長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

安保の城の妖怪 岸信介伝<安倍晋三の祖父・岸信介の安保闘争と革命>アンコール連載8

2015年03月03日 07時36分42秒 | 日記











話は変わる。
「これは旅の支度金だ。取っとけぇ」
 残雪うずたかい二田村に戻ると、フメは角栄の上京をよろこんだ。
「そげなもんいらね、金はあるでそ」
 角栄は小柄な胸を張りいった。
 苦しい世帯を支えているフメから金をもらう気はなかった。
「金はあって困るもんじゃないべ」
「かあちゃんから金もらったら悪いべさ」
「ええさ、お前が月給の中から仕送りしてくれた金は、手ばつけんで積み立ててたんだ」フメはためていたという金の中から、十円札を差し出し、角栄に渡した。
「これを腹巻に入れとけや。なくすでねぇぞ。死んでも無一文じゃ笑われる」
 当時の十円札は、いまの十万円より価値があったという。
 十六歳の角栄にフメは処世術を教えた。
「大酒は飲むな。馬はもつな。できもしねぇ大きなことはいうな」
 これは散々なやまされた角次の癖だった。
 そしてフメは続けた。
「人は休まねば体いためる。だども休んでから働くか、働いてから休むかとなれば、働いてから休むようにしろ。悪いことをしなけりゃ暮らしていけなくなったら、すぐに家に帰ってくるんだ。金を貸したひとの名は忘れてもいいが、金を借りたひとの名は忘れちゃならねえど」
 昭和九年三月二十七日午前九時、角栄は柏崎駅から、信越線回り上野行きの列車で、東京へ出発した。
 晴れ渡った青空で、天気がいい気持ちのいい日だった。山の頂きにはまだ雪が見えていた。角栄は手を振って見送りの皆と別れたが、寂しさが全身を襲った。しかし、
 ……いよいよ上京か…
 と思うと、また興奮もするのであった。

  上野の駅につくと、タクシーにのった。
 さしあたっての落ち着き場所は、日本橋の井上工業という土建会社の東京支社である。   柏崎の土木派遣所に同居していた、産米検査所の尾崎さんの義弟、吉田猛四郎という人物が支店長である。尾崎さんが斡旋してくれた。
 フメが、「電車やバスにのらずタクシーに乗れ。行く先を紙に書いて渡せば連れてってくれる」といったからタクシーに乗ったのだ。しかし、十分も十五分もタクシーは走り続ける。不安になったが角栄は運転手を信じていた。
 どこかでタクシーは止まった。
「ここでおりろ」
「いくらです?」
「五円だ」
 冗談ではない、と「そんな金はない」と角栄は口走った。
「そうか。じゃあ交番へいこう。下りろ」
 ビルの前に本当に交番があった。仕方なく五円払い、井上工業に電話するとすぐ近くだという。東京で「おのぼりさん」扱いされてひどい目に遭った訳だ。
 傷心の角栄は、井上工業の吉田支店長とあい、親切にしてもらいなんとか元気を取り戻した。支店長の働きで、住む場所も決まった。
 田舎で大きな建物といえば群役所と小学校くらいである。
 東京は巨大な高層ビルが建ちならび、別世界である。
 …ふわぁ。
 角栄は感嘆の溜め息をもらした。
 東京にくるまで角栄は、大河内という人物にあえばすべてうまくいくと信じていた。
 親切な書生さんや女中がとりもってくれ、屋敷に住まわせてくれ、しかるべき上級学校に通わせてくれる………
 しかし、理化学研究所の所長で「殿」とよばれている大河内はあってくれない。
 ……タクシーの運転手にも騙される俺だ。殿様などとよばれてる所長にあえる訳ねぇがそ。これはどうにもならねぇ。俺のような小僧っ子が会えるわけもないのですけぇ。
 帰りのバスの中で、角栄は考えた。
 ……このままでは田舎にトンボかえりだ。目算が狂った。こうなりゃ井上工業の東京支店で働かせてもらうしかねぇ。俺は田舎で土木工事もやった事務もやった。
 ……このまま東京に残るには働くしかねぇべ。
 さっそく井上工業の東京支店長・吉田は、
「いいだろう。ここで働きなさい」と承諾してくれた。
 井上工業の東京支店は日本橋にある木造三階建で、社長は井上保三郎という、群馬県高崎市を代表する名士であったという。
 角栄は働きながら学ぶため、当時夜間専門の私立中央工業校の土木科に入学することにした。昼は土木作業で汗を流し、夜は学ぶのである。
 通学をはじめると、講義録をあらかじめ勉強しているのが役にたち、工業英語の暗記にいささか骨を折ったくらいであった。数学は得意で、代講をつとめるほどだった。楽しく学べた。
 しかし、仕事のほうはきつかった。
 井上工業にはもうひとり小僧がいた。田中角栄の刎頸の友と呼ばれる入内島金一という男である。
 入内島は角栄より二才年長で、新宿の工学院(のちの工学院大学)の土木科へ通っていた。角栄らは午前五時に起き、六時までに掃除をおわし、朝食後すぐに土木現場へと向かった。夕方五時まで働き、授業は夕方六時から九時までの三時間であったという。
 入学して間もない頃、角栄は自転車に乗ってスピードを出していたところ路面列車に轢かれた。運転手は大声でどなったが、角栄にはいいかえす余裕もない。
 血がでてすりきれた脚を引き摺り、車輪が曲がった自転車を押しながら、角栄は歩いた。その惨めな記憶を角栄は晩年まで忘れなかった。
 角栄は工事現場で汗を流した。
「そこのパイプもってこい!」
「あいよ!」
 角栄は「世の中暇だなぁ」と呟いた。
 金一も「まったく」と頷いた。
 このとき、金一はそういった小僧が、いつの日か一国の首相になるとは思ってもみなかったことだろう。しかも、「闇の将軍」として政界に君臨するなど、この男がそうなる訳はない………誰だってそう思うだろう。
 土木工事現場で働き、夜学にかよう越後からの少年が、よもや首相になろうとは……
  ある時、角栄は深夜、自転車で新橋を猛スピードで走っていた。
「おい! まて!」
 そんな角栄を巡査がとめた。
「……なんだず?」
「無灯火だ。署までこい」
 自転車のランプをつけ忘れていた。が、角栄はひるむことなく、
「私は夜学に通っていて、いずれはお国のために役立つ人材になります。無灯火くらい勘弁して下さい」
「いや勘弁ならん! こい」
 巡査は息巻いた。
 角栄は今度は下手に出た。「どうもすいません。無灯火とは気付かなかったんです。どうが許してください」
 すると、あれだけ激怒していた巡査が、
「まぁいい。次から気をつけるように」と丁寧にいった。
 角栄は相手の”物差し”を見て取ったのである。自分は職人を集めようと急いでいた。しかし、巡査は暇をもてあましていた。
 こうして、角栄は人間の扱いを覚えるようになる。
  しかし、”お国のために役立つ人材”どころか角栄は只の土木作業員である。
 ある時、会社の男が「小僧、お茶もってこい」という。
 すると角栄は激昴し、
「俺は親会社から派遣されているんだ。本当ならお前たちが俺にお茶を出すのが普通だ」 その言葉に、上司の頑強な男たちはいきりたった。
「なんだと、この野郎!」
 しかし、角栄がシャベルを手にして構えたため乱闘にはならなかった。

