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長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

葵のジャンヌダルク 井伊直虎と直政<2018年度女性版NHK大河ドラマ原作>直虎編1

2015年01月30日 07時42分46秒 | 日記








葵のジャンヌダルク井伊直虎と直政

~傑物の義理息子・井伊直政を育てた女大名 井伊直虎とその時代~

             
               
               
               
               
                total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ



        あらすじ

井伊 直虎(いい なおとら)は、戦国時代の女性領主。遠江井伊谷(静岡県浜松市(旧・引佐郡)引佐町)の国人井伊氏の当主を務め、「女地頭」と呼ばれた。井伊直親と婚約したが、生涯未婚であった。井伊直政のはとこであり養母。


時代 戦国時代- 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正10年8月26日(1582年9月12日)
改名 祐圓尼、直虎
別名 次郎法師、女地頭(渾名)
戒名 妙雲院殿月泉祐圓大姉
主君 今川氏真→徳川家康
氏族 井伊氏
父母 父:井伊直盛、母:友椿尼
子 養子:直政
女性で出家後に井伊家の跡をまかされ、義理の息子・井伊直政を育て、徳川家康に仕えさせたその井伊直虎の生涯はまさに「大河ドラマ」である。
                                おわり

         1 関ヶ原


井伊家伝記の有名な言葉“女こそあれ井伊家惣領(そうりょう)に生まれ候”(父親の殿さまのただひとりの子供が女子という意味)男子が生まれなかったらしい。惣領=跡継ぎ。この文献で直虎が女性だった、とわかる。
井伊直虎は美貌の少女であった。生年月日は不明、没年は義理の息子の武功『主君・徳川家康の伊賀越え』を成功させた年のわずか数か月後の天正十年(1582年)八月二十六日(九月十二日)没している。幼名・不明、改名・祐團尼、直虎、別名・次郎法師、女地頭(綽名)、戒名・妙雲院殿月泉祐團大姉、主君・今川氏真→徳川家康、氏族・井伊氏、父・井伊直盛、母・友椿尼。養子が井伊直政である。
「直政、お主がわしの鷹狩での草原で、烏帽子直垂でわしらと遭遇したとき、となりに若き尼がいたが、それがお前の義理の母ごぜか?」
「いかにも!徳川さまに仕官する案も義母ごぜのものでした」
「太閤殿下の前では女謙信とまで申したの?」
「あれは本当にございます。なれど心は優しい艸風(そうふう)の如き義母でありました」
「なるほどな。惜しい人を亡くしたのう」
「御意にござる」直政は両目に涙を浮かべた。

