昨日、横浜市民ギャラリーへ『マグナム・シネマ』という、ロバート・キャパらが作っていた写真家集団マグナムが撮った映画撮影の現場の写真展を見に行き、ジャン・ルノワール、ロッセリーニ、オードリー・ヘップバーン、トリュフォー、ゴダール、ミケランジェロ・アントニオーニ、そして老年のチャップリンを見ることができたのですが、同時に開催されていた『映画の中のヨコハマ』という展示で、日活映画の予告編も上映されていて、そこで中原康監督の『月曜日のユカ』を見ることができ、当時の加賀まりこさんの素晴らしさに度肝を抜かれました。また、先日亡くなられた鈴木清順監督の作品に出演していた、高橋英樹さん、渡哲也さん、二谷英明さん、和泉雅子さん、山内賢さん、川地民夫さんらの当時の若い姿を見ることができ、これも何かの因縁なのかなあ、などと思いました。
さて、昨日の続きです。2つ目の中編『苺ジャムから苺をひけば』も冒頭の部分を引用させていただくと、
「わたしは、後悔している。(中略)
ことのはじまりはこう。
水曜日の五時間目はパソコンを使っていろんなことをしてみようという時間なのだ。(中略)
あと半年で卒業するわたしたちは、二学期いっぱいを使って六年間の思い出がつまった雑誌みたいなものを作るということになっていて、みんなけっこうはりきっていた。(中略)みんなの写真のページを担当する班、みんなの作文を集める班、これまでの行事をまとめる班、というふうに班ごとに役割があるのだけれど、わたしの班は、この六年間のあいだに社会で起きた大きな出来事についてまとめるということになっていた。
わたしを入れて女子が三人、男子も三人。班長はリッスン。(中略)
この六年間にはもちろんいろいろなことがあった。(中略)
わたしたちはノートを広げて、パソコンでは世界中の出来事がぱっとわかるようなページをひらいて、どの出来事をとりあげるかを話しあった。でも、六年前というのはいったい何年なのだ? 2009年? 2010年? そんなことすらすぐにわからないような始末だった。(中略)
そうするともう、なんだかみるみるうちにやる気がゆるんで、みんなすぐにちがうことをやりはじめた。(中略)
そんなふうになんとなく時間だけすぎていって、あと十分で終わりというときに、さっきからずっとパソコンのまえに座っていたリッスンがわたしを呼んだ。なに、と言いながらリッスンのほうへ歩いていくと、リッスンは、ほら、というように画面に目をやった。そこにはリッスンとリッスンの弟が大きな口を開けて、すいかにかぶりつこうとしている写真が映っていた。
『これ、うちのママがやってるブログ(中略)ヘガティーのとこはやってないの』
『やってないよ』(中略)
『でも、ヘガティーとこのお父さんって有名なんでしょ』
『有名じゃないよ』
『だってママが言ってたよ』
『有名じゃないって』わたしはちょっといらっとして言った。
『検索したら、いっぱい出てくるんじゃない? したことある?』
『ないよ、何もでてこないよ』
『おれやってやるよ』
『いいよ、やめてよ』(中略)
『でた、これヘガティーのパパ』
『このページにのってるってことはやっぱ有名なんだよ(中略)映画、これなんて読むの』
『ひょうろん、評論家』
『それって、どういうあれだっけ、本とかそういうの書く人だよね(中略)
『みてみ、なんかめっちゃ本の名前ある、これヘガティーのお父さんがぜんぶ書いたの』
なんて三人で勝手なことを言ってうれしそうに笑っていたけど、わたしはぜんぜん笑う気持ちになれなかった。(中略)
すると何か思いだしたみたいにとつぜんチャイムが鳴って、教室のなかがざっと騒がしくなった。(中略)さっきまでパソコンのまえにいたリッスンは、ごめんヘガティー、パソコン切っといて、なんて言い残して、ほかの男子と飛びだして行ってしまった。
誰もいなくなったパソコンのまえに座ると、さっきリッスンたちがみていた画面がそのままになっていた。お父さんの名前、生年月日、写真もある。それから、いろんな説明が書かれてあった。そしていつもならそんなことしないのに、どうしてなのか------わたしはなんとなくマウスで画面をかちかちと下げていって、そこに書かれてあることを読んでみようという気になった。(中略)ふうん、というような気持ちでなんとなく読んでいると、思わず、えっ、という声が出た。それからもう一度、えっ、と言って、そこに書かれてあった文章からわたしの目は離れなくなってしまった。
------2003年4月、女児誕生。妻とはのちに死別。なお、前妻とのあいだにも一女をもうけている。」
このあと、ヘガティーは、親友で『ミス・アイスサンドイッチ』の主人公だった「麦くん」たちの協力を得て、姉一目見たさに住所をつきとめ、「麦くん」に付き合ってもらって会いに行き、ついこちらから「妹です」と告白してしまい、家に招かれ、ケーキまで御馳走になりますが、やがてすべてが出来レースであることを知り、「麦くん」にも「嘘つき!」と言って、駆け出すと、涙が止まらなくなります。その夜、「わたし」は自分が幼い時に亡くなったお母さんに「会いたいな」と手紙を書き、気持ちの整理がついた「わたし」はまた穏やかな日常に戻っていくところで、小説は終わります。
こちらの方でもマイケル・マン監督の『コラテラル』への言及があり、また「難しいこととか、いやなこととか、それはもういろんなことがわあってふえてくるんだろうけど、(中略)こっちだって、そうじゃないところに自分でさっといけるようになるんだ」という趣旨の文がありました。書かれつつある文を味わうという点ではオースターの小説を読んでいるような錯覚に陥り、胸にぐっとくる場面もいくつかありました。文句なしの傑作だと思います。
さて、昨日の続きです。2つ目の中編『苺ジャムから苺をひけば』も冒頭の部分を引用させていただくと、
「わたしは、後悔している。(中略)
ことのはじまりはこう。
水曜日の五時間目はパソコンを使っていろんなことをしてみようという時間なのだ。(中略)
あと半年で卒業するわたしたちは、二学期いっぱいを使って六年間の思い出がつまった雑誌みたいなものを作るということになっていて、みんなけっこうはりきっていた。(中略)みんなの写真のページを担当する班、みんなの作文を集める班、これまでの行事をまとめる班、というふうに班ごとに役割があるのだけれど、わたしの班は、この六年間のあいだに社会で起きた大きな出来事についてまとめるということになっていた。
わたしを入れて女子が三人、男子も三人。班長はリッスン。(中略)
この六年間にはもちろんいろいろなことがあった。(中略)
わたしたちはノートを広げて、パソコンでは世界中の出来事がぱっとわかるようなページをひらいて、どの出来事をとりあげるかを話しあった。でも、六年前というのはいったい何年なのだ? 2009年? 2010年? そんなことすらすぐにわからないような始末だった。(中略)
そうするともう、なんだかみるみるうちにやる気がゆるんで、みんなすぐにちがうことをやりはじめた。(中略)
そんなふうになんとなく時間だけすぎていって、あと十分で終わりというときに、さっきからずっとパソコンのまえに座っていたリッスンがわたしを呼んだ。なに、と言いながらリッスンのほうへ歩いていくと、リッスンは、ほら、というように画面に目をやった。そこにはリッスンとリッスンの弟が大きな口を開けて、すいかにかぶりつこうとしている写真が映っていた。
『これ、うちのママがやってるブログ(中略)ヘガティーのとこはやってないの』
『やってないよ』(中略)
『でも、ヘガティーとこのお父さんって有名なんでしょ』
『有名じゃないよ』
『だってママが言ってたよ』
『有名じゃないって』わたしはちょっといらっとして言った。
『検索したら、いっぱい出てくるんじゃない? したことある?』
『ないよ、何もでてこないよ』
『おれやってやるよ』
『いいよ、やめてよ』(中略)
『でた、これヘガティーのパパ』
『このページにのってるってことはやっぱ有名なんだよ(中略)映画、これなんて読むの』
『ひょうろん、評論家』
『それって、どういうあれだっけ、本とかそういうの書く人だよね(中略)
『みてみ、なんかめっちゃ本の名前ある、これヘガティーのお父さんがぜんぶ書いたの』
なんて三人で勝手なことを言ってうれしそうに笑っていたけど、わたしはぜんぜん笑う気持ちになれなかった。(中略)
すると何か思いだしたみたいにとつぜんチャイムが鳴って、教室のなかがざっと騒がしくなった。(中略)さっきまでパソコンのまえにいたリッスンは、ごめんヘガティー、パソコン切っといて、なんて言い残して、ほかの男子と飛びだして行ってしまった。
誰もいなくなったパソコンのまえに座ると、さっきリッスンたちがみていた画面がそのままになっていた。お父さんの名前、生年月日、写真もある。それから、いろんな説明が書かれてあった。そしていつもならそんなことしないのに、どうしてなのか------わたしはなんとなくマウスで画面をかちかちと下げていって、そこに書かれてあることを読んでみようという気になった。(中略)ふうん、というような気持ちでなんとなく読んでいると、思わず、えっ、という声が出た。それからもう一度、えっ、と言って、そこに書かれてあった文章からわたしの目は離れなくなってしまった。
------2003年4月、女児誕生。妻とはのちに死別。なお、前妻とのあいだにも一女をもうけている。」
このあと、ヘガティーは、親友で『ミス・アイスサンドイッチ』の主人公だった「麦くん」たちの協力を得て、姉一目見たさに住所をつきとめ、「麦くん」に付き合ってもらって会いに行き、ついこちらから「妹です」と告白してしまい、家に招かれ、ケーキまで御馳走になりますが、やがてすべてが出来レースであることを知り、「麦くん」にも「嘘つき!」と言って、駆け出すと、涙が止まらなくなります。その夜、「わたし」は自分が幼い時に亡くなったお母さんに「会いたいな」と手紙を書き、気持ちの整理がついた「わたし」はまた穏やかな日常に戻っていくところで、小説は終わります。
こちらの方でもマイケル・マン監督の『コラテラル』への言及があり、また「難しいこととか、いやなこととか、それはもういろんなことがわあってふえてくるんだろうけど、(中略)こっちだって、そうじゃないところに自分でさっといけるようになるんだ」という趣旨の文がありました。書かれつつある文を味わうという点ではオースターの小説を読んでいるような錯覚に陥り、胸にぐっとくる場面もいくつかありました。文句なしの傑作だと思います。