  一ケ月住込みで早朝から深夜まで働いて、給料はわずか五円である。
 工学校の月謝三円五十銭を納め、本を買い、なおかつ測量の機械を買う余裕はない。
 毎日、長時間重労働して夜学に通うと、どうしても眠くなる。
 角栄は掌に刃物や鉛筆の芯を置き、眠ったら刺さって起きるようにした。あるとき、やっぱり眠ってしまい、鉛筆の芯が右手の親指にかなり深く刺さった。
 医者にいく金がないためそのままにしたが、黒ずんだ跡が晩年まで残ってしまった。
 土木工事が嫌になった角栄は、学校と会社を辞めることにした。
 角栄は新しい仕事を探すべく、新聞の広告覧を読みあさった。
 世の中は不景気というのに、井上工業より多い報酬をくれる勤め先をみつけるのには苦労はしなかった。
 角栄は求人広告の応募し、小石川水道端の小山哲四郎という人の書生となって住み込むことになった。
 小山は富山県人で「保険評論」という雑誌を発行している学者であったという。小山老人は若い二人の記者を使い、業界では高く評価される雑誌をつくっていた。
 角栄は記者見習いとして働くようになった。かれは保険の知識や財務、株式などの知識を勉強していった。
 数学の得意な角栄は、保険数理学者になろうと考えたこともあった。
  半年ほど小山老人の元で働いていたとき、故郷の姉から手紙が届いた。母フメが病床についているという。
 無口で重労働に堪えていたフメが病床にあるということはかなり重病なのだろう。
 角栄は、小山の妻に
「すぐ見舞いに帰りたいと思います。五、六日休暇を下さい」と頼む。
 賃金の安さに加え、新潟にかえりたいばかりに、ニセ手紙を書いたのだろうと思われ、休暇を許してもらえない。
 角栄は直接小山に頼もうと思ったが、とっさに気が高ぶり、いってしまった。
「それでは今日かぎり退職させていただきます」
 角栄はその日の宿もないので、新潟から帰るまで荷物を小山のところへおいてもらうことにした。
 かれは夜、新潟行きの蒸気機関車にのる前、新聞に広告をだした。
「夜学生、雇われたし。住込みもよし」
 返事は小山事務所あてにもらうことにしたという。
 勤務先を次々とかえる十六歳の少年には下積みをする気などさらさらなかった。天に登る龍のように、上昇思考があった。
 ………なんとしても成功をおさめたい!
 角栄はその気持ちでいっぱいだった。エネルギーといってもいい。
 角栄が帰宅すると、フメはひさびさに息子の顔をみて元気をとりもどした。フメは働きすぎで疲労のため寝込んでいただけだった。その夜は、角栄のために料理をつくるといって、きかなかったほどだ。
 東京に戻って不安になりながら小山事務所を訪ねると、五、六枚の葉書がきていた。
 早くきめないと今夜の寝所もない。いそいで芝琴平一番地の高砂商会をたずねることにした。
 高砂商会は、琴平神宮の裏手で、虎の門公園と道ひとつへだてた古い店だった。
 しかし、角栄はこんどの就職には成功した。
 高砂商会は、貿易会社で、アメリカのスチールウール研磨材の輸入元で、全国に卸している。高級カットガラスも輸入し、高島屋、松坂屋などに卸している。
 社長は五味原太郎で、あとは妻と暁星中学に通う長男とその妹だけであった。
 角栄は夜学に通わせてもらうのを条件に、住込みで働いた。
 報酬は月十三円。井上工業の倍近い………
 角栄はラッキーに思ったことだろう。
  角栄には忘れられない記憶がある。
 ある日の夕方、ガラスカップの注文をうけた。角栄は、夜学に遅刻するのを覚悟でいっぱいのガラス瓶を自転車の荷台に乗せて走らせた。すると、転んだ。
 ……しまった!
 と思ったときにはもうおそかった。
 荷台のガラス瓶は粉々に砕けていた。角栄はひとりで店にもどり(主人は留守だった)もう一度ガラス瓶を荷台につけて運んだ。運びおえると、遅刻したが夜学には間にあった。 角栄はその翌日、すべてを話した。
 われたガラス瓶の値段は、給料の二、三ケ月ぶんはする。
 角栄は謝りに謝った。
 しかし、主人は優しかった。
「怪我がなくてよかったじゃないか。気にすることはない」
 角栄はありがたく思った。
 そして、角栄は「不注意による他人のミスは咎めないようにしよう」と心に決めた。
昭和5年、満州事変(侵略)がおこり、さらに上海事変(侵略)、同年には日本軍の傀儡政権、満州国が建国された。
 青年将校たちが犬養毅首相を暗殺した五・一五事件がおこったのはこの頃である。
 角栄は海軍将校になりたくなった。
 仕事も好転してきたので、角栄は村にもどりフメに相談した。
 フメは海兵進学を即座に承諾した。
「おめぇはしっがりした子だがら、なにしても間違いはねぇ。海軍にいくことは賛成だがら、好きなようにやれ。家のことは心配するな」
 角栄は海軍兵学校に入隊する準備は出来ていた。
 しかし、途中で断念している。
 母フメがまた病気になったからである。
 角栄は高砂商会を辞めていたので、建設や数学の知識をいかそうと専門学校か大学にいく気でいた。しかし、それは諦め、さしあたって駒込千駄木町の中村勇吉建築事務所に勤めるようになった。
 角栄は少し遅れて、名古屋高等工業学校を卒業した。

