長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

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越後の龍 上杉謙信公「義の武将」公への尊敬「天地人」「天と地と」だけではわからぬ謙信公の大義

2014年08月17日 16時30分23秒 | 日記




武田信玄



  正式な手続きは済んでないけれど、長尾景虎が関東管領上杉憲政の後をつぐということを真っ先に知って危機感を抱いたのは、甲斐(山梨県)の武田晴信(信玄)だった。
 武田晴信(信玄)は天文十一年、実父・信虎を駿河(静岡の中心部)に追放して、つぎつぎと隣国・信濃(長野県)を侵略して領地を広げた。……もちろんそのことを景虎が知らないハズはないが、まさか自分も巻き込まれることになろうとは思ってもみなかった。 前途洋々の年も暮れて、あけて天文二十二年の二月十日、景虎の兄長尾晴景が府内(直江津)の隠居所でひっそりと死んだ。享年は、四十二歳だった。
 憎み、追い落とした人物なれど、景虎にとってはたったひとりの兄である。こんなに早く死ぬのなら、もっと懇篤な付き合いをしていればよかった……。景虎は悔やんだ。
 葬儀も終わると、ふたたび混沌とした時代が幕をあけた。
 ……武田信玄勢、侵攻である。
 甲斐の武田勢が、ふたたび葛尾城を攻めている、こんどは村上勢のほうが不利……という情報はすでに景虎はつかんでいた。
「新兵衛、着替えて屋敷にまいる。そちたちも着替えてまいれ」
「はっ」
 こうして侍臣、重臣たちに「衣服を改めて御屋敷へ参じよ」という命令が伝えられた。ちなみに「御屋敷」とは、春日山城の城主屋敷のことである。
 ざんばら髪に血だらけの陣羽織姿の村上義清と家来たちも、すぐに湯浴みなどの接待をうけ、こざっぱりした着物を与えられた。
「さあ、食べてくだされ」
 食事を差し出しててきぱきとやっているのは、金津以太知之介であった。村上勢の落ち武者が春日山に向かっている、という情報が鳥坂城や箕冠城から届くや、すぐさま家臣たちを連れて着物などを用意しておいたのだ。
「これはかたじけない」
 村上義清らが礼を述べた。
「この度はまことに何とお礼を申し上げてよいやら…」
 とうに五十を過ぎた村上義清は、まだ二十四歳の景虎に家臣のような口を利き、ふかぶかと頭を下げた。
「……うむ」
 景虎は恭しく言った。まだ、正式な手続きは済んでないけれど、長尾景虎が関東管領上杉憲政の後をつぐということを皆知っているのだから、ここで威厳を見せなければならない。そのため、景虎は威厳あらたかな態度をとった。
 ……どうだ?これでよいか?…新兵衛に目くばせすると、新兵衛は「よろしい」と頷いた。……これでよいのだ…。しかし、
 ………政景め、まだ諦めておらぬな。
 並んだ国人衆の中で、ひとりだけ面白くない態度をとった政景をみて、景虎は思った。「村上殿」
「ははっ」
「もう少し近うに」
「ははっ」村上はもう一度、平伏したけれど、そのまま座を動かなかった。
 無理もない。すっかり緊張して、敗北のトラウマで堅くなっているのだ。
「村上殿の武勇はそれがし、つとにきいております」
 景虎はにこりと言った。すると、村上が、
「いえいえ、武勇など……それがしなど殿の足元にもおよびません」と、また平伏した。「今回は大変であったのう」
 景虎がそういうと、くやしくて、仕方ない…武田晴信(信玄)を倒し、領地を奪還したいけれども兵がたりない…。と、村上は不満を口惜しく語った。
「それならばわれらの兵馬をお使いくだされ」
「………まことにございますか?」
 村上義清の声がうわずった。…信じられない思いだった。なにせ長尾衆と村上は、永年いがみあってきた仲である。しかし、聖将といわれる景虎が嘘をつく訳もない。
 その村上の問いに、景虎は笑って答えるだけだった。
 ひととおり会話が終わると、本庄実仍が村上に挨拶した。
「村上殿、よく存じませぬが、ご挨拶が遅れまして失礼申した。なにとぞ、許してくだされ」
「いえいえ、とんでもございません」
 村上はふたたび平伏した。…どうせ弱敗の情ない落ち武者…と考えていただろうと思っていたが、そうではなかった。村上は、手厚い対応に感激してしまった。
 彼は、涙さえ流したとも言われる。
 ……こんな俺を褒めて、尊敬してくれる。いっそのこと……ここの家臣となりたい!… 村上義清がそう心の中で思っていると、
「皆の者、村上殿がたらふく食べ、精がついたところで出陣じゃ!」
 と、景虎は言った。そして続けて、「武田晴信(信玄)は戦上手な男じゃ。けして抜かるでないぞ!われらが村上殿の諸城を取り上げられぬとな、こんどは越後まで攻めてくる。皆の者、出陣の準備はよいか!」
「おおっ!」
 雄叫びがあがった。
 こうして、武田晴信(信玄)vs長尾景虎(上杉謙信)の因縁の戦いがスタートする。いわゆる、川中島の戦い、である。
 川中島とは、信濃国更級郡の東北、千曲川と犀川が合流する三角地帯のことで、幅八キロメートル、長さは約四〇キロメートル、面積は約二六二平方キロメートルもある。川を下れば、美濃(岐阜の南部)や飛騨(岐阜県の北部)へ行くことができる。すでに信府をとった武田晴信(信玄)が、この要所(川中島)をとろうとするのは火を見るよりあきらかである。川中島から甲府へは一五〇キロだが、越府までは半分の八〇キロ…ここをとられてしまってはまずい。こうした危機感から天文二十二年(一五五三)八月、「第一次・川中島の戦い」が始まる。
「行け!」
 景虎は号令を出した。

