杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

「翁弁天」岡田真弥さん永遠に

2012-10-22 22:12:40 | 地酒

 

 また一人、大切な酒縁者を亡くしました。藤枝で「翁弁天」を醸していた岡田真弥さん(51)。2ヶ月前に脳梗塞で倒れ、一命を取り留めてリハビリに励んでいたさなかの急死でした。

 

 今日の夕方、取材先から帰ったタイミングで知らせを聞き、取るものもとりあえずお通夜の会場(すでに終わっていましたが)にかけつけ、最期のお別れをしてきました。昔と変わらないふっくらした表情で、今すぐにでも起き上がってくるようでした。喪主のお母様も「いまだに信じられない」と堪えておられました。酒蔵を廃業して時間が経つので、酒造関係者には知らせなかったと申し訳なさそうにおっしゃっていましたが、お通夜に河村傳兵衛先生が来て下さったと、とても感激しておられました。

 

 

 岡田酒造と河村先生のことは、毎日新聞朝刊に連載していた『しずおか酒と人』1997年11月6日付の記事でこんなふうに紹介しました。

 

蔵元の灯を守る【救世主】

 

 静岡の酒には【救世主】がいます。河村傳兵衛さん。県沼津工業技術センターに勤める醸造研究者で「静岡酵母」や「吟醸麹ロボット」の開発者。酒造業界で知らない人はいません。今回は単なる酒のみの私でも「この御仁は救い主だ・・・!」と実感したお話を。

 今秋(1997年)からNHK朝の連続テレビ小説で酒蔵が舞台になり、蔵の生活や人間関係が描かれています。蔵の当主は酒造りを杜氏に一任し、現場では口を出しません。ヒロインが蔵の中をのぞこうとして叱られるのも誇張ではなく、蔵は当主といえども侵すことの出来ない神聖な場所。現在、私のような外部の、しかも女が平気で出入りするなど、ドラマに描かれた30年前までは信じられない話でした。

 しかし肝心の杜氏や蔵人が減ってしまい、蔵の様子は激変しました。職人の高齢化による技術の先細り。酒造業も、伝統産業の多くが抱える難題に直面しているのです。

 「翁弁天」の酒造元・岡田酒造(藤枝市鬼島)も2年前、その危機に直面していました。仕込が始まる直前、杜氏から「行けない」という連絡。仕入れ済みの酒米・山田錦を手に途方にくれる岡田真弥さん(37)の背中を「応援するから自分で造ってみなさい」と押したのが河村さんでした。どんな小さな蔵でも酒造の灯を消してもらいたくないというのが、河村さんの切なる思いだったのです。

 蔵元が杜氏になるなど、ドラマの時代では論外ですが、貴重な酒米を無駄には出来ません。酒造初体験の岡田さん。ベテラン杜氏もその厳しさに恐れをなすという河村さんの指導。岡田さんの生活は文字通り一変しました。早朝から午後にかけての仕込み。夕方から夜にかけての配達。体の弱い父・昭五さんも朝3時に起きて蒸釜に火をつける役を買って出ました。そして春にはタンク2本の吟醸酒が仕上がり、ファンをホッとさせたのです。

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 97年10月12日、蔵の一角に岡田さんの兄・晃さんが板長を務める居酒屋【伽草子】が開店しました。酒蔵内の料飲店は県内初。出す酒はもちろんオール生酒。弟が造った酒を、兄の手料理と一緒に売る・・・酒蔵の風景は様変わりし、当主を旦那様、杜氏をおやっさんと呼ぶ伝統もなくなりました。

 それでも私は、ひとつの地酒が熱意ある指導者と蔵元一家の力で生き残ったことに、心から拍手を贈りたいと思います。

 今期で3造り目。【伽草子】開店の夜、自ら醸した酒を囲む客を眺める岡田さんの笑顔は、自信に満ちた杜氏の顔でした。彼の背中を押し、杜氏へと導いた河村さんは本当に「救い主」だと思います。

(文・イラスト 鈴木真弓/1997年11月6日付毎日新聞朝刊静岡版)

 

 

 

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 この取材から2年後の1999年1月から3月にかけて、私はひと造り、岡田酒造で酒造り体験をさせてもらいました。無理をお願いしたお礼というかおわびに、静岡新聞編集局のカメラマン永井秀幸さんに岡田酒造を取材してもらい、静岡新聞朝刊写真特集(全段カラー頁)で紹介。永井さんからは取材時に撮ったベストショットを寄贈してもらいました。

 ・・・岡田酒造で過ごした3ヶ月は、ライター人生にとっては宝物のような時間でした。

 

 

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 お通夜の会場でお母様とその頃の話をしたとき、「本当に楽しい時代だったわねえ」と表情を少し崩されたお母様を見て、私が弔い代わりにできることといったら、あのころのことをきちんと遺して伝えることだ・・・と心に迫るものがありました。

 

 

 

 酒造の灯が消えてしまってから、岡田さんがどんな暮らしをされてきたのか、仔細はうかがいませんでしたが、現在の仕事先関係者からたくさんの花輪が届けられ、同僚や友人と思われる方々が通夜が終わった後も大勢残っておられました。・・・たぶん、新しい職場でも愛され兄貴キャラで親しまれていたのでしょう。

 そして、「翁弁天」という地酒を岡田さんが必死で守ろうとしたことと、「伽草子」という家族経営の居酒屋が、本当に地域に愛されていたことは、ゆかりある人々の記憶にしっかり刻まれています。 

 

 

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 こちらは2003年春、しずおか地酒研究会で藤枝四蔵見学ツアーを企画したとき、最後の〆で盛り上がった岡田酒Dscn2198造と「伽草子」の店内。蔵の母屋を改築した、趣のある居間で、ご近所の寄り合いにでも来たような、とてもくつろげる空間でした。

 当時、静岡産業大学で教鞭をとっておられた後藤俊夫先生が東京からソニーやNEC等そうそうたるメーカーの技術者OB仲間を呼んでくださって、藤枝四蔵の蔵元と酒造り談義を交わした楽しい夜でした。後藤先生とお話するたびに、いまだにあの夜のことが話題に出ます。

 

 

 

 落ち着いたら「岡田さん、貴方が生まれ育った酒蔵と貴方が醸した酒は、人の記憶に残る価値ある財産だったんですよ」と、天に向かって酒盃を捧げたい。・・・でも今夜はまだ気持ちの整理がつきそうもありません。

 心よりご冥福をお祈りいたします。

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