  大河内「殿」が新潟の柏崎に広大な土地を買い、ピストリング製造工場を設立したのは、昭和七年であった。大河内は新潟に何度もくるうちに「新潟は第二の故郷だ」とまで思うようになっていったという。
 そんな先生に近付きたい……角栄はそう思っていた。
 最初、書生にしてもらいたいと思ったのはそのためだ。
 理研のエレベーターで、角栄は大河内と一緒になった。いや、角栄は一緒になるタイミングを狙っていたのだ。
 何も話せなかったが、大河内の風采にみとれた角栄は、胸が熱くなるような衝撃を覚えた。全身の血管の中を、なにか熱いものが駆けぬけるような……
 やがて、角栄は大河内を攻略した。
「君はいまでも理研に入りたいか?」
 越後訛りの少年に、老人はきいた。
「はい!」
 角栄は大きな会社に就職できた。
 いまの学歴社会の日本では考えられない幸運である。現実として今の日本だと高卒では「事務職」には絶対につけない。”腰掛け”の女子高校生なら事務でもいいだろうが、男の場合は大学を出てないと必ず不採用になる。
 事務職で面接にいっても「事務職もうやってない」などと嘘をつかれたり、「じゃあガソリン・スタンドで…」などといわれる。
 だから著者も苦労した。角栄だって苦労したろう。
 しかし、角栄はラッキーだった。

  その頃、角栄は駒込三丁目のアパートに住んでおり、愛人までいた。
 角栄は昭和十三年末、盛岡騎兵第三旅団二十四連隊第一中隊に、現役兵として入隊するという通知を受けた。
 アパートの荷物を田舎におくるため、すぐ上の姉フジエが上京した。フジエは角栄の部屋に女性がいるので驚いたが、なにもいわない。
 フジエはその夜から角栄と愛人の間にはさまれて川の字になって眠った。
 フジエとその女性は荷物をまとめた。角栄は愛人にたんまり金を与えた。
 角栄が東京にもどると、荷物を新潟に送ったのか部屋はがらんとしていたという。
  盛岡騎兵第三旅団二十四連隊第一中隊に入ると、隊は広島へ向かい、そののち九州を経て、北朝鮮の羅津港へむかった。
 角栄は家を出るとき、二百円ほど金をもっていたが、大阪、広島で遊び、ほとんど使ってしまったといわれる。
 軍曹は角栄に尋ねた。
「もっとほかにあるのか?」
 もしあれば拳骨を食らうと察した。軍曹はからの財布から写真をみつけた。
 それはアメリカの女優ティアナ・ダービンの写真だった。軍曹は角栄を睨みつけ、
「これは誰だ?!」ときく。
「自分の好きなタイプの女性であります」
「なぜこんな写真をもってきたのだ?」
 角栄は言葉につまったが、頭に浮かんだことを口にした。
「こんな女を、将来自分のワイフにしたいと考えております」
「馬鹿ものーっ!」
 軍曹はその言葉をきくなり激昴し、角栄を拳骨で殴り倒した。
 角栄は運がいい。
 軍隊に従事していて前線におくられるものの病気になり、本国に送りかえされ、仙台で療養した。そのあいだに太平洋戦争は終結したのである。
 日本帝国は敗れた。
 しかし、角栄は戦死することもなく、命拾いをしたのである。
 田中角栄という男は、どこまでも運がいい。

