長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

沖縄県米軍基地(宜野湾市普天間)辺野古移転工事に翁長知事「工事停止令」密約知らぬ無知

2015年03月24日 20時05分30秒 | 日記







沖縄県宜野湾市普天間基地の辺野古への基地移転工事を、


沖縄県知事・翁長雄志氏は


「許可取り消し・工事中止」と現実離れしたことを言っている。



沖縄が日本に返還される際、

日本政府(政府自民党(当時))と米国で密約が交わされ


「米軍の軍政は日本国民・地方自治体不介入」等を約束し


永久有効状態なのだ。


翁長雄志知事は歴史をまったく知らない。憐れ也。臥竜


緑川鷲羽そして始まりの2015年へ。

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紅蓮の炎<真田丸>真田幸村(信繁)家康が最も恐れた男アンコール連載真田幸村小説6

2015年03月24日 06時34分48秒 | 日記








  上杉政虎(謙信)が二度目の上洛のときとなった。
 朝廷から正式に関東守護に任命された。京は殺伐としていたが、上杉の行列が続いた。そして、事件は起こった。
 春日山城にいた宇佐美定満(フィクションの上杉謙信の大軍師・宇佐美定行とは一字違いだがこちらは実在の人物)は兼続を呼び止めた。深刻な顔だった。
「与六、そち、御屋形様をどう思う?」
 謙信に三願の礼をもって向かいいれられた宇佐美は、また謙信の弱さも見抜いていた。 兼続は、「御屋形様はまるで戦神のようでござりまする」という。
 宇佐美の白髪頭の眉間に皺がよった。
「戦神か……そうであればよいがな。領国の衆もそう見ていよう。しかし…所詮は御屋形様とて人間に過ぎぬ。怒りや癇癪や涙……人間なればこそだが失敗もしよう。そうすれば神話も消え失せようて…」
「何か上洛のおりありましたのでございましょうか?」
 兼続はわざと知らぬふりをした。宇佐美にはわかっていたが、あえて口にしない。
「上洛し、行列していたところ下馬せず見ていたものがおった」
「成田長政にございますな?」
 兼続はにやりといった。
「やはり…」宇佐美は唸った。「そちは只者ではないな。やはり知っておったか」
「いえ。只、わが耳に早く届いただけにござりまする」
「御屋形様は怒り身頭に達したのか鬼のような形相で伽籠からおりて近付き……成田を馬の上から引き摺り下ろし、鞭うった」
「『無礼者めが!』とでしょう?」
「うむ。まずいことだ。”人間”を出しては御屋形様でなくなる。他国の御屋形なればそれでもよかろうがのう」
「北条の籠城中にひとりでむかい、矢の霰の中、酒を飲んで死中に活を得たこともありましたとか…」
「うむ」宇佐美は顎を軽く撫でて「それもこれもすべては演技であれば上杉家を継いでも意味なしじゃ。義だの仁などと申したとて領民は見限ようて…」
「それで関東出兵のおり、成田勢が裏切って北条側についたのですな? 人質の伊勢夫人が越後におるというのに……こまりましたな」
 まるで宇佐美定満がふたりいるようである。謙信にとっての宇佐美と、景勝にとっての宇佐美……。ふたりは深刻な顔で黙り込むしかなかった。
しかし、当の本人・上杉謙信はいっこうに気にもせず上洛ののち、武田攻めのために武楴式をとり行なうのみだ。武楴式とは謙信が出陣前にとり行なう儀式であり、現在の米沢市の上杉祭りでも川中島合戦ショーの前日のとり行なわれている。
 政虎から輝虎となり、出家してこの年、上杉謙信となった御屋形様は武楴式を行う。
「天はわれにあり、鎧は胸にあり…われこそ毘沙門天なり!」
 おおおおっ~っ!
 謙信の激で、軍の兵士たちからどよめきが起こる。「いざ出陣!」…おおおお~っ!
 川中島の戦いは七度行われたが、結局痛み分けでおわる。
 このために信玄は天下を獲ることもなく肺病で死んでしまう。


  上杉謙信は与六兼続を弟子のように見ていた。
「兼続……そちはまだ若い」
 謙信は座敷でいった。兼続は下座で平伏している。
 謙信は剃髪しているために白いスカーフのようなものをかぶっている。「若いからこそ義を軽んずる」
「申し訳ござりません」兼続は再び平伏する。
「たが、それはいい。若いとはいいものじゃ。われもそちのようなときがあった」
「御屋形様が?!」
 謙信の思わぬ言葉に、兼続は驚いてみせた。義に劣る行為とは、兄・長尾晴景を追い落として領首になったことだという。兼続の生まれる前ではある。
「わしの義を受け継ぐのは養子の景勝でも三郎景虎でもない。そちじゃ」
 兼続は恐縮して、「恐れ多いことで…」と平伏した。
「正直な気持ちじゃ。期待しておるぞ。上杉家が生きるも死ぬるもすべてはそち次第じゃ」謙信は正直に本音を吐露した。
 天才軍神は、宇佐美定満の後釜となるであろう兼続の天才を理解していた。さすがは英雄である。こののち謙信と兼続は本当の師弟関係になっていくことになる。
  慶次の妻は、前田利家の子女であった。
 妻はじゃじゃ馬をならして、慶次と再会した。騒ぎをおこしお供のものを困らせた。
 そして、間者だと思っていた女は慶次と結婚し、前田慶次に「うつけ!」とふざけてみせた。「…何じゃと?」「昔とかわりありませんね? 幼い頃わらわたちは遊んでおって…旦那さまは木に登ったはよいがおりられなくなってふざけました。同じです…うつけ! 旦那様がそのようなうつけでは困りまするよ」
 妻は可愛い顔で、いった。
「わかった。もううつけはやめじゃ!」
 妻が乙女心をみせると、慶次は「なんじゃ?」ときいた。
 何にしてもこれで慶次は年上の嫁をもらった。しかし、子はすぐに夭生してしまう。前田慶次は側室を生涯もたなかった。妻だけを愛した。
 その頃、慶次は前田利家の甥として放浪していた。                 



