宇宙の根源を解く素粒子の研究にノーベル賞が与えられました。ちょうど届いたばかりの『ナムカラタンノーの世界』(野口善敬著・禅文化研究所刊)を読んでいたとき、受賞のニュースを見て、なんだか不思議な共鳴を感じました。
5月の連休に京都の興聖寺で集中座禅をしたとき、朝のおつとめで必ず読んだのが“ナムカラタンノー・トラヤーヤー”で始まる『大悲呪』というお経でした。先日の高島寛之さんのお通夜でも聞きました。禅宗の勤行や法要で幅広く読まれているそうです。
大悲呪は、千手観音さまの功徳を示したお経『千手経』の一部分です。禅宗のお経には2種類あって、〇〇経というように題目に経が付くのは、インドで書かれたお経を中国語に意訳した“漢訳仏典”。もう一つは、インドでの発音をよく似た発音の漢字に当てて音訳した“陀羅尼(だらに)”。発音そのものに神秘的な力があって、あえて意訳しなかったそうです。
大悲呪を聞くと、意味はさっぱりわからないけど、何度も唱えていると、その不思議な響きが心に残るというのは、人として自然な反応なんですね。
野口氏によると、『千手経』というお経は、大悲呪という“特効薬”を解説した効能書きのようなもので、この薬の効能を絶対的に信じ、正しい条件のもとで必要な回数を唱えれば、15の悪い死に方をせず、15の善い生まれ方をするというのです。
こういう現世利益を求めるようなお経が、自力の現世悟道を目指すはずの禅門で読まれるというのは矛盾しているように思えます。
集中座禅をしていたとき、意味のわからない読経や所作に最初はイラついていたのが、少しずつ身体に染み付き、最後のほうでは、理屈ではなくひたすら動作で受け止めることで、全身が楽になるという不思議な感覚を覚えました。
話はちょっとズレますが、30代終わりの頃、長年の呑み過ぎ食べ過ぎがたたって?体重が60kgを超えてしまったときがありました。40代目前にして意を決し、1年半かけて15kgダイエットしました。いわゆるレコーディングダイエット(毎日決まった時間に体重を測り、食べた物はすべて記録する)と運動です。これも最初は理屈で考え、何度も挫折しそうになりましたが、記録と運動が習慣として身体に染み付いてからは、ほとんど苦もなく、毎月1~2kgずつきれいに落とすことができました。
お経も、意味がなんとなくわかる漢訳仏典もありがたいのですが、意味がほとんどわからない陀羅尼をひたすら読誦して身体に染み込ませる…そこに修行に通じるものがあるような気がします。
高島さんのお通夜があった5日、昼間は一昨年亡くなった祖母の三回忌法要がありました。祖母の菩提寺は日蓮宗なので、読んだのは違うお経です。
法事に参加したことのある人なら、長時間正座し、意味のわからないお経を聞かされたり読まされたりすることに、多少なりとも苦痛を感じるでしょう。日本人が一生のうちに何度か必ず耳にするものですから、お寺さんでも、意味を解説したりしてお経に親しめるような努力をすればいいのに、と思っていましたが、先日の法要では、「意味がわからなくてもいいんだ、とにかくお経を読むことに没頭し、リズムがとれるぐらい身体にしみ込ませれば」と感じることができました。他の思念にとらわれず、お経を読むときはただひたすら声明し、お焼香をするときはただひたすら首を垂れる…それが、故人に示す誠意であり供養になるのだと。
禅僧が大悲呪を唱えるのも、自己修行の一環ではないかと野口氏はしめくくっています。
思念にとらわれず、ひたすら素になるという禅修行は、自分という人間が、60兆の細胞が関係し合って成り立っていて、世の物質は原子と、原子を構成する素粒子から成り立っていることを想起させます。
ノーベル賞受賞の先生方は、前世はきっとすぐれた哲学者か宗教者だったに違いない、なんて想像してしまいました。