  武田側の兵は史実では一万、上杉側は八千人とされる。
 天文二十三年、武田信玄が支配していた地域は甲斐および信濃のうち諏訪・佐久・上伊那・上田・松本地方で、合計四三万石になる。その兵は合計一万一千人…。
 景虎(謙信)の元には信玄の侵略に恐怖していた豪族たちが集まり、一万人もの兵ができた。しかし、「第一次・川中島の戦い」では八千人しか動かしてない。急な戦役だったし、揚北衆も間に合わなかったのだ。
 上杉と武田軍との最初の戦いは、景虎の天才的な軍術によって上杉謙信(景虎)の圧勝に終わった。この結果、信玄は川中島へ勢力を伸ばすことに失敗した。
「第一次・川中島の戦い」は、長尾景虎(上杉謙信)の勝利だったといってよい。
 信州(長野県)・川中島(信州と越後の国境付近)で、武田信玄と上杉謙信(長尾景虎)は激突した。世にいう「川中島合戦」である。戦国時代の主流は山城攻めだったが、この合戦は両軍4万人の戦いだといわれる。
  甲府市要害山で大永元(1521)年、武田信玄(晴信)は生まれた。この頃の16世紀は戦国時代である。文永10(1541)年、武田信玄(晴信)は家督を継いだ。信濃には一国を束める軍がない。武田信玄は孫子の「風林火山」を旗印に信濃の40キロ前までで軍をとめた。それから3~4ケ月動かなかった。信濃の豪族は油断した。そのすきに信玄は騎馬軍団をすすめ、信濃を平定した。領土を拡大していった。彼は、領土の経済へも目を向ける。「甲州法度之次第(信玄家法)」を制定。治水事業も行った。信玄は国を富ませて天下取りを狙ったのである。第一次川中島の合戦は天文22(1553)年におこった。まだ誰の支配地でもない三角洲、川中島に信玄は兵をすすめる。と、強敵が現れる。上杉謙信(長尾景虎)である。謙信はこのときまだ22歳。若くして越後(新潟県)を治めた天才だった。謙信は幼い頃から戦いの先頭にたち、一度も負けたことがなかったことから、毘沙門天の化身とも恐れられてもいた。また、謙信は義理堅く、信濃の豪族が助けをもとめてきたので出陣したのであった。上杉軍が逃げる武田軍の山城を陥していき、やがて信玄は逃げた。信玄の川中島侵攻は阻まれた。(2万人の負傷者)
 天文23(1554)年、武田は西の今川、南の北条と三国同盟を成立させる。それぞれが背後の敵を威嚇する体制ができあがった。第二次川中島の合戦は天文24(1555)年4月に勃発。信玄は上杉が犀川に陣をはったときの背後にある旭山城の山城に目をつける。上杉は犀川に陣をはり、両軍の睨み合いが数か月続く。膠着状態のなか、上杉武田両軍のなかにケンカが発生。謙信は部下に誓約書をかかせ鎮圧、信玄は戦でいい働きをしたら褒美をやるといい沈静化させる。謙信は理想、信玄は現実味をとった訳だ。
 やがて武田が動く。上杉に「奪った土地を返すから停戦を」という手紙を送る。謙信はそれならばと兵を引き越後に帰った。第三次川中島の合戦は弘治3(1557)年4月に勃発。武田信玄が雪で動けない上杉の弱みにつけこんで約束を反古にして川中島の領地を奪ったことがきっかけとなった。”信玄の侵略によって信濃の豪族たちは滅亡に追いやられ、神社仏閣は破壊された。そして、民衆の悲しみは絶えない。隣国の主としてこれを黙認することなどできない”上杉謙信は激怒して出陣した。上杉軍は川中島を越え、奥まで侵攻。しかし、武田軍は戦わず、逃げては上杉を見守るのみ。