杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

白隠演談とトークの夕べ@禅叢寺ご案内

2019-11-11 20:28:33 | 白隠禅師

 私が数年前からお世話になっている静岡市清水区上清水の禅叢寺(ぜんそうじ)で、11月17日(日)18時から、『白隠演談とトークの夕べ』というイベントが開催されます。

 第一部では静岡県舞台芸術センターSPACの看板俳優・奥野晃士さんが、白隠禅師の逸話を動読(動きを取り入れた朗読)し、第二部では奥野さんと私とで白隠さんや禅叢寺の歴史についてトークします。トークといっても、奥野さんも私も白隠禅の専門家ではないので、禅叢寺の和尚さんや歴史に詳しい檀家さんにも加わっていただき、みんなで白隠さんや禅叢寺について理解や認識を共有できたらと考えています。

 どなたでも参加できますので、お時間のある方はぜひお越しください!

 

 禅叢寺は一般拝観できる観光寺ではないので清水区以外の人はご存知ないかもしれませんが、清水では清見寺や梅蔭寺に次ぐ格式を持ち、白隠さんが出家後、初めて修行したお寺。創建は平安時代で、現在、本堂にお祀りする御本尊釈迦如来は、調査の結果、10世紀(創建当時か)の作と判明しました。修復の手が加わっているので文化財指定にはならないそうですが、国立博物館蔵品並の価値はあると思います。

 寺は一時衰退しましたが、戦国時代に今川家の配下にあった岡部美濃守が再興し、鎌倉建長寺より雪心和尚を開山に招きました。岡部氏に仕えていた軍師山本勘助の武具も伝わっていたそうです(太平洋戦争で焼失)。雪心和尚の弟子で2代住職となったのが九岩和尚。この方、織田信長のひ孫にあたる御仁です。幕末には幼い清水次郎長が寺子屋修行に来て、やんちゃが過ぎて退塾させられたりと興味深いエピソードもたくさん。お寺の沿革については私が執筆させていただいた禅叢寺のHP(こちら)をぜひご一読ください。

 

 さて沼津・原の裕福な商家に育った慧鶴(白隠)は、幼いころに見た地獄絵図がトラウマになって、どうしたら地獄の苦しみを克服できるだろうかと思い詰め、原の松蔭寺で出家し、19歳から23歳まで全国各地で雲水修行をします。その最初の修行先が禅叢寺でした。

 慧鶴19歳の元禄16年(1703)当時、禅叢寺は千英祚円(せんえいそえん)和尚が住持を務めており、衆寮(しゅりょう=禅寺の研修場)に多くの修行僧が掛塔(かた=僧堂に籍を置く)していました。

 千英和尚がどういう方だったのかは、当日、禅叢寺の和尚さんに直接教えていただくとして、多くの修行僧が書物を読んで文字で理解しようとしていた中、慧鶴だけはひたすら礼拝誦経していたそう。ある日、千英和尚が講義で『江湖風月集』という中国宋代の著名な禅僧の詩偈(しげ=仏教の詩)を提唱し、その中に登場する唐の時代の巌頭(がんとう)という高僧に関心を抱いた慧鶴は、『五家正宗賛』という禅僧列伝書で巌頭和尚のことを調べてみたら、なんと巌頭の末期は盗賊に首を斬られ、その断末魔の叫びが数十里にわたって響いたことを知ります。「禅門の鶯鳳と誉れ高い巌頭和尚が、盗賊の難を避けられなかったのなら、自分のような若輩者が地獄の苦しみから逃れられるはずもない」と絶望感に陥り、修行を続けるべきか否か大いに悩んでしまいます。

 『白隠禅師年譜』によると、慧鶴は修行なんか意味ない、やりたいことをやって毎日愉快に過ごすがいいと開き直ってしまい、「詩文に耽り、筆墨を事とし、大いに外道の考えを起こし、時には魔群の業を習った。経や仏像を見るごとにはなはだしく厭悪感を生じた」とのこと。外道、魔群ってどんなヤンチャをしたんだろうとついつい想像してしまいますが、とにかくこの年、禅叢寺に逗留して漢詩文や書道を習い、後世に華開いた文才・画才の芽を育てたのだろうと思います。

 ちなみに1702年12月14日に赤穂浪士の討ち入りがあり、慧鶴は清水湊で『赤穂廼錦東枝雪』というお芝居を観て、このとき橘屋佐兵衛の娘と出逢い、恋に落ちた云々という逸話があるそうです。赤穂事件の翌年に清水で早くも舞台化されていたなんて眉唾モノですが、慧鶴が修行に行き詰まって横道に逸れたことを連想させるお話ですね。

 

 慧鶴は翌年の春、詩文の大家と噂の美濃・瑞雲寺の馬翁宗竹和尚を訪ね、掛塔します。当時の瑞雲寺はたいそうな貧寺で、おまけに馬翁和尚は“美濃の荒馬”と呼ばれるほどのパワハラ和尚。弟子がなかなか居着かなかったそうですが、進路に悩んでいた慧鶴は馬翁和尚のもとでしばらく詩文の修業を続けます。

 ちょうど土用の虫干しの季節になり、本堂には数多くの書物がうずたかく積まれていました。それを見た慧鶴は「儒学、仏経、老荘、あるいは諸家の道、自分はどれを師としたらよいか、正路を示したまえ」と目を閉じて手にした一冊が『禅関策道』という明の禅僧の書物。そこに、慈明楚円という高僧が坐禅中に眠くなったらキリで股を突き刺したという故事を見つけ、慧鶴はハッと目が醒めて猛省し、ふたたび禅道一筋に生きる決意をしたということです。

 

 白隠さんがもし生きていたら、禅叢寺と聞けば「若い頃の恥ずかしい思い出」にされるかもしれません。確かに瑞雲寺や、24歳のときに最初に悟りを得たとされる越後高田の英巌寺、正受老人に慢心を見透かされ打ちのめされて修行のやり直しをした信州飯山の正受庵等と比べると、白隠さんにとってどういう修行先だったのか、年譜を読んだだけでは判断できませんが、この寺で若き慧鶴が禅僧としての生き方に悩み、苦しみ、書や文学に没頭したのかと思うと、なんとも愛おしい思いが湧いてきます。白隠さんは最初から『駿河に過ぎたる白隠』じゃなくて、一生懸命悩んで苦しんで修行して、あの白隠さんになったのです。

 

 今回の白隠演談では、故郷の松蔭寺住職となってからの白隠慧鶴の逸話を、24歳のときの信州飯山での正受老人とのエピソードを挟みながら、奥野さん&禅叢寺の奥様&新命和尚&スタッフの計4人による動読でお楽しみいただきます。

 休憩時間には日本茶インストラクターの大川雅代さんによる呈茶サービスも。水は「清水」の地名の由縁となった禅叢寺の井戸水と、沼津在住の大川さんが白隠正宗の蔵元・高嶋酒造の仕込み水を汲んで来てくださる予定です。

 私が関わる会でお茶だけじゃ物足りないと言われるかもしれませんので(笑)、飲酒OKの人には地酒『白隠正宗』と、禅叢寺開基の岡部美濃守の出身地である藤枝市岡部の地酒『初亀』も用意しようかと思っています。

 事前申し込みは不要ですので、当日時間までに直接お越しください。なお駐車場は台数に限りがありますので、なるべく公共交通機関をご利用ください。静鉄電車『入江岡』より徒歩6~7分。アクセス方法は禅叢寺HPのこちらを参照してください。お待ちしています!

 

 

 


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