長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

NHK連続テレビ小説(朝ドラ)『マッサン』ドラマ終了シャ-ロット・ケイト・フォックス玉山さん熱演!

2015年03月28日 18時51分27秒 | 日記







nhk連続テレビ小説(朝ドラ)『マッサン』



が無事に終了した。


昨日のエリーの死には思わず涙が瞼にあふれて号泣したが、


この朝ドラはエリー役のシャーロット・ケイト・フォックスさんと


マッサン役の玉山さんの熱演で嵌った。

特にエリー役は


日本語がまったく話せないのに熱演したのには

只々脱帽。臥竜


緑川鷲羽そして始まりの2015年へ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

毛利元就 落陽燃ゆ村上海賊と毛利元就伝「三本の矢」は雷鳴!戦国の謀略の風よ!ブログ小説1

2015年03月28日 07時53分32秒 | 日記







小説 落陽燃ゆ!
 村上海賊と
毛利元就伝
~三本の矢は天下の雷鳴!謀略の戦国の風よ!~
―毛利元就の戦略と戦術・元就の三本の矢、厳島合戦の真実!―
                            
                total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ


          あらすじ

  お江は元亀四年(1573年)、近江国(滋賀県)小谷城主・浅井長政と織田信長の妹・お市の三女として生まれた。姉は茶々(のちの淀君)、初。
 生まれたときに父・浅井長政は織田信長にやぶれて自害。お江ら浅井三姉妹はお市とともに信長の庇護下に。やがて織田信長が光秀に「本能寺の変」で殺されると秀吉の庇護下にはいる。茶々は秀吉の側室・淀として秀頼を生む。初は京極高次の正室に。お江は徳川家康の息子で二代将軍・秀忠の正室として三代将軍・家光を生む。豊臣家は家康に滅ぼされ淀・秀頼は自害。徳川の天下へ。信長を伯父さん、秀吉をお義兄さん、家康をお義父さん、とよべる江の生涯はまさに「大河ドラマ」である。

<ウィキペディアでの毛利元就のプロフィール>
毛利 元就

毛利元就寿像/山口県豊榮神社蔵
時代 戦国時代
生誕 明応6年3月14日(1497年4月16日)
死没 元亀2年6月14日(1571年7月6日)
改名 松寿丸(幼名)→元就
別名 通称:少輔次郎
渾名:乞食若殿、謀神
戒名 洞春寺殿日頼洞春大居士
墓所 大通院(安芸吉田)、洞春寺(安芸吉田、後に萩)
官位 従四位上 右馬頭 治部少輔 陸奥守、贈従三位、贈正一位
主君 尼子経久→大内義隆
氏族 毛利氏
父母 父:毛利弘元 母:福原広俊女
兄弟 興元、元就、北就勝、相合元綱、見付元氏、女(武田氏室)
妻 正室:妙玖(吉川国経女)
側室:乃美大方、三吉氏(三吉隆亮妹)、中の丸
子 隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、秀包、二宮就辰、女(夭折)、五龍局(宍戸隆家室)

毛利 元就(もうり・もり もとなり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸(現在の広島県西部)の国人領主・戦国大名。本姓は大江氏。家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする毛利氏の血筋。寒河江氏などは一門にあたる。家紋は一文字三星紋。
安芸国吉田郡山城(現在の広島県安芸高田市吉田町)を本拠とした毛利弘元の次男。幼名は松寿丸(しょうじゅまる)、通称は少輔次郎(しょうのじろう)。
安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大、中国地方の覇者となり「戦国最高の知将」「謀神」などと後世評される。用意周到かつ合理的な策略及び危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物である。
                           おわり


         1 関ヶ原


石田三成は安土桃山時代の武将である。
 豊臣五奉行のひとり。身長156cm…永禄三年(1560)~慶長五年(1600年10月1日)。改名 佐吉、三也、三成。戒名・江東院正軸因公大禅定門。墓所・大徳寺。官位・従五位下治部少輔、従四位下。主君・豊臣秀吉、秀頼。父母・石田正継、母・石田氏。兄弟、正澄、三成。妻・正室・宇喜多頼忠の娘(お袖)。子、重家、重成、荘厳院・(津軽信牧室)、娘(山田室)、娘(岡重政室)
 淀殿とは同じ近江出身で、秀吉亡き後は近江派閥の中心メンバーとなるが、実は浅井氏と石田氏は敵対関係であった。三成は出世のことを考えて過去の因縁を隠したのだ。
「関ヶ原」の野戦がおわったとき徳川家康は「まだ油断できぬ」と言った。
当たり前のことながら大阪城には西軍大将の毛利輝元や秀頼・淀君がいるからである。
 しかるに、西軍大将の毛利輝元はすぐさま大阪城を去り、隠居するという。「治部(石田三成)に騙された」全部は負け組・石田治部のせいであるという。しかも石田三成も山奥ですぐ生けどりにされて捕まった。小早川秀秋の裏切りで参謀・島左近も死に、山奥に遁走して野武士に捕まったのだ。石田三成は捕らえられ、「豊臣家を利用して天下を狙った罪人」として縄で縛られ落ち武者として城内に晒された。「お主はバカなヤツです、三成!」お江はしたり顔で、彼を非難した。一緒に晒されているのは宇喜多秀家と安国寺恵瓊、というのはあまりに皮肉である。宇喜多も恵瓊もこんなにボロ負けするとは思わなかっただろう。石田三成に人望がないのはわかっていただろうが、頭はあの毛利輝元であり、旗頭は豊臣秀頼なのだ。これはすなわち“徳川東軍の勝ち”というより“豊臣西軍の負け”を意味していた。家康は確かに天下を狙っていた。だが、ハッキリ言うが秀吉や秀頼を殺す機会などいくらでもあった。だが、徳川家康は殺さなかった。
謀略をしかけて自滅させたのだ。だからこその、石田三成征伐であり、毛利封じであり、黒田如水・上杉・伊逹・島津封じ、関ヶ原合戦、大坂冬の陣、大坂夏の陣、であるのだ。
徳川家康程のたくみな謀略家も珍しい。元就はそれ以上の謀略家だが。
「お前のような奴が天下など獲れるわけあるまいに」
 三成は「わしは天下など狙ってなどおらぬ」とお江をきっと睨んだ。
「たわけ!お義父(徳川家康)さまや主人・秀忠が三成は豊臣家を人質に天下を狙っておる。三成は豊臣の敵だとおっしゃっておったわ」
「たわけはお主だ、お江殿!徳川家康は豊臣家に忠誠を誓ったと思うのか?!」
「なにをゆう、お義父上(徳川)さまが嘘をいったというのか?」
「そうだ。徳川家康はやがては豊臣家を滅ぼす算段だ」
「たわけ」お江は冗談としか思わない。「だが、お前は本当に贅沢などしとらなんだな」
「佐和山城にいったのか?」
「いいえ。でも姉上(茶々(淀君))や姉様(初・京極高次正室(常高院))からきいた。お前は少なくとも五奉行のひとり。そうとうの金銀財宝が佐和山城の蔵にある、大名たちが殺到したという。だが、空っぽだし床は板張り「こんな貧乏城焼いてしまえ!」と誰かが火を放ったらしいぞ」
「全焼したか?」
「ああ、どうせそちも明日には首をはねられる運命だ。酒はどうじゃ?」
「いや、いらぬ」
 お江は思い出した。「そうか、そちは下戸であったのう」
「わしは女遊びも酒も贅沢もしない。主人が領民からもらった金を貯めこんで贅沢するなど武士の風上にもおけぬ」
「ふん。姉上や秀頼を利用する方が武士の風上にもおけぬわ」お江は何だか三成がかわいそうになってきた。「まあ、今回は武運がお主になかったということだ」
「お江殿」
「なんじゃ?」
「縄を解いてはくれぬか?家康に天誅を加えたい」
「……なにをゆう」
「秀頼公とあなたの姉上・淀君様が危ないのだぞ!」
  お江は、はじめて不思議なものを観るような眼で縛られ正座している「落ち武者・石田三成」を見た。「お前は少なくともバカではない。だが、お義父上(徳川)さまが嘘をいうかのう?五大老の筆頭で豊臣家に忠節を誓う文まであるのだぞ」
「家康は老獪な狸だ」
「…そう」
 お江は拍子抜けして去った。嘲笑する気で三成のところにいったが何だか馬鹿らしいと思った。どうせ奴は明日、京五条河原で打首だ。「武運ない奴じゃな」苦笑した。
 次に黒田長政がきた。長政は「三成殿、今回は武運がなかったのう」といい、陣羽織を脱いで、三成の肩にかけてやった。
「かたじけない」三成ははじめて人前で泣いた。
黒田如水(じょすい・官兵衛)の息子である黒田長政(ながまさ)は安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい、毛利家の軍師の僧侶であり武将)には同情的であった。
「恵瓊殿………今回は策略が狂ったようですな?」
「………黒田殿。……さすがはあの名軍師・黒田如水殿の嫡男でござるな。手前は戦をする前から負けておった。毛利の軍師の筈のこのわしが、まさか吉川家、小早川家(毛利両川)がとっくに調略されていることに気付かないとは。おそれいった」
「いや、これも時の運でござる。小早川隆景殿や吉川元春殿(毛利元就の子・長男が毛利輝元の父親・毛利隆元。次男が吉川元春。三男が小早川隆景(元春は吉川家の養子・隆景は小早川の養子。毛利隆元とともに『三本の矢の教え』を受けたとされる兄弟))が生きておられていたら東軍は負けでござった」
「さようですかなあ」恵瓊はもう心は冥途に一歩はいったように唸った。
大河ドラマでは度々敵対する石田治部少輔三成と黒田官兵衛。言わずと知れた豊臣秀吉の2トップで、ある。黒田官兵衛は政策立案者(軍師)、石田三成はスーパー官僚である。
参考映像資料NHK番組『歴史秘話ヒストリア「君よ、さらば!~官兵衛VS.三成それぞれの戦国乱世~」』<2014年10月22日放送分>
三成は今でいう優秀な官僚であったが、戦下手、でもあった。わずか数千の北条方の城を何万もの兵士で囲み水攻めにしたが、逆襲にあい自分自身が溺れ死ぬところまでいくほどの戦下手である。(映画『のぼうの城』参照)*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。
三成は御屋形さまである太閤秀吉と家臣たちの間を取り持つ官僚であった。
石田三成にはこんな話がある。あるとき秀吉が五百石の褒美を三成にあげようとするも三成は辞退、そのかわりに今まで野放図だった全国の葦をください、等という。秀吉も訳が分からぬまま承諾した。すると三成は葦に税金をかけて独占し、税の収入で1万石並みの軍備費を用意してみせた。それを見た秀吉は感心して、三成はまた大出世した。
三成の秀吉への“茶の三顧の礼”は誰でも知るエピソードである。*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。