石田三成は安土桃山時代の武将である。
 豊臣五奉行のひとり。身長156cm…永禄三年(1560)~慶長五年(1600年10月1日)。改名 佐吉、三也、三成。戒名・江東院正軸因公大禅定門。墓所・大徳寺。官位・従五位下治部少輔、従四位下。主君・豊臣秀吉、秀頼。父母・石田正継、母・石田氏。兄弟、正澄、三成。妻・正室・宇喜多頼忠の娘(お袖)。子、重家、重成、荘厳院・(津軽信牧室)、娘(山田室)、娘(岡重政室)
 淀殿とは同じ近江出身で、秀吉亡き後は近江派閥の中心メンバーとなるが、実は浅井氏と石田氏は敵対関係であった。三成は出世のことを考えて過去の因縁を隠したのだ。
「関ヶ原」の野戦がおわったとき徳川家康は「まだ油断できぬ」と言った。
当たり前のことながら大阪城には西軍大将の毛利輝元や秀頼・淀君がいるからである。
 しかるに、西軍大将の毛利輝元はすぐさま大阪城を去り、隠居するという。「治部(石田三成)に騙された」全部は負け組・石田治部のせいであるという。しかも石田三成も山奥ですぐ生けどりにされて捕まった。小早川秀秋の裏切りで参謀・島左近も死に、山奥に遁走して野武士に捕まったのだ。石田三成は捕らえられ、「豊臣家を利用して天下を狙った罪人」として縄で縛られ落ち武者として城内に晒された。「お主はバカなヤツです、三成!」尼姿の次郎法師(井伊直虎)はしたり顔で、彼を非難した。
「お前のような奴が天下など獲れるわけあるまいに」
(*注・実際には井伊直虎こと次郎法師は天正十年(1582)年八月二十六日に享年四十八歳で没しているので、三成の関ヶ原の役では生きてはいないが「特別出演」(笑)で出演させたことは理解して欲しい。直虎の幽霊と話す設定がちょうどよい(笑))
「お前は誰じゃ?」
「井伊直政の義母・次郎法師こと井伊直虎じゃ!」
三成は「わしは天下など狙ってなどおらぬ」と直虎の霊をきっと睨んだ。
「たわけ!徳川家康さまや(義理)息子・井伊直政が三成は豊臣家を人質に天下を狙っておる。三成は豊臣の敵だとおっしゃっておったわ」
「たわけはお主だ、直虎、いや次郎法師!徳川家康は豊臣家に忠誠を誓ったと思うのか?!」
「なにをゆう、徳川さまが嘘をいったというのか?」
「そうだ。徳川家康はやがては豊臣家を滅ぼす算段だ」
「たわけ」直虎は冗談としか思わない。「だが、お前は本当に贅沢などしとらなんだな」
「佐和山城にいったのか?」
「いいえ。でも家康さまや(義理の)息子・井伊直政からきいた。お前は少なくとも五奉行のひとり。そうとうの金銀財宝が佐和山城の蔵にある、大名たちが殺到したという。だが、空っぽだし床は板張り「こんな貧乏城焼いてしまえ!」と誰かが火を放ったらしいぞ」
「全焼したか?」
「ああ、どうせそちも明日には首をはねられる運命だ。酒はどうじゃ?」
「いや、いらぬ」
 直虎は思い出した。「そうか、そちは下戸であったのう」
「わしは女遊びも酒も贅沢もしない。主人が領民からもらった金を貯めこんで贅沢するなど武士の風上にもおけぬ」
「ふん。淀殿や秀頼殿を利用する方が武士の風上にもおけぬわ」直虎は何だか三成がかわいそうになってきた。「まあ、今回は武運がお主になかったということだ」
「直虎殿、いや直政殿の義母ごぜ」
「なんじゃ?」
「縄を解いてはくれぬか?家康に天誅を加えたい」
「……なにをゆう」
「秀頼公と淀君さまが危ないのだぞ!」
  直虎は、はじめて不思議なものを観るような眼で縛られ正座している「落ち武者・石田三成」を見た。「お前は少なくともバカではない。だが、徳川さまが嘘をいうかのう?五大老の筆頭で豊臣家に忠節を誓う文まであるのだぞ」
「家康は老獪な狸だ」
「…そうか」
 直虎の霊は拍子抜けして去った。諌める気で三成のところにいったが何だか馬鹿らしいと思った。どうせ奴は明日、京五条河原で打首だ。「武運ない奴じゃな」苦笑した。
 次に黒田長政がきた。長政は「三成殿、今回は武運がなかったのう」といい、陣羽織を脱いで、三成の肩にかけてやった。
「かたじけない」三成ははじめて人前で泣いた。
大河ドラマでは度々敵対する石田治部少輔三成と黒田官兵衛。言わずと知れた豊臣秀吉の2トップで、ある。黒田官兵衛は政策立案者(軍師)、石田三成はスーパー官僚である。
参考映像資料NHK番組『歴史秘話ヒストリア「君よ、さらば!~官兵衛VS.三成それぞれの戦国乱世~」』<2014年10月22日放送分>
三成は今でいう優秀な官僚であったが、戦下手、でもあった。わずか数千の北条方の城を何万もの兵士で囲み水攻めにしたが、逆襲にあい自分自身が溺れ死ぬところまでいくほどの戦下手である。(映画『のぼうの城』参照)*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。
三成は御屋形さまである太閤秀吉と家臣たちの間を取り持つ官僚であった。
石田三成にはこんな話がある。あるとき秀吉が五百石の褒美を三成にあげようとするも三成は辞退、そのかわりに今まで野放図だった全国の葦をください、等という。秀吉も訳が分からぬまま承諾した。すると三成は葦に税金をかけて独占し、税の収入で1万石並みの軍備費を用意してみせた。それを見た秀吉は感心して、三成はまた大出世した。
三成の秀吉への“茶の三顧の礼”は誰でも知るエピソードである。*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。



“上手に人をおさめる女性とは上手に人を愛せる女性”ナイチンゲール
ナイチンゲールやジャンヌダルクのように、戦国時代の日本にも『葵のジャンヌダルク、井伊直虎』がいた。直虎というが実は女性。映像参考文献NHK番組『歴史秘話ヒストリア「それでも、私は前を向く~おんな城主・井伊直虎 愛と悲劇のヒロイン~」』井伊直虎こそあの徳川四天王のひとり、井伊直政の義理の母親で、あった。
<徳川家康の四天王>とは、酒井忠次(さかい・ただつぐ)、榊原康政(さかきばら・やすまさ)、井伊直政(いい・なおまさ)、そして本多忠勝(ほんた・ただかつ)の4人の家康の重臣たちのことだ。猛将の忠次、がんこ者の康政、人格者の直政、剛力の忠勝は、家康を助けた。彼らがいなければ、家康も天下を取れなかったかも知れない。4人の子孫は、みな幕府の重臣となっている。<「戦国武将大百科」げいぶん社 47ページ>