        3 挫折をこえて


          天子誕生と戦争






  立憲君主と大元帥……
  慈悲深い立憲君主と大元帥……                  
 これが昭和天皇・裕仁(1901~1989)の名称である。
 しかし、実のところは白馬にまたがり軍部の前であやつられるパペット(操り人形)に過ぎなかった。日本人には驚きだろうが、かの昭和天皇は、ヒトラー、ムッソリーニと並ぶ第二次大戦の大悪人のひとりなのだ。                             
 しかし、崩御(死亡)のさい、日本のマスコミはこのことにまったく触れなかった。
 ……死んでしまえば「いいひと」とでもいいたげにお涙頂戴の報道に徹した。
 NHKを初めすべての報道局が昭和天皇の死を報道したが、戦争犯罪に触れたものはひとつとしてなかった。世界はこれに呆れたことだろう。
 先の戦争でも昭和天皇は「もう一度戦果をあげるのがよろしそうろう」などと沖縄戦の一ケ月前に「お言葉」を述べている。
 太平洋戦争末期に出来た近衛内閣の近衛文磨首相は「最悪なる事態は遺憾ながら早々必要なりと存候。一日も早く戦争終結を申し候」と述べた。
 しかし、神の子・天子である天皇は人間らしいことは何もいえない。只、「無駄な血が流れなければよいが…」と他人事のような「お言葉」を述べるだけだ。
 熱しやすい軍部は暴走して、「一億総玉砕!」などと泥沼にひきずりこもうとする。
 これは太平洋戦争の二十数年前に遡らなければならない。


  明治天皇は紙に主色のペンで、”裕仁”と書いた。
 それが病弱な嫡男の皇太子(のちの大正天皇)の嫡男の名前である。
 昭和天皇(裕仁)は、一九〇一年(明治三十四年)、四月二十九日に産まれた。父は大正天皇となる皇太子である。その他に妻(良子・香淳)、弟君が擁仁、宣仁、崇仁といる。こののちの昭和の息子が平成天皇明仁(皇后美智子)常陸宮正仁(妻・華子)であり、孫 徳仁(妻・雅子、子・愛子)秋篠宮文仁(妻・紀子、子・眞子、佳子、悠仁)紀宮清子(05年、民間に嫁いだ)などである。(妻(良子・香淳)平成12年6月16日死亡享年97歳) 昭和天皇が生まれたとき、時代は混沌としていた。苦悩する世界。世界的な孤立とあいつぐ企業倒産、大量の失業者、夜逃げ、身売り、政治不満が吹き荒れていた。
「私は天皇家の長男として生まれた。殿下の希望の天皇にもなった。父は非常に有能なひとであった。が、病弱ですぐに風邪をおひかれになられた。父と曽祖父はすぐれた審美眼の持ち主で、日本や中国の美術工芸品の収集に没頭していた。(中略)本業をおろそかにし、日本の経営をひとまかせにしていたため、事業は衰退の道をたどったのである」
 1908(明治四十一)年四月、裕仁は学習院初等科に入学した。院長は日露戦争の英        
雄でもある乃木希典陸軍大将である。
 十歳頃になると、もう帝王学を習いはじめ、事務や税務、事業、憲法、もろもろの”いろは”を手ほどきをさせられた。会議、部下からの報告、打ち合わせ、中学生になるともっぱら事業で一日が過ぎてしまったそうである。
 大正天皇は、お抱えつきのアメリカ車、ビュイックで出掛け、家の中にはすでに外国製の電気冷蔵庫や洗濯機が置かれてあった。
 皇后は、クラシック音楽が好きで、レコードを聴かせた。家には、小さい時からビクトロンと呼ばれる古い手回し式の蓄音機があったが、アメリカから電気蓄音機が輸入されるようになるとすぐに買い入れた。日本では第一号であったという。
 1912(大正元年)年、明治天皇が崩御した。それにあわせて乃木将軍は夫婦で後追い自殺を遂げている。裕仁の父は天皇……大正天皇となり、裕仁は皇太子となった。
 あわせて陸軍小佐にもなっている。
 裕仁は東宮学院で帝王学を学んだという。教えるのは東宮御学学問所総裁東郷平八郎である。帝王学と軍事兵法……
 1921(大正十)年、昭和天皇は皇太子としてヨーロッパを視察した。船でいき、第一次世界大戦後のヨーロッパをみてまわった。オランダ。ベルギー、イギリス……
 立憲君主として学ぶためだった。
 しかし皇太子は「……本当にこれでよいのだろうか?」と思っていたという。
 1926年(昭和元年)、つまり病気だった大正天皇が崩御して、皇位を継承した。元号は昭和となり、裕仁は昭和天皇となった。
 視力が悪くなり、眼鏡をかけ、国民の前にも姿を見せない。そんな天子さまは軍事色に染まっていく……
 1930年(昭和5)年4月、ロンドンで軍縮会議が始まった。このとき、「相当権干渉」と日本軍部が騒ぎ始めた。この頃から熱しやすい軍部と日本国民は軍事色の波にのまれていく。それはドイツでも同じであった。
  アドルフ・ヒトラー(ナチス党党首・総統)は画家になりたかった。パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(ナチス党宣伝大臣)は作家になりたかった。
 しかし、ふたりとも夢をかなえることは出来ず、右翼的思想を持ち、ナチスとしてさまざまな虐殺にかかわっていく。挫折が屈折した感情となって、侵略、虐殺へとむかった訳だ。その結果が、ユダヤ人を六〇〇万人も殺す原因となった。
 ゲッベルスは作家になりたかったが、誰も彼を認めなかった。(大学の国文学博士号を取得していたが)とうとう何にもなれず、定職にもつかず、金欠病に悩まされ続けたという。そんな若者は、藁をもすがる思いでナチス党のポストにしがみついた。
 そして、”宣伝”という武器で、ナチスの重要な人間にまでなる。
 しかし、それはまだ先の話しだ。
 アドルフ・ヒトラーもまた、苦労していた。
「私が画家になれないのは……画壇や経済を牛耳っているユダヤ人たちのせいだ! 憎っくきジュー(ユダヤ人)め!」ヒトラーは若かった。自分の力不足をユダヤのせいにした。とにかく、ユダヤ人が世界を牛耳っている……かれはそう考えていた。
 ユダヤ人たちを殺さなければ、わがドイツに未来はない!
 ヒトラーは屈折していく。
 しだいに彼は絵を描かなくなって、政治活動に目覚めはじめる。とにかく、偉くなってやる、とういう思いがヒトラーを揺り動かしていた。つまり、全部”己のため”である。 ヒトラーは「ユダヤ人たちを殺さなければ祖国はダメになる」といって憚らなかった。 呑むとかならず「ジューどもを殺す! それがドイツの再建だ!」とまでいった。大學を出ていないかわりに本を乱読して知識や軍略を学んだという。
 そして、ヒトラーは”武装蜂起”を考えた。
 自分の意のままに動く組織をつくり、そのトップにたつ。そうすれば自分の政治指針は完成する。団体名はNSDAP(ナチス)、旗印は……
 ヒトラーは閃く。日本の神社の称記号「卍」、これを横に傾けて…ハーケン・クロイッツ(鉤十字)だ。色は赤と白にしよう。主義はナチズム、つまりドイツ第三帝国をつくり、ユダヤ人たちを一掃し、祖国をヨーロッパ一の大国にする。
 ヒトラーにはそれはとても簡単なことのように思えた。それにしてもこんなにおいしい計画なのに、なぜ自分の目の前でバラバラになってくずれてしまうのだろう。どうして、アドルフ・ヒトラーの耳のまわりでばらばらになって倒れてしまうのだろう。
 共産党もヴァイマール政権も糞くらえだ!
 失業者や餓死者を出すかわりに、祖国を再建するとか、ビルを建て直すとかしたらどうなんだ?!
  1920年代のドイツ・ベルリンは、まさにカオス(混沌)であった。
 第一次大戦の敗北によりすべての価値観は崩壊していた。インフレにより金は紙屑にかわり、大量の失業者があてもなく街をうろついていた。女たちは生きるために街角に立ち、人間的な感情は夜毎、乱痴気騒ぎの中でお笑いの対象となった。
 絶望と餓死がベルリンを飾っていた。
 ヒトラーは意を決する。
「よし、”武装蜂起”だ! NSDAP(ナチス)を決党し、ドイツを再建するのだ!」  それは、人々の絶望の中でのことであった。
 ナチスは人々に”今日と明日のパン”を約束した。輝かしい未来、”ドイツ第三帝国”をも……人々の飢餓に訴えたのである。
 街角には共産党とナチスたちがうろうろしてアジを張るようになる。
「ドイツ共産党です! 今こそドイツに革命を! ヴァイマール政権を倒し…」
「だまれ共産党め! 我々NSDAP(ナチス)に政権を! 敗戦の屈辱をはらし 再び大ドイツ帝国を…」
「売国奴! 楽隊、”ホルスト・ヴェッセル”をやれ!」
「ナチスを黙らせろ! 楽隊”インター・ナショナル”だ!」
 まさにカオス状態だった。
 ヒトラーの「わが闘争」は始まった。
「はやく武装蜂起を!」ハインリヒ・ヒムラーは焦っていった。ナチス党のNO2である彼は、のちにユダヤ人六〇〇万人を殺す首謀者となる。彼等はナチス党の本部にいた。
 ヒトラーは「まぁ、待て」と掌を翳してとめた。「まずは政党として正式に認められなければならない。まず、選挙だ」
「しかし…」ゲッベルスは続けた。「勝てるでしょうか?」
「そのために君に宣伝係になってもらったんだよ」ヒトラーはにやりとした。「国民は飢えている。”今日と明日のパン””輝かしい未来”をみせれば、絶対にナチスに従うに決まってる」
 ゲッベルスはにやりとした。「プロパガンダを考えます。まず、庶民の無知と飢えに訴えるのです」
「うむ」
「まず、人間の”値札”に訴えなければなりません」ゲッベルスはにやにやした。「”値札”とは人間のそれぞれのもつ欲求です」
「欲求? 金か?」ヒトラーは是非とも答えがききたかった。
「そうです。ある人間にとっては”金”でしょうし、また”正義感”、”名誉”、”地位”、”女””豪邸”……その人間が求めているものにアピールしていけば九十九%の人間は動かせます」
 ゲッベルスは『プロパガンダ(大衆操作)』について論じた。
 この頃は、まだプロパガンダについての研究は浅く、しかも幼稚であった。しかし、勉強家のゲッベルスはあらゆる本をよんで研究し、プロパガンダの技を磨いていた。
「ゲッベルス博士、頼むぞ。わがナチスに政権を! ヒトラーを総統にしてくれ」
 ヒトラーは握手を求めた。ゲッベルスとヒトラーは握手した。
 こうして、ナチスは政権をとるために、動きだした。
 一九三三年、ナチス・ヒトラーが政権を奪取…
 一九三六年、ドイツ軍非武装地帯ラインラント進軍…
 一九三八年、オーストリア併合
 ……「ハイル・ヒトラー! ハイル・ヒトラー!」
  (ヒトラー万歳)という民衆がナチス式敬礼で興奮状態だった。

