 参考文献からの引用・参考文献『ジャンヌ・ダルクの生涯』藤本ひとみ著作(中公文庫、2001年出版)、参考文献NHK番組『ザ・プロファイラー』からの引用

  フランス兵、約四千は砦を攻撃した。
 夜が明けると、兵たちがいよいよ動きだした。
 仏兵四千あまりは、砦を囲むように布陣していた。兵士の後方には、伝説の乙女ジャンヌがいた。側には将軍たちがいる。兵三千の先発隊は火矢を放ち、砦の門にせまった。相手側からも無数の矢が空を斬って飛んでくる。鍔ぜりあいが続く。石がはなたれ、仏兵の近くに被弾。地面が激しく吹きとぶ。仏兵もここぞとばかりに火矢や石を城に向かってはなった。
 地鳴りのように石の衝撃があり、砦の壁面にぶち当たりイギリス軍兵士をけちらしていく。「……突入せよ!」ジャン将軍が指示を出す。兵約三千が砦の門にはしごをかけて突入した。激突する両軍。しかし、フランス軍は弱く、脆弱だった。
「いけーっ! すすめ!」ジャンヌは叫んだ。
 一四二九年五月二日。早朝………
 前方に矢隊があらわれ、雨あられのように矢が連射された。ジャンヌの前にいた民兵たちが矢にやられ、バタバタと倒れていく。「…くそっ!」
 そして、人の盾を失ったジャンヌは果敢にはしごをのぼり先頭にたった。狂矢が襲いかかった。
 矢がジャンヌの胸に当たった。「ジャンヌ!」将軍が崩れ落ちる彼女を抱き締めながら叫んだ。
「………たた…戦う…のです……このまま逃げたら…人々の苦しみはいつ…までもおわららない…」
「ジャンヌ! ……ジャンヌ!」
 ジャンヌの瞳からボロボロと涙があふれでた。苦痛にゆがむ顔に、にこりと笑みを浮かべた。それは神仏のようにきらきらと光っていた。「陣へ運べ!」ジャン将軍はいった。 ジャンヌの記憶の奥のほうで、こだまが響きわたった。目に……記憶に……雪が浮かんできた。子供のころ母と一緒に遊んだ思いでも、匂いも、感触も。泣いたことも。母がほしくて泣いたのだ。
 ジャンヌは矢が刺さったまま、血だらけで陣へ運ばれた。
 重傷のように見えた。
 彼女は気を失っていた。
「本当に神の使いか……?」
「しっかりしろ!」
 ジャンヌは横たわって動かない。
 将軍たちはいいあった。「神の使いなら死なないんじゃないか?」
「神の使いなんて本当か?」
「……さぁな」
 そのまま、砦を陥せないまま、夜になった。
 
