ちょっと忙しくて、ブログに書こうとおもっていることがたくさんあるのですが、
後手後手になってしまいます。
先週のことになりますが、
10月9日は前橋へ歴史ワーキンググループの勉強会へ行ってきました。
いつものように、堅曹さんの自叙伝『六十五年記』の読解です。
明治17年(1884)の出来事です。
生糸の直輸出会社「同伸会社」の第3回総会がおこなわれ、
その時の堅曹さんの演説文を読みました。
世界の不景気に加え日本の銀行による為替の変更、それに伴う対応、
織屋の破産などがあり、たいへんな一年であったことが述べられています。
生糸の直輸出という、先駆けの事業を行なうことは、どんなに大変であったか。
また、10月に台風の影響で富岡製糸所の鉄製の煙突が折れてしまい、
新しく建て直した話が載っています。
最初技師に頼んでみたら、多額の金額と製糸所の長期の休業を
見積もってきた。
そんなことは出来ない、と堅曹さんは友人の宇都宮三郎に相談して
教えを受け、自分で建築を担当して煉瓦の八角煙筒を3本建てた。
もちろん出費は比べ物にならないほど少なく、一日も休業せず。
英国人がその煙筒を見て、ちょっと短いのではないか、といったら、
堅曹さん、宇都宮仕込の理論で相手を閉口させてしまいます。
そして石炭のくべ方も、宇都宮に習ったとおりにしたら、
非常に効率がよくなり、莫大な利益がでた。
とある。
なんとも愉快なエピソードであり、堅曹さんの所長としての経営感覚と
実業にたけた手腕が垣間見れます。
勉強会もおわり、皆で、前橋市関根町の片原公園に
今年1月にできた「関根町の由来」という碑を見に行きました。
ここは、堅曹さんが兄や姉、そして深澤雄象たちとつくった
研業社=関根製糸所のあった場所です。
昨年、前橋市がつくった「研業社跡地」の碑を見に来たことを
ブログ(クリックすると読めます)に書きましたが、
その後、同じ公園のなかに「関根町の由来」の碑がつくられたのです。
関根町の由来が古墳時代から書かれており、途中に
「明治八年には関根町の片原地区に研業社が開業され、
明治十三年当時の建坪は合計三百五十一坪と県下の器械製糸所では
富岡製糸所に次ぐ規模を誇っていた。」
とありました。
写真でみると壮麗ですばらしい建築です。
しかし、明治31年(1898)に火災にあい、惜しくも史料もろとも
すべて燃えてしまいました。
この地にたつと、まだ近代の扉がひらかれたばかりの明治はじめ、
ここで器械製糸の未来に大いなる夢を抱いて、
堅曹さん達兄弟姉妹が力をあわせ、事業をおこしていたんだ、
という思いでいっぱいになりました。
そして、姉の梅さんは研業社の中で明治21年に亡くなるのです、この地で。
速水家とはとても縁の深い場所なんだな、とあらためておもいました。
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