これは信玄の命令だった。”敵を捕捉できず、残念である”上杉謙信は激怒する。”戦いは勝ちすぎてはいけない。負けなければよいのだ。敵を翻弄して、いなくなったら領土をとる”信玄は孫子の兵法を駆使した。上杉はやがて撤退。永禄2(1559)年、上杉謙信は京へのぼった。権力を失いつつある足利義輝が有力大名を味方につけようとしたためだ。謙信は将軍にあい、彼は「関東管領」を就任(関東支配の御墨付き)した。上杉謙信はさっそく関東の支配に動く。謙信は北条にせめいり、またたくまに関東を占拠。永禄3(1560)年、今川義元が織田信長に桶狭間で討ち取られる。三国同盟に亀裂が走ることに……。上杉は関東をほぼ支配し、武田を北、東、南から抑えるような形勢になる。今川もガタガタ。しかも、この年は異常気象で、4~6月まで雨が降らず降れば10月までどしゃぶり。凶作で飢餓も。 第四次川中島の合戦は永禄4(1561)年、5月17日勃発。それは関東まで支配しつつあった上杉に先手をうつため信玄が越後に侵攻したことに発した。信玄は海津城を拠点に豪族たちを懐柔していく。上杉謙信は越後に帰り、素早く川中島へ出陣した。上杉は川中島に到着すると、武田の目の前で千曲川を渡り、海津城の2キロ先にある妻女山に陣をはる。それは武田への挑発だった。15日もの睨み合い…。信玄は別動隊を妻女山のうらから夜陰にまぎれて奇襲し、山から上杉軍を追い出してハサミ討ちにしようという作戦にでる(きつつき作戦)。しかし、上杉謙信はその作戦を知り、上杉軍は武田別動隊より先に夜陰にまぎれて山を降りる。謙信は兵に声をたてないように、馬には飼い葉を噛ませ口をふさぐように命令して、夜陰にまぎれて山を降りた。一糸乱れぬみごとな進軍だった。 上杉軍は千曲川を越えた。9月10日未明、信玄が海津城を出発。永禄4(1561)年、9月10日未明、記録によれば濃い霧が辺りにたちこめていた。やがて霧がはれてくると、武田信玄は信じられない光景を目にする。妻女山にいるはずの上杉軍が目の前に陣をしいていたのだ。上杉軍は攻撃を開始する。妻女山に奇襲をかけた武田別動隊はカラだと気付く。が、上杉軍の鉄砲にやられていく。謙信と信玄の一気討ち「三太刀七太刀」…。このままでは本陣も危ない! 信玄があせったとき武田別動隊が到着し、9月10日午前10時過ぎ、信玄の軍配が高々とあがる。総攻撃! ハサミうちにされ、朝から戦っていた兵は疲れ、上杉軍は撤退した。死傷者2万(両軍)の戦いは終了した。「上杉謙信やぶれたり!」信玄はいったという。上杉はその後、関東支配を諦め、越後にかえり、信玄は目を西にむけた。*第五次川中島の合戦は永禄7(1564)年、勃発。しかし、両軍とも睨みあうだけで刃は交えず撤退。以後、2度と両軍は戦わなかった。武田は領土拡大を西に向け、今川と戦う。こんなエピソードがある。今川と北条と戦ったため海のない武田領地は塩がなくなり民が困窮……そんなとき塩が大量に届く。それは上杉謙信からのものだった。たとえ宿敵であっても困れば助ける。「敵に塩をおくる」の古事はここから生まれた。武田は大大名に。いよいよ信長と戦おうとしたとき、元正元(1573)年、信玄は病に倒れて死んだ。享年53。信玄は死の床で息子勝頼に「なにかあったら上杉謙信公を頼れ」といったという。そして、上杉謙信もあとを追うように死んでしまう。こうして、英雄たちはこの世を去ったので、ある。
   