         3 謙信死す
             前田慶次と秀吉「天下人VS天下無双の傾奇者」





前田利家の父親・利昌が死ぬと、長男・利久は信長の命令で荒子城をおわれ、かわりに利家が荒子城主となった。信長がきめたのだ。利久は反発したが、御屋形の命令ではしかたない。妻・つねと幼い慶次郎を連れて、荒子を出た。家臣・奥村家福も利久とともに浪人となった。まつが、秀吉殿は四千の兵をもったとか…というと、利家は「又兵衛は一騎当千だ」といったという。
イヌ(前田利家)とサル(羽柴藤吉郎秀吉)は信長の右腕左腕であり、信長が腹を割って話せる数少ない家臣であった。だが、信長は前田利家の兄・利久を毛嫌いしていた。屋敷にまねいて「お主に子はおるか?」ときく。「慶次郎と申す息子が…」「それは養子であろうが! この大馬鹿者! 去れ! 前田家はイヌに継がせる。お前は用なしだ!」
 信長の逆鱗に触れて、(とはいえ利久には逆鱗に触れた理由がわからんのだが)利久親子は荒子城を出た。浪人となった。ちなみに養子の慶次郎とはかぶき者として奇行で有名な人物であり、利家が親類みたいな者だから、「俺の家臣になれ」と誘った。
 が、慶次郎は「ひょっとこ斎」と号して、ついに利家の家臣にはならなかった。「わしは信長が嫌いだ」慶次がいった。「御屋形様を呼び捨てにするな!」利家は諌めた。だが慶次は「あいつの名前は「御屋形さま」ではなく「織田信長」であろう?」という。後に越後・会津・出羽米沢にいく上杉景勝・直江兼続の元にいって家臣となった風変わりな「変人」である。
 上杉の参謀で執政・直江山城守兼続を尊敬し、景勝の武勇に憧れて、関ヶ原・大阪の陣後、米沢にきて上杉家の家臣となった風流人でもある。