  関ヶ原合戦のきっかけをつくったのは会津の上杉景勝と、参謀の直江山城守兼続である。山城守兼続が有名な「直江状」を徳川家康におくり、挑発したのだ。もちろん直江は三成と二十歳のとき、「義兄弟」の契を結んでいるから三成が西から、上杉は東から徳川家康を討つ気でいた。上杉軍は会津・白河口の山に鉄壁の布陣で「家康軍を木っ端微塵」にする陣形で時期を待っていた。家康が会津の上杉征伐のため軍を東に向けた。そこで家康は佐和山城の三成が挙兵したのを知る。というか徳川家康はあえて三成挙兵を誘導した。
 家康は豊臣恩顧の家臣団に「西で石田三成が豊臣家・秀頼公を人質に挙兵した!豊臣のために西にいこうではないか!」という。あくまで「三成挙兵」で騙し続けた。
 豊臣家の為なら逆臣・石田を討つのはやぶさかでない。東軍が西に向けて陣をかえた。直江山城守兼続ら家臣は、このときであれば家康の首を獲れる、と息巻いた。しかし、上杉景勝は「徳川家康の追撃は許さん。行きたいならわしを斬ってからまいれ!」という。
 直江らは「何故にございますか?いまなら家康陣は隙だらけ…天にこのような好機はありません、何故ですか?御屋形さま!」
 だが、景勝は首を縦には振らない。「背中をみせた敵に…例えそれが徳川家康であろうと「上杉」はそのような義に劣る戦はせぬのだ!」
 直江は刀を抜いた。そして構え、振り下ろした。しゅっ!刀は空を斬った。御屋形を斬る程息巻いたが理性が勝った。雨が降る。「伊達勢と最上勢が迫っております!」物見が告げた。
 兼続は「陣をすべて北に向けましょう。まずは伊達勢と最上勢です」といい、上杉は布陣をかえた。名誉をとって上杉は好機を逃した、とのちに歴史家たちにいわれる場面だ。


「無様な、まるで亀ですな」
そう、天下の徳川家康に向かって不遜に言い放った者がいる。
男の名を、井伊兵部少輔直政(いい・ひょうぶしょうゆう・なおまさ)という。後に、譜代大名として七人もの大老を輩出した名門、井伊家の当主であり、徳川四天王の筆頭と謳われた男である。
「おう、万千代、来たのか」
家康は、ぎょろっとした団栗眼(どんぐりまなこ)の声の主へと向けて言った。
天正十四年(一五八六)の晩春、まだ三岳山から颪(おろし)が土を起こす百姓どもの息を白くさせる三月のことである。家康は一昨年の秋、小牧・長久手において、柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り勢いに乗る羽柴秀吉との戦いを終え、遠州の自分の領地に戻っていた。
名だたる湖の国、浜松がいまの家康の居城だ。かつては武田の遠州(現在の静岡県西部)進攻に備えるために、本拠地を岡崎から浜松――かつての引馬(ひくま)へ移した。浜松湖も近く街道も整備され、今川へのにらみもきく遠州の拠点である。
「来たのか、ではございませぬ。某が岡崎に詰めている間になんともつまらぬ病を得られたとか」
「そうなのだ。あいすまぬな」
息子ほども歳が離れた家臣に向かって、あっさりと家康は謝った。綿入れを何重にもかぶせた脇息に腹からそのもたれた姿は、狸が座布団にしがみついているようで情けない。
実はここ数か月間、家康は背中に大きな廱(よう)が出来て仰向けに寝られずにいた。
「敵を過小評価しすぎましたな。廱といえども侮ってはこうなりまする。ましてや貝をつかってつぶそうとするなぞ」
「…わかっておる」
いまでこそ廱は傷口から入ったブドウ糖菌が原因であり、悪化させると救血病になって命に関わることがわかっている。しかし家康はたかが背中のおできと侮り、家臣がどれほどなだめても医者に診せようとしなかった。家康は医者が大嫌いだったのである。
「いくら殿が薬学に長け、和剤局方をお読みになるとはいえ、千日の勤学より一時の名匠と申します」
「わかっておる」
「殿も病をご自分でなんとかなさろうとせず、名医に頼りなされませ」
「わかっておる。わかっておるというに…」
直政は、尊敬する主君に対してもまったく遠慮がなかった。口調は静かだが、嫌みも山椒のようにぴりっと効いている。
「儂がこんなに痛い思いをしているのに、井伊の赤鬼は口が悪いわ」
「はて、もう赤鬼などといわれましておりまするか」
直政は笑った。
井伊直政は三河譜代の家臣ではない。井伊家はこの遠州の名門であり、家康が人質として長く過ごした今川の家臣だった。
幼い頃にお家再興という果てしない重責を担って、直政はここ浜松へやってきた。文字通り、身一つで。
そこからが、鯉もかくあらんという、後世に伝わる出世物語のはじまりである。
あれよあれよという間に、直政は家禄を増やした。召し抱えられてすぐに万千代という名と三百石を与えられ、次の年には家康の寝所に忍びこもうとした武田の暗殺者を討ちとって、十倍の三千石に加増された。十九の時にはもはや二万石の大名となり、本能寺の変の際には家康の「神君伊賀越え」に同行し、見事な孔雀の陣羽織を賜っている。
戦となれば苛烈な気性そのままに先陣をつとめ、生来の負けず嫌い。外交官としての才能もあったため、北条との戦の際には講和の使者となり大任を果たした。
部下のいなかった直政は、二十二歳で元服すると、武田家の滅亡により解体された武田の赤揃えをそっくりそのまま家康より貰い受けた。直政はこれを喜び、自分の部隊の具足をすべて朱色にそろえた。
これが、高名な井伊の赤揃えの誕生である。
「そちこそ、戦で得た傷はよいのか」
自分の背中のおできを棚に上げて、家康は直政を案じる言葉をかけた。直政は出陣すればするだけ、体に傷を負って帰ってくるからである。
「なんのこれしきの傷、大した傷ではありませぬ。具足が赤いのは良し、辰砂(しんしゃ)の赤でこそあれ」
つまり、具足や甲冑が赤いのは怪我して血に染まった色ではない、というのだ。池田恒興(いけだ・つねおき)と相対した時、彼の槍がかすったという肘を見せるように直政は言った。一笑に付した。
「士(さむらい)大将ともあろうものが、そうむやみに先陣に立つのはどうであろう。ほとんど陣中におらなんだそうではないか」
「指揮は清三郎(せいざぶろう・家老の木俣守勝・きまたもりかつ)に任せてあります。それに、陣などにひっこんでおっては手柄がたてられませぬ」
「………そういう問題ではないのだが」
傷がたいしたことがないならいい、と家康は引き下がった。この情けない亀のような恰好では、どのような説教もまったく説得力がない。
「以前より不思議に思っておったのだが、万千代は戦のたびに負傷するが、あっという間に快癒する。それもそなたがもってきたあの井伊の秘薬があったればこそか」
「秘薬などではございませぬ。ただの土にございます」
土といっても粘土質の塗り薬のことで、明から伝わった高価な抗生物質である。これを直政は故郷である井伊谷の領地から取り寄せた。すると家康の熱は徐々に引き、背中のおできも小さくなった。
「是非とも薬の調合の仕方を知りたいものだ。どのような名医が作ったのじゃ?」
「それは義母でござる」
「そなたの義母殿?あのそちと出会ったとき、側にいたあの尼御前か」
「名医とはその義母でござる。すでに示寂(じじゃく)いたしましたが」
「ほう、もう示寂されたか。おしいのう」
珍しく家康は目を細めた。
(『剣と紅』高殿円著作、文藝春秋出版参考文献文章引用 序章五~九ページ)

   石田三成はよく前田利家とはなしていたという。前田利家といえば、主君・豊臣秀吉公の友人であり加賀百万石の大大名の大名である。三成はよく織田信長の側人・森蘭丸らにいじめられていたが、それをやめさせるのが前田利家の役割であった。三成は虚弱体質で、頭はいいが女のごとく腕力も体力もない。いじめのかっこうのターゲットであった。
 前田利家は「若い頃は苦労したほうがいいぞ、佐吉(三成)」という。
 木下藤吉郎秀吉も前田又左衛門利家も織田信長の家臣である。前田利家は若きとき挫折していた。信長には多くの茶坊主がいた。そのうちの茶坊主は本当に嫌な連中で、他人を嘲笑したり、バカと罵声を浴びせたり、悪口を信長の耳元で囁く。信長は本気になどせず放っておく。しかるとき事件があった。前田利家は茶坊主に罵声を浴びせかけられ唾を吐きかけられた。怒った利家は刀を抜いて斬った。殺した。しかも織田信長の目の前で、である。
 信長は怒ったが、柴田勝家らの懇願で「切腹」はまぬがれた。だが、蟄居を命じられた。そこで前田利家は織田の戦に勝手に参戦していく。さすがの信長も数年後に利家を許したという。「苦労は買ってでもせい」そういうことがある前田利家は石田佐吉(三成)によく諭したらしい。いわずもがな、三成は思った。
ちなみにこの作品の参考文献はウィキペディア、「剣と紅」高殿円著作(文藝春秋)、「井伊直政」羽生道英(光文社)、「上杉景勝」児玉彰三郎著作(ブレインネクスト)、「上杉謙信」筑波栄治著作(国土社)、「上杉謙信」松永義弘著作(学陽書房)、「聖将 上杉謙信」小松秀男著作(毎日新聞)、「ネタバレ」「織田信長」「前田利家」「前田慶次郎」「豊臣秀吉」「徳川家康」司馬遼太郎著作、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作、堺屋太一著作、童門冬二著作、藤沢周平著作、『バサラ武人伝 戦国~幕末史を塗りかえた異能の系譜』『真田幸村編』『前田慶次編』永岡慶之助著作Gakken(学研)、映像文献「NHK番組 その時歴史が動いた」「歴史秘話ヒストリア「それでも、私は前を向く~おんな城主・井伊直虎 愛と悲劇のヒロイン~」」「ザ・プロファイラー」「天地人」漫画的資料「花の慶次」(原作・隆慶一郎、作画・原哲夫、新潮社)「義風堂々!!直江兼続 前田慶次月語り」(原作・原哲夫・堀江信彦、作画・武村勇治 新潮社)、角川ザテレビジョン「大河ドラマ 天地人ガイドブック」角川書店、等の多数の文献である。 ちなみに「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく引用です。裁判とかは勘弁してください。


現在の静岡県浜松市(浜名湖)の遠江(とおとおみ)は今川領、三河の松平(のちの川家康)のとなりである。井伊直虎は井伊谷(いいのや・湖の北側)という領地をおさめるおんな国人領主だった。義理の息子は<徳川四天王>のひとり、井伊直政である、このどんぐり眼の青年こそ、直虎の策で徳川家家臣となり、譜代の家臣よりも誰よりも大出世して「人格者の井伊直政」として、幕末には大老・井伊直弼を輩出するのである。直政の武功と言えば織田信長が『本能寺の変』で暗殺されたとき、近くに宿泊していた徳川家康を京から所領地の三河までの逃亡のいわゆる『伊賀越え』を成功させたことだ。
生涯[編集](ウィキペディアから井伊直虎の生涯を引用します)
遠江井伊谷の国人・井伊直盛の娘として誕生。
父・直盛に男子がいなかったため、次郎法師(次郎と法師は井伊氏の2つの惣領名を繋ぎ合わせたもの)と名付けられ、直盛の従兄弟にあたる井伊直親を婿養子に迎える予定であった。ところが、天文13年(1544年)に今川氏与力の小野道高(政直)の讒言により、直親の父・直満がその弟の直義と共に今川義元への謀反の疑いをかけられて自害させられ、直親も井伊家の領地から脱出、信濃に逃亡した。井伊家では直親の命を守るため所在も生死も秘密となっていた。許嫁であった直虎は失意のまま出家する。直親はのちの弘治元年(1555年)に今川氏に復帰するが、信濃にいる間に奥山親朝の娘を正室に迎えていたため、直虎は婚期を逸することになったとされる。
その後、井伊氏には不運が続き、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて父・直盛が戦死し、その跡を継いだ直親は永禄5年(1562年)に小野道好(道高の子)の讒言によって今川氏真に殺された。直虎ら一族に累が及びかけたところを母・友椿尼の兄で叔父にあたる新野親矩の擁護により救われた。永禄6年(1563年)、曽祖父の井伊直平が天野氏の犬居城攻めの最中に急死(『井伊直平公一代記』には引間(曳馬)城(後の浜松城)主・飯尾連竜の妻・お田鶴の方(椿姫)に毒茶を呑まされ死亡したとされる(遠州惣劇))、永禄7年(1564年)には井伊氏は今川氏に従い、引間城を攻めて新野親矩や重臣の中野直由らが討死し、家中を支えていた者たちも失った。そのため、龍潭寺の住職であった叔父の南渓瑞聞により、幼年であった直親の子・虎松(後の井伊直政)は鳳来寺に移された。
以上のような経緯を経て、永禄8年(1565年)、次郎法師は直虎と名を変えて井伊氏の当主となった。
小野道好の専横は続き、永禄11年(1568年)には居城・井伊谷城を奪われてしまうが、小野の専横に反旗を翻した井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)に三河国の徳川家康が加担し、家康の力により実権を回復した。以降は徳川氏に従い、徳川家康が井伊氏に仇をなしてきた飯尾氏の籠る引間城を落城させ、元亀元年(1570年)には家康に嘆願し、直親を事実無根の罪で讒訴したことを咎め道好を処刑する。しかし、元亀3年(1572年)秋、信濃から武田氏が侵攻し、居城・井伊谷城は武田家臣・山県昌景に明け渡し、井平城の井伊直成も仏坂の戦いで敗死すると、徳川氏の浜松城に逃れた。その後、武田氏と対した徳川・織田連合軍は三方ヶ原の戦いや野田城の戦いまで敗戦を重ねたが、武田勢は当主・武田信玄が病に倒れたため、元亀4年(1573年)4月にようやく撤退した。
その間、直虎は許嫁の直親の遺児・虎松(直政)を養子として育て、天正3年(1575年)、300石で徳川氏に出仕させる。
天正10年(1582年)8月26日、死去。享年48。家督は直政が継いだ。墓は井伊家の菩提寺である龍潭寺に許嫁の直親の隣にある。



「北条氏政め、この小田原で皆殺しにでもなるつもりか?日本中の軍勢を前にして呑気に籠城・評定とはのう」
 秀吉は笑った。黒の陣羽織の黒田官兵衛は口元に髭をたくわえた男で、ある。顎髭もある。禿頭の為に頭巾をかぶっている。
「御屋形さま、北条への使者にはこの官兵衛をおつかい下され!」
秀吉は「そうか、官兵衛」という。「軍師・官兵衛の意見をきこう」
「人は殺してしまえばそれまで。生かしてこそ役に立つのでございます」続けた。「戦わずして勝つのが兵法の最上策!わたくしめにおまかせを!」
 そういって、一年もの軟禁生活の際に患った病気で不自由な左脚を引きずりながら羽柴秀吉が集めた日本国中の軍勢に包囲された北条の城門に、日差しを受け、砂塵の舞う中、官兵衛が騎馬一騎で刀も持たず近づいた。
「我は羽柴秀吉公の軍師、黒田官兵衛である!「国滅びて還らず」「死人はまたと生くべからず」北条の方々、命を粗末になされるな!開門せよ!」
 小田原「北条攻め」で、大河ドラマでは岡田准一氏演ずる黒田官兵衛が、そういって登場した。堂々たる英雄的登場である。この無血開城交渉で、兵士2万~3万の死者を出さずにすんだのである。
ちなみにこの作品の参考文献はウィキペディア、「ネタバレ」「織田信長」「前田利家」「前田慶次郎」「豊臣秀吉」「徳川家康」司馬遼太郎著作、池波彰一郎著作、堺屋太一著作、童門冬二著作、藤沢周平著作、映像文献「NHK番組 その時歴史が動いた」「歴史秘話ヒストリア」「ザ・プロファイラー」漫画的資料「花の慶次」(原作・隆慶一郎、作画・原哲夫、新潮社)「義風堂々!!直江兼続 前田慶次月語り」(原作・原哲夫・堀江信彦、作画・武村勇治 新潮社)等の多数の文献である。 ちなみに「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく引用です。

「かぶき者」「傾奇者」と書く。「傾(かぶ)く」とは異風の姿形を好み、異様な振る舞いや突飛な行動を愛することをさす。
 現代のものに例えれば権力者にとってめざわりな『ツッパリ』ともいえるが、真の傾奇者とは己の掟のためにまさに命を賭した。そして世は戦国時代。ここに天下一の傾奇者がいた。
 その男の名は井伊直政(いい・なおまさ、幼名は虎松・仕官後の家康に万千代となづけられた)である。戦国時代末期、天正十年(一五八二年)早春………
 上州(群馬県)厩橋城(うまやばしじょう)に近い谷地で北条家との決戦をひかえ滝川一益の軍勢より軍馬補充のため野生馬狩りが行われていた。
「野生馬を谷に追い込んだぞ!」「一頭も残すな!ことごとく捕えよ!!」
 するとまさに大きく悠々しい黒い野生馬がこちらをみた。
 野生馬を長年見てきた農夫や百姓男たちがぶるぶる震えて「お……逃げ下さいまし」ひいい~っ!と逃げ出した。
「? 何を馬鹿馬鹿しい」奉行は不快な顔をした。
「御奉行あれを!」
 その黒い野生馬が突進してくる。「矢だ!は……早う矢を放て!」
 ぎゃーあああっ!たちまち三、四、五人が黒い野生馬に踏み殺された。うがあ!奉行は失禁しながら逃げた。
 徳川勢の拠点・厩橋城で報告を受けた徳川家康(とくがわ・いえやす、北条征伐を企てる豊臣秀吉の関東派遣軍の軍団長)は「恐るべき巨馬で土地の者の話ではなんと悪魔の馬と申すそうだ。その馬を殺せ、忠勝!」と城内で言う。
「ごほんん」「さもないとこの土地では馬は手に入らん」「これはお断りいたそう」本多忠勝は髭を指でこすりながら断った。
「悪魔の馬などを殺す役目…誰が引き受けましょうか。いくさ人は古来、験(げん)をかつぐもので、その馬を討てば神罰が下りましょう。命がいくつあっても足りません」
「軍馬が足りぬでは戦にならぬぞ」
 このとき突如として家康の『鷹狩り』の原野に、烏帽子直垂姿で尼姿の井伊直虎(義母・次郎法師)といて、平伏して見事な口上を述べ、徳川家康に仕官したのが井伊直政である。当然、徳川家には譜代の重臣たちがいたが、直政は仕官すると誰よりも大出世した。頭がいいのと武勇でしられ、どんぐり眼の色男である。のちに傾奇者で派手な服装にザンバラ髪で身の丈六尺五寸(一九七センチ)をこえる大柄の武士で家康の軍団にあってその傾奇者ぶりと棲まじいいくさ人ぶりで知られていた。
 眉目淡麗な色男であり、怪力で、器の広いまさに男の中の男である。
「そうだ、万千代にやらせましょう」
 直政ははははと笑い、「できませぬな。犬や猫なら殺せますがそんないい馬なら誰が殺せますか?殺すより飼いならして愛馬としたい」
「何だとこの赤鬼!今まで何人もの兵がその悪魔の馬に殺されとるのじゃぞ?!」
直政は、自分の軍団の甲冑の色を最近滅んだ甲斐・信濃の武田軍団にあやかって朱色・赤色に揃えていた。よって、家康は井伊直政を「赤鬼」と尊敬をこめて呼んだという。
「悪魔?」直政は嘲笑した。「悪魔と言えば織田信長じゃ。第六天魔王じゃとか?」
「これ!万千代、信長さまを呼び捨てにするな、そちの首がとぶぞ!」
 直政は聞く耳もたない。
 しかも暴れ馬を格闘することもなく本当に愛馬にして、「松風」と名前をつけて合戦に参加するのだからやはり井伊直政は凄い男だ。
 秀吉軍は北条軍と合戦しようという腹だ。
 巨大な馬に乗り、巨大な傘をさす男が北条方の城門に寄る直政である。
 北条方が鉄砲を撃ちかけると傘で防いだ。「な!あれは鉄傘か?!あの男、あんな軽々と…」
 北条勢は戦慄した。悪魔だ。敵に悪魔が、赤鬼が味方しておる。
 北条勢ががくがく震え、もはや戦意消失しかけているところに、北条氏邦の侍大将・古屋七郎兵衛という荒武者が馬で開いた城門から現れた。
「わしは古屋七郎兵衛と申す!貴殿、名は?!」
「井伊直政!つまらん戦で命を捨てるな!」
 たちまちに直政は古屋の片腕を斬りさった。
 だが、あっぱれなる古屋である。「北条魂、みせん!」古屋は自分の刀で自分の首を斬りすてた。
 おおお~つ!これで北条の戦意は復活した。
 直政は「北条武士も見事也!いずれ戦場であいまみれようぞ!」といい去った。
 まさに「傾奇者」である。