  早朝、兵士たちは鎧のまま地べたに横になって寝ていた。
 砦の中のイギリス軍たちも「”神の名において撤退せよ”などと要求してきた女も矢で死んだ。何がローレヌの乙女だ」と嘲笑していた。
 しかし、ジャンヌは死ななかった。
 急に目をさまし、自分の手で胸の矢を抜いた。そして、たちあがった。
「……ジャンヌ! 生きてたか?!」
 ジャンヌは起き上がり、「何をしているのです! 戦うのです!」といった。
 まるで胸に矢を受けて血だらけになったのが嘘のように彼女は元気になった。
「起きろ! 起きなさい!」
 ジャンヌはフランス兵士たちを起こした。まだ朝も早い。
 砦のイギリス兵たちは、
「あの女が生きていた! 売女め!」と騒ぎ出した。
 しかし、砦の守りは難い。
 ジャン将軍は「ジャンヌ……無理だ! 砦は正面突破では陥せん!」といった。
 しかし、ジャンヌは釣井楼(つりせいろう)を動かすように命令した。
 砦のイギリス軍たちは嘲笑がとまらない。釣井楼を反対にして砦に突っ込ませようとしていたからだ。
「あの小娘、釣井楼の使い方も知らぬ」
 しかし、そこはジャンヌである。
 ……まさか!
 ジャンヌは釣井楼を反対にしたまま、砦の門へ倒した。門が壊れ、突破口ができる。
「すすめ~っ!」
 ジャンヌは剣を抜き、突撃を命じた。
 フランス兵たちが砦に雪崩こんだ。斬り合いになる。
 イギリス兵たちは斬られて死んでいく。辺りが血で真っ赤になる。
 そんな中、ジャンヌは血だらけになりながら幻をみた。
 ……キリストの姿だ。
 ……あぁ、神よ!
 しかし、神が十字架から降りると、悪魔にかわった。
 ジャンヌは戦慄した。
 悪魔は、
 ………”お前は本当に神の使いか? 血だらけの殺し合いをしているだけではないのか? ジャンヌは「違う! 神が戦えと……」と動揺した。
 ………”お前はひとを殺しているだけだ”……
 ………”フランス人さえたすければひとを殺していいのか?”……
 ………”お前は血を好む悪女だ”………
 ジャンヌは狼狽し、
「違う! 私は神の声をきいて……神の声を…」
 ………”神の声? 悪魔の声でなかったのか?”………
「違う! 違う!」
 ジャンヌは首を激しく振り、動揺した。
「どうしたジャンヌ? 勝ったぞ! われわれの勝ちだ!」
 将軍は血だらけになった手で、彼女の頬に手をかけた。ジャンヌも血だらけになっている。「違う! 違う! こんなのは違う!」
 ジャンヌは膝をつき、泣き出さんばかりに荒れた。
 典型的な軍人であるジャン将軍には、ジャンヌの気持ちがわからなかった。
 ………私は悪魔の声をきいたのか?! 神の声でなく……?!
 ………”血を好む悪女?”………
 こうして、一四二九年五月二十四日、トゥレール砦は陥落した。
 ジャンヌは英雄として称えられ、民衆の歓迎を受けた。
 ジャンヌには特別な旗が作られた。
 天使と神が描かれた軍旗だった。とにかく、ジャンヌはオルレアンをまもった。
「フランスを救う伝説の乙女……ジャンヌ・ダルク!」
「万歳!」
 民衆は彼女を崇めた。
 ジャンヌは不安を隠しながら、ナンスへ向かった。
 フランス国王になるにはナンスにいくしかないからだ。
 一四二九年七月十九日、シャルル王太子は正式にフランス国王になった。
 即位したのだ。


 資料によれば、ジャンヌは、国王シャルル七世となった王太子のまえにひざまずき、涙を流して彼の膝をかき抱いたということである。
 彼女の感激がよく表れているエピソードといえよう。この式に参加していたジャンヌの両親ジャックとイザベル・ロメも、どんなに胸を熱くしたことかと思う。
 かつてブールジュの王と侮蔑された王太子シャルルは、神の名のもとについに国王になった。それは、イギリス国王がフランス国王を兼任するというトロワ条約を、神が拒絶したということだった。
 正義は彼のものになったのである。
 だが、イギリスにしてみれば「神の意思」「神のお告げ」など嘘だ、と証明する必要に迫られた。
 ジャンヌ・ダルクというフランス人の小娘のいうことが「嘘っぱちだった」であれば、戦争の大義がつくのである。
 英国軍はまだまだ戦える、フランス軍も勢いがあるが長い戦争で倦厭ムードが漂っている。イギリスは世情の流れをよくとらえていた。
 ジャンヌ・ダルクという娘さえ嘘っぱちの魔女として裁判にかけ殺せばいい。殉教者にではなく、あくまで「魔女」「異端者」として。
 参考文献からの引用・参考文献『ジャンヌ・ダルクの生涯』藤本ひとみ著作(中公文庫、2001年出版)からの引用

 しかし、トゥレール砦を陥落させたからといって、戦争が終わった訳ではなかった。
 イギリスとフランスの両軍は戦っていた。
 そんな中、ジャンヌの元には民衆から心配の手紙が沢山届いた。
「なんて書いてあるのです?」
 ジャンヌは家臣に尋ねた。
「おやおや、伝説の乙女さまは字を読めないのですか?」
「……そうです。読めないし書けません」
 家臣はそんな彼女を不憫に思った。
 只、可愛いというだけで字の読み書きもできないのでは……片落ちだ。
「ジャンヌさまに頑張れと。村に英軍がきたら心配だと…」
「…ならかわりに手紙をかいてください」
「なんと?」
「……”親愛なる民の皆様、心配はいりません。敵がきたらすぐに駆けつけ追い返します”……と」
「よろしいので?」
「はやく書くのです! こうしている間にもイギリスは攻めてきているのですよ!」
 ジャンヌは強くいった。
 しかし、彼女の頭の中には「悪魔の声をきいた」という幻の声が、歓迎せぬ蜂の群れのようにわ~んと響いていた。
 ……”お前は神の声をきいたのではない。悪魔の声をきいたのだ!”…… 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする