2 松下ナショナル
幸之助はまだ幼い妻にいう。
「明日から、もう会社にはいかないよ」
「ほな、これから自分で会社始めるん?」
「そうや、お前には苦労かけるかも知れへんけど、たのむで」
「へえ。覚悟はできてます」
十八歳で嫁いできてから二年後、若妻はそう謙虚に答えたという。
大正六年六月のこと、幸之助二十二歳のことだった。
しかし、資本金も設備も名にもない。
ただ、幸之助には「どうしても改良ソケット(双又ソケット……当時、電気を使うには電灯をつけるか、それ以外は電気を消してそのかわりに電気器具をつかうのが当たり前だった。それを電気をつけたまま電気製品をつかえるようにソケットを双又にした製品)を世の中に出したいんや!」と思ってやまない。
でも操業資金は退職金の百円だけ……
当時の月収は二十円くらいだから、たいした額ではない。
しかし、妻のむめは反対しなかった。
普通の妻ならば、無謀な起業には反対するものだ。
しかし、むめは幸之助が本気なのを知って、
「これは止められへん」
と覚悟を決めたという。
工場なんてとても建てられない。
そこで幸之助は自宅の四畳のうち二畳を仕事場として改築する。そこで『双又ソケット』をつくった。寝る場所もないほどで、米櫃が底をつくことも珍しくなかったという。
しかし、若いふたりはそんなことはいっこうに苦にならなかった。
「狭いゆうんはええもんやなぁ。何でも手に届く」
幸之助は冗談をいう。
すると妻のむめも笑って、「そうやなぁ」などという。
若いふたりは希望に燃えていたので、生活苦などなんともなかったのである。
幸之助には妻の他にもうひとり協力者があったという。
それは妻の弟、つまり義弟の井植歳男だった。
この井植歳男は故郷の淡路島で義務教育を終えたばかりで、将来の進路に迷っていた。 そこで、幸之助が、
「独立したんで、手伝ってくれへんか?」と誘いをかけた。
少年はすぐに快諾した。
井植歳男は松下電器が大きくなっても、その実力を発揮し、会社を軌道に乗せ、その後、三洋電機という会社を立ち上げることになる。
三洋電機も松下のように今、有名な日本を代表する家電メーカーである。
日本を『技術立国』としたふたりがともに家の中で作業をしていた……
なんともわくわくするシーンである。
この頃、本田宗一郎さんやソニーの盛田さんや井深さんも活躍をうかがっていた。
まさに日本の英雄たちの此伏のときである。
こうして妻とともに三人ではじめた事業だったが、やがて協力者がまた現れるようになる。大阪電灯でともに働いていた、森田延次郎と林伊三郎である。
森田と林はソケットの営業にまわった。
しかし、問屋の受けはあまりよくなかったという。
「きょうもだめやった」
営業のふたりは暗くいう。
「そんなはずないやろ?!」
幸之助は自信をもっていただけに落ち込みもはげしい。やはり上司の判断は正しかったのやろか……?
……よし! そならもっと工夫や! もっと工夫してええもんつくるんや!