戦国時代末期、天正十年(一五八一年)天下の覇者・織田信長「本能寺の変」にて業火の中に自刃。天正十一年(一五八三年)織田信長の後継者と目された柴田勝家が「賤ヶ獄の戦い」において羽柴筑前守秀吉に敗北、北庄にて自ら腹わたをつまみだし凄絶なる自刃(後妻の信長の妹・お市の方も自刃)。秀吉は天下をほぼ手中にする。
 されどいまだに戦国の世は天下平定のための幾千幾万もの英雄豪傑の血を欲していた。そして、三河の徳川家に天下の傾奇者と名をとどろかせた伝説のいくさ人・徳川家康四天王のひとり、井伊直政がいた。
 戦国時代こそいくさ人にとって花の時代であった。
 天正十二年(一五八四年)大坂城。羽柴秀吉は天下にその権勢を誇示するがごとく黄金に輝く巨城大坂城を築いた。三河の雄・徳川家康は臣下の礼をとり築城の祝いに訪れていた。
 秀吉は猿みたいな顔で豪華な着物を羽織り、黄金の茶室にて徳川家康に茶を差し出した。
「で…家康殿。その傾奇者てにゃいかなるもんだぎゃ?!」
「はっ!」家康は困惑した。「ええ………その、なんと申しますか、異風の姿形を好み異様な振る舞いや突飛な行動を愛する者と申しますか」
 徳川家康、かつて小牧・長久手の戦で秀吉軍をやぶった知恵の武将であったが、今は、秀吉の軍門にくだり、三河の大大名、竹千代は幼名である。「例え御前でも自分の遺志を押し通す命知らずの大馬鹿者といいますか」
 秀吉は朝廷より関白の名代と賜り、もはや家康を除けば天下人NO.1であった。
「そうか、そんな骨のある傾奇者とやらにわしも会ってみたいのう」
 秀吉はにやりとした。まさにサル顔である。「そういやあ、お前さんの家臣の井伊直政とやらは天下に名をとどろかせる傾奇者だとか。一度連れて来い」
「は…はあされど…」
 家康は絶句した。
 あの傾奇者・直政が関白殿下の前で失礼の振る舞いを見せればさすがの自分の家禄も危うい。もうすぐ北条攻めが始まり、天下はおさまる。秀吉が家康をおそれ、豊臣の未来の為に家康を殺しておきたいという感情くらい、家康には手に取るようにわかっていた。
 そして古狸とよばれた家康は権謀術数の四天王の中でのちに「人格者の井伊直政」と後に呼ばれる前の直政の傾奇者の風体をひそかに案じていた。
 秀吉はもはや天下人。邪魔ものの家康の瑕疵をみつけて、葬る算段をしているのを家康は知っていた。だが、家康は直政を評価して「天下の傾奇者」と評して、今後、直政が、天下で傾いても罪にならぬという関白勅令を出した。
 井伊直政もすごいが、秀吉もさすがは天下の器である。


 時代は、室町幕府の力がおとろえて全国の戦国大名が群雄闊歩の争いを続けていた戦国時代、である。天文四年(1534年)、井伊直虎(幼名は不明・ちなみに本書では麗姫と名付ける)は「井伊谷」一帯を治める領主の家に生まれた(実際には生年月日は不明。『剣と紅』高殿円著作・文藝春秋出版、からの情報である。ちなみに高殿氏の小説の直虎の幼名は香・かぐ、であるようだ)。一人娘なので可愛らしい名で、大切に育てられたのだろう。
麗姫は、菩薩のような美貌であったが、一方で「物事の先を見通す」ような、妖力のようなものも持っていた。麗姫は数刻後の「驟雨」「暴風雨」「台風」を予見できた。
それによって、領民は麗姫に手を合わせて、神仏のように「ありがたや、麗姫さま。次郎法師さま」とご利益を祈るのであった。「わらわは神仏ではないというに」直虎は苦笑するしかない。麗は風のように馬を走らせ、駆ける。さながら戦国のジャンヌダルクの如し、であった。
この頃、地方に根ざして領土をもつ武士武家を国人領主(こくじんりょうしゅ)と呼んだ。井伊家は十五ほどの集落を治める国人領主だった。質素だが、平城もかまえていた。標高115mの小高い山に井伊谷城(今はなく城跡があるだけ)があった。