   関ヶ原合戦のきっかけをつくったのは会津の上杉景勝と、参謀の直江山城守兼続である。山城守兼続が有名な「直江状」を徳川家康におくり、挑発したのだ。もちろん直江は三成と二十歳のとき、「義兄弟」の契を結んでいるから三成が西から、上杉は東から徳川家康を討つ気でいた。上杉軍は会津・白河口の山に鉄壁の布陣で「家康軍を木っ端微塵」にする陣形で時期を待っていた。家康が会津の上杉征伐のため軍を東に向けた。そこで家康は佐和山城の三成が挙兵したのを知る。というか徳川家康はあえて三成挙兵を誘導した。
 家康は豊臣恩顧の家臣団に「西で石田三成が豊臣家・秀頼公を人質に挙兵した!豊臣のために西にいこうではないか!」という。あくまで「三成挙兵」で騙し続けた。
 豊臣家の為なら逆臣・石田を討つのはやぶさかでない。東軍が西に向けて陣をかえた。直江山城守兼続ら家臣は、このときであれば家康の首を獲れる、と息巻いた。しかし、上杉景勝は「徳川家康の追撃は許さん。行きたいならわしを斬ってからまいれ!」という。
 直江らは「何故にございますか?いまなら家康陣は隙だらけ…天にこのような好機はありません、何故ですか?御屋形さま!」
 だが、景勝は首を縦には振らない。「背中をみせた敵に…例えそれが徳川家康であろうと「上杉」はそのような義に劣る戦はせぬのだ」
 直江は刀を抜いた。そして構え、振り下ろした。しゅっ!刀は空を斬った。御屋形を斬る程息巻いたが理性が勝った。雨が降る。「伊達勢と最上勢が迫っております!」物見が告げた。
 兼続は「陣をすべて北に向けましょう。まずは伊達勢と最上勢です」といい、上杉は布陣をかえた。名誉をとって上杉は好機を逃した、とのちに歴史家たちにいわれる場面だ。
ちなみにこの作品の参考文献はウィキペディア、「毛利元就 はかりごと多きは勝つ」堺屋太一山本七平ほか著作(プレジデント社)、「上杉景勝」児玉彰三郎著作(ブレインネクスト)、「上杉謙信」筑波栄治著作(国土社)、「上杉謙信」松永義弘著作(学陽書房)、「聖将 上杉謙信」小松秀男著作(毎日新聞)、「ネタバレ」「織田信長」「前田利家」「前田慶次郎」「豊臣秀吉」「徳川家康」司馬遼太郎著作、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作、堺屋太一著作、童門冬二著作、藤沢周平著作、『バサラ武人伝 戦国~幕末史を塗りかえた異能の系譜』『真田幸村編』『前田慶次編』永岡慶之助著作Gakken(学研)、映像文献「NHK番組 その時歴史が動いた」「歴史秘話ヒストリア」「ザ・プロファイラー」「英雄たちの選択」「天地人」漫画的資料「花の慶次」(原作・隆慶一郎、作画・原哲夫、新潮社)「義風堂々!!直江兼続 前田慶次月語り」(原作・原哲夫・堀江信彦、作画・武村勇治 新潮社)、角川ザテレビジョン「大河ドラマ 天地人ガイドブック」角川書店、等の多数の文献である。 ちなみに「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく引用です。

「北条氏政め、この小田原で皆殺しにでもなるつもりか?日本中の軍勢を前にして呑気に籠城・評定とはのう」
 秀吉は笑った。黒の陣羽織の黒田官兵衛は口元に髭をたくわえた男で、ある。顎髭もある。禿頭の為に頭巾をかぶっている。
「御屋形さま、北条への使者にはこの官兵衛をおつかい下され!」
秀吉は「そうか、官兵衛」という。「軍師・官兵衛の意見をきこう」
「人は殺してしまえばそれまで。生かしてこそ役に立つのでございます」続けた。「戦わずして勝つのが兵法の最上策!わたくしめにおまかせを!」
 そういって、一年もの軟禁生活の際に患った病気で不自由な左脚を引きずりながら羽柴秀吉が集めた日本国中の軍勢に包囲された北条の城門に、日差しを受け、砂塵の舞う中、官兵衛が騎馬一騎で刀も持たず近づいた。
「我は羽柴秀吉公の軍師、黒田官兵衛である!「国滅びて還らず」「死人はまたと生くべからず」北条の方々、命を粗末になされるな!開門せよ!」
 小田原「北条攻め」で、大河ドラマでは岡田准一氏演ずる黒田官兵衛が、そういって登場した。堂々たる英雄的登場である。この無血開城交渉で、兵士2万~3万の死者を出さずにすんだのである。
ちなみにこの作品の参考文献はウィキペディア、「ネタバレ」「織田信長」「前田利家」「前田慶次郎」「豊臣秀吉」「徳川家康」司馬遼太郎著作、池波彰一郎著作、堺屋太一著作、童門冬二著作、藤沢周平著作、山岡荘八著作、映像文献「NHK番組 その時歴史が動いた」「歴史秘話ヒストリア」「ザ・プロファイラー」漫画的資料「花の慶次」(原作・隆慶一郎、作画・原哲夫、新潮社)「義風堂々!!直江兼続 前田慶次月語り」(原作・原哲夫・堀江信彦、作画・武村勇治 新潮社)、大河ドラマ「毛利元就」「江 姫たちの戦国」等の多数の文献である。ちなみに「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく引用です。

家康が国民的英雄になったのは、戦後も大分過ぎてからで(作家の山岡荘八氏(現・故人)が『(律義者としての)徳川家康』の数十巻にもおよぶ長編伝記小説をものして、それが人気になり大河ドラマにもなったから)、それまでは、評価も人気も決して高くない。これは徳川時代の「神君」を明治が抹消した結果ともいえるが、彼を「狸おやじ」と見る見方は、決して明治に発生したものではない。
「狸おやじ」は、秀吉の「サル」「はげネズミ」のような渾名ではなく、秀吉死後か、大坂落城以後の渾名らしい。それ以前は「律儀」な人で通っていた。確かに彼は戦国武将としては律儀であり、秀吉・秀頼のいずれをも、決して謀殺しようとしなかった。しようと思えば、その機会はいくらでもあったのである。
大坂冬の陣・夏の陣は決して「謀殺」ではなく、光秀のような裏切りでもなく、また不意討ちでもない。(外堀だけでなく内堀も埋めて大坂城を丸裸城としたが)正々堂々の戦争であった。彼は何度も、自分の要求に従わなければ戦争になるぞというシグナル(合図・意図)を発している。だが淀君は感度が鈍すぎたし、「関ヶ原は小早川秀秋の裏切りのための敗戦、もう一戦を」と夢見る西軍の残党も多すぎた。
さらに重要なことは、大坂側が「太閤恩顧の大名」をあてにしすぎたことである。だが大坂の招きに応ずる現役大名は一人もいなかった。こんなことは、戦国大名の常識からすれば当然である。だれも、淀君や秀頼が、戦国生き残りの猛者を統率しうる将帥とは思っていない。また、その下にいる大野治長などの指揮を受けることは、彼らのプライド(誇り・名誉)が許さない。生き延びるためとあらば、自分の一族や息子・娘を犠牲にするのが戦国の常識である。家康は自分の婿を見捨てた。信玄は自分の息子を殺した。元就も伊逹政宗も織田信長も自分の弟を殺した。さらに人質を取っても安心できないという過去の例を見ながら、人質もないのに「恩顧」だけをあてにするのは、自分が勝ち取ったのでもない過去の威勢の夢の中に生きている人間のすることにすぎない。
だがこの夢をもとに大名に“召集令状”を発したら(豊臣家の建立寺の鐘に“国家安康”…家康の挑発に乗った形であったが)、それは宣戦布告であり、これを受けなければ自ら権力を放棄したことになる。家康が立ったのは当然だが、彼は攻城戦は得意ではない。そこにさまざまな策謀があっても、それは戦場の常である。後から見ればすべて巧みに仕込まれていたように見えても、それは、大坂側が自らそこに落ち込んだにすぎず、同時代の他者に比して家康が特に狡猾だったわけではない。毛利元就の謀略などはもっと手の込んだものである。(中略)
 こういった点で、家康を見るとき、あくまでその時代の中で、同時代人との対比で見なければならぬ。信長・秀吉との比較はすでに多くの人によってなされているので、今さら取り上げる必要はないであろう。ただ私が少々不思議に思うのは、毛利元就が一向に登場しないことである。秀吉も家康も師としたと思われる「不倒翁」とは彼のことである。
事実、彼は地味な超人であった。元就は、戦闘に於いては桶狭間以上、調略に於いては小田原城包囲以上、生涯的な持続力に於いては家康以上であった。(中略)
家康が有能であったとはいえ、彼に比較しうる人間、否、あらゆる面で彼以上と思える同時代人か、やや先輩は決して少なくなかったからである。
ただ人間はみな、生まれる場所と時代を自ら選ぶことはできない。そこで能力の発揮には常に時代と場所という限界がある。島津義弘や毛利元就が中央に生まれていれば天下を取れた可能性がある。上杉謙信も武田信玄も病死しなければ天下人であったかも知れない。だが、一方は薩摩、一方は安芸、越後、甲斐・信濃だが時代が少し古い。時代や場所が違えば可能性もまた違う。よって対比して、その人物を明らかにしなければならない場合は、広い意味での同時代人という枠内で、時代と場所の限定をある程度、棚上げして、能力・資質・性格・実績等だけを対比してみなければなるまい。
参考文献『毛利元就 はかりごと多きは勝つ』堺屋太一+山本七平ほか著作、プレジデント社刊3~8ページ引用