  
  上杉謙信は厠で倒れた。
「きゃあ~っ!」
「御屋形様が……!」
女たちの悲鳴が春日山城に響いた。
 謙信は厠で意識を失って前のめりに倒れたのだ。
 この何日も前から、謙信は、
「頭がいたい…」と頭をかかえては酒を呑んだが、重い病に侵されていた。
 いわゆる大酒による脳溢血で倒れた訳だが、その数日前から食事が喉を通らなくなり、雪室で冷やした水しか飲めなくなっていた。
 無理して起きて厠にいって、中で前のめりに倒れたのだ。
「これは中風でござろう。もうちとそっとそっとお運びあれ!」
 駆けつけた医師がいった。
 まだ脈はあったが、意識はなかった。即死ではなかった。
 それから五日後この世を去った。
 天正六年(一五七八)三月十三日のことであった。
 毘沙門天の旗のもと、智将、義将といわれて一世を風靡した上杉謙信もあの世にいった。上杉謙信は辞世の句を用意していた。
   四十九年一睡の夢
   一期の栄華一盃の酒
 謙信の遺骸は甲冑を着せ、甕に納めて密封したそうである。
 謙信死すの情報は疾風の如く越後に知れ渡った。
 信濃川の川筋をたどって、遠くは揚北まで知れ渡った。
 越後の国とは今の新潟県のことで、北は念珠ケ関から南の親不知に至る細長い大国であるという。
 越後には多数の豪族が住んでおり、虎視眈々と後継者が誰になるのか探っていた。
  謙信はこのとき、関東をまた攻めると宣言していた。
 関東は越後よりも豊かな国である。
 越後では関東攻めがなければ暮らしがなりたたないのだという。
 関東にいって、北条を攻め、ここで手当たり次第、銭や女、食料などの物資を略奪して越後にもってかえる……
 それをもっているのは女が多かった。
 戦国の世で合戦といえば、所詮は「殺戮」と「略奪」ということだった。
 謙信が病に侵されてから、家臣団はふたつに割れていた。
 後継者はふたりいた。
 まず、謙信の姉の子で養子にした景勝、もうひとりは北条からの養子で景虎である。
(上杉謙信に子はない。結婚しなかったし、女を近付けなかったからだ。一族親類が絶対的な権力になる時代、あえて子をつくらなかったとすれば『変人』という他ない)
 景勝も景虎も養子で、しかも義兄弟である。
 弘治元年(一五五五)景勝は、坂戸城主長尾政景の次男として生まれた。
 坂戸とは現在の新潟県南魚沼郡六日町である。峠を越えて関東に出る交通の要所である。 標高がなんと六百三十四メートルもの山城で、周囲は土塁に囲まれ、冬になれば豪雪ですべて閉ざされ誰もこの城を攻めることは出来ない。
 景勝の母は謙信の姉・仙桃院であった。
 謙信と政景は仲が悪かった。景勝の父・政景は野尻池で不審な死をとげ、景勝は十歳の頃から春日山城で育った。
 政景の死は、一説には謙信による暗殺ではないか……ともいわれている。
 いっぽう、景虎のほうは関東の人間である。
 小田原城主北条氏康を父に、天文二十三年(一五五四)に生まれた。元亀元年、謙信と氏康が合戦をして和睦してから差し出された人質であり、春日山城にやってきた。
 景虎とは謙信の幼い頃の名前である。
 春日山城の二の郭に住み、妻は景勝の妹(華姫)だったという。景勝の母・仙桃院は景虎のところで暮らしていた。
 ふたりの後継者のうちどちらがいいのか、そう明言しないままに謙信は倒れた。
 だが、景勝には知恵袋がいた。
 側近の直江兼続である。
 ふたりの出会いは越後(新潟県)の雲洞庵の寺である。景勝はその頃、父親の長尾政景を亡くして、母は仙桃院と号して尼となった。それに目をつけた謙信(その頃、上杉輝虎)が景勝(当時、卵の松、喜平次)を養子にした。景勝と兼続は北高全祝僧侶に学んだ。
 兼続(当時、樋口与六)は五歳で寺に入れられ、喜平次の家臣となった。のちの天才・軍師は謙信や、実姉・仙桃院に見込まれた。養子はもうひとり景虎がいた。
(上杉(北条)景虎は関東の北条氏康からの人質だった。が、北条は裏切って戦を企む) 兼続(与六)と景勝(喜平次)は幼いときより馬があった。景勝は寡黙で、一生のうちこの男が笑ったのは一度だけ。猿が自分の席で猿真似をしたときだったという。
 ひとと話すのは苦手である。そして、樋口与六は、謙信に軍略を学ぶことになる。
 大河ドラマでは、幼い兼続(与六)が真冬に実家へ戻り、景勝(喜平次)におんぶされて寺へ戻るというシーンがあった。まあ、ドラマだから架空でも仕方ない。
「与六いつまでもわしの側にいよ、泣き虫な与六め」「わしはずっと喜平次の側にいる」軍師・直江兼続によってこののち『御館の乱』で景勝の勝利を掴ませる。
 兼続は、
「そうだ。こうすればいいのだ」と閃いた。
 つまり、兼続が閃いたのは、謙信から
 ……「景勝が後継者である」
 という御墨付きをもらうことだった。
 だが、もう謙信は口もきけないくらい死にそうだ。
「こうなったら遺言をつくるしかありますまい」
 兼続はいった。
 景勝は「どうやって? もう義父上は口もきけぬぞ」と首をひねる。
「拙者に名案がござります」
 兼続はにやりとした。
 兼続は「策士」なのである。
 謙信の寝所には与板城主直江実綱の娘が仕えていた。
 芳乃という名前で、けっこう美人である。
 兼続は襖をそっと開けて、芳乃の耳元でささやいた。
「御屋形様の耳元でささやくのだ。どちらでござりまするか? とな」
「えっ?」
 芳乃は唖然とした。
 意味がよくわからなかったからだ。
「よいか」
 兼続は続けた。「始めにわが殿、景勝さまの名を申すのだ。うなずく素振りがあったら、もうそれでよい」
「……うなずく?」
「そうだ」
 芳乃は「はい」といった。
 与板城主直江実綱は景勝の後見人である。
 異存などあろうはずもない。
 芳乃は深夜、謙信の寝所に入った。誰もいない隙を狙ったのだった。
「どちらでごさりまするか? 景勝さま…?」
 すると、病床の謙信の首が微かに動いた気がした。
「御屋形様が! 御屋形様が! ……」
 芳乃が叫び出した。
「どうした?!」
 兼続は飛び込んできた。
「……跡継ぎは景勝さまだと」
「うなずかれたのか?」
「はい!」
「そうか……皆の者、きいたであろうな!」
 兼続は大声でいった。
 それが、謙信の遺言となった。それから五日後、謙信が息を引き取るや武装した与板兵士たちが何重にも城を取り囲み、景勝が葬儀を仕切った。
 葬儀がおわるや、景勝は電光石火、本丸を占拠した。
 本丸には金銀財宝が保管してあったからだ。
 金庫の銭は三万両、いまの数億円の金額だった。
 景虎はそれを知って中城にはいってきたが、景勝が鉄砲を撃ちかけて追っ払ったという。 この景勝の武装蜂起はたちまち知れ渡り、豪族たちが次々と蜂起して景勝についた。
 景勝が景虎より一歩リードしたのだ。
 景勝も景虎もともに二十代中頃で、ともに一歳しか年が違わない。
 その頃、直江兼続は樋口与六と名乗っていたらしいが、ややこしいのでこのまま直江兼続でいく。
 兼続はまだ二十歳くらいなのに、物凄い分析力と策略、謀略に優れていた。
 そんな諸葛孔明のような男が、景勝の側についたのである。
 景勝が勝つはずだ。
 しかし、景虎派も負けてはいない。
「遺言といっても、遺言書がないではないか!」
 確かに、遺言書はなかった。あろうはずもない。
「あの話しはつくりばなしだ!」
 景虎派は猛反発する。
 景勝は二ノ丸(中城)を預けられ、独自の軍隊をもっていた。
 御中城さまと呼ばれて、弾正少弼の官位も与えられ、景勝こそ後継者の筆頭であったという。村上国清、上条政繁、長尾景通、山本寺定長らが景勝についた。そして、揚北衆(中条、黒川、色部、水原、竹俣、新発田、五十公野、加地、安田、下条)も景勝についた。
 いずれも北越の豪族たちであった。
 揚北衆二とって、山脈や大河が国境みたいなものである。豪族たちはときに出羽(山形県)や会津(福島県)、米沢とも提携し、ひとつの独立地帯をつくっていた。

  景勝と兼続は『御館(おたて)の乱』で、初戦勝利した。
 だが、各地から次々と不安な情報が入ってくる。
「景勝は将の器にあらず、笑ったこともない。遺言などつくり話だ!」
 もともと景勝は苦労知らずで育った。
 感情をすぐに剥きだしにしては嫌われた。
 その点、景虎はクールなままである。ひとに扱われやすい。
 景勝は苦労知らずのため、頑固であった。
 確かに、かれらの考えも一理ある、と兼続は思っていた。
「殿、ここは威張るだけでは民は動きませんぞ」
 兼続はいった。
「……どういうことだ?」
 景勝は不思議な顔で尋ねた。「殿様が威張らず、いかにして民がついてこようか」
「殿、まずは自信をもってくだされ」
 景勝は鎧に陣羽織のまま、陣で考えこんだ。
 そして、「とにかく景虎を殺すしかない。しかし、自信がない…」
 兼続は「殿は謙信公とは違いまする。しかし、寡黙にし、公のように死中に身をおけば必ずや家臣たちはついてきます」といった。
「……そうだろうか?」
 景勝は思った。
 難しい顔をして黙り込んだ。
 もともと人と会ったり話したりするのが苦手で、人見知りした。
 ろくに挨拶もできなかった。
 それに感情の起伏も激しく、ひどく暴君になることがあった。
 謙信もどちらがいいか迷ったに違いない。
「…これは困った」
 兼続はいった。天守閣に登ってみた。
 直江兼続を景勝の近習にしたのは、景勝の母である。
「…お前たちは越後のことを考えなさい」そういわれて兼続は景勝に従った。
 春日山城を追われた景虎は、妻子をつれて前関東管領上杉憲政の屋敷に逃げ込んできた。 確かに、上杉謙信は上杉憲政を手厚く迎えた。上杉の名ももらった。
 しかし、上杉憲政など「過去のひと」である。
 なんの力も軍事力もない。
 景虎軍はおちおちしてられない。
 周囲を土塁と壕でかため、鉄砲を配置した。
 一日、二日では陥落しないだろうが、兵糧攻めにすれば方がつくだろう……
 兼続はそう読んだ。ただ困るのは周囲に寺や商家があることだった。攻めれば、上杉家の菩提寺至徳寺、名刹案国寺などの神社まで火につつまれる。それが総攻撃をためらわせた。この頃、信長が死に秀吉の天下となると前田利家は兄・利久と甥の慶次を呼び寄せ、利久に二千石、慶次に五千石を与えて越中に呼んだ。しかし、平穏な世界など慶次の身にあわない。京にいって直江兼続に惚れ込んだ。そして、たった一千石で上杉に仕えた。