天正三年、土を肥やす蓮華草が田の中に彩りを添える二月の二十五日、家康は久方ぶりに鷹狩りをしようと浜松に向かっていた。
その途中、彼は奇妙な邂逅(かいこう・不思議な出会い)を得た。家康は道のすみで伏して自分を待ちかまえている者たちを認めた。よく見ると、尼一人に十四、五歳の元服前の子供である。
近習の縁の者ということで話を聞くと、これが驚いたことに家康の過去に深い因縁を持つ者たちであった。
「いまでもよう覚えとる。そなたは朱鷺(とき)色の直垂(ひたたれ)姿で尼御前に付き添われて、道の脇にじっと伏しておった。鳥のように黒い、おおきな目をしての」
『東照宮御実紀』にはこうある。「三年(一五七五)二月頃御鷹がりの道にて姿貌いやしからず只者ならざる面ざしの小童を御覧せらる」――猛将として知られる直政だが、意外なことにその容貌についての記述も多い。『太閤記』には、秀吉の母大政所や正室おねを岡崎で接待した際、直政のあまりの男ぶりに侍女たちまで熱狂した、とある。それほどまでの美男であった。
「まだ子供の顔だったが、付き添いの尼御前より背は高かった。見たところ義母どのは童女のように若かったが、ではもう…」
直政の義母について、家康は歳までは知らなかったが、記憶にある限りは、そばにいた尼はまるで彼の姉のように若かったように思う。
「某の父のめいで父とは兄妹同然であられた方です。八つまで、あのお方のもとで育ちました。確かに童女のように小さいお方でしたが、恐ろしいほどに先の見えるお方でした」
意味深なものいいを、直政はした。
「ほう、先を……?」
直政の義母の名は井伊次郎法師直虎という。もちろんこれは男名なので、彼女が井伊谷の領主を継いだときにつけたのだろう。
「井伊直盛(なおもり)どのの娘ごだな」
「御意にござりまする」
「そなたの父とは、許婚同士であったとか」
「祖父直盛には義母一人しか子がなかったため、叔父の子直親(なおちか)と婚約させて、家督を継がせようとしました。直親は某の父にございます」
「うむ」
家康は知っていた。直政の父親と義母次郎法師が、生まれながらの婚約者であったにもかかわらず、夫婦になっていないことも。直政が義母以外の女の腹から生まれたことも。
「して、先が見えるとは、いかなる意味か? 女の身で領主を継いだのだろう。物事の先を読むのに長けているという意味か」
「……というより、本当に二日三日先が見えておられたようです」
思いもかけぬ返答に、家康は喉がつまった。慌てて目の前の膳からみそ汁をとりあげ、汁をすする。家康はいつも一日一汁二菜の粗食だった。
「それは面妖な」
「義母は幼い頃、かの名僧黙宗瑞淵(もくそうずいえん)に、この娘はこの世を動かすだろうと予言されたと聞いておりまする。某が生まれるずっと前、まだ井伊家が祖父直盛のもとで安泰であったころは、井伊の総領姫は“”じゃと言われておったとか」
「…」
とはいわゆる“座敷童(ざしきわらし)”のことである。三河出身の家康にも聞き覚えがある言葉であった。
「義母どのは川の堤がいつ壊れるから直させよとか、三河から疫病が流れてくるので用心してあまり街道に近づくなとか、不思議なことをよく口にしていたそうです」
「なんと。義母どのはまるで戦の軍師のようではないか」
家康はあの小さな尼に、童女のような直虎に、そのような力があるとは考えられなかった。
彼女は直親の死後、幼なかった直政の代わりに急遽家督を継いだ。直虎は神仏のような能力があった?天下を動かすほどの能力を?もっていた?
(『剣と紅』高殿円著作、文藝春秋出版社参考文献文章引用 序章九~十二ページ)
話を変える。
秀吉方の前田利家に敵対する武将・佐々成政の軍は、前田利家の甥の前田慶次たちのわずかな手勢である末森城に籠城している軍勢を攻めていた。
 慶次は『大ふへん者』なるマントを着飾り、石垣を登り攻めようとする佐々軍勢にしょうべんを食らわせた。
 普通の武将でも戦場になればいちもつは縮こまり、しょうべんどころか大便さえでないほどになるのが普通である。
 だが、慶次のいちもつはおおきく、しょうべんもじゃあじゃあ出る。
 さすがは「傾奇者」である。
 籠城戦の末に前田利家たちの援軍がきて、佐々成政は白旗をあげて秀吉の軍門に下った。
 面白いのは慶次の行動である。
 恩賞を媚びるでもなく、加賀の城(尾山城・金沢城)で例の巨馬にのり、天守閣の利家に向けてケツをむき出し、オナラをして「屁でも食らいやがれ!」という。
 かつて秀吉が賤ヶ獄で籠城する柴田勝家に尻をむけたが、慶次もそれをやった。
「慶次! おのれ信長さまの甲冑を持ち出したことを詫びぬどころか…尻を向けやがったな!」
 利家は激怒するが、慶次は平気の平左である。
 そのまま加賀金沢城下も出て脱藩、京に行き京で「天下の傾奇者・前田慶次」と畏怖されるまでになるのである。


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