初陣
景虎は、兄・晴景にへりくだって下知を仰いだ。
つまり、黒田秀忠を討つべきかどうか兄上が決めて下され…と仰いだのだ。このことは近隣の豪族や国人衆からも高く評価された。いい気分なのは晴景である。景虎が身分をわきまえて下知を求めてきたのだから…。しかし、彼は八年前、弟からうけた屈辱も忘れてはいなかったし、それを払拭できずにいた。
「景虎の栃尾軍が黒田秀忠軍に大勝したら、ますます自分の立つ瀬がない」
無能の兄・晴景は思い悩んだ。
しかし、グズグズもしてられない。事は急を要する。そこで、無能の兄・晴景は「黒田秀忠を討つべし!」という下知状をしたためて弟に送った。
「いざ、ものども!黒田秀忠、討つべし!」
景虎は兵を率いて、馬上でいった。
すると、「おおーっ!」と、雄叫びが響いた。
若き武将・長尾景虎の初陣である。
彼は漆黒の鎧を身にまとい、黒く凛々しい馬にまたがっていた。…近くにいる少年に変装している女忍者・千代が「もう待ちきれない。すぐにでも彼と交わりたい」と思うほど、若き武将・長尾景虎は凛々しかった。
「御大将、ごらんあれ!」
本庄実仍が馬を寄せてきて指差すと、その方角には栖吉城よりの兵・二千騎が見えた。軍勢がおのおの旗指物をはためかせながら進んでくる。率いるのは無論、長尾景信に違いない。「俺が春日山の兄上に下知を仰いだからこそ、栖吉城の長尾景信も動いたのだな」 長尾景虎は、本庄の眼を見て微笑んだ。
目指す黒滝城へ近付くと、すでに与板城主・直江実綱と三条城の山吉行盛が、陣を張っていた。地侍たちは、ふたりが挙兵したので、長尾勢に寄騎していた。
長尾景虎(のちの上杉謙信)は、地侍たちが挨拶にくると、名前を、旗指物の名を読み上げ(教育が域届かず、漢字の間違いが多かったが、景虎は全員の名前を覚えていて)、「なんの誰それ、大儀!」と、挨拶をした。そのため、
「俺の名前を大将が覚えていてくれた」
と、彼の評価は益々高くなった。
「あのものは来なかったの」
景虎はわざと口の動きがわかるように、新兵衛に言った。
「いかがなさりましょう?」
「うむ。使いをやれ」
「はっ」新兵衛は言った。
と、馬丁の少年が、腹を押さえて陣幕から出ていった。
「野糞か? 御屋形様がいるんじゃけぇ…遠くでやれよ」馬丁長のおやじが言って笑った。 しかし、その少年は女忍者の千代だった。
……怪しと思ってたが、やっぱり……景虎は少年の正体に気付いて思った。
「しかし、あのもの自らが使いのもの(千代松と弥太郎)の跡をつける訳ではあるまい」 お前たちの跡をつけるか、あるいは追い越していく者を生け捕りにせよ…そう命令してあるのだが、うまくやれるだろうか……?景虎は心配になった。忍者は生け捕りになるくらいなら自殺する、ということを知っていたからだ。
自殺されてしまったら、こちらが間者に気付いた、と知らせるだけだ。
「ふたりは間者を生け捕りに出来ないかも知れない」
しかし、誰が間者を放った……?兄上か?もっと違うものか?
景虎は猛烈に頭脳を働かせてから、
「ふたりは間者を生け捕りに出来ないかも知れない」と新兵衛に言葉にして言った。
「ごもっともなお考えと存じます」新兵衛は言い続けて、「申し訳ありません、間者に最近まで気付きませんでした」
「しくじったの、ふたりは手ぶらで帰るやも知れぬ」
「なかなか腕のたつ間者でございました」
「まったく」景虎は続けた。「あの若者は、われらが栃尾にきてすぐに雇った馬丁……とすると雇主はやはり兄者…」
「でしょう」
新兵衛も頷いた。……ふたりの推理は肝心なところで違っていた。まさか、雇っているのが若狭屋であることなどわかるハズもないが……。
ふたりは長尾晴景への敵愾心を募らせた。
「兄上は腹黒い男じゃ」
景虎は猛烈に腹を立てた。
一方、千代は、林の奥に入ってから脱兎のごとく逃げた。…自分の正体がばれたのに気付いたのだ。「こりゃ、逃げるしかないよ」
林をどんどんと進むと、やがて黒田秀忠の居館らしきところに着いた。誰もいない。人影がまるでなかった。皆、黒滝城に籠城しているからに違いない……千代は思った。
「しめしめ、これで化粧していい服でも着れば、姫さまにでも妾にでも化けられる」
千代はにやりとした。
今、千代は少年の変装をしているけれども、もともと美人なので「どこそこの姫」にでも簡単に化けられる。…それくらい千代は美人だった。
「しかし…どうしょう?」
千代は迷った。
このまま山を越えていけば、黒田勢の兵士に見付かる。こんな状態だから皆、むらむらと欲求不満であり、すぐにでも押し倒されて犯された後、殺されるに決まっている。では、といって栃尾勢の陣にいっても「何ゆえ女子がひとりで来たのか……?」と、怪しまれるに決まっている。「しかし…どうしよう?」
そう迷いながらも、千代は三十分もしないうちに綺麗な美人の娘に変装してなよなよと黒田秀忠の居館から出てきた。そして、
「まてよ」と思った。
黒滝城からもここが見える。城に近付いてくる手弱女は内通者と見られて、矢で射られるに決まっているではないか。こりゃヤバイ!景虎様と寝るまでは死ねないんだよ。
千代は森にひそみ、日暮れを待つことにした。
その頃、景虎は決断を迫られていた。
「なら、これより戦評定をいたそう」
敵の黒田秀忠が”わしは頭をまるめてさすらいの旅にでるゆえ許してくれ”などと申し入れてきたのだ。…本心か?騙しか?
各軍団の大将たちがぞくぞくと陣幕の中に集まってきた。景虎は礼儀正しく、丁重に意見を正し、自分の意見はいわなかった。しばらくすると、各軍団の大将たちはぽつぽつと本音を言い始めた。
それは、受け入れるべし、という内容がほとんどだった。
……黒田秀忠勢力をそのままにしても我らの害にはならぬ。
”黒田秀忠が頭を丸めて旅立つのを見てから…”という案は景虎はとらなかった。…許すといったのにそれでは警戒されるだけじゃ…。
千代の思惑は外れた。
日暮れを待って栃尾兵にわざと掴まり、景虎の元へ連れていかれねんごろに一夜をともに…と考えていたが、
「なんだ、黒田の館より逃げてきたのか。気の強い女子だの。黒田の物見に見付からぬうちに戻れ。戦はなしじゃ。われらは引き揚げじゃ。鞍替えはならぬぞ」
と物見の黒金孫左衛門に見付かって叱られた。
「えっ?城攻めをおやめになるので……?」
千代は面食らった。
「そうじゃ。はよう戻れ」
「はい」
千代は面食らったまま言った。
しかし、のこのこと黒田城にいく訳にもいかない。誰ひとり知っている者がいないばかりか、今着ているのはすべて盗んだ着物である。このままいったら丸裸にされて犯され、その後すぐに殺されてしまうだろう。「まずい…」