         上洛



  長尾景虎(上杉謙信)は、なんとしても上洛しなくてはならない、と心に強く願っていた。堅く心に決めていた。
 すでに手土産として献上物を都に届けてあるのに、当人の景虎が来なければ、
「やつは武田晴信(信玄)の侵略をふせぐのに精一杯で、上洛できなかったのだ」
 …などと言われて嘲笑を受けてしまう。それは避けたかった。
 上洛の目的は昨年(天文二十一年)、弾正少弼(弾正台の次官、正五位下相当)に任命されたので、主上(後奈良天皇)と、将軍(足利義輝)などに御礼を言上するためである。 献上物は、剣や黄金、巻絹などさまざまな豪華品だった。
 しかし、新兵衛は、
「もう少し、武田側の動きをみてから上洛したほうが…」と意見していた。
「武田が北信濃を荒らしていることは、おそらく都へも聞こえているハズ…」
 と諫めていた。すると、景虎が珍しく怒り、
「たわけ!なればなおさらいかねばならぬ」と怒鳴った。
「ならば私がお供を…」
「ならぬ!お主がこの城を留守にしてどうする?」
「いや、しかし…」
「上洛までの旅は、金津以太知之介ら四人だけでいく。はよう伝えよ」
「…はっ」
 新兵衛は平伏した。
  こうして、景虎ら一向は、野を越え、山を越え…都へと急いだ。
 そんな時だった……。
「美代……」
 景虎らが野宿をして、焚き火にあたりながらウトウトしていると、森に「女子」を見た。「美代……美代ではないか」
 それは、幼い頃の恋人の少女、美代そのひとだった。以太知之介らは眠っていて気付かない。景虎は目を疑った。
「美代……美代ではないか」
「若殿様…」
「これは夢か……?」
「そう」美代がにこりと言った。「これは夢よ」
「夢なら……覚めないでくれ……美代」
 景虎は願ったが、ダメだった。
「殿!どうなさりましたか?」
 金津以太知之介ら四人が目を覚ましてそう尋ねると、彼女の霊はふうっと消えてしまった。「美代……」景虎はがっくりと呟いてしまった。美代……美代……愛してるよ…。
 金津以太知之介ら四人は訳がわからず、首をかしげた。が、景虎だけは、胸を熱くするのだった。
 美代……美代……いつまでも愛してるよ…。景虎は心の中で、言った。
 景虎(謙信)は一生結婚も子供もいらぬと毘沙門天に誓ったため、子も成さず、女子も抱かないままだった。よって家督は養子の景勝(実の姉・仙桃院の子、喜平次)と北条からの養子、景虎だった。ふたりは雲洞庵で学んだ。のちの直江兼続(樋口与六)もその寺で、北高全祝という僧侶により学んだ。御館の乱で、勝ったは兼続サポートの景勝だった。 上杉景勝は直江兼続という軍師を得て、上杉魂をみせたのである。