  漫画・劇画『花の慶次』では、慶次が、忍者の里に行って決闘したり、忍者軍団を一刀両断にする展開になるがフィクションである。
 大体にして本当の忍者(いわゆる間者)は上杉(上杉家の間者は「軒猿(のきざる)」という)であれ武田であれ織田、羽柴であれ諜報工作員である。英語で言うならスパイだ。
 映画や劇画で登場するような、空を飛んだり、木々の枝上から枝上をムササビが走るように飛んだりできる訳がない。
 いかに忍者といえど人間であり、そんなことが出来るなら何でもありになってしまう。本来は要人警護と諜報活動と暗殺等が仕事である。
 所詮は「漫画的表現」でしかない。でも、映像化では、CGとか特撮やワイヤーアクションやアニメーションでいいのではないか?
 前田慶次と直江兼続・上杉景勝・伊逹政宗との出会いは史実通りである。
 が、摩利支天のおばばさまが二十歳程の美貌のまま年をとらず戦神として雨を降らす等はよくわからない。いかにも漫画的でもあるし、そういうカリスマ教祖が戦国の世にもいたとしても不思議ではない。
 上杉景勝と直江兼続との「佐渡の役」は歴史上の事実ではあるがここでは触れないでおく。
 また、「佐渡の役」に前田慶次が参戦したかはよくわからない。
 本当に「佐渡の役」で前田慶次が八面六臂な活躍をしたのか?そういう参考文献と運悪く出会えずよくわからない。
 すくなくとも米沢市立図書館の「上杉家の歴史」を調べたが発見できなかった。「佐渡の役」は省く。原稿の枚数に限りがあるのだ。
 それに戦闘やアクションシーンをどう活字で表現すればいいのか?私は脚本家ではない。映画監督でも映像作家でもない。作家・プランナー・ストラテジスト・フリージャーナリストであり、それ以上でもそれ以下でもない。そういうのは映像化で存分にやって欲しい。
 人生のほとんどを大国の人質として過ごした真田幸村と、前田慶次の出会いは歴史上は正しいかはよくわからない。
 また、幸村の元・部下の猿飛佐助(真田十勇士のひとりの架空の人物)の妹で想い人・沙霧(さぎり・架空の逸話上の人物)が盲目となり、一度は自殺しようとして兄にとめられて、
「わしがお主の目や手足になる」と兄・猿飛佐助が坊主になり沙霧が「幸村さまには沙霧は死んだとお伝えください。今の盲目の私をみれば…お優しい方ゆえきっと私めを妻にしようとするでしょう。でも、目の見えない私が嫁では足手纏いになるだけです」
 と涙した。そこで幸村は正体を明かさずに沙霧と対面し、涙の別離になるのは歴史上の真実ではない。テレビの歴史の番組でも放送されていたが、当然ながら猿飛佐助、霧隠才蔵などの真田十勇士(猿飛佐助・霧隠才蔵・三好伊三入道・穴山小助・望月六郎・筧十蔵・根津甚八・海野六郎・由利鎌之助・三好清海入道)等というのは架空の家臣である。江戸時代、明治・大正・昭和初期に子供向けの小説などであまりの真田幸村人気で「架空の十勇士」が生まれた。
 当然、猿飛佐助などという人物は存在しないから、盲目になった猿飛佐助の妹(漫画『花の慶次第七巻』(原作・隆慶一郎氏・作画・原哲夫氏)のエピソードは架空小説・漫画上の架空のお話である。
 話が重複しますが、歴史に詳しい方ならご存知かもしれませんが「真田十勇士」なる猿飛佐助、雲隠才蔵などというのはフィクションの架空の忍者軍団である。
 慶次は秀吉の北条攻めでも活躍しているが、ここでは省く。
 また劇画・漫画『花の慶次』では後半、慶次が琉球(沖縄県)に行って八面六臂な活躍をしたかのようなストーリーとなっている。
 前田慶次が琉球に現れたという参考文献や歴史書を少なくとも私(著者)は知らないからこれも省く。
 どうも慶次ほどの「天下無双の傾奇者」にもなると話に尾ひれ背びれがつく。
 歴史家もいかにも「いい加減」であるものだ。
 しかし、それであっても劇画・漫画『花の慶次』の息もつかせぬようなストーリー展開は「さすが!」である。この漫画が1989年に週一のペースで漫画雑誌に連載されていたという事実も驚愕するしかない。こんな凄い上手な話の基盤もしっかりした面画を一週間たらずの〆切で連載するとは、もはや脱帽するしかない。
