2 軍師
荊州の劉備の城では、孔明たちによる軍儀が続いていた。
孔明は「魏の軍がふたたびせまっている」と正直にいった。そして、続けた。「魏の夏候淳は必ず博望坂を通る。かの地は左に山、右に林だ。待ち伏せができる」
劉備たちは頷いた。
孔明は続けた。「趙雲、5百の兵を率いて先発し、必ず負けよ」
「………負ける?」趙雲は不思議な顔をした。是非とも答えがききたかった。
「負けて、この坂に敵をさそえ」孔明は羽扇をかざしていった。趙雲は「はっ! 必ず!」と両手をあわせた。
「関平と劉邦は博望坂後方の両側にかくれ、敵をみたら火を放て」
関平と劉邦のふたりは「はっ!」と両手をあわせる。
孔明はさらに策を授ける。「関羽将軍は火をみて総攻撃の合図をせよ。敵の食料もすべて焼き払え」
関羽は怪訝な顔のままだった。
「主君は後方にいて見守っていてくだされ」孔明はいった。
関羽は怪訝な顔のまま「では? 軍師殿は何を?」と尋ねた。
それに対して孔明は、「私はこの城を守る」といった。
張飛は嘲笑し、「自分だけ楽する気か」と吐き捨てるようにいった。関羽と張飛はまだ孔明の才能を認めてはいなかったのだ。
前線でも、関羽と張飛は諸葛孔明を馬鹿にしていた。
「何が軍師だ」張飛は悪態をついた。「あんなやつ口だけだ」
「いかにも! すべて机上の空論……孔明などおそるるにたりぬわ」
関羽は地面にツバを吐いた。何が……軍師だ? 義兄上は勘違いしておられる。
戦が始まると、すぐに趙雲軍五百は敗走しだした。孔明の策である。魏の夏候淳たちはそのぶざまぶりを嘲笑した。
「名高い孔明を軍師にしたはずの劉備軍はぶざまなものだ。やはり孔明など口だけの男だったという訳だ」夏候淳は笑った。部下たちも笑う。「孔明などおそるるにたりぬわ」
「追撃するぞ!」
「……しかし……罠では?」
「孔明ごときがそんな策をとれるものか!」夏候淳は軍を率いて、趙雲軍五百を追撃した。 しかし、そこは孔明が上手、夏候淳の軍が博望坂に入ったところで火攻めにされた。両側を囲まれ、包囲された。夏候淳は軍は集中砲火をあび、全滅した。
戦がおわると、関羽と張飛は茫然と突っ立っていた。
あまりに策がうまくいったので、茫然として言葉もでなかった。ふたりは顔を見合わせた。やがて、馬車にのった孔明がきた。孔明は羽扇で顔をあおいでいた。
関羽と張飛の血管に、熱いものが駆けめぐった。そして、ふたりは地面に膝をつき、両手を合わせて、
「軍師!」と頭を下げた。ふたりもやっと孔明の才能、いや天才を認めた瞬間だった。
しかし、魏軍10万がふたたび荊州に攻めてきた。劉備たちはボロボロの敗戦となった。その途中、魏の曹操は不安にかられた。
曹操は「……わしは天下無敵…しかし、案ずることがある」と家臣にいった。
「それは何でござりましょう?」
「劉備だ」曹操はゆっくりいった。
それにたいして家臣たちは「劉備など弱小勢力に過ぎませぬ。何を恐れることがありましょうや」と笑った。
「いや」曹操は首をふった。「孔明がおる。劉備には諸葛孔明がついておる」
「孔明? 口だけの男にごさる」家臣たちはまた笑った。
「劉備と呉の孫権が連合して攻めてくるやも知れぬ。それがわしの恐れじゃ」
家臣たちは顔を見合わせた。
「劉備と呉の孫権が連合するかどうか使いを送れ」曹操は命じた。
それに対して、呉の孫権のほうも情報収集のため、荊州太守弔問を口実に劉備のもとへ参謀の櫓粛を送った。櫓粛は中年であったが、控え目で、物静かな男だった。
弱点は口の軽さだ。
櫓粛は孔明と面会した。
孔明はかれに酒をすすめた。もう夜だった。場所は城の一室。蝋燭の明りで辺りは鬼灯色であった。なごやかに孔明は接待した。
櫓粛は「先の夏候淳をやぶった策略は見事でしたな、孔明殿」と孔明をほめた。
「いやいや、将軍たちがよくやってくださったからです」
孔明は微笑んで、謙虚にいった。
「いやいや、孔明殿の智略がなければ10万の兵を撃破することなどできませぬ」
「私が撃破した訳ではございません」
「謙遜を」
櫓粛は酒を飲んでいった。孔明は羽扇をふった。
「……近々、私は呉公・孫権殿とあいたい思います」孔明はいった。
すると櫓粛は顔色をかえ、「それはいいのですが……」といいかけた。
「なんでしょう?」
「魏の曹操軍が百万とはわが主君には絶対に申されるな」
孔明は口元に微笑みを浮かべた。
「絶対ですぞ!」櫓粛は念をおした。
呉公・孫権に魏の曹操から使者がきた。劉備をやぶってわが軍と同盟せよ、というのだ。三日以内に返答を……使者はいった。孫権は悩む。魏の曹操は河口にあった。
孫権船団軍3万、曹操軍20万……いくら曹操軍が陸地戦しかしてなく、船での戦いに慣れてないとしても勝ち目がないのではないか……。
曹操は江稜を占領した。そして、沢山の軍艦をつくった。このままでは曹操の『天下統一』は目前だった。当然ながら呉の孫権陣営では軍儀が続いていた。
甘寧将軍は「曹操など恐るに足りぬわ!」といきまいた。
「いや、曹操と同盟したほうが…」とは張昭。
「城を枕に討ち死にを!」
「臆病者め!」
「匹夫の勇ではことはならぬ!」
「命があぶないのだぞ!」
「弱小・劉備など見捨てて、曹操と和睦を!」
家臣たちは口々に勝手なことをいいだした。
孫権はやがて眉をつりあげて、「黙れ!」といった。家臣たちは沈黙した。
……恐ろしい沈黙であった。しんとした静けさが辺りを包んだ。
孫権は上座から降りて、ゆっくりと歩いてきた。家臣たちは今だに黙ったままだった。なんともいえない緊張が辺りを包んだ。
「……まず…」孫権はいいかけた。
「………なんでごさりましょうや?」
「まず」孫権は続けた。「櫓粛を魏に使いに出す」
「櫓粛を?」
家臣たちは顔を見合わせた。
「それによって……戦か和睦か決める」
孫権はきっぱりといった。
「…しかし…」
「なんだ?」
「櫓粛を魏に使いに出さずとも、戦より和睦のほうが利があると思いまする」
「そうです。匹夫の勇ではことはなりません」
「弱小・劉備など見捨てて、曹操と和睦を!」
家臣たちはまた口々に勝手なことをいいだした。
孫権は押し黙り、苦悩した。戦か……降伏…か……。
やがて、呉に孔明が櫓粛に連れ添われてやってきた。馬車の中で、櫓粛は何度も、
「魏の軍を是非とも少なめに…」と念を押した。
孔明は何も答えず、不敵な笑みを口元に浮かべるだけだった。孔明は羽扇をふった。
孫権の家臣たちは冷ややかな目で、孔明をみた。
「ふん!」
鼻を鳴らした。
「孔明など三日だけで逃げ帰るさ」家臣たちは口々にいい、嘲笑した。
「櫓粛を魏に使いに出さずとも、戦より和睦のほうが利がある」
「匹夫の勇ではことはならぬ」
「弱小・劉備など見捨てて、曹操と和睦をすべきなのだ」
「なにが諸葛孔明だ」家臣は嘲笑しつついった。「孔明などハッタリだけの男じゃ! 諸葛孔明の虚名にまどわされてはならぬ!」
そんな中でも、曹操の大軍が呉に迫って、きていた。
孫権は悪夢を見た。
長江の湖で、かれは水浴を楽しんだ。夏の大きな太陽の陽射しがぎらぎらと辺りに照りつけて、湖に反射してハレーションをおこす。どこまでも続く青空に入道雲……それは、しんとした感傷だ。
湖を泳ぎ、陸にあがる。
そして、彼は別荘にむけて歩き出した。
この湖から城まではそんなに遠くはない。
さっきまで、ぎらぎらとした陽射しだったが、今や雨でも降出しそうな天気になった。天気は変わりやすい。
「……雨でもふりそうだ」
孫権は、しんと静まりかえった森を抜けながら呟いた。
そして、ハッ!となった。
城の方でシュウシュウという矢音が何回か聞こえたからだ。しかも、誰かが後をつけてくるような気配を感じる…!
孫権は恐怖にかられ、狼狽し、目をキョロキョロさせた。で、ゆっくりとうしろを振り向き、「だ……誰だ……?」と掠れた声でいった。
誰もいない。……だが、次の瞬間、恐怖は絶頂に達した。
ざざざっ…!と、誰かが追いかけてくるような足音が響き、孫権は恐怖のあまり悲鳴の声すら出なくなった。彼は逃げる! 鈴の音が微かにきこえる。しかし、孫権はやみくもに森の中を走った。走った。駆けた。とにかく逃げた。
恐怖のどん底にたたきつけられた孫権は、とにかく走った。孫権はやみくもに森の中を走った。走った。駆けた。草や木々をかきわけ、とにかく逃げた。曹操の軍が追ってくる。 そして、孫権は急に立ち止まった。もう道がない。崖っぷちに立たされてしまったのだ。崖の下は滝つぼになっていて、崖は高くて、崖下の滝や河はどこまでも深くて、蟻地獄のようだ。孫権は恐怖で身体を震わせながら、滝壺を見て、背後を見て、心臓を高鳴らせた。いいようもない恐怖が彼を襲い、孫権は戦慄した。
曹操の軍がせまってくる。
……殺される……!
孫権は決心を固め、咄嗟に、崖下の滝や河に向かってダイブした。とにかくこれしか手はなかった。恐怖と戦慄と狼狽のまま、孫権はダイヴした。
彼が滝に落ちて見えなる。と、曹操はチッ!と舌打ちした。
そして、そのまま曹操の影はどこかへ歩き去った。
孫権はゆっくりと目を覚ますと、悪夢のためか身体をガタガタ震わせて動揺の様子をみせた。妻は、
「…もう大丈夫ですよ」
と、城のベットに横になっている孫権の髪を撫でて慰めた。
「もう怖くないわ」
妻は優しくいった。
荊州の劉備の城では、孔明たちによる軍儀が続いていた。
孔明は「魏の軍がふたたびせまっている」と正直にいった。そして、続けた。「魏の夏候淳は必ず博望坂を通る。かの地は左に山、右に林だ。待ち伏せができる」
劉備たちは頷いた。
孔明は続けた。「趙雲、5百の兵を率いて先発し、必ず負けよ」
「………負ける?」趙雲は不思議な顔をした。是非とも答えがききたかった。
「負けて、この坂に敵をさそえ」孔明は羽扇をかざしていった。趙雲は「はっ! 必ず!」と両手をあわせた。
「関平と劉邦は博望坂後方の両側にかくれ、敵をみたら火を放て」
関平と劉邦のふたりは「はっ!」と両手をあわせる。
孔明はさらに策を授ける。「関羽将軍は火をみて総攻撃の合図をせよ。敵の食料もすべて焼き払え」
関羽は怪訝な顔のままだった。
「主君は後方にいて見守っていてくだされ」孔明はいった。
関羽は怪訝な顔のまま「では? 軍師殿は何を?」と尋ねた。
それに対して孔明は、「私はこの城を守る」といった。
張飛は嘲笑し、「自分だけ楽する気か」と吐き捨てるようにいった。関羽と張飛はまだ孔明の才能を認めてはいなかったのだ。
前線でも、関羽と張飛は諸葛孔明を馬鹿にしていた。
「何が軍師だ」張飛は悪態をついた。「あんなやつ口だけだ」
「いかにも! すべて机上の空論……孔明などおそるるにたりぬわ」
関羽は地面にツバを吐いた。何が……軍師だ? 義兄上は勘違いしておられる。
戦が始まると、すぐに趙雲軍五百は敗走しだした。孔明の策である。魏の夏候淳たちはそのぶざまぶりを嘲笑した。
「名高い孔明を軍師にしたはずの劉備軍はぶざまなものだ。やはり孔明など口だけの男だったという訳だ」夏候淳は笑った。部下たちも笑う。「孔明などおそるるにたりぬわ」
「追撃するぞ!」
「……しかし……罠では?」
「孔明ごときがそんな策をとれるものか!」夏候淳は軍を率いて、趙雲軍五百を追撃した。 しかし、そこは孔明が上手、夏候淳の軍が博望坂に入ったところで火攻めにされた。両側を囲まれ、包囲された。夏候淳は軍は集中砲火をあび、全滅した。
戦がおわると、関羽と張飛は茫然と突っ立っていた。
あまりに策がうまくいったので、茫然として言葉もでなかった。ふたりは顔を見合わせた。やがて、馬車にのった孔明がきた。孔明は羽扇で顔をあおいでいた。
関羽と張飛の血管に、熱いものが駆けめぐった。そして、ふたりは地面に膝をつき、両手を合わせて、
「軍師!」と頭を下げた。ふたりもやっと孔明の才能、いや天才を認めた瞬間だった。
しかし、魏軍10万がふたたび荊州に攻めてきた。劉備たちはボロボロの敗戦となった。その途中、魏の曹操は不安にかられた。
曹操は「……わしは天下無敵…しかし、案ずることがある」と家臣にいった。
「それは何でござりましょう?」
「劉備だ」曹操はゆっくりいった。
それにたいして家臣たちは「劉備など弱小勢力に過ぎませぬ。何を恐れることがありましょうや」と笑った。
「いや」曹操は首をふった。「孔明がおる。劉備には諸葛孔明がついておる」
「孔明? 口だけの男にごさる」家臣たちはまた笑った。
「劉備と呉の孫権が連合して攻めてくるやも知れぬ。それがわしの恐れじゃ」
家臣たちは顔を見合わせた。
「劉備と呉の孫権が連合するかどうか使いを送れ」曹操は命じた。
それに対して、呉の孫権のほうも情報収集のため、荊州太守弔問を口実に劉備のもとへ参謀の櫓粛を送った。櫓粛は中年であったが、控え目で、物静かな男だった。
弱点は口の軽さだ。
櫓粛は孔明と面会した。
孔明はかれに酒をすすめた。もう夜だった。場所は城の一室。蝋燭の明りで辺りは鬼灯色であった。なごやかに孔明は接待した。
櫓粛は「先の夏候淳をやぶった策略は見事でしたな、孔明殿」と孔明をほめた。
「いやいや、将軍たちがよくやってくださったからです」
孔明は微笑んで、謙虚にいった。
「いやいや、孔明殿の智略がなければ10万の兵を撃破することなどできませぬ」
「私が撃破した訳ではございません」
「謙遜を」
櫓粛は酒を飲んでいった。孔明は羽扇をふった。
「……近々、私は呉公・孫権殿とあいたい思います」孔明はいった。
すると櫓粛は顔色をかえ、「それはいいのですが……」といいかけた。
「なんでしょう?」
「魏の曹操軍が百万とはわが主君には絶対に申されるな」
孔明は口元に微笑みを浮かべた。
「絶対ですぞ!」櫓粛は念をおした。
呉公・孫権に魏の曹操から使者がきた。劉備をやぶってわが軍と同盟せよ、というのだ。三日以内に返答を……使者はいった。孫権は悩む。魏の曹操は河口にあった。
孫権船団軍3万、曹操軍20万……いくら曹操軍が陸地戦しかしてなく、船での戦いに慣れてないとしても勝ち目がないのではないか……。
曹操は江稜を占領した。そして、沢山の軍艦をつくった。このままでは曹操の『天下統一』は目前だった。当然ながら呉の孫権陣営では軍儀が続いていた。
甘寧将軍は「曹操など恐るに足りぬわ!」といきまいた。
「いや、曹操と同盟したほうが…」とは張昭。
「城を枕に討ち死にを!」
「臆病者め!」
「匹夫の勇ではことはならぬ!」
「命があぶないのだぞ!」
「弱小・劉備など見捨てて、曹操と和睦を!」
家臣たちは口々に勝手なことをいいだした。
孫権はやがて眉をつりあげて、「黙れ!」といった。家臣たちは沈黙した。
……恐ろしい沈黙であった。しんとした静けさが辺りを包んだ。
孫権は上座から降りて、ゆっくりと歩いてきた。家臣たちは今だに黙ったままだった。なんともいえない緊張が辺りを包んだ。
「……まず…」孫権はいいかけた。
「………なんでごさりましょうや?」
「まず」孫権は続けた。「櫓粛を魏に使いに出す」
「櫓粛を?」
家臣たちは顔を見合わせた。
「それによって……戦か和睦か決める」
孫権はきっぱりといった。
「…しかし…」
「なんだ?」
「櫓粛を魏に使いに出さずとも、戦より和睦のほうが利があると思いまする」
「そうです。匹夫の勇ではことはなりません」
「弱小・劉備など見捨てて、曹操と和睦を!」
家臣たちはまた口々に勝手なことをいいだした。
孫権は押し黙り、苦悩した。戦か……降伏…か……。
やがて、呉に孔明が櫓粛に連れ添われてやってきた。馬車の中で、櫓粛は何度も、
「魏の軍を是非とも少なめに…」と念を押した。
孔明は何も答えず、不敵な笑みを口元に浮かべるだけだった。孔明は羽扇をふった。
孫権の家臣たちは冷ややかな目で、孔明をみた。
「ふん!」
鼻を鳴らした。
「孔明など三日だけで逃げ帰るさ」家臣たちは口々にいい、嘲笑した。
「櫓粛を魏に使いに出さずとも、戦より和睦のほうが利がある」
「匹夫の勇ではことはならぬ」
「弱小・劉備など見捨てて、曹操と和睦をすべきなのだ」
「なにが諸葛孔明だ」家臣は嘲笑しつついった。「孔明などハッタリだけの男じゃ! 諸葛孔明の虚名にまどわされてはならぬ!」
そんな中でも、曹操の大軍が呉に迫って、きていた。
孫権は悪夢を見た。
長江の湖で、かれは水浴を楽しんだ。夏の大きな太陽の陽射しがぎらぎらと辺りに照りつけて、湖に反射してハレーションをおこす。どこまでも続く青空に入道雲……それは、しんとした感傷だ。
湖を泳ぎ、陸にあがる。
そして、彼は別荘にむけて歩き出した。
この湖から城まではそんなに遠くはない。
さっきまで、ぎらぎらとした陽射しだったが、今や雨でも降出しそうな天気になった。天気は変わりやすい。
「……雨でもふりそうだ」
孫権は、しんと静まりかえった森を抜けながら呟いた。
そして、ハッ!となった。
城の方でシュウシュウという矢音が何回か聞こえたからだ。しかも、誰かが後をつけてくるような気配を感じる…!
孫権は恐怖にかられ、狼狽し、目をキョロキョロさせた。で、ゆっくりとうしろを振り向き、「だ……誰だ……?」と掠れた声でいった。
誰もいない。……だが、次の瞬間、恐怖は絶頂に達した。
ざざざっ…!と、誰かが追いかけてくるような足音が響き、孫権は恐怖のあまり悲鳴の声すら出なくなった。彼は逃げる! 鈴の音が微かにきこえる。しかし、孫権はやみくもに森の中を走った。走った。駆けた。とにかく逃げた。
恐怖のどん底にたたきつけられた孫権は、とにかく走った。孫権はやみくもに森の中を走った。走った。駆けた。草や木々をかきわけ、とにかく逃げた。曹操の軍が追ってくる。 そして、孫権は急に立ち止まった。もう道がない。崖っぷちに立たされてしまったのだ。崖の下は滝つぼになっていて、崖は高くて、崖下の滝や河はどこまでも深くて、蟻地獄のようだ。孫権は恐怖で身体を震わせながら、滝壺を見て、背後を見て、心臓を高鳴らせた。いいようもない恐怖が彼を襲い、孫権は戦慄した。
曹操の軍がせまってくる。
……殺される……!
孫権は決心を固め、咄嗟に、崖下の滝や河に向かってダイブした。とにかくこれしか手はなかった。恐怖と戦慄と狼狽のまま、孫権はダイヴした。
彼が滝に落ちて見えなる。と、曹操はチッ!と舌打ちした。
そして、そのまま曹操の影はどこかへ歩き去った。
孫権はゆっくりと目を覚ますと、悪夢のためか身体をガタガタ震わせて動揺の様子をみせた。妻は、
「…もう大丈夫ですよ」
と、城のベットに横になっている孫権の髪を撫でて慰めた。
「もう怖くないわ」
妻は優しくいった。