         内憂外患



  実は、景虎が留守中、国元ではごたごたが起きていた。
 いまは臣従している地侍同士のごたごたで、ある。双方の言い分はもっともで、要するに土地争いだった。
 その争いを止めようと調停した重臣、すなわち本庄実仍、大熊朝秀、直江実網が乗り出したとたん、今度はその三人の争いになった。いわゆる「内ゲバ」である。
 本庄実仍と直江実網は景虎擁立の面々で、重要視されている。しかし、大熊朝秀は父・政秀からの段銭方(年貢金の徴収役)として財政を掌握している。つまり、景虎派閥と昔からの官僚の間がうまくいかなくなったのである。
 景虎はこれを裁かなければならない。
 上洛して、天皇や足利将軍にあっていた景虎は、この内ゲバ情報をきくと、すぐに郷里にとって帰した。そして、すぐに家臣を、
「仲間割れしているようでは今度は負ける!」
 と罵倒した。
「……しかし、土地の問題は複雑、意見も割れます」
「馬鹿者!」景虎は怒鳴った。
「そちらが考えなければならないのは、自分の私利私欲ではないはずだ!まず……考えなければならないのは領民の幸せだろう。民の模範とならなければならぬ武士が、そんなざまでどうする?!しっかりいたせ!」
「……ははっ」
 家臣たちは平伏した。
  それから間もなく、北条勢との戦になった。
 この辺りも豪雪地帯である。まるっきり孤立無援の北条勢はとっぷりと雪に囲まれた城で籠城を続けた。ようやく雪が溶け出しても、黒滝城の時のように景虎が皆殺しにするのではないか?……という恐怖に襲われて、北条側は戦意を失っていた。
 その頃合をみはからって、景虎は、安田景元に「降伏せよ」と北条高広に言わせた。
「いま俺のいうとおりにすれば、北条高広以下の者を皆たすけて、領土も遣わすぞ。降伏すれば殺しはしない」
「はっ、かたじけなく存じまする」
 と、北条高広に代わって安田景元が礼を述べたけれど、とても景虎が言葉通りにするとは思えなかった。今は下剋上の時代だ。平和な時代ならまだしも、約束などあってなきようなもの……皆殺しにするに決まっている……。
 しかし、籠城の将兵たちはその言葉を信じた。
「あの方は、皆殺しにする、といえば殺すし、助ける、といえば助ける方……信じて降伏しよう」
「そうだ!そうだ!」
 家臣たちに押されて、北条高広は単身、まる腰で景虎の元へいき、平伏した。
「高広、面を上げよ」
「……ははっ」
「おぬし、直垂の下は白無垢じゃな」
「おうせの通りにございます」
「なにゆえ死装束など?」
「……切腹をおおせつかった時、着替えるに寒うございますゆえ」
「馬鹿者!切腹せよなどと申さぬわ!俺が助けるといえば助ける」
「……ははっ」
 こうして景虎は春日山に帰ったが、帰る途中ビクビクものだった。…北条高広が追撃してくるかも…と恐れたのだ。
 ……切腹をおおせつかった時、着替えるに寒うゆえ死装束を着てきた…などと堂々とぬかしおった。それに比べて俺は……。なんとも情ない…。
 そういえば、和尚が言っておったのう。
”人間、死ねば土に帰るのみ…”
 景虎はひとり苦笑してしまった。”人間、死ねば土に帰るのみ…”か、なるほど。
 わしも「生涯不犯」を通す身なれば、そういう気構えがほしいものじゃ。
 …ちかぢか、修行にまいろう…。

  明けて天文二十四年(一五五五)の七月、ついこの間、それぞれの本拠地に帰ったばかりの武将たちにふたたび動員令を発する次第となった。また、武田晴信(信玄)が川中島へ侵攻してきたのだ。いわゆる第二次川中島合戦である。
 その前年の天文二十三年(一五五四)の八月、武田晴信(信玄)はまだ支配下に置いてない下伊那地方に侵攻し、これを制した。これにより川中島以北を除く信濃のほぼ全域を支配下に収めた。信玄は、謙信の家臣・北条高広をそそのかして謀反を起こさせ、謙信こと景虎はすぐに鎮圧した(前述)。だが、これに怒り、謙信は武田征伐のため川中島に出陣したのである。
 第二次川中島合戦は、景虎がしかけて、武田晴信が対応する形となった。結果は、引き分けのような感じだったが、実態は武田晴信はまたしても川中島を制することは出来なかった。講和条約は上杉有利だったという。つまり、武田信玄は苦しい状況に立たされていた訳だ。しかし、合戦も後半になると、家臣たちの士気低下も著しく、両軍大将とも苦しんだ。だが、またも謙信有利のままに合戦は終わったので、ひと安心したという。
  上杉謙信(長尾景虎)は、「大儀」で動く。
 しかし、
 家臣たちは「利害」でしか動かない。私利私欲や利益でしか動かない。
 春日山城に戻ると、景虎は不満をもらした。
 新兵衛は、「それもいたしかたなし」と諫めたが、どうにも納得いかなかった。景虎はもともと欲望や野心の強い男ではない。ものにこだわらない性格で、気弱さを酒でカヴァーしている男だ。そして何より「大儀」を重んじる男である。それが、度々の「内ゲバ」で、苦しんでいた。そして、
 なにを思ったか、景虎は「出家する」といい、寺に籠ってしまった。
 それで、金津新兵衛らはパニックになった。
「そうだ!」新兵衛は言った。「殿は”生涯不犯”などと浮き世離れたことをいってるが、女子の味でも知ってもらって……まともな大将になっていただこう」
 新兵衛は頷いた。
 そして、さっそく彼は、琴(千代)に逢い、「そなた、思い切って景虎様と睦びおうてくれぬか?」と頼んだ。
「……なぜわらわが…?」
 琴は真っ赤になって言った。
「……隠さずともよい。そなたは景虎様のことが好きなのであろう?殿もそなたのことを」「だから、愛しあって、殿に女犯の悦びを覚えさせて、まともな男にしておくれ。もちろん褒美も出す」
「……わかりました。でも、褒美はいりません」
 琴は興奮した。景虎が『義経記』を読んで泣くのを知って、恋して以来十年……。やっと思いが届く、通じるのだ。愛しあい、愛を育めるのだ。
 こうして、琴は寺までひとりで行った。
 その部屋には景虎が、ひとりでいた。
「……景虎様!」
 琴はそういって部屋にはいると、すかさず着物を全部脱いで丸裸になった。痩せた華奢な体に手足…。ふくよかな胸、くびれた腰、童貞の彼が見たこともない陰部、まるい尻、可愛い表情…。琴は景虎を誘惑するように裸のまま、彼に抱きついた。
「むむむ……琴殿か。ど…ど…どう…した?」
「抱いてください、景虎様!」
 琴が彼に覆い被さるような形になった。
「………むむ」
 そういったきり、景虎は肩を抱いた。……うれしい!その気になってくれたわ……琴がそう思った瞬間、景虎は奇怪なことをいって琴を周章狼狽させた。
「よくぞ試してくれた。礼を申す」
「……え?」
「見ろ!わしの物がぴくりとも動かない。つい前まで、そなたのことを思うだけで、わしの物が帆柱立っていたのに……いまは静かなままじゃ」
「………ほんと…」
「これも修行のおかげじゃ………これで城に戻り、戦や政に専念できる。おぬしがみだらな裸でせまってきて、心の臓は高鳴ったが、肝心の物がこれではそなたのものを突くこともできぬ」
「………失礼しました」
 琴はすばやく服を着ると、部屋を出た。そのとたん、瞳から涙があふれでた。…自分はそんなに魅力がないのかしら?女として、くやしかった。実は、琴は処女だった。…最初の男は、やはり景虎と決めていたのだ。その彼に拒絶され、ショックだった。
 琴は、新兵衛のところへいって説明し、詫びた。すると、新兵衛は、
「ははは…。琴殿は初々しいことじゃのう」と、彼女が処女であることを知ってか、からから笑った。そして、
「帆柱立たなかったのは、大酒のせいじゃ」と教えてくれた。
 しかし、当の景虎は「修行のたまもの」と思った。そして、
「……死んだ美代のためにも「生涯不犯」を通すぞ」と心に誓うのだった。



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