  一九三二年、日本帝国は世界の反対をおしきって満州国という傀儡国家を作った。国際連盟はこれを非難、翌三三年連盟はリットン調査団の報告書を採択、満州国不承認を四十二対一、棄権一で可決した。一は当然日本、棄権はシャム……
 日本は国際連盟を脱退した。
 そのときの様子を日本の新聞は”連盟よさらば! 総会勧告書を採択し、我が代表堂々退場す”と書いている。これを機に日本は孤立し、ヒステリーが爆発して「パールハーバー(真珠湾)」攻撃にふみきる。結果は完敗。
 当時の世界情勢をきちんとみていれば日本はあんな無謀な戦争に突入するはずはなかった。しかし、現実は違った。軍部によってつくられた戦闘ムードに熱しやすい国民は踊らされ、破滅へと走った。そこにはまともな戦略もヴィジョンもなかった。
 あるのは「大東亜共栄圏」という絵にかいた餅だけ……
 その結果が、アジア諸国への侵略、暴行、強姦、強盗、虐殺である。
 その日本人のメンタリティーは今もかわらない。
 国会や世俗をみても、それはわかる。
「日本は侵略なんてしなかった」だの「南京虐殺などなかった」などという妄言を吐く馬鹿があとをたたないのだ。
 最近ではある日本のマンガ家がそういう主旨の主張を広めている。
 戦争当時も盛んにマンガや映画やラジオで、同じように日本とナチスとイタリアは戦闘ムードを煽った。現在となんらかわらない。
 プロパガンダに踊らされているだけだ。

  昭和6年に『満州事変』が勃発した。事変……などというと何か自然におこったことのようだが、ハッキリいうと日本軍による侵略である。1932年(昭和7年)には満州国という日本軍の傀儡政権国が成立する。
   浜口首相暗殺の後の後継者は若規となったが、人気がなく、ついに犬養毅が昭和6年(1931)12月13日、第29代首相となった。大蔵(現・財務省)大臣には高橋是清が就任した。
 犬養毅は軍縮をすすめようとした。そこで軍部からの猛反発にあう。
「満州は仕方ないとしても、中国との関係をよくしなければならない」
 しかし、またも軍部が暴走する。
 昭和7年(1932)2月9日 前大蔵大臣・井上準之助が暗殺される。続いて3月5日には三井の会長が暗殺。そして、ついに5月15日午後に軍部の若手将校たちが首相官邸に殴り込む。将校たちは警備の警察菅たちを射殺していく。そして、ついに犬養毅が食堂で発見される。将校は拳銃を向けて、トリガーを引くが弾切れ。
「まぁ、待て。話せばわかる」犬養毅はいった。
 しかし、午後5時30日頃、将校が「問答無用!」と叫び、犬養毅に発砲して殺した。
 世にいう”五・一五事件”である。
 事件を起こした青年将校たちの90%もが東北などの貧しい地方出身者であったという。 自分の妹や親戚の娘が売春宿に売られ、大凶作で餓死者が続発しているのに恨みを抱いての事件だった。
 斎藤実海軍小佐が犬養毅の後の首相に。これで事実上、政党政治がダメになったのだ。軍部が実権を握った瞬間だった。斎藤は満州国を認め、昭和8年(1933)3月、日本は国際連盟から脱退した。…すべては軍部のためである…………
  この当時、世にいう二・二六事件が勃発していた。
 昭和11年(1936)2月26日、軍の若手将校一団が徒党を組み、斎藤実や高橋是清らの邸宅を襲撃し、暗殺した。そして、次の年には日中戦争が勃発した。
 昭和天皇はいう。
「これまでのところ満州国はうまくやっているようだが、万一のときにそなえて仇義をかかさぬように…」
 天皇は米英の軍事力を心配していた。のちの山本五十六のように欧米の軍事力と日本の差を知っていたからだ。ならばもっとましな策を考えればよさそうなものだが、神の子としての天皇に、「人間的な言葉」は禁じられていた。
 ただ、「であるか」という「お言葉」だけである。
 今でいう、カリスマ・ジャーナリスト(勝海舟や森鴎外、山本五十六、中曽根康弘、東篠英機などと親交)徳富蘇峰(とくとみ・そほう)はTVがなかった時代、ラジオで、
「アメリカ人たちに一泡ふかせてやれ! あいつら天狗どもをぶっつぶせ!」とアジる。そして、蘇峰は天皇の『開戦』の詔まで執筆する。
 昭和12年(1937)7月7日には盧溝橋事件(侵略)が勃発して本格的な日中戦争になった。昭和天皇は軍部の暴走を止められない。
「重点に兵を集めて大打撃を加えため上にて(中訳)、速やかに時局を収拾するの万策なきや」昭和天皇は戦争の早期終結を望んでいた。
 しかし、パペットには何もできはしない。
 昭和13年(1937)11月、皇居内に大本栄が設置される。天皇は国務と統帥に任ぜられた。といっても”帽子飾り”に過ぎない。
 昭和15年(1940)6月、ナチス・ドイツがパリに入城した。つまり、フランスがやぶれてドイツが侵略したのである。ヒトラーはシャンゼリゼ通りをパレードした。ナチスの鍵十字旗が翻る。ナチス式敬礼……
 日本は真似をした。原料補給のための侵略は日本軍部にとっては口実だった。
 同年9月、日本軍は北部仏領・インドシナに侵攻した。
 昭和天皇は呟く。
「私としては火事場泥棒的なことはやりたくないが、認めておいた」
 それは心臓がかちかちの岩のようになり、ずっしりと垂れ下がるかのようだった。
 ……朕は無力ぞ……
 そして、日独伊三国同盟が成立される。悪のトライアングルである。
 昭和天皇は帝国日本の象徴として、白馬に跨がって軍事パレードを行った。
 昭和16年(1941)4月、日ソ中立条約が成立した。つまりソ連(現・ロシア)と中立にいると日本側がサインした訳だ。
 昭和16年(1941)7月には、日本軍は、南部仏領・インドシナに侵攻した。米国のフランクリン・D・ローズヴェルトは日本への石油輸出を禁止。日米関係は悪化した。
 昭和天皇はいう。
「外交による戦争回避をしたかったが、御前会議で軍部が猛烈な戦争運動を展開。もっともらしい数字をあげて戦争には必ず勝てるという」
 天皇はパペットに過ぎない……
 米国国務長官コーデル・ハルによる命令書『ハル・ノート』が出される。東篠英機は何とか戦争を回避したかった。昭和天皇も同じだったろう。
 しかし、統帥部(陸軍統帥部と海軍統帥部)の暴走に負けた。東篠は天皇に開戦の言葉を述べながら号泣したという。すべての運命はここで決まった。破滅の道へ……
 そして、
 昭和16年(1941)11月「大海令」……日本は戦争の道を選んだ。




         エリザベスとローズヴェルトの死






「大変です! 副大統領閣下!」
 合衆国ニューハンプシャー州に遊説のために訪れていたトルーマン副大統領に、訃報がまいこんだ。それはあまり歓迎できるものではなかった。
「なに?!」
 トルーマンは驚きのあまり、口をあんぐりと開けてしまった。
 ……フランクリン・ローズヴェルト大統領が病いに倒れたというのだ。
 ホワイトハウスで病の床にあるという。
「なんということだ!」
 ハリー・S・トルーマンは愕然とし、しきりに何かいおうとした。
 しかし、緊張のあまり手足がこわばり、思う通りにならない。
「とにかく閣下……ホワイトハウスへ戻ってください!」
「……うむ」
 トルーマンは唸った。

  トルーマンの出身地はミズリー州インデペンデント。人口は一万人に過ぎない。1945年わずか三ケ月前に副大統領になったばかりである。
 ホワイトハウスでは、ローズヴェルトが虫の息だった。
「大統領閣下! トルーマンです!」
 声をかけると、ベットに横たわるローズヴェルトははあはあ息を吐きながら、
「ハリー…か…」と囁くようにいった。
「閣下!」
 トルーマンは涙声である。
「…ハリー……戦争はわれわれが…必ず…勝つ。センターボード(原爆の暗号)もある」「センターボード?」
 ローズヴェルトはにやりとしてから息を引き取った。
 1945年4月のことである。
 すぐに国葬がおこなわれた。
 トルーマンは『原爆』について何も知らされてなかった。
「天地がひっくりかえったようだ」
 トルーマンは妻ベスにいった。「わたしがアメリカ合衆国大統領となるとは…」
「…あなた……ついにあなたの出番なのですね?」
「そうとも」                        
 トルーマンは頷いた。「しかし、センターボードとは知らなかった」
「センターボード?」
「いや」トルーマンは首をふった。「これは政府の機密だ」
 ……センターボードこと原爆。その破壊力は通常兵器の何百倍もの破壊力だという。
「ドイツに使うのか? 原爆を」
 トルーマンは執務室で部下にきいた。
「いいえ」部下は首を横にふった。「ドイツはゲルマン民族で敵とはいえ白人……原爆は黄色いジャップに使います」
「どれくらい完成しているのだ? その原爆は…」
「もう少しで完成だそうです。原爆の開発費用は二十万ドルかかりました」
「二十万ドル?!」
「そうです。しかし……戦争に勝つためです。日本上陸作戦もあります。まず、フィリピンを占領し、次に沖縄、本土です。1945年秋頃になると思います」
 トルーマンは愕然とした。
 自分の知らないところで勝手に決められていく。
 部下は続けた。
「七〇万人もの中国にいる日本軍を釘付けにする必要があります。原爆は米軍兵士の命を救う切り札です」
 トルーマンは押し黙った。
 この後、トルーマンとスターリン・ソ連首相とで”ヤルタの密約”が交わされる。ドイツ降伏後、ソ連が日本に攻め込む……という密約である。
 …………これでいいのだろうか?
 トルーマン大統領は困惑しながら軍事官僚にあやつられていく。