厳島神社(現在・広島県宮島・日本三景のひとつ)弘治元年(一五五五年)十月に毛利元就(もうり・もとなり)と陶晴賢(すえ・はるかた)による合戦である「厳島合戦」があった元・戦場でもある。年間四百万人の観光客を誇る。この厳島合戦を行いその勝利で現在の山口県+島根県+鳥取県+広島県+岡山県ら中国地方を手中にしたのが毛利元就である。信長や秀吉を苦しめ、関ヶ原では最後まで家康を苦しめたのも毛利家。幕末の倒幕も薩摩藩と毛利家の長州藩だった。
元就以降、毛利家は日本を左右する存在となったのだった。厳島合戦までは毛利元就は独立さえできていなかった。当時、毛利元就の領地は安芸(広島県)、備後(岡山県)だけ。「現在の山口県広島県」は大内家の領地で、当時の陶晴賢は武田信玄のような勇猛な戦国武将である。大内家の最高実力者が陶晴賢。毛利元就は厳島で陶晴賢に合戦を挑んだのだった。毛利元就“小よく大を制す”。元就は山と海をはさんだ驚きの奇襲に出た。それを支えたのが毛利隆元(若死にした)、吉川元春、小早川隆景の三本の矢の息子たちであった。
ちなみに関ヶ原合戦で大坂城にはいり、西軍総大将になった毛利輝元は毛利隆元の嫡男であり、“裏切りのイメージ”が根強い小早川秀秋は、小早川隆景の養子で、元・秀吉の親戚の金吾中納言秀秋、である。後述するが、吉川(きっかわ)・小早川(こばやかわ)とは毛利元就が本家の毛利家を支えるために有力豪族の吉川家と小早川家に自分の息子を養子として差出し、家を継がせた『毛利両川(もうり・りょうせん)』という立場の武将家系だ。
知略と謀略と人材を駆使した毛利元就。その人生最大の選択にせまる。
“深謀遠慮のひと・毛利元就”とは経営学者の後藤氏は「毛利元就は三人の息子と両川毛利本家をつくりだした(大内家の人質に隆元、吉川へは元春を、小早川へは隆景を養子に差し出した)。まるで現代なら松下幸之助翁だ。ネットワーク(情報網)が素晴らしい。二人の息子を養子(吉川家・小早川家)に出したのも(瀬戸内海の)情報ネットワークの為だ。当然ながら当時は間者(スパイ・忍者)もいたが、元就は情報の価値を知る数少ない戦国武将ではないか」という。
精神科医の香山リカさんは「毛利元就はファミリー的な人間で「毛利は天下を狙うな!」などヒューマニズムですね」という。そして「義の武将・上杉謙信と似ている。“ひとを愛したひと”ではないか?」ともいう。評論家の宮崎氏は「下剋上の時代の大人物!」と太鼓判を押す。「反間の計(敵のスパイに偽情報を握らせ敵をあやつる計略)が抜群にうまい。こんな謀略家の戦国大名は他に見当たらない。凄い!」
映像資料NHK番組内『英雄たちの選択 毛利元就厳島合戦編』資料より引用。
<ウィキペディアよりの引用文章>
生涯[編集]
家督相続[編集]
明応6年(1497年)3月14日、安芸の国人領主毛利弘元と福原氏との間に次男として誕生。幼名は松寿丸。出生地は母の実家の鈴尾城(福原城)と言われ、現在は毛利元就誕生の石碑が残っている。
明応9年(1500年)に幕府と大内氏の勢力争いに巻き込まれた父の弘元は隠居を決意。嫡男の毛利興元に家督を譲ると、松寿丸は父に連れられて多治比猿掛城に移り住む。翌文亀元年(1501年)には実母が死去し、松寿丸10歳の永正3年(1506年)に、父・弘元が酒毒が原因で死去。松寿丸はそのまま多治比猿掛城に住むが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出されてしまう。松寿丸はその哀れな境遇から「乞食若殿」と貶されていたという。この困窮した生活を支えたのが養母であった杉大方である。杉大方が松寿丸に与えた影響は大きく、後年半生を振り返った元就は「まだ若かったのに大方様は自分のために留まって育ててくれた。私は大方様にすがるように生きていた。」「10歳の頃に大方様が旅の御坊様から話を聞いて素晴らしかったので私も連れて一緒に2人で話を聞き、それから毎日欠かさずに太陽を拝んでいるのだ。」と養母の杉大方について書き残している。永正8年(1511年)杉大方は、京都にいた興元に使いを出して松寿丸の元服について相談し、兄の許可を貰って松寿丸は元服。多治比(丹比)元就を名乗って分家を立て、多治比(「たじひ」だが地元では「たんぴ」と読む)殿と呼ばれるようになった。