一時期、林と森田は別れ、解散することにした。
また妻と義弟との三人だけになった。
しかし、幸之助はその仕事にくいさがった。
「あと一歩や。あと一歩努力すれば絶対いけるで!」
零細企業に盆も正月もない。
そんなとき”救いの神”が現れる。
「扇風機の部品をつくってみないか?」
という問い合わせがあったのだ。
「せやけど、その部品ってのはこれまでとは違ったやつなんや」
問屋はかさねていったという。
その部品とは扇風機につかう碍盤(電気を絶縁するために取り付けるもの)だという。それまでの碍盤は陶器をつかっていたが、壊れやすいので別のものにしようということになったのだ。
今のように電話が普及してなかったので、問屋は名刺を頼りに番頭に自転車で知らせにきたのだという。手紙では時間がかかるし、電話は幸之助のところにはない。
そこで自転車となった訳だ。
「やぁ、おばんです」
番頭は足の踏み場もない工場に驚いて動揺した。
しかし、幸之助は、
「わかりやした。やってみます。おおきに」と注文を引き受ける。
「ほな、頼んます」
こうして、注文が入ってきた。
しかし、ソケットつくりをしていた幸之助たちの工場にとって扇風機の碍盤など門外漢だった。しかし、ソケットの練りものの技術を応用すればたいしたことはない。
その頃は、金属の練り方は企業秘密だった。現在では誰でも出来ることができるが、この時代、大変に知識を得るのに苦労したという。
幸之助は、ある程度の知識はあった。
材料は石綿とアスファルト、それに石粉あたりだろう? と、だいたいわかっていた。 幸之助の”天才”が試されるときだ。
あらかじめサンプルは問屋に見せていたものの千個もつくるのは大変だった。
しかし、三人は一丸となり、寝食を忘れて碍盤つくりに没頭した。
締切りもせまっている。
ぜんぶしあがったときは、
「やったで!」
と思わず声がでたという。
そして、納品、相手先は「これならええで」といってくれたので胸を撫で下ろした。
三人は百六十円という金を手にした。
それだけでなく、「性能がええ」と追加注文があとからあとからくる。
経済的に豊かになっていったところで、幸之助は、
「ひとをいれたほうがええんちゃうか?」と思った。
しかし、「待て待て」と自制した。
……ついこの前にひとをいれて、迷惑かけたばかりではないか!
”もうこれで安心や”と思えるようになるまではひとはいれへんほうがええ。
松下幸之助はそうして自慰した。
幸之助は扇風機の碍盤つくりで経済的に余裕がでてきて、やっと工場をもつことが可能になった。工場名は松下電器具製作所(のちの松下電器…ナショナル・パナソニック)といい、住まい兼工場は大阪の大開町という場所だった。
今までの住まいの四畳とは大違いだ。
「広うて迷子になりそうや」
幸之助は冗談をいいながら、工場中を歩きまわったという。
もう経済的に余裕も出来たから工場にひとをいれることも出来る。工場は一階とし、そこにプレス機械とか練りようの鍋とか工具や旋盤をおいた。
松下がスタートしたのは大正七年三月七日のことだ。
ボロい工場で、工場の看板に大きく『松下電器具製作所』と戦前のことだから右から左へ向けて書いてある。これがのちの松下電器…ナショナル・パナソニックという大企業になるとは誰が予想できただろうか?
この年は日本のシベリア出兵、日露戦争があり、第一次世界大戦があった。
日本は脆弱ながら『工業立国』として世界に出ようとしていた。
産業も石炭から石油や電気に移る過程である。
「これからは電気の時代や!」
幸之助がまだ自転車屋の丁稚だった頃の予言がまさに的中していた。
『双又ソケット(正確には二股ソケット)』という差し込みがふたつある製品を、幸之助は開発した。当時、電気製品は値段が高かった。そこで幸之助は安価で高品質な製品を開発して売り出した。とたんに注文書の山となる。
大ヒットしだす。
この頃の松下電器はまだ『マネした電器』と揶揄されるようなパクリはやらなかった。まだソニーのようなアイデアマン・松下幸之助がいたからである。
当時の松下電器は小さいながらも独創的な製品をつくる会社として話題となった。
製品が売れれれば、会社も大きくなり、従業員も増える。
しかし、幸之助は常に”義”や”徳”を思っていた。
「ただ儲ければええってもんやない。この日本って国を『技術立国』にするんや。おれがやるのはそういうことやで!」
そんな哲学までもつ幸之助だから、自然と尊敬される経営者になっていく。
松下電器の製品は東京でも評判になった。
しかし、幸之助は東京へはいったことがない。工場を拡張し、従業員を増やしたばかりのときに東京にまで工場をつくるのは当時むりだった。
だが、東京という巨大マーケットを逃す手はない。
とにかく幸之助は、東京に出掛けて、新しい問屋を開拓しようと思いたった。
列車にのるのも初めてで、大都会東京はどんなとこやろ?、と不安にもなった。
蒸気機関車の車窓から風景をみながら、
……東京は大市場せやけど、ライバル店もスクラムを組んでまってはるやろ。うちはちっぽけな大阪の町工場にすぎない。勝てるやろか? ……
……せやけど、製品の品質ならどこにも負けへんで! ……
と考えて眉間に皺をよせた。だが、まだ二十代である。
東京に着くと、
「おおきに。松下と申しやす」と足を棒のようにして東京の問屋卸業者をしらみ潰しにあたった。人々は幸之助の若さにびっくりするばかりだった。
「あんたがあの製品つくってる松下さん? 若いのにやるねぇ」
これはチャンスや!