 なお、参考までに以下に劇画『花の慶次』第四巻、第五巻、六巻、七巻、八巻の一部を引用したい。この物語(小説)を読んだ後、劇画・漫画『花の慶次』を読むもよいし、漫画『花の慶次』を読んでからこの物語(小説)を読むのもいずれも個人の自由である。
 詳しい痛快な戦闘シーンや喧嘩沙汰はやはり、「映像」や「劇画」の力には勝てない。悔しいが、活字離れが進んでいる原因は、「映像」や「劇画いわゆる漫画」では想像力がいらずそのまま直接にダイレクトに伝わる為に「見ているだけでいいから楽」ということだ。
 だから、楽しみたい世代には「漫画」や「映像」が愛される。活字では「読めない漢字の解読」や「想像力を働かせて読む」という困難がともなう。これが、意外に脳の運動に良いし、IQ(知能指数)を高める手段とおとなとしての成長になる。しかし、水は高い所から低い所に流れるのは道理で、楽に逃げる若者たちを私緑川鷲羽は責めることは出来ない。若き日の私もそうだったから(笑)。
 だが、それでも劇画・漫画『花の慶次』から物語の一部を引用したい。
 季節は風薫る五月である。京の借家の縁側で、慶次は「ひどいもんだ………だから、女はいかん」と横になり、右手で頭をぼりぼりかいてごろごろして考え込んでいた。
 前田利家の正室のまつに、
「お目見えとなったら関白殿を怒らせるのだけはやめて頂きます。精々笑わせて差し上げればいい。さもないと前田家は潰れ、私は路頭に迷うことになります」
 と、天女のような微笑みでいわれたことを頭の中で回想していた。「勝手なもんだ」慶次はごろんと仰向けになった。
「旦那………なにボケッとしてるんですか?逃げましょ!旦那と秀吉のこった、合う筈がない。会いに行くのは死ににいくのと同じだ」
 捨丸は小柄な元・加賀忍者である。荷造りして、逃げよう、という。元・忍びの勘が慶次の死を察したのかも知れない。
「たわけ!」慶次は怒鳴った。「それでは利家殿がそうしむけたと秀吉が邪推するに決まってるだろ!おまつ殿が路頭に迷う!」
 慶次はどうしたものか迷いに迷った。京の徳川屋敷では家康と服部半蔵が囲碁を打っていた。「家康さま、前田慶次の関白殿下へのお目見えでは慶次殿は不利かと」
「そうだのう。傾奇者は自己流の傾奇者としての流儀しか持たない。変に秀吉殿の気に入る挨拶をしただけでは命も危ない」
「万事休す、ですな」
「惜しい。あれほどの天下無双の傾奇者。傾奇者の意地を通せば…死ぬか………惜しいのう。惜しい命じゃ。」
「慶次殿が秀吉にうまく取り入る様なマネをしたら、傾奇者の恥さらしだと京中の嘲笑の的…もはや京にはおられますまい」
 家康は、囲碁の碁石を右手でいっぱい掴んで囲碁版のうえにざああっと落として「打つ手なしか」という。
「御意!」
 前田利家はもう絶望と緊張と慚愧で、どうにかなりそうだった。関白秀吉の前で甥の慶次が失礼な態度をとったら慶次は打ち首、前田家・加賀百万石も没収され路頭にまよう。
 屋敷で盆栽の剪定ではさみを使うが心ここにあらずで、枝をすべて切ってしまう。
「殿!ああっ盆栽の枝が…」「ああっ!しもうた!うう」「殿、御気を確かに!」
「やかましい!糞慶次~~く~慶次のせいで前田家もわしもおわる……クソッタレ!」
 慶次はしばらく悩んでいたが、釣りで釣って魚を入れて置いた桶に、死んだ魚が浮いているのに発想を得た。そうか!
 さらに奇行は続く。明日には関白殿下にお目見えするのに夕方の暮れなずむ陽の外で遊女らと歌い踊りどんちゃん騒ぎをしてしまう。
「旦那!いいんですかい?!明日はお目見えでしょう?こんなところでこんなことしてる場合ですか?」
「捨丸、実はな。いい方法を考えたんだ。これなら、前田家も安泰だし、おまつ殿も路頭に迷うこともなく…いやそれどころか叔父御が天下をとれるかも知れねえぜ」
「どんな方法です?」
「死んだ魚は水をはねない」
「は?!」
「誰もぬれずにすむ」
「だ…旦那そいつはまさか」
「殺るんだよ、秀吉を」慶次の目は真剣である。
 
 慶次はやはり傾奇者らしい服装を注文し、普通の三倍は厚いのではないかとも思われる短刀を、手にした。
 ………まさか?本当に秀吉を?馬鹿な?冗談だろう?捨丸はびくびくものである。
 一方で、京都奉行職の前田玄以は嬉しくて仕方ない。あの自分に恥をかかせた慶次が、関白殿下の前で馬鹿な事をやって処刑されるのは九分九厘確実である。
 前田慶次はこれでおわり、だ。何が傾奇者だ…何が天下無双の傾奇者だ! この玄以さまに恥をかかせおって!
 そして、いよいよ、聚楽第で、秀吉と天下無双の傾奇者・前田慶次とのお目見えの日となった。
 巨大な馬に乗り、慶次は門前で降り立った。「髑髏(しゃれこうべ・どくろ)の紋所に…虎皮の裃とは………!!」「そのような姿で御前に出るなど不謹慎な!」家臣たちは反発した。
「そうですか?」
 しかし、前田玄以は心の中で………”ふふ、いいぞ。それがお前の死に装束だ”…とほくそ笑んでから言葉では次のように言った。
「いやいや、殿下には当節はやりの傾奇者が見たいとの所望でござる。本日ばかりは多少無礼な服装でも差し支えござるまい」 
「それはありがたきお言葉、さればとくとご覧(ろう)ぜよ!」
 慶次は背中を向けた。そして両足の股を開くと、陣羽織の隙間から、ぽん!、といえばいいのか尻に”猿の赤いケツ”があしらわれている。
「そ…それはサルのケツ……!!」玄以は戦慄した。冷や汗と体の震えが止まらない。
「はい!いや~~玄以殿にそのようにほめていただけるとは」
 玄以は愕然とした。恐怖で失禁しそうだった。「い…いかん、いかん!それはいかん!」
 ………こやつ…わしを道連れにする魂胆か!!
「いやあ~~玄以殿にお許しを頂き安心しもうしたぞ!!」慶次は顔を振り向いてウインクをした。どこまで豪胆な男なんだ?!
やがて聚楽第の謁見の間である。
 間には全国の有力大名20名はどが勢ぞろいしていた。
 そこには落ち着かぬで冷や汗をかいている前田利家の姿もあるのである。秀吉はにやりとした。……ふん、わしのことを”サルサル”いっていた”槍の又左”もこれでおわりか?くくく、こりゃあいい。立場はもう逆転してるんだぎゃあ!
 やがて慶次がやってきた。「前田慶次にござりまする!」大男なので鴨居(かもい)で頭が隠れている。
 ………ほおっ。大男とは聞いていたが、おおきすぎて頭が鴨居に隠れている。ぬう、慶次が頭をさげて鴨居をくぐる。ぽん!
 慶次は髪の毛を右片方に思い切り片寄せ、髷(まげ)を結っていた。そのためまるで顔がひきつった様な錯覚をおこさせた。
 当然、見物人の大名たちは両横に列して座っている。……何だ?天下無双の傾奇者ときいていたが? こけおどしか? 恰好だけは派手だが、たいしたことないな。
 う…何い?!
 慶次が平伏するとともに首をまげ顔を右に向けて、平伏した。「!?」「ああっ!」「なっ!」
 この時、全員が初めてこの髷の意味がわかった。見事な傾きぶりだった。たしかに、髷は秀吉に正対している。頭を見る限り慶次は平伏して見えるのである。だが、顔は横を向いている。
 つまり、慶次は秀吉に頭をさげることを平然と拒絶したのだ。これは歴史上の実話であり、漫画的表現や小説的架空話でもない。傾奇者にとって天下人など何者でもない。この髷はその思いを露骨に示していた。
 髷だけは平伏するが、本当の俺はそっぽを向いているんだよ。そういっているのである。見事な根性であった。大名たちは寂(せき)として声も出ない。正直の所、度肝を抜かれていた。
 だが、秀吉もまた一箇(こ)の傾奇者である。そんな慶次の気持ちなど一目でわかっていた。ならばこそここで怒るような秀吉ではなかった。
「うわはははは」秀吉は大笑いした。大名たちは冷や汗ものだが、つられて笑った。顔がひきつった。
「面白いな。こんな趣向は初めて見た。なんとも変わった髷ではないか…ははは」
 慶次は頭を挙げてにこりとした。と、同時に聚楽第の謁見の間が広すぎて秀吉を刺し殺すのは無理だと悟った。
 ならば、と、慶次は猿踊りをはじめた。ひとりで猿回しの踊りを踊ったのである。それは滑稽だが笑いをさそう芸でもあった。
 秀吉が猿面冠者(さるめんかんじゃ)と呼ばれるほど猿に似ていたのは周知の事実である。あの尻を関白殿下に見せたら大変なことになる。大名たちは戦慄し、全員の顔が顔面蒼白である。
 そして慶次は赤い”サルのケツ”を秀吉に見せた。
 秀吉は笑い続けたが、……なんでこいつはわざわざわしを怒らせようとしているのか?死にたいのか?と疑問に思っていた。
「はははは」「うきぃ!うきぃ!」……しかしこの猿芸は行き過ぎじゃ!笑い転げて見せるのも限度がある。いつまでも馬鹿にされ続けては関白の沽券(こけん)に関わる。
 秀吉が隣の小姓の刀にすすっと手をそっとのばすと家康が驚愕と戦慄の顔をした。
「ふかははは」……家康のやつなにに驚いておったのか……?まさかあの舞いにはなにか理由が……!!
「はははは」……試すか……秀吉は鮮やかな絵柄の扇子をひろげ、何尺もの遠きにいる慶次へゆっくり投げてみた。
 ばしっ!慶次が扇子をばしっとつかんだ。ぐく!……今、見たのは確かに殺気!この男、死ぬ気どころか、わしを殺す気なのだ!!きゃつはわしを誘い出そうとしておったのだ!
 ……ちい! ばれたか!狒々親爺(ひひおやじ)がいくさ人(にん)の顔になったわ!
「どうも!」慶次は今にも飛びかかろうという感じだが、遠い。届かないだろう。
 猿踊りで誘い込もう、そして斬り殺そうとしたがダメだ。
「まずは座れ!」慶次は諦めて深いため息を吐くとどかりと不敵にその場に座った。
「……で、なぜだ?」
 ……そうだ。なんでわざわざ猿芸など……するのだ? そんなに死にたいのか信じられん奴だ。
 居並ぶ諸大名たちはこの言葉の意味をとり違えていた。これは、なぜ自分を殺そうと決意したのかという意だ。慶次と家康だけがその真の意味を悟った。
「……さて~~」
「何びとかのためか!?」
「まさか!ははは」慶次は笑った。そして本当に考えた。おまつのため……ではないなあ。本当は、何故、なんだろう……
 とうとう秀吉が怒鳴った。「理由(わけ)がない筈はあるまい!よく考えろ!」……理由もなく殺されてたまるか!
 大名たちは……よく考えろとは異な仰せ……!と戦慄する。
「あ……」慶次は思いついた。「左様……強いて申さば……意地とでも申しましょうか」
「?! 意地だと?! ……傾奇者の意地と申すか」
「人としての意地でござる!」
 慶次はいった。
 そ……そうかわかった!! 関白であろうと牢人であろうと同じ人である。面白半分に人が人を呼びつけて晒し者にしていいわけがない。慶次は秀吉を刺すことで、秀吉もまた一人の人であるということを証明し、その思い上がりに鉄槌を下そうとしたのだ。
 この男……絶対に飼い慣らぜぬ獣…殺すか!! 秀吉のこの反応は恐怖に対する最も自然な反応である。そして、一座の諸大名もこの息の詰まる状態を抜け出すために秀吉が慶次を斬ることを期待していた。
 だが、秀吉もまた一箇の傾奇者である。当たり前の反応に身を委せることを嫌う性癖がある。ゆえに、大名たちの思い通りに振る舞うのは癪だった。それに、自分がこの男に恐怖を抱いたことを知られたくなかった。
「…………その意地……あくまで立て通すつもりか……?!」
「やむを得ませんな」
「……立て通せると思うか!!」
「手前にはわかりませぬ」慶次は悪戯小僧のようなほわっとした笑みで答えた。
「!」……こやつなんとも素直な男じゃ。なんとも素直な含羞(はにかみ)の微笑み……秀吉は、昔、浅井朝倉軍に追い詰められた信長軍の殿(しんがり)をつとめて信長公を助けた時の、加勢してくれた若き家康のような人物を見て、惚れた。惚れこんだ。
「見事にかぶいたものよ。大義であった!」
「はっ!」慶次は「大義であったとは家名を背負わぬ一傾奇者に仰せられておるのか?」
「ん?」
 自分の振るまいは利家とは関係ないと大名たちの前で明言することによって、前田家に非を及ばせぬように秀吉に釘を刺しているのだ。それは、まさしく慶次がおまつに対する思い以外の何ものでもなかった。
「ふ……無論だ。わしは傾奇者を見たいと所望した。それが叶い、もう用は済んだ」
 慶次は微笑してまた顔を横にして平伏する。「手前にはとうてい真似ができません。天下人たるもの思い通りに振る舞えぬことさぞや難儀でござりましょう」
 見破られたか。ふっ。秀吉は何故か爽快な気分になった。
 慶次が去る。
 と、秀吉は「誰か舞わぬか?」と所望した。
 諸大名たちは躊躇した。慶次のあとに下手な踊りを舞えば首が飛ぶ。
「ならばこの家康が百姓踊りを」家康は頭巾を頭に巻いて、百姓踊りをしたという。極端な短足にでっぽりと家康は肥えている。
 百姓踊りは笑いをさそう滑稽さであった。秀吉は腹を抱えて笑った。そして「慶次を呼び戻せ!褒美をやるのを忘れた」という。
 慶次は「半刻後に出頭する」と伝えてくれ、といい、きっちり半刻後慶次は現れた。
 今度はちゃんとした鮮やかな色どりの裃姿である。おお!なんと見事な!「可観小説」にあるこのくだりの描写を引用して見よう。
「今度(このたび)は成程くすみたる程に古代に作りし、髪をも常に決直し、上下衣服等迄平生に改め、御前進退度に当り、見事なる体也。」
 秀吉は「何故その恰好を?」と訊いた。
「傾奇者はもう用がないと申されたので、こたびはひとりの武士(もののふ)として前田慶次郎利益(とします)まかりこしました」
 そしてちゃんと平伏した。礼儀をちゃんと守った、げにもゆかしい武者ぶりであった。古典はおろか古今の典礼にも通じ、諸芸能まで極めたと噂される当代稀有の教養人の姿がそこにはあった。
 大柄な躰がいっそう涼しげで匂うような男ぶりである。とても半刻前の『傾奇者』とは思われなかった。
「気に入った!今後どこでもその意地を立て通せ、余が許す!」秀吉の傾奇御免の御意は慶次に今後どこででも誰が相手でも勝手気ままに振るまっていい、ということである。

 そしてこの『傾奇御免の令』のおかげか慶次はあらゆる武者たちに命を狙われることにもつながる。
 眩しすぎる陽の光は無能ものにとって無性にムカムカするものだ。凡人は天才の心の苦労がわからず、天才の血反吐の努力も判断もできず、ただ嫉妬して、嫌味や悪罵やいやがらせや罵倒や批判をするのみである。
 慶次が「この男は凄い」という男がいた。
 それは秀吉政権の五大老のうちの会津百二十万石もの大大名の上杉景勝と、執政・直江兼続である。
 上杉謙信の名声からだけではなかった。上杉の人間が骨の髄まで義、仁義で出来ている、と理解したからだ。
 上杉の義、忠義は質素倹約だけではなく、家臣も領民も心優しく、温かい。
 慶次は『上杉家』に『上杉の義』『上杉謙信』『上杉景勝』『直江兼続』に、漢(おとこ)として惚れたのである。
 だからこその、上杉家への仕官であったのだ。
(劇画・漫画『花の慶次』隆慶一郎著作(原作)原哲夫作画(漫画・絵)新潮社コミックス参考文献参照)


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