永正13年(1516年)、長兄・興元が急死した。死因は酒毒であった。父・兄を酒毒でなくしたため、元就は酒の場には出ても自らは下戸だと口をつけなかったという。家督は興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、幸松丸が幼少のため、元就は叔父として幸松丸を後見する。毛利弘元、興元と2代続く当主の急死に、幼い主君を残された家中は動揺する。毛利家中の動揺をついて、佐東銀山城主・武田元繁が吉川領の有田城へ侵攻。武田軍の進撃に対し、元就は幸松丸の代理として有田城救援のため出陣する。元就にとっては毛利家の命運を賭けた初陣であった。
安芸武田氏重鎮であり、猛将として知られていた武田軍先鋒・熊谷元直率いる軍を元就は撃破し、熊谷元直は討死。有田城攻囲中の武田元繁はその報に接するや怒りに打ち震えた。一部の押さえの兵を有田城の包囲に残し、ほぼ全力で毛利・吉川連合軍を迎撃し、両軍は激突する。戦況は数で勝る武田軍の優位で進んでいたが、又打川を渡河していた武田元繁が矢を受けて討死するに至り、武田軍は混乱して壊滅。安芸武田氏は当主の元繁だけではなく、多くの武将を失い退却する。この有田中井手の戦いは「西国の桶狭間」と呼ばれ、武田氏の衰退と毛利氏の勢力拡大の分水嶺となった。そしてこの勝利により、安芸国人「毛利元就」の名は、ようやく世間に知られるようになる。この戦いの後、尼子氏側へ鞍替えした元就は、幸松丸の後見役として安芸国西条の鏡山城攻略戦(鏡山城の戦い)でも、その智略により戦功を重ね、毛利家中での信望を集めていった。
*戦国時代の二大奇襲が(1)桶狭間合戦(2)厳島合戦、である。だが、厳島合戦を「西国の桶狭間」というのは間違い。厳島合戦こそ信長の桶狭間の五年前であり、時代的に桶狭間合戦を「東の厳島合戦」と呼ぶべきである。*
詳細な時期は不明であるが、この頃に吉川国経の娘(法名「妙玖・みょうきゅう」)を妻に迎える。27歳で長男の隆元が生まれているので、初陣から27歳までの間で結婚したと言われているが、戦国武将としては初陣も遅ければ、結婚も遅い方である。
甥の毛利幸松丸が大永3年(1523年)にわずか9歳で死去すると、分家の人間とはいえ毛利家の直系男子であり、家督継承有力候補でもあった元就が志道広良ら重臣達の推挙により、27歳で家督を継ぎ、毛利元就と名乗ることになった。しかし毛利家内では家督について揉め事があったらしく、この家督相続に際して、重臣達による「元就を当主として認める」という連署状が作成されている。8月10日に元就は、吉田郡山城に入城した。
元就の継承に不満を持った坂氏・渡辺氏等の有力家臣団の一部が、尼子経久の指示を受けた尼子氏重臣・亀井秀綱支援の下、元就の異母弟・相合元綱を擁して対抗したが、元就は執政・志道広良らの支援を得て元綱一派を粛清・自刃させるなどして家臣団の統率をはかった。ただし、元綱は異母弟とはいえ兄弟仲は良かったと伝わっており、元綱は尼子氏の計略に乗ったことを恥じて憤死したという説もある。
元綱粛清後、元綱の子は男子であったが助けられ、後に備後の敷名家を与えられている。元就自身が書いたとされる家系図にはこの元綱の子だけでなく三人の孫まで書かれており、この事件は元就の心に深く残ったらしい。また、元綱を亡くした寂しさから、僧侶になっていた末弟(元就・元綱の異母弟)の就心に頼みこんで還俗させ、就勝の名を与え、北氏の跡を継がせて側に置いた。
なお、この事件はこれで収まらず、謀反を起こした坂氏の一族で長老格であった桂広澄は事件に直接関係はなかったが、元就が止めるのも聞かず、一族の責任を取って自害してしまった。元就の命を聞かずに勝手に自害したことで桂一族では粛清を受けるものと思い、桂元澄を中心に一族で桂城に籠った。驚いた元就は児玉就忠を遣わして説得したが、桂元澄は応じなかったため、元就自らが桂城に単身乗り込み、元澄を説得して許したという。なお。この事は毛利家中に広く伝わったらしく、後に防芸引き分けの際に隆元が元澄に、元就にあの時命を助けられたのだから今こそその恩を返すべく元就が陶氏に加勢しに行くのを引きとめてほしいと要請している。また、この時謀反を起こし粛清された渡辺勝の息子、通は乳母に助けられ備後の山内家へ逃げている。
<ウィキペディアよりの引用>