幸之助は思う。
東京には二日しかいなかったが、おかげで注文主と注文数のメモがたくさんできた。
……東京も大阪も商売ではかわらへんのやなぁ。
ま、考えてみなくてもそうである。大阪で売れているのに東京で売れない訳がない。
品質のいい安価な製品というものは例え米国でも欧州でも売れるのである。
松下電器は大きくなっていった。
幸之助はまだ十九歳の井植歳男に工場で働かせていたが、
「お前、そろそろ東京へいってくれへんか?」
と幸之助は指令を出した。
「東京でっか?」
「そや。東京からもね注文がバンバンくる。松下電器の東京駐在員としていってくれぇや」「ええです。わかりやした」
こうして、大正七年創業から二年で、東京出張所までできるほど松下電器は大きくなった。工場も新しいのがつくれるほど余裕がでてきた。
しかし、新工場を建てるほどは余裕はない。
そこで幸之助は”借金はいやだ”と、建設業者に、
「ある分は払いますから、たりない分はあとで少しづつ分割払いでお願いできまっか?」 ときいた。
建設業者は「はあ?」と問う。
「あんさんはおれを信用してくれまっか?」
「もちろん信用しまっせ」
「ほなら、分割払いでもええですやろ?」
「……はぁ」
建設業者をこんな殺し文句で、新工場を建てさせた。幸之助は金をケチってた訳だが、そういうこともする商売の天才であった。
昭和二年、松下電器はずいぶんと大きくなり、製品の数も増えた。
電気アイロンとかストーブとか、また手持ち自転車兼用の角型ランプもつくった。販売は伸びる。「ナショナル」の商標登録まで済ませた。
この「ナショナル」という名は、幸之助が辞書で「インターナショナル(国際的な)」という文字から一部をとったものだ。
事業が伸びてくると、当然、資金が必要になる。それまで松下電器は十五銀行というところと取り引きしていた。しかし、近くの住友銀行西野田支店から「うちと取引を」と何度もいわれる。
「うちは十五銀行でまにあってますんや」
しかし住友は一年近くも通ってきた。ついに根負けした幸之助は、
「話しだけならききやす」と事務所に通した。
「まず、たとえばね、うちが二万貸してくれぇいうたらあんさんのとこ貸しまっか?」
「それは、取引して頂ければ……」
行員のいうこともごもっともである。
「たとえば明日にでも貸してくれやいうたら貸してくれまっか?」
「……はぁ。契約さえして頂ければ……」
「ほな貸してくんなはれ」
「松下さん、うちの支店長とあってください」
そこで支店長に会うことになった。
支店長は「あなたのようなひとは初めてだ」と驚いた。
「うちは融資してくれはるところは大歓迎やけど借金はいやなんや」
そんな中、世界大恐慌が襲ってきた。これはNY発の金融恐慌で、世界中が取り付け騒ぎになった。十五銀行も例外ではなく、取引停止となった。
このままでは工場の操業資金が払えない。
幸之助は、住友銀行に座り込んで融資を受けることにした。何をいわれようと、金を貸してくれるまでは頑として椅子から動かない。
幸之助は何時間も粘り続けた。
ついに根負けした住友銀行は、松下電器に融資することにした。
幸之助は「マネすれば早く進歩する」ともいう。
そこが『マネした電器』とも揶揄される松下のモットーである。
しかし、この頃はまだ松下電器はソニーのような独創性をもっていた。
その結晶が、自転車のランプである。
当時はロウソクの灯りか、石油ランプで夜、自転車走行していた。
しかし、蝋燭は消えやすいし、石油ランプは石油がなくなれば消える。
そこで、幸之助は自転車の回転で光る『自転車用マーターランプ』を開発した。
現代では当たり前のように自転車についている照明だが、これは幸之助の発明である。この商品が大ヒットした。
松下電器はうれしい悲鳴をあげるしかなかったのである。
幸之助はまだ幼い妻にいう。
「明日から、もう会社にはいかないよ」
「ほな、これから自分で会社始めるん?」
「そうや、お前には苦労かけるかも知れへんけど、たのむで」
「へえ。覚悟はできてます」
十八歳で嫁いできてから二年後、若妻はそう謙虚に答えたという。
大正六年六月のこと、幸之助二十二歳のことだった。
しかし、資本金も設備も名にもない。
ただ、幸之助には「どうしても改良ソケット(双又ソケット……当時、電気を使うには電灯をつけるか、それ以外は電気を消してそのかわりに電気器具をつかうのが当たり前だった。それを電気をつけたまま電気製品をつかえるようにソケットを双又にした製品)を世の中に出したいんや!」と思ってやまない。
でも操業資金は退職金の百円だけ……
当時の月収は二十円くらいだから、たいした額ではない。
しかし、妻のむめは反対しなかった。
普通の妻ならば、無謀な起業には反対するものだ。
しかし、むめは幸之助が本気なのを知って、
「これは止められへん」
と覚悟を決めたという。
工場なんてとても建てられない。
そこで幸之助は自宅の四畳のうち二畳を仕事場として改築する。そこで『双又ソケット』をつくった。寝る場所もないほどで、米櫃が底をつくことも珍しくなかったという。
しかし、若いふたりはそんなことはいっこうに苦にならなかった。
「狭いゆうんはええもんやなぁ。何でも手に届く」
幸之助は冗談をいう。
すると妻のむめも笑って、「そうやなぁ」などという。
若いふたりは希望に燃えていたので、生活苦などなんともなかったのである。
幸之助には妻の他にもうひとり協力者があったという。
それは妻の弟、つまり義弟の井植歳男だった。
この井植歳男は故郷の淡路島で義務教育を終えたばかりで、将来の進路に迷っていた。 そこで、幸之助が、
「独立したんで、手伝ってくれへんか?」と誘いをかけた。
少年はすぐに快諾した。
井植歳男は松下電器が大きくなっても、その実力を発揮し、会社を軌道に乗せ、その後、三洋電機という会社を立ち上げることになる。
三洋電機も松下のように今、有名な日本を代表する家電メーカーである。
日本を『技術立国』としたふたりがともに家の中で作業をしていた……
なんともわくわくするシーンである。
この頃、本田宗一郎さんやソニーの盛田さんや井深さんも活躍をうかがっていた。
まさに日本の英雄たちの此伏のときである。
こうして妻とともに三人ではじめた事業だったが、やがて協力者がまた現れるようになる。大阪電灯でともに働いていた、森田延次郎と林伊三郎である。
森田と林はソケットの営業にまわった。
しかし、問屋の受けはあまりよくなかったという。
「きょうもだめやった」
営業のふたりは暗くいう。
「そんなはずないやろ?!」
幸之助は自信をもっていただけに落ち込みもはげしい。やはり上司の判断は正しかったのやろか……?
……よし! そならもっと工夫や! もっと工夫してええもんつくるんや!
一時期、林と森田は別れ、解散することにした。
また妻と義弟との三人だけになった。
しかし、幸之助はその仕事にくいさがった。
「あと一歩や。あと一歩努力すれば絶対いけるで!」
零細企業に盆も正月もない。
そんなとき”救いの神”が現れる。
「扇風機の部品をつくってみないか?」
という問い合わせがあったのだ。
「せやけど、その部品ってのはこれまでとは違ったやつなんや」
問屋はかさねていったという。
その部品とは扇風機につかう碍盤(電気を絶縁するために取り付けるもの)だという。それまでの碍盤は陶器をつかっていたが、壊れやすいので別のものにしようということになったのだ。
今のように電話が普及してなかったので、問屋は名刺を頼りに番頭に自転車で知らせにきたのだという。手紙では時間がかかるし、電話は幸之助のところにはない。
そこで自転車となった訳だ。
「やぁ、おばんです」
番頭は足の踏み場もない工場に驚いて動揺した。
しかし、幸之助は、
「わかりやした。やってみます。おおきに」と注文を引き受ける。
「ほな、頼んます」
こうして、注文が入ってきた。
しかし、ソケットつくりをしていた幸之助たちの工場にとって扇風機の碍盤など門外漢だった。しかし、ソケットの練りものの技術を応用すればたいしたことはない。
その頃は、金属の練り方は企業秘密だった。現在では誰でも出来ることができるが、この時代、大変に知識を得るのに苦労したという。
幸之助は、ある程度の知識はあった。
材料は石綿とアスファルト、それに石粉あたりだろう? と、だいたいわかっていた。 幸之助の”天才”が試されるときだ。
あらかじめサンプルは問屋に見せていたものの千個もつくるのは大変だった。
しかし、三人は一丸となり、寝食を忘れて碍盤つくりに没頭した。
締切りもせまっている。
ぜんぶしあがったときは、
「やったで!」
と思わず声がでたという。
そして、納品、相手先は「これならええで」といってくれたので胸を撫で下ろした。
三人は百六十円という金を手にした。
それだけでなく、「性能がええ」と追加注文があとからあとからくる。
経済的に豊かになっていったところで、幸之助は、
「ひとをいれたほうがええんちゃうか?」と思った。
しかし、「待て待て」と自制した。
……ついこの前にひとをいれて、迷惑かけたばかりではないか!
”もうこれで安心や”と思えるようになるまではひとはいれへんほうがええ。
松下幸之助はそうして自慰した。
幸之助は扇風機の碍盤つくりで経済的に余裕がでてきて、やっと工場をもつことが可能になった。工場名は松下電器具製作所(のちの松下電器…ナショナル・パナソニック)といい、住まい兼工場は大阪の大開町という場所だった。
今までの住まいの四畳とは大違いだ。
「広うて迷子になりそうや」
幸之助は冗談をいいながら、工場中を歩きまわったという。
もう経済的に余裕も出来たから工場にひとをいれることも出来る。工場は一階とし、そこにプレス機械とか練りようの鍋とか工具や旋盤をおいた。
松下がスタートしたのは大正七年三月七日のことだ。
ボロい工場で、工場の看板に大きく『松下電器具製作所』と戦前のことだから右から左へ向けて書いてある。これがのちの松下電器…ナショナル・パナソニックという大企業になるとは誰が予想できただろうか?
この年は日本のシベリア出兵、日露戦争があり、第一次世界大戦があった。
日本は脆弱ながら『工業立国』として世界に出ようとしていた。
産業も石炭から石油や電気に移る過程である。
「これからは電気の時代や!」
幸之助がまだ自転車屋の丁稚だった頃の予言がまさに的中していた。
『双又ソケット(正確には二股ソケット)』という差し込みがふたつある製品を、幸之助は開発した。当時、電気製品は値段が高かった。そこで幸之助は安価で高品質な製品を開発して売り出した。とたんに注文書の山となる。
大ヒットしだす。
この頃の松下電器はまだ『マネした電器』と揶揄されるようなパクリはやらなかった。まだソニーのようなアイデアマン・松下幸之助がいたからである。
当時の松下電器は小さいながらも独創的な製品をつくる会社として話題となった。
製品が売れれれば、会社も大きくなり、従業員も増える。
しかし、幸之助は常に”義”や”徳”を思っていた。
「ただ儲ければええってもんやない。この日本って国を『技術立国』にするんや。おれがやるのはそういうことやで!」
そんな哲学までもつ幸之助だから、自然と尊敬される経営者になっていく。
松下電器の製品は東京でも評判になった。
しかし、幸之助は東京へはいったことがない。工場を拡張し、従業員を増やしたばかりのときに東京にまで工場をつくるのは当時むりだった。
だが、東京という巨大マーケットを逃す手はない。
とにかく幸之助は、東京に出掛けて、新しい問屋を開拓しようと思いたった。
列車にのるのも初めてで、大都会東京はどんなとこやろ?、と不安にもなった。
蒸気機関車の車窓から風景をみながら、
……東京は大市場せやけど、ライバル店もスクラムを組んでまってはるやろ。うちはちっぽけな大阪の町工場にすぎない。勝てるやろか? ……
……せやけど、製品の品質ならどこにも負けへんで! ……
と考えて眉間に皺をよせた。だが、まだ二十代である。
東京に着くと、
「おおきに。松下と申しやす」と足を棒のようにして東京の問屋卸業者をしらみ潰しにあたった。人々は幸之助の若さにびっくりするばかりだった。
「あんたがあの製品つくってる松下さん? 若いのにやるねぇ」
これはチャンスや!
幸之助は思う。
東京には二日しかいなかったが、おかげで注文主と注文数のメモがたくさんできた。
……東京も大阪も商売ではかわらへんのやなぁ。
ま、考えてみなくてもそうである。大阪で売れているのに東京で売れない訳がない。
品質のいい安価な製品というものは例え米国でも欧州でも売れるのである。
松下電器は大きくなっていった。
幸之助はまだ十九歳の井植歳男に工場で働かせていたが、
「お前、そろそろ東京へいってくれへんか?」
と幸之助は指令を出した。
「東京でっか?」
「そや。東京からもね注文がバンバンくる。松下電器の東京駐在員としていってくれぇや」「ええです。わかりやした」
こうして、大正七年創業から二年で、東京出張所までできるほど松下電器は大きくなった。工場も新しいのがつくれるほど余裕がでてきた。
しかし、新工場を建てるほどは余裕はない。
そこで幸之助は”借金はいやだ”と、建設業者に、
「ある分は払いますから、たりない分はあとで少しづつ分割払いでお願いできまっか?」 ときいた。
建設業者は「はあ?」と問う。
「あんさんはおれを信用してくれまっか?」
「もちろん信用しまっせ」
「ほなら、分割払いでもええですやろ?」
「……はぁ」
建設業者をこんな殺し文句で、新工場を建てさせた。幸之助は金をケチってた訳だが、そういうこともする商売の天才であった。
昭和二年、松下電器はずいぶんと大きくなり、製品の数も増えた。
電気アイロンとかストーブとか、また手持ち自転車兼用の角型ランプもつくった。販売は伸びる。「ナショナル」の商標登録まで済ませた。
この「ナショナル」という名は、幸之助が辞書で「インターナショナル(国際的な)」という文字から一部をとったものだ。
事業が伸びてくると、当然、資金が必要になる。それまで松下電器は十五銀行というところと取り引きしていた。しかし、近くの住友銀行西野田支店から「うちと取引を」と何度もいわれる。
「うちは十五銀行でまにあってますんや」
しかし住友は一年近くも通ってきた。ついに根負けした幸之助は、
「話しだけならききやす」と事務所に通した。
「まず、たとえばね、うちが二万貸してくれぇいうたらあんさんのとこ貸しまっか?」
「それは、取引して頂ければ……」
行員のいうこともごもっともである。
「たとえば明日にでも貸してくれやいうたら貸してくれまっか?」
「……はぁ。契約さえして頂ければ……」
「ほな貸してくんなはれ」
「松下さん、うちの支店長とあってください」
そこで支店長に会うことになった。
支店長は「あなたのようなひとは初めてだ」と驚いた。
「うちは融資してくれはるところは大歓迎やけど借金はいやなんや」
そんな中、世界大恐慌が襲ってきた。これはNY発の金融恐慌で、世界中が取り付け騒ぎになった。十五銀行も例外ではなく、取引停止となった。
このままでは工場の操業資金が払えない。
幸之助は、住友銀行に座り込んで融資を受けることにした。何をいわれようと、金を貸してくれるまでは頑として椅子から動かない。
幸之助は何時間も粘り続けた。
ついに根負けした住友銀行は、松下電器に融資することにした。
幸之助は「マネすれば早く進歩する」ともいう。
そこが『マネした電器』とも揶揄される松下のモットーである。
しかし、この頃はまだ松下電器はソニーのような独創性をもっていた。
その結晶が、自転車のランプである。
当時はロウソクの灯りか、石油ランプで夜、自転車走行していた。
しかし、蝋燭は消えやすいし、石油ランプは石油がなくなれば消える。
そこで、幸之助は自転車の回転で光る『自転車用マーターランプ』を開発した。
現代では当たり前のように自転車についている照明だが、これは幸之助の発明である。この商品が大ヒットした。
松下電器はうれしい悲鳴をあげるしかなかったのである。