千代は頭をめぐらせた。そして、
「あぁぁぁ…」と色っぽい声で呻きながら、よろよろと足軽大将のほうに倒れかかった。「いかがいたした?女」
千代は発作でもおこしたような演技で、足軽大将のほうに倒れかかった。千代の色っぽい身体に触れ、白粉(おしろい)の匂いを嗅いで男は興奮してしまった。「おい、女!しっかりいたせ…誰か薬師を」
足軽大将は頬を赤くして、鼻の下をのばした。いやらしいことを考えてしまった。
この女(千代)の情報は、景虎たちの元へも届いた。
「女子が……?」
「用心いたせ」景虎が言った。「黒田の刺客かも知れん。あの黒田秀忠は降伏すると見せ掛けて刺客を送ってきたのやも知れない」
「御大将、篝火を絶やさぬようにしましょう。念のために兵に禁酒させます」
新兵衛が言った。
「そうだの、用心のためじゃ。俺なら酒を飲んでも酔わぬが、普通のものは酔っ払ったら役立たなくなるからの」
「さよう。弓もひけず、馬にも乗れなくなりもうす」
新兵衛が頷いた。そして「女子の夜の相手もできなくなるかと」と笑った。
「ふふ……城攻めが二、三日も続けば彷徨い歩く女子供も珍しくないだろうが…」
「まったく」
「おい、あの馬丁の親方を呼べ」
景虎が命じた。するとさっそく親方が震えながらやってきた。景虎は罰しないといい、安心させてから「さきほどの馬丁は?」と聞いた。
「服とももひきを残したまま姿を消しました」
親方はぶるぶる震えながら、言った。
「さようか。ならば…」
「ならば…?」
「その女にそのももひきを履かせよう。ぴったりなら、それで分かる」
「しかし」新兵衛が、「では、女を丸裸にするので?」ときいた。
「そうだ!なにか差し障りがあるか?」
「いえ」
新兵衛は言葉を失った。……これはまずいと思った。景虎はおそらく女子の裸を見たことがないはず。それがいきなりこのような戦場の神聖な場所で、女の裸をみたら…どうなるだろう?女のたわわな胸や尻、グロテスクな陰部を見たら……興奮か?勃起か?それとも女への幻滅か?とにかくロクなことにならない…。
そう思っていると、幕の後ろで景虎の愛馬の鳴く声がした。
「なんだ?!俺の馬が……」
そうしてると、馬に乗った千代が背後に駆け出した。
「おのれ、俺の馬を……追え!生け捕りにいたせ…!」
景虎が大声で言った。
「やはり名うての間者でござりましたか」
新兵衛はそういい「壁に耳あり…でしたな」と続けた。
「本当に女子だったのか?男の女装では?」
「いや。足軽の話によるとたわわな乳房があったと…」
「そうか」
景虎がうなずいた。
そこへ使いのもの(千代松と弥太郎)が帰ってきた。
「間者を見なかったか?」
「いえ。誰も…」
ふたりは言った。で、景虎が「馬鹿もの!」と怒鳴った。
「申し訳ございません」ふたりは平伏した。
…それから話題が、女子の話になると弥太郎は都の女の味は格別だ、と言った。その間者もそれで、若殿さまも味見をできたところを惜しうございました、と言った。
しかし、景虎には「女の味見」の意味がわからなかったので、何度も説明を求めた。
新兵衛は恥ずかしいことを説明せねばならず、難儀した。
説明が終わると景虎はふたたび「馬鹿もの!」と怒鳴った。
「お主らは淫乱じゃ」というのである。
「五戒を知らぬのか?」
「………五戒でございますか?」
「うむ」景虎は言った。「五戒とは、不殺生、不盗、不邪淫、不妄語、不飲酒…これが五戒だと坊主に教わった。しかし、われら武士に不殺生は無理じゃわな。だが、不邪淫は守れる」
「不邪淫とは……女子と交わることで?」
「そうじゃ!交わることじゃ」
景虎は言った。
「しかし……女子のやわ肌に触れ、何をいたすのは気持ちよきことで…」
景虎はふたたび「馬鹿もの!」と怒鳴った。「それが、いかんのじゃ。煩悩を消せ!」「煩悩を………ですか?」
家臣は景虎の純さに唖然とした。
一方、逃げおうせた千代は、馬を降り、栃尾城に戻る算段を考えていた。
男忍者に「これは御大将の馬らしいので届けにまいった…といえば入れてくれるよね」と、千代が笑顔で言った。彼等は、正体がまだばれてないと思っていた。
「そうだな」
彼らはさっそく城に向かった。
偶然に城の物見櫓から下界を見ていた景虎と新兵衛はふたりに気付いた。
「あいつらがきます」
「そうか……今度は逃がすなよ」
景虎は言った。
景虎は、兄・晴景にへりくだって下知を仰いだ。
つまり、黒田秀忠を討つべきかどうか兄上が決めて下され…と仰いだのだ。このことは近隣の豪族や国人衆からも高く評価された。いい気分なのは晴景である。景虎が身分をわきまえて下知を求めてきたのだから…。しかし、彼は八年前、弟からうけた屈辱も忘れてはいなかったし、それを払拭できずにいた。
「景虎の栃尾軍が黒田秀忠軍に大勝したら、ますます自分の立つ瀬がない」
無能の兄・晴景は思い悩んだ。
しかし、グズグズもしてられない。事は急を要する。そこで、無能の兄・晴景は「黒田秀忠を討つべし!」という下知状をしたためて弟に送った。
「いざ、ものども!黒田秀忠、討つべし!」
景虎は兵を率いて、馬上でいった。
すると、「おおーっ!」と、雄叫びが響いた。
若き武将・長尾景虎の初陣である。
彼は漆黒の鎧を身にまとい、黒く凛々しい馬にまたがっていた。…近くにいる少年に変装している女忍者・千代が「もう待ちきれない。すぐにでも彼と交わりたい」と思うほど、若き武将・長尾景虎は凛々しかった。
「御大将、ごらんあれ!」
本庄実仍が馬を寄せてきて指差すと、その方角には栖吉城よりの兵・二千騎が見えた。軍勢がおのおの旗指物をはためかせながら進んでくる。率いるのは無論、長尾景信に違いない。「俺が春日山の兄上に下知を仰いだからこそ、栖吉城の長尾景信も動いたのだな」 長尾景虎は、本庄の眼を見て微笑んだ。
目指す黒滝城へ近付くと、すでに与板城主・直江実綱と三条城の山吉行盛が、陣を張っていた。地侍たちは、ふたりが挙兵したので、長尾勢に寄騎していた。
長尾景虎(のちの上杉謙信)は、地侍たちが挨拶にくると、名前を、旗指物の名を読み上げ(教育が域届かず、漢字の間違いが多かったが、景虎は全員の名前を覚えていて)、「なんの誰それ、大儀!」と、挨拶をした。そのため、
「俺の名前を大将が覚えていてくれた」
と、彼の評価は益々高くなった。
「あのものは来なかったの」
景虎はわざと口の動きがわかるように、新兵衛に言った。
「いかがなさりましょう?」
「うむ。使いをやれ」
「はっ」新兵衛は言った。
と、馬丁の少年が、腹を押さえて陣幕から出ていった。
「野糞か? 御屋形様がいるんじゃけぇ…遠くでやれよ」馬丁長のおやじが言って笑った。 しかし、その少年は女忍者の千代だった。
……怪しと思ってたが、やっぱり……景虎は少年の正体に気付いて思った。
「しかし、あのもの自らが使いのもの(千代松と弥太郎)の跡をつける訳ではあるまい」 お前たちの跡をつけるか、あるいは追い越していく者を生け捕りにせよ…そう命令してあるのだが、うまくやれるだろうか……?景虎は心配になった。忍者は生け捕りになるくらいなら自殺する、ということを知っていたからだ。
自殺されてしまったら、こちらが間者に気付いた、と知らせるだけだ。
「ふたりは間者を生け捕りに出来ないかも知れない」
しかし、誰が間者を放った……?兄上か?もっと違うものか?
景虎は猛烈に頭脳を働かせてから、
「ふたりは間者を生け捕りに出来ないかも知れない」と新兵衛に言葉にして言った。
「ごもっともなお考えと存じます」新兵衛は言い続けて、「申し訳ありません、間者に最近まで気付きませんでした」
「しくじったの、ふたりは手ぶらで帰るやも知れぬ」
「なかなか腕のたつ間者でございました」
「まったく」景虎は続けた。「あの若者は、われらが栃尾にきてすぐに雇った馬丁……とすると雇主はやはり兄者…」
「でしょう」
新兵衛も頷いた。……ふたりの推理は肝心なところで違っていた。まさか、雇っているのが若狭屋であることなどわかるハズもないが……。
ふたりは長尾晴景への敵愾心を募らせた。
「兄上は腹黒い男じゃ」
景虎は猛烈に腹を立てた。
一方、千代は、林の奥に入ってから脱兎のごとく逃げた。…自分の正体がばれたのに気付いたのだ。「こりゃ、逃げるしかないよ」
林をどんどんと進むと、やがて黒田秀忠の居館らしきところに着いた。誰もいない。人影がまるでなかった。皆、黒滝城に籠城しているからに違いない……千代は思った。
「しめしめ、これで化粧していい服でも着れば、姫さまにでも妾にでも化けられる」
千代はにやりとした。
今、千代は少年の変装をしているけれども、もともと美人なので「どこそこの姫」にでも簡単に化けられる。…それくらい千代は美人だった。
「しかし…どうしょう?」
千代は迷った。
このまま山を越えていけば、黒田勢の兵士に見付かる。こんな状態だから皆、むらむらと欲求不満であり、すぐにでも押し倒されて犯された後、殺されるに決まっている。では、といって栃尾勢の陣にいっても「何ゆえ女子がひとりで来たのか……?」と、怪しまれるに決まっている。「しかし…どうしよう?」
そう迷いながらも、千代は三十分もしないうちに綺麗な美人の娘に変装してなよなよと黒田秀忠の居館から出てきた。そして、
「まてよ」と思った。
黒滝城からもここが見える。城に近付いてくる手弱女は内通者と見られて、矢で射られるに決まっているではないか。こりゃヤバイ!景虎様と寝るまでは死ねないんだよ。
千代は森にひそみ、日暮れを待つことにした。
その頃、景虎は決断を迫られていた。
「なら、これより戦評定をいたそう」
敵の黒田秀忠が”わしは頭をまるめてさすらいの旅にでるゆえ許してくれ”などと申し入れてきたのだ。…本心か?騙しか?
各軍団の大将たちがぞくぞくと陣幕の中に集まってきた。景虎は礼儀正しく、丁重に意見を正し、自分の意見はいわなかった。しばらくすると、各軍団の大将たちはぽつぽつと本音を言い始めた。
それは、受け入れるべし、という内容がほとんどだった。
……黒田秀忠勢力をそのままにしても我らの害にはならぬ。
”黒田秀忠が頭を丸めて旅立つのを見てから…”という案は景虎はとらなかった。…許すといったのにそれでは警戒されるだけじゃ…。
千代の思惑は外れた。
日暮れを待って栃尾兵にわざと掴まり、景虎の元へ連れていかれねんごろに一夜をともに…と考えていたが、
「なんだ、黒田の館より逃げてきたのか。気の強い女子だの。黒田の物見に見付からぬうちに戻れ。戦はなしじゃ。われらは引き揚げじゃ。鞍替えはならぬぞ」
と物見の黒金孫左衛門に見付かって叱られた。
「えっ?城攻めをおやめになるので……?」
千代は面食らった。
「そうじゃ。はよう戻れ」
「はい」
千代は面食らったまま言った。
しかし、のこのこと黒田城にいく訳にもいかない。誰ひとり知っている者がいないばかりか、今着ているのはすべて盗んだ着物である。このままいったら丸裸にされて犯され、その後すぐに殺されてしまうだろう。「まずい…」
千代は頭をめぐらせた。そして、
「あぁぁぁ…」と色っぽい声で呻きながら、よろよろと足軽大将のほうに倒れかかった。「いかがいたした?女」
千代は発作でもおこしたような演技で、足軽大将のほうに倒れかかった。千代の色っぽい身体に触れ、白粉(おしろい)の匂いを嗅いで男は興奮してしまった。「おい、女!しっかりいたせ…誰か薬師を」
足軽大将は頬を赤くして、鼻の下をのばした。いやらしいことを考えてしまった。
この女(千代)の情報は、景虎たちの元へも届いた。
「女子が……?」
「用心いたせ」景虎が言った。「黒田の刺客かも知れん。あの黒田秀忠は降伏すると見せ掛けて刺客を送ってきたのやも知れない」
「御大将、篝火を絶やさぬようにしましょう。念のために兵に禁酒させます」
新兵衛が言った。
「そうだの、用心のためじゃ。俺なら酒を飲んでも酔わぬが、普通のものは酔っ払ったら役立たなくなるからの」
「さよう。弓もひけず、馬にも乗れなくなりもうす」
新兵衛が頷いた。そして「女子の夜の相手もできなくなるかと」と笑った。
「ふふ……城攻めが二、三日も続けば彷徨い歩く女子供も珍しくないだろうが…」
「まったく」
「おい、あの馬丁の親方を呼べ」
景虎が命じた。するとさっそく親方が震えながらやってきた。景虎は罰しないといい、安心させてから「さきほどの馬丁は?」と聞いた。
「服とももひきを残したまま姿を消しました」
親方はぶるぶる震えながら、言った。
「さようか。ならば…」
「ならば…?」
「その女にそのももひきを履かせよう。ぴったりなら、それで分かる」
「しかし」新兵衛が、「では、女を丸裸にするので?」ときいた。
「そうだ!なにか差し障りがあるか?」
「いえ」
新兵衛は言葉を失った。……これはまずいと思った。景虎はおそらく女子の裸を見たことがないはず。それがいきなりこのような戦場の神聖な場所で、女の裸をみたら…どうなるだろう?女のたわわな胸や尻、グロテスクな陰部を見たら……興奮か?勃起か?それとも女への幻滅か?とにかくロクなことにならない…。
そう思っていると、幕の後ろで景虎の愛馬の鳴く声がした。
「なんだ?!俺の馬が……」
そうしてると、馬に乗った千代が背後に駆け出した。
「おのれ、俺の馬を……追え!生け捕りにいたせ…!」
景虎が大声で言った。
「やはり名うての間者でござりましたか」
新兵衛はそういい「壁に耳あり…でしたな」と続けた。
「本当に女子だったのか?男の女装では?」
「いや。足軽の話によるとたわわな乳房があったと…」
「そうか」
景虎がうなずいた。
そこへ使いのもの(千代松と弥太郎)が帰ってきた。
「間者を見なかったか?」
「いえ。誰も…」
ふたりは言った。で、景虎が「馬鹿もの!」と怒鳴った。
「申し訳ございません」ふたりは平伏した。
…それから話題が、女子の話になると弥太郎は都の女の味は格別だ、と言った。その間者もそれで、若殿さまも味見をできたところを惜しうございました、と言った。
しかし、景虎には「女の味見」の意味がわからなかったので、何度も説明を求めた。
新兵衛は恥ずかしいことを説明せねばならず、難儀した。
説明が終わると景虎はふたたび「馬鹿もの!」と怒鳴った。
「お主らは淫乱じゃ」というのである。
「五戒を知らぬのか?」
「………五戒でございますか?」
「うむ」景虎は言った。「五戒とは、不殺生、不盗、不邪淫、不妄語、不飲酒…これが五戒だと坊主に教わった。しかし、われら武士に不殺生は無理じゃわな。だが、不邪淫は守れる」
「不邪淫とは……女子と交わることで?」
「そうじゃ!交わることじゃ」
景虎は言った。
「しかし……女子のやわ肌に触れ、何をいたすのは気持ちよきことで…」
景虎はふたたび「馬鹿もの!」と怒鳴った。「それが、いかんのじゃ。煩悩を消せ!」「煩悩を………ですか?」
家臣は景虎の純さに唖然とした。
一方、逃げおうせた千代は、馬を降り、栃尾城に戻る算段を考えていた。
男忍者に「これは御大将の馬らしいので届けにまいった…といえば入れてくれるよね」と、千代が笑顔で言った。彼等は、正体がまだばれてないと思っていた。
「そうだな」
彼らはさっそく城に向かった。
偶然に城の物見櫓から下界を見ていた景虎と新兵衛はふたりに気付いた。
「あいつらがきます」
「そうか……今度は逃がすなよ」
景虎は言った。