毛利元就は三矢の息子を養子にだして領地拡大を狙うが、頼みの大内氏にかげりがみえ始める。当主の大内義隆が京都との交流ばかりに入れあげて政治をやらなくなったのだった。
大内氏は領地(山口県)を“西の京都”にしようと無謀な理想を夢うつつに考えた。領民は当然ながら怒った。いらぬ出費が増税という形ではねかえってきたからだった。この事件で大内氏の家臣の陶晴賢が台頭してくる。
そして天文二十年(一五五一年)陶晴賢が主君・大内義隆へ謀反を起こした。
大内義隆を切腹(享年・四十五歳)に追い込んだ。こうして陶晴賢のクーデターは成功した。新たな当主には義隆のおいで陶晴賢のパペット(操り人形)・大内義長をすえた。
実は毛利元就は陶晴賢のクーデターに参加している。“大内がしっかりしてくれなければ毛利家は困る”
「陶晴賢につけば安堵」と思っていた毛利家は驚くべき情報を耳にする。
それは厳島の棚守房顕(たなもり・ふさあき)からの情報であった。
棚守は陶晴賢とも交流があった。それは「野坂文書」(棚守房顕→毛利元就)で確認できる。
棚守が伝えきいた陶晴賢の野望は“防州(陶晴賢)、大内家の勢力滅亡我無力させらるべき由”。陶晴賢の行動には裏がある。陶晴賢は毛利元就を毛利本家・両川ともに滅亡させる算段だ、と。
三十年も大内家に従ってきた毛利を滅ぼし、陶晴賢がすべての領土を手にしようとしている!このまま黙っている訳にはいかない。毛利元就は陶晴賢を倒す必要に迫られた。
だが、歴史にくわしい方ならご存知の通り、この頃の毛利元就や両川体制はもろく独立さえままならないものであった。だが、ここからが毛利元就の謀略家の本領発揮である。
映像資料NHK番組内『英雄たちの選択 毛利元就厳島合戦編』資料引用
<ウィキペディアからの文章引用>
勢力拡大[編集]
家督相続問題を契機として、元就は尼子経久と次第に敵対関係となり、ついには大永5年(1525年)に尼子氏と手切れして大内義興の傘下となる立場を明確にした。そして享禄2年(1529年)には、かつて毛利幸松丸の外戚として元就に証人を出させるほどの強大な専権を振るい、尼子氏に通じて相合元綱を擁立しようと画策した高橋興光ら高橋氏一族を討伐。高橋氏の持つ安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れた(高橋一族討伐の際、元就は高橋氏の人質となっていた長女を殺害されたと言われるがそれを裏付ける一次史料はない)。天文4年(1535年)には、隣国の備後の多賀山城の多賀山如意を攻め、降伏させた。
一方で、長年の宿敵であった宍戸氏とは関係の修復に腐心し、娘を宍戸隆家に嫁がせて友好関係を築き上げた。元就が宍戸氏との関係を深めたのには父・弘元の遺言があった。元就が後年手紙で、「父・弘元は宍戸氏と仲をよくしろと言い遺されたが、兄の興元の時は戦になってそのまま病でなくなってしまい、父の遺言は果たせなかった。しかし、それは兄はまだ若かったからしかたなかったことだ。だが、元源殿はなぜか自分の事を気に入って下さって水魚の交わりのように親しくつきあってくださった。」と述べている。元就は宍戸元源の方から親しく思ってくれたとしているが、実際は宍戸氏とも争っていた高橋氏の旧領の一部を譲る等、積極的に働きかけていた。宍戸家家譜によると正月に数人の伴を引き連れて元就自身が宍戸氏の五龍城を訪れ、元源と馬が合ったため、そのまま2人で枕を並べて夜遅くまで語り合い、その中で元源の孫の隆家と娘(後の五龍)との婚約が決まったと伝わる。なお、宍戸隆家は生まれる前に父を亡くしており、母の実家の山内家で7歳まで育ったため、宍戸氏と誼を結ぶことで山内氏とも繋がりができた。前述の渡辺氏の生き残りである渡辺通が許されて毛利家に戻って元就に仕えたのもこの頃と考えられている。
その他、一時大内氏に反乱を起こし窮地に追いやられた天野氏や、安芸武田氏と関係が悪化した熊谷氏とも誼を通じ、安芸国人の盟主としての地位を確保した。毛利家中においても、天文元年(1532年)に家臣32名が、逃亡した下人らを匿わずに人返しすることなどの3カ条を守り、違反者は元就が処罰するという起請文を連署して捧げている。
天文2年(1533年)9月23日付けの『御湯殿上日記』(宮中の日誌)に、大内義隆より「大江のなにがし」を応永の先例に倣って官位を授けるように後奈良天皇に申し出があったという記事がある。これは毛利(大江)元就をその祖先である毛利光房が称光天皇より従五位下右馬頭に任命された故事に倣って同様の任命を行うようにという趣旨であった。元就は義隆を通じて4,000疋を朝廷に献上する事で叙任が実現の運びとなった。これによって推挙者である大内義隆との関係を強めるとともに、当時は形骸化していたとは言え、官位を得ることによって安芸国内の他の領主に対して朝廷・大内氏双方の後ろ盾があることを示す効果があったと考えられている。また、同時期には安芸有力国人である吉川氏当主吉川興経から尼子氏との和睦を斡旋されるが、逆に尼子方に断られてしまっている。また天文6年(1537年)には、長男の毛利隆元を人質として、大内氏へ差し出して関係を強化した。
天文8年(1539年)、従属関係にあった大内氏が、北九州の宿敵少弐氏を滅ぼし、大友氏とも和解したため、安芸武田氏の居城佐東銀山城を攻撃。尼子氏の援兵を武田氏は受けたものの、これにより、城主武田信実は一時若狭へと逃亡している。後に信実は出雲の尼子氏を頼っている。
天文9年(1540年)には経久の後継者である尼子詮久率いる3万の尼子軍に本拠地・吉田郡山城を攻められるが(吉田郡山城の戦い)、元就は即席の徴集兵も含めてわずか3000の寡兵で籠城して尼子氏を迎え撃った。家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏らの協力、そして遅れて到着した大内義隆の援軍・陶隆房の活躍もあって、この戦いに勝利し、安芸国の中心的存在となる。同年、大内氏とともに尼子氏の支援を受けていた安芸武田氏当主・武田信実の佐東銀山城は落城し、信実は出雲へと逃亡。安芸武田氏はこれにより滅亡した。また、安芸武田氏傘下の川内警固衆を組織化し、後の毛利水軍の基礎を築いた。