 話は替わる。
 のちの「安保の城の妖怪」岸信介は明治三十六年四月、田布施村国木尋常小学校に上がった。
 薩長連合政権時代とはいうものの、国政は長州人全盛時代であったという。
 長州の出身の伊藤博文(いとうひろぶみ)、山県有朋(やまがたありとも)、桂太郎(かつらたろう)、といった明治の元勲たちが幾たびも首相になり、長州人である信介もそんな政治での長州の絢爛さに憧れたことであろう。
 岸信介誕生と前後した世代の人物だけでも、市川正一(いちかわしょういち・日本共産党中央委員)、野坂参三(日本共産党中央委員)、難波大助(無政府主義者、摂政宮(のちの昭和天皇)狙撃犯)、木村サヨ(天照皇大神宮教(てんしょうこうだいじんぐうきょう) 教祖)、磯部浅一(いそべあさいち・陸軍一等主計 二・二六事件首謀者の一人)、神山茂夫(日本共産党中央委員)、宮本顕治(日本共産党委員長)などが明治二十年代前後から四十年にかけて山口県に生を受けている。
(「絢爛たる悪運 岸信介伝」工藤美代子著作 幻冬舎三十二~三十三ページ参照)
 また工藤さんの著書によると当然ながら佐藤栄作や岸信介、安倍晋三、安倍晋太郎などのほうが吉田松陰や久坂玄瑞、高杉晋作の流れを汲む政治家と思うが、違うのだという。
 いまさら共産主義など、ソ連が崩壊して二十数年も経って馬鹿らしいが、日本共産党のほうが革命的(笑)なので野坂参三にいわせると「俺たちが本流だ」といって憚らなかったという。
 コミュニスト(共産主義者)などいまさらいうのも何だが馬鹿である。
 日本共産党の政治家にこう聞いた。「あなたがたは日本をどうしたいのですか?まさか日本を共産主義国家にする気なんですか?」
 そう日本共産党委員長に聞いたのは私でなく、ジャーナリストの田原総一朗さんだが、当時の日本共産党委員長は答えなかった。
 もう一度、聞きたい。日本共産党はいまだに「悪平等の共産主義」等信じているのか?信じているとしたらうつけだ。
信介の四歳年下がのちの昭和天皇・裕仁な訳だが、小学校当時、信介は貧しい貧乏人の集落から通う松本幸吉という少年をいじめたのだという。理由は汚い垢やフケだらけの服装などの貧しさ、で、当時は和服だから腰紐だ。その腰紐を奪って捨てる、すると最後には藁で結った腰紐をしてきたという。さすがに、悪いことをした、と信介はそれから何十年も後悔したという。
 まあ、どこにでもある「虐め」な訳だが、普通のいじめっ子は自分の悪行を反省しないものだ。それどころか数十年後でも当たり前のようにひきずって罵声を浴びせ続ける。
 だが、信介はそこで「自分の卑怯さ・下劣さ」を後悔した。さすがは歴史的英雄である。
 松本少年は親に「由緒ある佐藤の坊ちゃんに喧嘩をふっかけるとはなにごとか」と諌められて恨みを抑えたのだろう。
 「後年になってから、この松本幸吉君は、京都市上京区の華開院主松本正純師であることが判明した。
  小川判次君(元・衆議院議員、自由民主党)の選挙区で、小川君の支持者である。松本君は私が総理大臣になってから、「子供の頃にいじめられたものだ」と語ったという。
  私は後年、松本君をたずねて懺悔したのだ。
  だが、松本君は晩年、耳が悪くなり交通事故で死んでしまった。本書を霊前に供えて冥福を祈る」(「わが青春」岸信介著)
  日米安保闘争で暴力的な反対デモがあっても、くじける事もなく安保締結を推し進めたことから岸信介は「冷血漢」「血も涙もないロボット人間」「妖怪」「巨魁」「米国の手先」「悪魔」などと悪口をいわれたが、岸にも人間的なところがいっぱいあったことだろう。
 まあ、私の生まれる遥か前が団塊世代安保闘争なので、一概に「安保闘争=馬鹿」と決めつけることも危険だ。
 団塊の世代だって志や夢見るビジョンぐらいあったろう。
 しかし、安保締結は間違いなく正しかった。吉田茂のいう「番犬」=「アメリカ軍」に毎年六千億円払って、後は防衛費もあまりかけず「経済発展」に集中投資が出来たのだから。だからこその世界的な経済大国・日本、となり得たのだ。
 これからも日米同盟は世界の基軸だ。  

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