天文11年(1542年)から天文12年(1543年)にかけて、大内義隆を総大将とした第1次月山富田城の戦いにも、元就は従軍。しかし吉川興経らの裏切りや、尼子氏の所領奥地に侵入し過ぎたこともあり、補給線と防衛線が寸断され、更には元就自身も4月に富田城塩谷口を攻めるも大敗し、大内軍は敗走する。この敗走中に元就も死を覚悟するほどの危機にあって渡辺通らが身代わりとして奮戦の末に戦死、窮地を脱して無事に安芸に帰還することができた。しかし大内・尼子氏の安芸国内における影響力の低下を受けて、常に大大名の顔色を窺う小領主の立場から脱却を考えるようになる。
天文13年(1544年)、元就は手始めに強力な水軍を擁する竹原小早川氏の養子に三男・徳寿丸(後の小早川隆景)を出した。小早川家には元就の姪(兄・興元の娘)が嫁いでおり、前当主の興景は吉田郡山城の戦いで援軍に駆けつけるなど元就と親密な仲であった。天文10年、興景が子もなく没したため、小早川家の家臣団から徳寿丸を養子にしたいと要望があったが、徳寿丸がまだ幼いことを理由に断っている。一説には妙玖が手放したくなかったためとも言われている。しかし、当主不在のまま何度か戦があり、困った小早川家家臣団は今度は大内義隆に、元就が徳寿丸を小早川家へ養子に出すように頼みこんだ。元就も義隆の頼みを断ることはできず、興景没後3年経ってようやく徳寿丸は小早川家へ養子へ行った。なお、興景を失った竹原小早川氏に対しては、備後神辺城主である山名理興(尼子派)が天文12年に攻め寄せたため、大内軍と共に毛利軍も救援に赴いている。6年後の神辺城陥落(神辺合戦)まで戦いは続いたが、この陣中で徳寿丸は元服して隆景を名乗るようになった。一方同年には、備後三吉氏へ遠征に出た尼子軍を撃退すべく、児玉就忠・福原貞俊を派遣したが敗北している(布野崩れ)。ただし、三吉軍の夜襲が成功したため、最終的に尼子軍は退却した。
天文14年(1545年)、妻・妙玖と養母・杉大方を相次いで亡くしている。特に妙玖が亡くなった時には3日間部屋に籠ったまま出てこなかったと伝わるが、後に手紙で「近頃妙玖のことばかり思い出されてならない」「妙玖が生きていれば・・・」「内をば妻を以て治めというが本当にその通りだと思う」と書いており、妻を追慕する気持ちが溢れている。また春霞集にも「問かしな 契しままの 我心 程はふるとも いかてわすれむ」という亡妻を懐かしむ歌を残している。
天文15年(1546年)、元就が隠居を表明。隆元が毛利家当主となる。ただし、完全に隠居したわけではなく実権はほぼ元就が握っていたため、隆元もこの時は元就の隠居に反対しなかった。
天文16年(1547年)、妻・妙玖の実家である吉川家へ元春を送りこむ。当時吉川家当主であった吉川興経は新参の家臣団を重用していたため、吉川経世ら一族や重鎮と対立が激しくなっており、家中の統制ができなくなっていた。そこで反興経派は元就に、吉川国経の外孫に当たる次男・元春を吉川氏に養子にしたいと申し出た。元就は初め、元春を子の無かった異母弟・北就勝の養子にする約束があったため断ったが、吉川家の再三の要求に応じて元春を養子に出した。一方、吉川家当主の吉川興経は家臣団によって強制的に隠居させられた。隠居させられた興経は、吉川家家臣団との約束で吉川氏の領内に隠居させる予定であったが、元就は興経派らの動きを封じるため興経を深川に移した。それでも興経派へを警戒していた元就は吉川家の当主となった元春をなかなか吉川家の本城へ送らなかった。
因みに吉川家相続前に元春は熊谷信直の娘と独断で婚約を結び、元就は熊谷信直へ侘びの手紙と「あいつは犬ころの様なやつだが息子をどうかよろしく頼む」と一言書いている。元春夫婦は結婚後も、吉川家相続の後も吉田郡山城におり、長男の元資(元長)が生まれてもまだ吉田郡山城に留まっていた。元春が吉川氏の本城に入るのは、興経の隠居後の天文19年(1550年)に、将来の禍根を断つため興経とその一家を元就の命で熊谷氏が殺害してからである。
一方で、先の月山富田城の戦いで当主・小早川正平を失っていた沼田小早川氏の後継問題にも介入した。当主・小早川繁平が幼少かつ盲目であったのを利用して家中を分裂させ、後見役の重臣であった田坂全慶を謀殺した上で繁平を出家に追い込み、分家の竹原小早川当主で元就の実子である小早川隆景を後嗣にさせている。これにより、小早川氏の水軍を手に入れ、また「毛利両川体制」が確立、毛利氏の勢力拡大を支えることになるのである。
これにより安芸・石見に勢力を持つ吉川氏と、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏、両家の勢力を取り込み、安芸一国の支配権をほぼ掌中にした。
天文18年(1549年)2月、元春と隆景を伴い山口へ下向する。この時大内家は陶隆房を中心にした武断派と相良武任を中心とした文治派で対立が起こっていた。また、当主の大内義隆は月山富田城で負けて以来、戦に関心を持たなくなっていた事もあり、不満に思っていた陶隆房が山口下向中に元就達の宿所に何度か使いをやっている。なお、元就はこの山口滞在中に病気にかかったようで、そのため逗留が3カ月近くかかり、吉田に帰国したのは5月になってからである。なお、この時元就を看病した井上光俊は懸命に看病したことで隆元から書状を貰っている。
天文19年(1550年)7月13日に家中において専横を極めていた井上元兼とその一族を殺害し、その直後に家臣団に対して毛利家への忠誠を誓わせる起請文に署名させ、集団の統率力を強化。後に戦国大名として飛躍するための基盤を構築していく。が、井上一族を全て殺したわけではない。先の井上光俊のように看病してもらった者や、井上一族の長老である光兼は元就が太陽を拝むきっかけとなった客僧を招いた屋敷の主であったことなど恩があるものは助命しており、主だった30名のみ処分している。元就自身はこの誅伐に関して手紙で、幼いころに所領を横取りされたことなど積年の恨みつらみを書きしたためているが、家臣を切るのは自分の手足を切るような悪い事であるから決してしてはならないことであると隆景に宛てて書いている。
<ウィキペディアよりの引用>

 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする